見習いサキュバス学院の転入生【R18】

悠々天使

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2章 粛清と祭

第62話 たまごの味

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 ソフィーが、なぜシンを恐れているのか。

 それは、彼女の育ち方に全ての原因があった。

 正確には、、と言った方が適切かも知れない。



 春祭の家は、シンとソフィーの母親姉妹が経営していた。

 そして、父親同士も兄弟で、婿養子。


 春祭シンと、春祭ソフィアの2人は親戚で、まるで姉と弟のように育った。



 長女長男夫婦から産まれたソフィーは、春祭の会社を継ぐ。

 それは産まれた時から決まっていたことだった。


 それは別に、強制というわけでは無かったそうだが、実際にはほとんど暗黙の了解だったようだ。


 ソフィーの両親は優秀で、妹夫婦は役員として支えるサポート役。

 これはもう変えようのない関係性だった。


 将来、ソフィー社長をシンが支えるという構図は、ソフィーが5歳になり、シンが産まれた瞬間からほぼ決まっていたというわけだ。

 当然ながら、ソフィーの両親は厳しく彼女を育てる。

 父親はソフィーに甘かった点もあったそうだが、母親はとんでもなく厳しかったようだ。


 小学生時代は、テストで満点を取る事は当たり前で、その他、ピアノや書道、バレエ、マナー教室など、毎日の習い事が日課になっていたという。

 当然ながら、経営には体力も必要だ。簡単に身体を壊す様ではやっていけない。

 夜は21時に眠り、朝5時過ぎには起きて父親と一緒に早朝ランニングとラジオ体操をしていたらしい。


 ソフィーは自分でもその生活に疑問を感じる事なく、当たり前だと思っていた。

 自分は他の子とは違う。

 それは、特に悪い事だとは思わなかった。

 何故なら、周囲が自分を特別扱いしてくれるからだ。

 おしとやかに振る舞えば、それだけ大人の人は自分を大事にしてくれるし、同級生の子たちも自分を楽しませようと頑張ってくれた。

 ソフィーは、社長令嬢として恥じない振る舞いを、小学生の頃から当然のように仕込まれていたわけだ。

 抵抗感が無かったのは、それだけ春祭家の教育方針が優れていたからだろう。

 母親が社長だったこともあって、長女としては従いやすかったのかもしれない。

 ソフィーいわく、母親に自分像を重ねて考える事で、将来の目標にし易かったと言っている。


 僕だったらそんな事関係なく、すぐに逃げ出していたんじゃないかと思う。


 そういう家庭なので、お菓子もジュースも、母親の許可無く食べる事は禁止されていて、10回お願いして一度貰えるくらいのレア度だったそうだ。

 たまに来るお客様のために出されたお菓子の余りを、こっそり食べていたらしく、ソフィーいわく、この瞬間の背徳感がたまらなく気持ち良かったと言う。

 罪悪感を持って食べるお菓子は至高であり、美味しさに感動していたそうだ。

 10歳のソフィーと、5歳のシンが、お菓子を盗み食いしている様子を想像すると微笑ましいが、それだけ制限が掛けられて育つのも辛い気はした。

 ソフィーは、「大人って良いよね、シン。こんなに美味しいお菓子を毎日好きなだけ食べられるんだよ?早く大人になりたいね」と、シンに話していたようだ。

 当時は、シンもかなりのお姉ちゃんっ子で、何かあればとにかく後ろを付いて回っていたらしいが、ソフィーが中学生、14歳になった辺りで風向きが変わってきたらしい。


 何事も順風満帆というわけにはいかない。

 努力だけではどうしようもない事もある。


 その頃から、ソフィーの学校の成績にかげりが見え始めたのだ。

 母親はソフィーに言った。


「なんでこんなに成績が悪いの!?」


 常にオール10の通知簿を期待していたソフィーの母は、平均が7くらいまで落ちている事を責めた。

 そう、実は、ソフィーは中学に入るまではほとんどテストは満点で、習い事でも評価が高く、マナーもしっかりしていて、他の奥様方からの評判も良かったのだが、中学に入り、数学の授業で躓いてから、他の教科もみるみると落ちていっていたのだ。

