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周焔の香港哀愁
4(周焔の香港哀愁 完結)
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李の叫び声に通りの向こうに目をやれば、楽しげに友達と連れ立って帰って来た少年の姿が飛び込んできた。
「じゃあな、冰! また明日なー!」
「うん、バイバーイ!」
冰と呼ばれていることから間違いなくあの少年だと思えた。友達に手を振ってアパートへと入って行く。少しすると、彼らが住む三階の窓からひょっこりと少年が顔を出したのに気がついた。
幼かったあの日から比べると、どこかしこに成長した様子が見て取れる。だが素直で真っ直ぐな性質がうかがえる大きな瞳はあの頃のままだ。ふわふわと顔まわりを覆う長めの髪がよく似合っていて、何ともいえずに可愛らしい。
何やら探しものをするかのように慌てた素振りでキョロキョロと階下を見渡している仕草を目にすれば、何故だか心の奥底をギュッと鷲掴みにされるような気分に陥った。
その直後、窓から姿が消えたと思ったら、転げるような勢いでアパートの階段を駆け降りてくる姿を見つけて、周は思わず視線を釘付けにさせられてしまった。
少年の後を追い掛けるようにして黄老人もおぼつかない足取りで懸命に階段を降りてくる。通りに出れば、二人共に必死に辺りを見渡しているのが分かった。
「老板をお捜しなのではありませんか? 老人があの少年に老板が来たことを告げたのかも知れません」
今ならばまだ間に合う。通りを一本挟んだだけのこの距離だ。すぐに車を降りて呼び掛ければ、彼はきっと気付いてくれるだろう。
駆け寄って言葉を交わし、微笑み掛けてやりたい。髪を撫で、『元気か』と聞き、あの小さな身体を両の腕で抱き締め、すっぽりと包んだのならどんな気持ちになるのだろう。
だが、周はそうしなかった。ドアを開いてしまいそうになる指をもう片方の手で押さえ、今にも駆け降りんと動き出しそうな脚の震えを必死に堪える。
「出してくれ」
「ですが老板……」
「いいんだ。今、あいつに会えば……覚悟が鈍る」
真っ直ぐに俺を見つめたあの小さな坊主と向き合い、目を合わせてしまったならば、後ろ髪を引かれる思いを振り切れなくなる。
「何も日本へまで行かずともいい。ここに残って起業すりゃいいじゃねえかと、俺はきっと自分を甘やかしちまうだろう」
「老板……」
「心残りはあの坊主のことだけだ。あいつが元気でいれば……それだけで俺は満足だ」
出してくれと小さく告げられた言葉に、李もまた切なげに瞳を細めたのだった。
「いつか……縁があればまた会うこともあるだろう」
滑り出した車中から振り返った視線の先に、小さな少年の姿が遠ざかっていく。
「元気でいろよ――」
ふと、窓越しに見上げた空が秋の夕暮れに染まって美しかった。
濃い橙色はまさに焔の如く、それを取り巻く白い雲はあの少年の名を思わせるやわらかな雪吹色だ。
秋のつるべ落としの陽が、やがて白い雲を真っ赤に染め上げて――二つが一つに溶け合う景色を胸に刻み、周焔は生まれ育った香港の地を後にした。八年の後、その腕に抱くことになるかけがえなき温もりを未だ知らぬ――枯葉舞う冬の初めのことだった。
周焔の香港哀愁 - FIN -
「じゃあな、冰! また明日なー!」
「うん、バイバーイ!」
冰と呼ばれていることから間違いなくあの少年だと思えた。友達に手を振ってアパートへと入って行く。少しすると、彼らが住む三階の窓からひょっこりと少年が顔を出したのに気がついた。
幼かったあの日から比べると、どこかしこに成長した様子が見て取れる。だが素直で真っ直ぐな性質がうかがえる大きな瞳はあの頃のままだ。ふわふわと顔まわりを覆う長めの髪がよく似合っていて、何ともいえずに可愛らしい。
何やら探しものをするかのように慌てた素振りでキョロキョロと階下を見渡している仕草を目にすれば、何故だか心の奥底をギュッと鷲掴みにされるような気分に陥った。
その直後、窓から姿が消えたと思ったら、転げるような勢いでアパートの階段を駆け降りてくる姿を見つけて、周は思わず視線を釘付けにさせられてしまった。
少年の後を追い掛けるようにして黄老人もおぼつかない足取りで懸命に階段を降りてくる。通りに出れば、二人共に必死に辺りを見渡しているのが分かった。
「老板をお捜しなのではありませんか? 老人があの少年に老板が来たことを告げたのかも知れません」
今ならばまだ間に合う。通りを一本挟んだだけのこの距離だ。すぐに車を降りて呼び掛ければ、彼はきっと気付いてくれるだろう。
駆け寄って言葉を交わし、微笑み掛けてやりたい。髪を撫で、『元気か』と聞き、あの小さな身体を両の腕で抱き締め、すっぽりと包んだのならどんな気持ちになるのだろう。
だが、周はそうしなかった。ドアを開いてしまいそうになる指をもう片方の手で押さえ、今にも駆け降りんと動き出しそうな脚の震えを必死に堪える。
「出してくれ」
「ですが老板……」
「いいんだ。今、あいつに会えば……覚悟が鈍る」
真っ直ぐに俺を見つめたあの小さな坊主と向き合い、目を合わせてしまったならば、後ろ髪を引かれる思いを振り切れなくなる。
「何も日本へまで行かずともいい。ここに残って起業すりゃいいじゃねえかと、俺はきっと自分を甘やかしちまうだろう」
「老板……」
「心残りはあの坊主のことだけだ。あいつが元気でいれば……それだけで俺は満足だ」
出してくれと小さく告げられた言葉に、李もまた切なげに瞳を細めたのだった。
「いつか……縁があればまた会うこともあるだろう」
滑り出した車中から振り返った視線の先に、小さな少年の姿が遠ざかっていく。
「元気でいろよ――」
ふと、窓越しに見上げた空が秋の夕暮れに染まって美しかった。
濃い橙色はまさに焔の如く、それを取り巻く白い雲はあの少年の名を思わせるやわらかな雪吹色だ。
秋のつるべ落としの陽が、やがて白い雲を真っ赤に染め上げて――二つが一つに溶け合う景色を胸に刻み、周焔は生まれ育った香港の地を後にした。八年の後、その腕に抱くことになるかけがえなき温もりを未だ知らぬ――枯葉舞う冬の初めのことだった。
周焔の香港哀愁 - FIN -
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