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第四章 対 決

父と娘の再会

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「さち、しばし我慢して、目をつむっておってくれ」
「は、はい……」

 言われたことを守り、さちはきゅっと目を閉じた。

「良い子だ。そのままおとなしく、な」

 強く抱きすくめられ、さちの鼓動がより早くなる。体に風があたるのをかすかに感じるが、今どうなっているのか、さちにはわからなかった。

(私、ぬらりひょん様に抱かれてる……)

 さちがわかるのは、愛する人に大切に守られていることだけだった。

(どうしよう、うれしい……)

 喜んでいる場合ではないというのに、さちはときめきと幸福感で胸がはちきれそうだ。

「さち、着いたぞ」
「え、もう着いたのですか?」
「ん? どういう意味だ?」

 どのように移動したのかわからなかったが、さちがぬらりひょんの腕から解放されたのは、思ったよりも早かった。

「できればもうすこし……い、いえ、なんでもありませんっ!」
「さちは何を言いたいのだ? おぬしはときどき妙なことを言うのぅ」

『あなたの胸にずっと抱かれていたかったのです』と言うわけにもいかず、さちは熱くなってる頬を軽く叩いた。

「あの、それでここは? ぬらりひょん様のお屋敷……ですか?」
「ちがう。ここがわしの屋敷かどうかわからぬということは、まだ記憶が完全に戻っていないのだな?」
「はい……まだところどころ思い出せなくて」
「あせることはない。少しずつ思い出せるはずだからの」

 失っていた記憶は戻ってはきたが、大切な思い出はまだ、おぼろげなものとなっている。

「ここは現世うつしよ幽世かくりよをつなぐ場所、あわいだ。ここには邪まなものは入れぬ。ゆえにここならば安全だと思ったのだ」

 ぬらりひょんに案内されるままついていくと、長屋のとある一室にさちは通された。純和風の建物にはややふつりあいな、洋風のベッドが中央に安置されていた。ベッドに腰掛けていた人物は、さちを待っていたのか、ゆっくりと両手を伸ばした。

「お、お父様……!」
「さち、無事だったのか……!」

 ベッドに腰掛けていたのは、さちの父である壱郎だった。体だけでも娘のもとへ行こうとしているのか、両手を必死にばたつかせている。

「さち、こちらへ。ここへ来て、顔を見せてくれ。たのむ……」

 父に名を呼ばれても、素直に向かってよいのかわからない。壱郎に娘として抱かれたのは、たった一度だけだったのだから。

「申し訳ない。すべては不甲斐ない父のせいなのだ。せめておまえだけでも守りたかった。わたしの愛しい娘、さち。たのむ、こちらへ。情けないが足が動かんのだ……さち……」

 泣きながら娘の名を呼び、両の手をばたつかせる壱郎は、もはや哀れにすら感じた。その姿と言葉は、とても嘘とは思えない。

「おとうさまぁ!」

 気づけばさちは、無我夢中で父の元へ走り寄っていた。さちが駆けつけると、壱郎は娘をその胸にかき抱いた。

「さち、おまえが生きていてくれて本当に良かった……!」
「お父様こそ、よくぞご無事で……!」
「ああ、さち。わたしの娘。どれだけこうして抱きしめたかったことか。すまぬ、本当にすまない……」
 
 娘の髪と頬を撫で、顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き続ける壱郎は、娘を案じるひとりの父親だった。さちもまた、壱郎に名を呼ばれるたびに、長年のわだかまりが解けてくのを感じていた。
 九尾の狐である蓉子によって、父娘の絆は断絶されていたが、ようやく絆をとり戻すことができたのだ。

「お父様、大怪我をされたのですか?」

 下半身を動かそうとしない父に気づいたさちは、事情を聞いてみた。

「わたしはもう、介助なしでは歩けぬらしい……。だがこれもすべてわたしが愚かで弱かったゆえだ。さちを守れたのだから悔いはない」
「お父様が私を守ってくださったのですか? そんな……どうして?」
「それは……」

 壱郎は急に口ごもり、困ったようにうつむいた。

「そこからは、わしから話そう」

 壱郎に変わって説明を引き受けたのは、ぬらりひょんだった。

「さち、おまえはもう蓉子の正体を知っただろう? あやつは狐のあやかしで、九尾の狐と呼ばれている。自らの欲望を叶えるためなら手段を選ばぬあやかしだ」

 おぼろげに戻りつつある記憶の中で、優しい姉と思っていた蓉子が見せた、醜悪で怖ろしい姿。さちを人形のように扱い、気まぐれに愛でて、ぬらりひょんを陥れるために利用した。