 ソフィーは初めは、単に数学だけが苦手だと思っていたのだが、国語や理科なども分からない部分が増えていく事に困惑していた。



 満点が取れない。



 それはソフィーのプライドを大きく傷付けることになった。

 入学当初、特に、一年生の頃は、クラスの中で、成績優秀、容姿端麗で、明るく優しいという、みんなの憧れの的になっていた彼女。

 自分は他の人と違って特別だと、本気で思っていたのだ。

 成績が落ちてからも、なんとか暗記科目で凌いではいたが、苦手な数学に勉強時間を取られ過ぎて、好成績の維持が難しくなった。

 ソフィーは自分なりに解決するために、先生や、成績の良い友達に助けて貰ったが、さすがにトップを取れるレベルまで戻す事は絶望的になった。


 春祭家の天才少女として、訪問客からの評判は良かったが、それもどんどんとハリボテになっていく事を自分で感じて、毎日、苛立ちを感じるようになった。

 取引先の方が、自分を見に来る。

 ソフィーは、訪問客が来るたびに恐怖でビクビクするようになった。

『いやぁ、噂通り、美しく聡明なお嬢さんですね。将来が楽しみです、是非、社長になってからもウチを贔屓にしていただきたいモノですな、ハハハ』

 ……冗談で言っている。

 それは、よく考えればわかる事だったが、当時はとんでもないプレッシャーを感じたそうだ。


 そこに加えて、9歳になった弟同然のシンが覚醒する。


 違和感を感じたのは、シンが、小学生なのに、ソフィーの数学の教科書を読んでいるのを見つけた時だった。


 嫌な予感がしたソフィーは、シンに言った。

「ねぇシン、あんた、中学の教科書なんて読んでも分かんないでしょ?算数ドリルは終わらせたの?」

 シンは無表情でソフィーを見た。

「算数ドリルなんて、配られた日に全部解いちゃったよ」


「え?」


 ソフィーは、シンの算数ドリルを見る。

 100ページ以上あり、宿題になるのは、せいぜい3日に一度の3ページくらい。

 おそらく半年くらいかけて終わらせるドリルだろう。

 それが、すでに全問解き終わっている。

 しかも、何がおかしいって、問いに対して、計算式が一つもなく、ただ答えだけが書かれていた。文章問題で、図が必要なものも同様だ。まさか頭の中で全部処理していると言うのか?

「ねぇシン。これって、答え配られてるの?」

「そんなわけ無いじゃん。先生が答え合わせするんだから」

「ほんとに自分で解いたの?」

「当たり前だよ。それに姉ちゃん、そんなの問題のうちに入らないよ。計算しなくても直感で答え出るじゃん」

「…………直感?」


 シンは何を言ってるんだろうと本気で思った。


 ドリルの後半にある、分数が羅列している問題や、それを利用した文章問題など、何もメモせずに解くなんて不可能だろうとソフィーは思った。

 当時、シンは何か誤魔化していると思った。

 そうでなくてはおかしい。

 14歳のソフィーでも、このドリルを半日やそこそこで終わらせる自信は無い。

 つまり、自分の計算能力は、9歳のシンより低いということだ。

 どういうトリックなんだろうと思った。

「シンって、計算のコツとか知ってるの?」

「計算のコツ?なにそれ」

「万能な方程式があるとか?……って、方程式って小学生じゃ知らないよね」

「万能かどうかは知らないけど、普通の方程式なら知ってるよ」

「うそ、なんで?もしかして私に隠れて家庭教師雇ってもらったの?」

 ソフィーは焦るが、シンは平然としている。

「そんな事しなくたって、スマホで動画見たら教えてくれる人いるじゃん」

 確かに、塾講師が方程式の解き方を分かりやすく説明している動画はある。

 たまに復習するために調べる事はあった。

 だが、そんなに先まで予習しようなんて考えた事すら無かった。

 しかも、シンは9歳なのだ。

 そんな動画見たりするのか?

