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倒産の罠
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アパートは普段と何ら変わらないはずだったものの、これが囮の作戦だったと知った上に真田がいないとなると、まるで初めて訪れる他人の家と思えるほどに雰囲気が違って感じられるのが不思議な気分だった。特に冰にとっては今朝までここで生活していたのが夢幻のように感じられるほどだった。
郷愁とも何ともつかない思いにキュッと胸が締め付けられるようだ。明日からはまた汐留に戻って元の生活に帰れると思うと、うれしい気持ちと共にここで紡いだ三人の日々が妙に懐かしく思えたりもして、何とも言えない離れ難さを感じさせる。キッチンには今晩三人で食べるはずだった夕飯が支度途中になっていて、今にもそこで真田が料理をしながら微笑む姿が浮かぶようだった。
『冰さん、坊っちゃま、お帰りなさいまし! 今夜はシチューでございますよ』
何事もなければ三人で夕膳を囲み、風呂に入り、この時間ならきっともう休んでいただろう。
「今日シチューだったんだ……。まだお鍋があったかい気がする」
冰が温め直す傍らで、紫月もツマミやサラダ作りを手伝って、狭いテーブルを囲み四人で乾杯と相成った。
「冰、カネ、一之宮。この数ヶ月、本当に世話になった。改めて礼を言う」
ビールのグラスを掲げて周がそう切り出せば、鐘崎もまた同様に皆の労を労う言葉で乾杯の挨拶とした。その後は賑やかに遅い夕飯の時を楽しんだ。
「んめ! このシチュー、マジで旨え!」
紫月が感嘆の声を上げながらシチューに舌鼓を打つ。先程チラリと目にした台所にあった食材には、スーパーで普通に売っているルータイプのシチューミックスの箱が混じっていた。おそらくは具材を煮込んで市販のルーを溶かしただけなのだろうが、いつも汐留のシェフが一から作ってくれるようなコクも感じられて、とにかく旨いのだ。
「やっぱ真田さんの愛情だなぁ。おんなしように作っても氷川や冰君の健康の為にとか思って鍋を掻き混ぜるから、その思いが味に出るんだべな」
それを聞いて、冰もじんわりと胸を熱くする。
「そうですね。真田さんのあったかいお気持ちがギューっと詰まってる気がします」
金銭的にも気持ち的にも余裕のない生活ながらも、周と冰の健康を願いながら一生懸命に栄養のバランスなどを考えてくれていたのだろう。思えば洗濯物の畳み方やしまい方なども、汐留にいる時と何ら変わらない、まるで一流ホテルの設えのようにビシっと糊が効いていたり、小さな――タンスとも言えないようなボックスの中にも綺麗に整頓されてしまわれていたことを思い出す。
「真田さん……」
どこにいても、例え汐留の豪邸で黒の執事服を身につけておらずとも、真田の思いはまったく変わらないのだ。いつも背筋を伸ばして笑顔を絶やさず、やさしい眼差しで見守ってくれていた。そんな姿を思い出すと、何だか目頭が熱くなるほどの思いに捉われてしまい、打ち上げというならここ数ヶ月苦楽を共にした彼とこそ一緒に杯を傾けるべきだったと思えてならない。そんな思いが冰の顔に表れていたのだろうか、周と鐘崎、紫月もまた、同じ気持ちでいたようだ。
「――真田も誘ってやれば良かったか……。一刻も早く汐留に帰してやった方がヤツの為だとも思ったんだが……」
「そうだな……。真田さんとはまたきちんと機会を設けて、改めて皆んなで労い会をしようじゃねえか」
「ンだな! そん時は俺と冰君で何か手作りのデザートでも作るか!」
「いいですね! 真田さんはケーキよりも和菓子の方がお好きかなぁ……。お饅頭とか餅菓子とかに挑戦してみましょうか?」
「お! いいね、いいね! 焼き菓子系の饅頭とかも美味そうじゃね? 白餡とか包んで焼くやつ!」
組の調理場には釜もあるしと言って紫月と冰は早速に大乗り気だ。
「では俺たちは何か真田に似合いそうな物でも選ぶとするか」
「懐中時計なんかどうだ? 真田さんなら似合いそうじゃねえか?」
例の宝飾店で特別に誂えてもらおうかなどと、旦那二人もビール片手に盛り上がっている。――と、ちょうどその時だった。玄関のチャイムが鳴り、四人はハタと互いを見合わせた。
「誰だべ? 組のヤツらかな」
