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漆黒の人(香港マフィア頭領次男坊編)
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「――そうだったのか。すまないことをした」
今度は日本語で、幼い冰にも分かるように謝罪したのだった。
冰ら家族と親しくしていた関係で黄老人は日本語にも多少なりと明るかった為、その意は通じたのだろう。
[いえ――。大人にそのようにおっしゃっていただけるなど……恐縮です]
未だ頭を垂れたままで、幾度となく深々とお辞儀を繰り返す。
見たところ、この漆黒の衣服を身にまとった男は黄老人よりも遥かに若い。幼い冰にもそのくらいのことは分かるのだろう、何故にこの若い男に対して老人がこうまで丁寧にするのかを不思議な面持ちで見つめていた。
[この子供はあんたが育てているのか?]
男が訊いた。
[はい――。私には家族もございませんし、隣家で暮らしてきましたのでこの子も懐いてくれています。この歳になって息子を授かったと思って、これからも大切にしてやりたいと思っております]
[――そうか]
男はうなずくと、再び冰の前でしゃがんで瞳を細めてよこした。
「ボウズ、名を何という」
それは美しい発音の流暢な日本語だった。
冰からすれば、真っ黒い服を着た鋭い眼力の男がいきなり目の前で屈んだのだから驚いたわけだろう。だが、男はわざわざ日本語で話し掛けてくれている。混乱している自身のことを思ってそうしてくれているのだろうことが冰にも分かるのだ。ビクりと肩を震わせつつも、訊かれた問いには懸命に答えようと口を開いた。
「……んと、ひょう……です。ふぶき……ひょう」
「ひょう――か。どんな字を書く」
「えっと……漢字……?」
「そうだ。漢字だ」
「えっとね、ちょっと難しい……です。雪が吹くって書いて”ふぶき”。名前の方は……”にすい”に水だって。お母さんからそう教えてもらった」
男は頭の中で漢字を組み立てたのだろう。少し考えると、
「なるほど。雪吹冰――か」
納得したのか、冰の頭をポンと撫でると、今まで崩さなかった無表情をわずかにゆるめてみせた。
「そうか。いい名前をもらったな。俺は焔だ」
「イェン……? お兄ちゃんの名前?」
「ああ。漢字は――説明するのが難しいが、炎という意味だ」
「炎……。じゃあ、熱いんだね」
あまりに率直な感想に、男は一瞬面食らったように瞳を見開いてしまった。――が、すぐにまたそれを細めると、今度は黄老人に向かって広東語でこう告げた。
[この子供には――俺たちファミリー下の諍いが原因で不憫な思いをさせてしまった。せめて養育費くらいは援助させて欲しい]
男からの意外な申し出に、老人は驚き、皺の深い瞼を大きく見開いた。しばしの間、絶句してしまったほどだ。
[……そんな! 滅相もございません! 子供一人のことです。私にも何とかなります故――そのお気持ちだけで充分でございます……!]
だが、男は引かなかった。是が非でも養育費をと言うので、結局は有り難く厚意を受けることになったのだ。
老人は、この男が香港の裏社会を治める頂点にいるファミリーの者だと知っている。いかに年若いといえども、ファミリーのトップたる言葉を退けてまで我を通すことが賢明でないことは心得ていた。
[……かしこまりました。では大人のご厚情に甘えさせていただきとう存じます]
[うむ、そうしてくれ]
男は穏やかに瞼を伏せ、老人に敬意を表すと立ち上がった。その艶めく濡羽色の髪に繁華街の灯りが映り込んでは、まるで宝石のように輝いて見えるのを幼い冰は不思議そうに見つめていた。
いつまでもいつまでも――視線を外せないまま見つめていたのだった。
それが漆黒の男――周焔と幼い雪吹冰との出会いであった。
◇ ◇ ◇
今度は日本語で、幼い冰にも分かるように謝罪したのだった。
冰ら家族と親しくしていた関係で黄老人は日本語にも多少なりと明るかった為、その意は通じたのだろう。
[いえ――。大人にそのようにおっしゃっていただけるなど……恐縮です]
未だ頭を垂れたままで、幾度となく深々とお辞儀を繰り返す。
見たところ、この漆黒の衣服を身にまとった男は黄老人よりも遥かに若い。幼い冰にもそのくらいのことは分かるのだろう、何故にこの若い男に対して老人がこうまで丁寧にするのかを不思議な面持ちで見つめていた。
[この子供はあんたが育てているのか?]
男が訊いた。
[はい――。私には家族もございませんし、隣家で暮らしてきましたのでこの子も懐いてくれています。この歳になって息子を授かったと思って、これからも大切にしてやりたいと思っております]
[――そうか]
男はうなずくと、再び冰の前でしゃがんで瞳を細めてよこした。
「ボウズ、名を何という」
それは美しい発音の流暢な日本語だった。
冰からすれば、真っ黒い服を着た鋭い眼力の男がいきなり目の前で屈んだのだから驚いたわけだろう。だが、男はわざわざ日本語で話し掛けてくれている。混乱している自身のことを思ってそうしてくれているのだろうことが冰にも分かるのだ。ビクりと肩を震わせつつも、訊かれた問いには懸命に答えようと口を開いた。
「……んと、ひょう……です。ふぶき……ひょう」
「ひょう――か。どんな字を書く」
「えっと……漢字……?」
「そうだ。漢字だ」
「えっとね、ちょっと難しい……です。雪が吹くって書いて”ふぶき”。名前の方は……”にすい”に水だって。お母さんからそう教えてもらった」
男は頭の中で漢字を組み立てたのだろう。少し考えると、
「なるほど。雪吹冰――か」
納得したのか、冰の頭をポンと撫でると、今まで崩さなかった無表情をわずかにゆるめてみせた。
「そうか。いい名前をもらったな。俺は焔だ」
「イェン……? お兄ちゃんの名前?」
「ああ。漢字は――説明するのが難しいが、炎という意味だ」
「炎……。じゃあ、熱いんだね」
あまりに率直な感想に、男は一瞬面食らったように瞳を見開いてしまった。――が、すぐにまたそれを細めると、今度は黄老人に向かって広東語でこう告げた。
[この子供には――俺たちファミリー下の諍いが原因で不憫な思いをさせてしまった。せめて養育費くらいは援助させて欲しい]
男からの意外な申し出に、老人は驚き、皺の深い瞼を大きく見開いた。しばしの間、絶句してしまったほどだ。
[……そんな! 滅相もございません! 子供一人のことです。私にも何とかなります故――そのお気持ちだけで充分でございます……!]
だが、男は引かなかった。是が非でも養育費をと言うので、結局は有り難く厚意を受けることになったのだ。
老人は、この男が香港の裏社会を治める頂点にいるファミリーの者だと知っている。いかに年若いといえども、ファミリーのトップたる言葉を退けてまで我を通すことが賢明でないことは心得ていた。
[……かしこまりました。では大人のご厚情に甘えさせていただきとう存じます]
[うむ、そうしてくれ]
男は穏やかに瞼を伏せ、老人に敬意を表すと立ち上がった。その艶めく濡羽色の髪に繁華街の灯りが映り込んでは、まるで宝石のように輝いて見えるのを幼い冰は不思議そうに見つめていた。
いつまでもいつまでも――視線を外せないまま見つめていたのだった。
それが漆黒の男――周焔と幼い雪吹冰との出会いであった。
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