「もしかして、シンって、連立方程式とかも分かるの?」

「うん、解けるよ」

「…………もしかして、私がまだ勉強してないとこも知ってたりする?」

「そうだねー、最近は、数列とか微分積分とかも解けるようになったかな」

 シンがよく分からない事を言ったので、スマホで調べてみることにしたソフィー。

 そして、その結果に戦慄した。


「シン………高校2年生の数学、勉強してんの?」


「そんなの、勉強じゃくて、遊びだよ」


「…………あそび」


 ソフィーは頭がクラクラしそうになった。

「それで、その、私の教科書は、なんで見てんの?」

「うん、一応、僕の知識で姉ちゃんの教科書の問題解けるかどうか確認したくって」

 恐ろしい事を言う小学生の弟。

「……で、どう?解けた?教科書の練習問題」

 すると、シンは笑顔になる。

「うん、中学レベルの数学なんて、ほとんど暗算でできるね、余裕だったよ」

 ソフィーは絶望的な気持ちになった。


 勝てない。


 シンの方が優秀。


 それはもちろん、数学だけの話ではあったが、自分からすれば、他の教科で極端に躓くシンを想像できなかった。

 シンが自ら興味を持って、ここまで飛び級の学習ができるなら、他の分野もできない筈がない。

 仮に、自分でやらなかったとしても、授業についていけなくなるなんて事は考えられなかった。


 負け確定だ。



 ソフィーは、シンより自分の方が出来ると思っていたのが恥ずかしくなった。


 おそらく10年後、自分が24歳、シンが19歳になった時、自分とは比べ物にならないくらい知識に差が生まれている事だろう。

 ソフィーはその日から、シンの行動を監視するようになった。


 シンは普段、何をしているかと言うと、全く特別な事はしていなかった。


 学校から帰ってくると、宿題を済ませて、スマホでゲームをしたり、アニメやドラマを見たりしている。


 むしろ、姉である自分の方が遥かに勉強していた。

 習い事も、シンの両親は厳しくなく、やっている事はせいぜい週に一回のピアノくらいだ。

 週一回なのに、よく休んでいる。

 不真面目だ。

 ソフィーはシンにそれを責めた事もある。

 シンが学校から帰り、リビングのソファーの上でゴロゴロとゲームをやっていた時だ。

「ねぇ、シン!」

「なに?姉ちゃん」

 ソフィーを見ずに答えるシン。

「アンタさ、昨日のピアノのお稽古もお休みしたでしょ!?」

「えー……、うん、休んだ」

「ちゃんと行かなきゃ、迷惑でしょ?」

「なんで?」

「なんでって、アンタ、先生があなたの為に時間取って待ってくれてるんだよ?失礼でしょ?」

 シンはダルそうにソフィーを見ると、またゲームに戻る。

 ソフィーはシンからゲーム機を取り上げた。

「あっ、ちょ、姉ちゃん、ダメだって」

「私の言う事、聞かないからでしょ!?」

「あー、もぅ、アクションゲームやってる時に取るのはダメだろ、常識的に」

「はぁ!?常識?お稽古サボってるアンタに言われたくないんだけどっ!」


 シンが頭を掻くと、ジトーッとソフィーを見る。

 ソフィーは冷や汗を掻く。

「な……、なによ」

「姉ちゃん、先生に渡してる月謝、知ってるでしょ?」

「………え、えぇ、聞いてるわよ」

 実はこの時、ソフィーは嘘をついた。

 ピアノの先生が月謝を貰ってることすら知らなかったのだ。

 そもそも、習い事のお金など、ソフィーは全く関心が無かったのだ。

「じゃあさ、分かると思うけど、先生は一定の金額で契約しているわけで、俺が毎週通おうが、月に一回だろうが、支払ってる金額は同じなんだよ」

「………そ、そんなの、先生もアンタの為に準備するんだから、その労力に対して恩返ししなきゃダメでしょ、人として」

「何言ってんだよ、教える回数が少ない方が楽に決まってるじゃんか、同じ月謝貰ってるなら」

「……よ、予定が無くなると、がっかりするでしょ、ふつう」

「じゃあさ、姉ちゃんに聞くけど」

「うん」

「ティッシュ配りのバイトをやってるとしてさ」

「うん」

「凄い台風が来てね」

「うん」

「バイト先から、『本日は配れる状況では無いので、業務自体は無くなりますが、日給は通常通りお支払いします』っていう連絡が来たらどう思う?」