「すべてはお姉様のなされたこと。蓉子お姉様は、人間ではなかったのですね……」

 蓉子の偽善に気づいてはいたが、あの美しい蓉子が、人間でさえないとは。今でも信じられない思いだった。だが事実として受け止めなくてはならないことを、さちは感じ始めていた。

「さち、壱郎。九尾の狐が九桜院家にとり憑いたのは、わしへの恨みを晴らすためだったのだ。そのためだけにさちと壱郎を利用して苦しめたのだ。なんと詫びていいのかわからぬ。本当に申し訳ない……」

 ぬらりひょんは腰を折るように、丁寧に頭を下げた。心からの懺悔ざんげだった。

「そんな、ぬらりひょん様! どうか顔をあげてくださいませ。ぬらりひょん様のせいではありません」

 ぬらりひょんの顔をあげさせようと、さちが慌てて歩み寄る。
 壱郎もさちに同意するように、ぬらりひょんに話しかけた。

「さちの言う通りです、ぬらりひょん様のせいではありません。わたしがいけないのです。ぬらりひょん様が九桜院家との契約を解消したいとおっしゃられて、わたしはそれに応じました。しかしその後に、事業が傾きかけてしまって……。どうにもならなくなったとき、助けてあげると九尾の狐が声をかけてきました。最初は天の助けだと思いました。しかし、それが甘い考えだったのです……」

 悔しそうに布団を握りしめた壱郎は、肩を震わせ始める。

「美しい女の秘書の姿になった九尾の狐は、とても友好的で親切でした。事業に協力してくれたおかげで、九桜院家も安泰。最初の妻が妊娠して、わたしは幸せでした。女の秘書はしばらく九桜院家を離れると言いましたが、わたしは何の疑問もなく受け入れました。幸福感で彼女の、九尾の狐の狙いに気づけなかった……」

 壱郎の目から、再び涙があふれ始める。それは悔し涙だった。

「その後、妻の体調が悪化して、三日三晩苦しんだ末に、女の子を産み落として死亡しました。生まれたのが蓉子です。長女には白い耳と九つの尾があった。九尾の狐は妊娠した妻のお腹の子に寄生し、その命を奪っていたのです……。わたしは世間体をおそれて、長女を捨てることができなかった。蓉子はそんなわたしの弱さを利用し、恐ろしいほどの知略と凶暴さで、九桜院家を牛耳っていきました。わたしは蓉子がただ恐ろしくて何もできなかった……。すべてを奪われたわたしが、救いを求めたのが使用人だった八重、さちの母親でした」

 涙ながらに九桜院家の秘密を話していく壱郎。それはまた、さちの出生の秘密でもあった。

「八重は優しくて強い女性でした。そして勘が鋭かった。蓉子の正体に気づいてしまったのです。わたしの子を妊娠したことを知ると、どうにか外に助けを求めようと考え、脱出を図りました。しかしそれが蓉子の逆鱗にふれた。生まれたばかりのさちを守ることを条件に、八重は九桜院家にとじこめられてしまいました。八重は蓉子にいびり殺されたようなものです。わたしは九桜院家だけでなく、二人の妻さえも守ることができなかった……」

 さちが幼い頃から言い聞かされてきたことと、真実はまるで違っていた。母の死も、壱郎の苦悩もすべて、蓉子の仕業だったのだ。

「そんな……母様の命も、蓉子お姉様、ううん、九尾の狐が奪っていたの……?」

 さちはその場にくずれ落ち、声をあげて泣いた。
 さちの記憶に残っている母の八重は、あちこち傷だらけだった。父である壱郎に折檻されていたのだと、あとで蓉子から聞かされたが、それは嘘だったのだ。八重は壱郎のことを悪くいったことは一度もなかったのだから。

「どうしてここまでひどいことができるの? わたしも母様も、そしてお父様も、何も悪いことはしてないのに」

 顔をおおって泣くさちの肩に、ぬらりひょんの手がふれた。

「それは九桜院家が、わしと契約を交わしていたからだ。わしは正直者で気の優しい、九桜院家の連中が好きだったからな。だが時代が移り変わり、あやかしは人間から距離をおくべきだと考えた。ゆえに九桜院家との契約を終えたのだが、その隙を九尾の狐につかれたのだ。九桜院家を利用すれば、わしを苦しめ、下僕にできると計算したのだろう。すべての発端はこのぬらりひょん、わしのせいだった。本当にすまない。さち、壱郎……」

 ぬらりひょんは再び頭を下げる。ぬらりひょんの肩も、かすかに震えていた。

「ぬらりひょん様……!」

 さちはたまらず、ぬらりひょんの胸元に飛び込んだ。
 ぬらりひょんが悪いわけではない。それでも自らを責める気持ちを思うと、さちには体を寄せ合って泣くことしかできなかったのだ。


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