「何か言い残したことでもあったのか」
とにかく旦那二人が席を立って出てみると、何とそこにはケータリングさながら、銀の大盆を手にした真田が李に付き添われてニコニコと満面の笑みを見せていたのに驚かされた面々だった。
郷愁とも何ともつかない思いにキュッと胸が締め付けられるようだ。明日からはまた汐留に戻って元の生活に帰れると思うと、うれしい気持ちと共にここで紡いだ三人の日々が妙に懐かしく思えたりもして、何とも言えない離れ難さを感じさせる。キッチンには今晩三人で食べるはずだった夕飯が支度途中になっていて、今にもそこで真田が料理をしながら微笑む姿が浮かぶようだった。
『冰さん、坊っちゃま、お帰りなさいまし! 今夜はシチューでございますよ』
何事もなければ三人で夕膳を囲み、風呂に入り、この時間ならきっともう休んでいただろう。
「今日シチューだったんだ……。まだお鍋があったかい気がする」
冰が温め直す傍らで、紫月もツマミやサラダ作りを手伝って、狭いテーブルを囲み四人で乾杯と相成った。
「冰、カネ、一之宮。この数ヶ月、本当に世話になった。改めて礼を言う」
ビールのグラスを掲げて周がそう切り出せば、鐘崎もまた同様に皆の労を労う言葉で乾杯の挨拶とした。その後は賑やかに遅い夕飯の時を楽しんだ。
「んめ! このシチュー、マジで旨え!」
紫月が感嘆の声を上げながらシチューに舌鼓を打つ。先程チラリと目にした台所にあった食材には、スーパーで普通に売っているルータイプのシチューミックスの箱が混じっていた。おそらくは具材を煮込んで市販のルーを溶かしただけなのだろうが、いつも汐留のシェフが一から作ってくれるようなコクも感じられて、とにかく旨いのだ。
「やっぱ真田さんの愛情だなぁ。おんなしように作っても氷川や冰君の健康の為にとか思って鍋を掻き混ぜるから、その思いが味に出るんだべな」
それを聞いて、冰もじんわりと胸を熱くする。
「そうですね。真田さんのあったかいお気持ちがギューっと詰まってる気がします」
金銭的にも気持ち的にも余裕のない生活ながらも、周と冰の健康を願いながら一生懸命に栄養のバランスなどを考えてくれていたのだろう。思えば洗濯物の畳み方やしまい方なども、汐留にいる時と何ら変わらない、まるで一流ホテルの設えのようにビシっと糊が効いていたり、小さな――タンスとも言えないようなボックスの中にも綺麗に整頓されてしまわれていたことを思い出す。
「真田さん……」
どこにいても、例え汐留の豪邸で黒の執事服を身につけておらずとも、真田の思いはまったく変わらないのだ。いつも背筋を伸ばして笑顔を絶やさず、やさしい眼差しで見守ってくれていた。そんな姿を思い出すと、何だか目頭が熱くなるほどの思いに捉われてしまい、打ち上げというならここ数ヶ月苦楽を共にした彼とこそ一緒に杯を傾けるべきだったと思えてならない。そんな思いが冰の顔に表れていたのだろうか、周と鐘崎、紫月もまた、同じ気持ちでいたようだ。
「――真田も誘ってやれば良かったか……。一刻も早く汐留に帰してやった方がヤツの為だとも思ったんだが……」
「そうだな……。真田さんとはまたきちんと機会を設けて、改めて皆んなで労い会をしようじゃねえか」
「ンだな! そん時は俺と冰君で何か手作りのデザートでも作るか!」
「いいですね! 真田さんはケーキよりも和菓子の方がお好きかなぁ……。お饅頭とか餅菓子とかに挑戦してみましょうか?」
「お! いいね、いいね! 焼き菓子系の饅頭とかも美味そうじゃね? 白餡とか包んで焼くやつ!」
組の調理場には釜もあるしと言って紫月と冰は早速に大乗り気だ。
「では俺たちは何か真田に似合いそうな物でも選ぶとするか」
「懐中時計なんかどうだ? 真田さんなら似合いそうじゃねえか?」
例の宝飾店で特別に誂えてもらおうかなどと、旦那二人もビール片手に盛り上がっている。――と、ちょうどその時だった。玄関のチャイムが鳴り、四人はハタと互いを見合わせた。
「誰だべ? 組のヤツらかな」
「何か言い残したことでもあったのか」
とにかく旦那二人が席を立って出てみると、何とそこにはケータリングさながら、銀の大盆を手にした真田が李に付き添われてニコニコと満面の笑みを見せていたのに驚かされた面々だった。
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