「それは………、ラッキーだけど」

「ほらね」

「なにが!?」

「だから、ティッシュ配ってないのに日給貰えたら嬉しいじゃん」

「そ、それは極論でしょ?これは、教育なんだから!生徒がピアノ弾けるようになって、初めて評価されるの!?でしょ?お姉ちゃん間違ってる?シン!!」

「あーもぅ、……これだからソフィアは」

 面倒そうなシン。

 だが、ソフィーは怒る。

「あのね、私は認めないからね!そんな態度、間違ってるのはシンだから!」

「分かった分かった、じゃあ、ピアノの部屋に行こう、ほら、あっちへ」

 シンが立ち上がると、リビングの隣りのグランドピアノが置いてある部屋に向かった。

 ピアノのある部屋は天井が吹き抜けになっており、3階の天窓まで確認できる。

 さらに、中庭へ続く大きな窓があり、パイプ椅子を並べれば、演奏もできるパーティー会場に即変貌する。

 ここは、春祭家の多目的ホールというわけだ。

 ソフィーは腕を組み、怒りながらシンについて行った。


 シンはピアノの鍵盤の前に座ると、仁王立ちで睨むソフィーを見た。


「さてと、姉ちゃん、先生に言われた課題曲の中で、俺の1番好きな曲を弾くよ。そこで見てて」


 すると、シンが自分の腕を軽く回して、深呼吸する。


 ソフィーはシンの手元を見つめる。


 すると、シンは、しなやかな指先で、とても9歳とは思えない音色を奏でた。


 曲はすぐ分かった。


 パッヘルベルの、カノンだ。


 音が、ソフィーの身体に何の抵抗も感じずに響き渡る。

 脳が包み込まれるような優しい音色に、お腹の底から熱くなるのを感じた。

 繰り返されるベースラインに感覚が呑まれる。

 楽譜で言うと、18小節目を過ぎたところの、いわゆるサビのような部分に差し掛かると、全身の毛が逆立つ。

 音楽に自分の体が取り込まれているような感覚で、涙腺が緩んできた。


 いつの間にか組んでいる腕はダラっと落ちて、シンの演奏に心を奪われていた。


 さっきまで、大した演奏の腕で無かったらすぐに出て行ってやろうと考えていたが、そんな事ができる状況では無かった。

 むしろ、ずっと聴き続けたいと思うくらいだ。

 自然と感動で目から涙が溢れた。

 シンのピアノの腕は、ホンモノだ!

 ……と、にも関わらず、シンは手を止めた。

「ね、俺、弾けてるだろ?正直さ……」


「ふざけんなぁ!!!」


 ソフィーが叫ぶ。


「姉ちゃん、コレでも分からないってんなら」

「ちがう!」

 ソフィーが遮る。

「え?」

 ビクッとするシン。


 泣いている姉。

 困惑する弟。



「演奏をっ!止めるなぁあっ!!!!」



 続きを聴きたい怒りで顔が真っ赤になるソフィー。

「は!はい!」

 焦って再びカノンを弾き始めるシン。

 耳が幸せで、喜びの声を上げるソフィー。

「うわぁーん、良いよぉおおお、なんでこんなに良い曲なのぉおコレぇええ、信じらんないぃーい」

 とどまる事なくピアノを弾き続けるシン。

 感動で泣き、鼻水を流すソフィー。

 どうやら彼女にとって、この時シンが弾いたカノンほど感動した楽曲は無いらしい。

 初体験の感動というヤツだ。

 高級料理を初めて口にした瞬間を忘れられないようなモノだろうか。

 よく、天才ピアニストの演奏を聴いて失神したという話を聞くが、ソフィーのように感性が豊かな女の子ならそう言う事もあり得るのだろうか。

 ソフィーは、これを聞くまでピアノもクラシックも好きでは無かったそうだが、ここでパラダイムシフトが起こり、ピアノの稽古に身が入るようになったそうだ。


 ただ、この後も困った事があったらしく、完全に毒気を抜かれて放心状態のソフィーがリビングへ戻ると、春祭の会社と取引をしているお客様がテーブルの前で父親と談笑していたのだ。


 取引先の、貫禄のある、おじ様社長が、ソフィーを見て目を輝かせる。

「キミがソフィアさんですか?」

 ソフィーが困惑して頷く。

「素晴らしい演奏だった。ちょうど紅茶を1杯だけ頂いておりまして。偶然聴こえたのですが、こんなに可憐で美しいお嬢様が弾いてなさったんですね。まさに、その音色に似つかわしい容貌だ。もし良ければ、その腕を見込んで、我が社の懇親会で披露していただけませんか?」

 ソフィーはポカンとして父親を見ると、見た事ないほどニコニコしている。

 シンは自分の背後に隠れて小さくなっていた。緊張しているようだ。

 嬉しそうな取引先の社長と、父親の、『当然、イエスだよな、ソフィア』と言ってるかのような無言の圧力を感じ、首を上下に素早く振った。


 社長は、自分の名刺をソフィーに渡し、大きなゴツゴツした手で握手をした。

 自分の柔らかい手がブンブン振られるのを見て、自分の身に何が起こっているのか理解が追いつかなかった。


 ご機嫌で帰っていく取引先の社長。


 実に気分の良さそうな父の顔。


 父が、ソフィーに向き直ると言った。

「ソフィア、よくやった。さすがは未来の社長だ。あの方は大手企業の社長さんで、つい最近取引が始まったばかりなんだ。懇親会に呼ばれるなんてまたとない機会だぞ。さっそくドレスを新調させよう。母さんも鼻が高いだろうな」

「え………あ、………うん」


 この時に本当の事を言えなかったソフィーは、一日中恐怖に震えた。


 どうすれば良い?


 もちろん、正直に両親に伝えるのが1番だ。

 だが、ソフィーはそれを嫌がった。


 ソフィーの父親は、母親ほど厳しくは無かったが、同時に、自分への期待値も低かったのだ。

 だから、さっきの喜びの表情は本当に嬉しかったのだ。

 両親の事業に貢献できることももちろんだが、父を喜ばせたいという気持ちは、ずっと前からあった。


 幻滅させるわけにはいかない。


 ここで、次期社長候補ではないシンが代わりに演奏してしまっては台無しなのだ。

 今回の事は、次期社長候補であり、尚且つ、この美しい容姿があってこそ輝くモノ。

 それに、自分の威厳を示す最大のチャンスでもあった。


 ゆえにソフィーはこの演奏を降りる事はできなかった。


 お母さんは、自分のピアノの腕を疑っていないし、ましてや、シンに劣っているなど考えもしていない様子だった。

「へぇー、良かったじゃないソフィア。やっと、、存分に、実力を見せてあげなさい」


 懇親会は1週間後。


 その日の夜、家族でピアノのことで盛り上がった後、シンを呼んだ。



「シン、相談があるの」


「なに?………まぁ、だいたい予想はつくけどさ」

「アンタのせいで、この世は終わりよ」

「魔王かよ!俺に世界を滅亡させる力は無いって」

「もおおおおおお」

 シンの頭や肩をポコポコ叩くソフィー。

「痛い痛い、やめろよ姉ちゃん」

「私にピアノ教えなさい!」

「急だな、ちょっと前に俺に説教しといて」

「状況が変わったのよ」

「姉ちゃんが勝手に自分の手柄にしたからだろ?」

「アンタだって隠れてた!!同罪っ!」

「ふざけんなよな」

「ああー!もう、ムカつく、なんでそんなにピアノ出来んのよ!!バカなんじゃない!?」

「セリフの辻褄が合ってないだろ」

「バカ!ばーかばーか!くそバカ、バカバカバカァ!!」

「俺を馬鹿にしたって姉ちゃんのピアノの腕は上がらないって」

「そんなの知ってるわよ!!」

「素直にごめんなさいって言えば?」

「そんなのあり得ないんだけど」

「なんでさ、俺が代わりに弾けば良いだけじゃん」

「何言ってんの?お父さんの顔、見た?」

「俺は隠れてたからさ」

「あー、もぅ、コレだからシンは!あんな嬉しそうなお父さん、初めて見たわよ」

「そうなの?」

「シンはお父さんの事、ちゃんと見てないわけ?」

「見てるよ」

「見てないでしょー!!」

「俺の父さんは姉ちゃんの父さんの弟なんだって!」

「アホおおおおお、なんでアンタのお父さんと私のお父さんが違う人なの!?」

「俺に聞くなよ、知らんわ」

「もおおおお、……………あっ、ダメだ、私の世界、破滅したわ」

「それはもう良いから、対策しないと。……例えば」

「アンタが私に変装するとか?」

「本気で言ってるとしたら春祭家を継ぐのはやめた方が良い」

「じゃーどーすんのよ!?まじで地獄なんだけど」

「こんなことくらいで地獄なんて、よく言えたもんだよ」

「殴るよ」

「やめてください」

 この後も色々と言い訳をしていたが、解決策は見つかりそうに無かった。

 シンが言った案をことごとく却下されたという事もある。

 そしてついに観念した。

「もう、私が弾くしか無いのかな……」

「じゃあ、ほんとに練習すんの?」

「…………する」


 そんなわけで、ここから地獄の1週間が始まった。


 習い事が、毎日あるソフィーは、それが終わってから晩ご飯を済ませ、お風呂に入ってからピアノを弾く。

 夜9時に眠らなくてはいけない約束だったが、今回は特例として練習時間を設けてもらった。

 それでも、夜11時だと朝のランニングが苦しくなるため、10時30分には眠ると言う条件だ。

 ごはんとお風呂を最短で済ませ、20時から2時間半は集中できる環境を作った。


 ただ、初日に少し問題が発生していた。

 ソフィーはシンに言う。

「毎日2時間半しかお稽古できないけど、大丈夫なの?シン」

「充分さ。人間の集中力は、子供で45分、持っても1時間と言われている。15分のインターバルを設けて、2回に分けよう」

「30分残るよ」

「最後にテストをしよう」

「テスト!!?」

 ビクッと、身体が震えるソフィー。

 以前ならテストに自信を持っていた彼女も、成績が落ちるにつれて恐怖のワードになってしまった。

「大丈夫だよ、復習して定着させるだけだから」

「ほんとう?」

「あぁ、それに、俺のカリキュラム通りに進めば、姉ちゃんが本番で恥をかく事は無い」

「ほ………ほんとに?」

「あぁ、俺に任せてくれ」

 ソフィーの張り詰めた顔が和らいでゆく。

「えへへ、よかった」

 安心したのか、気が抜けるソフィー。

 この時ほどシンを頼もしく感じた事は無かったらしい。

 仮にも僕だって、そんなにハッキリと、恥をかく事は無いなんて言われたら信頼してしまうだろう。

 シンは教育者としても上手く誘導しているように感じた。


 その日、シンは、ソフィーのピアノの実力を把握し、方針を決めた。


 ソフィーにまず、1番得意な曲と、好きな曲を弾いてもらい、最後にカノンを弾いてもらった。

「ねっ!どう?シン、私、上手い?」

 3曲を得意げに披露し、キラキラした瞳でシンを見つめるソフィー。

「想像以上だ」

 シンが言う。

 ソフィーはバタバタと足をばたつかせ、「ふふふー」と、鼻息を荒げる。

「想像以上に下手だ………今まで何を習ってきたんだ」


 ソフィーは真っ青になる。


 この時ほどソフィーが弟の言葉を真摯に受け止めて傷付いた事は無かったらしい。

 今まではシンをみくびっていた為、全く聞く耳を持た無かったが、今回は実力を認めて、しかも軽くファンになりつつある状況だ。ショックも受けるだろう。


「……そそ、そんなに酷いの、私のピアノ」


「あぁ、下手だ。基礎が壊滅的なだけでは無く、なんのセンスも感じられない。好きな曲を弾かせれば多少は楽しく聴けるかと思ったが、俺が甘かったみたいだ。正直に言おう。プロは諦めた方が良い」

「プロなんて一生ならないもん!!」

 泣きそうなソフィー。

「そうか、なら、大丈夫だ。家で趣味として遊ぶくらいなら良いだろうけど、間違っても友達に無理矢理聴かせたりしたらダメだからな」

「ぇえー、……もうケイちゃんとマイちゃんには結構聴いてもらったんだけど…………褒めてくれたし」

「……ったく、コレだから社長令嬢って嫌いなんだ。気を遣ってくれていることに微塵も気付かないんだからな。接待されていることに気付かない社長なんて、着いていく人間は地獄でしかないね」

「アンタ、私の部下になるのに、そんなボロクソに言わなくてもいいじゃん………うぇえええ」

 号泣するソフィー。

 声を聞きつけて、今度はシンの方の父親が現れた。

 シンの父は、痩せ型で、大人しい男性だ。

 兄ほどエネルギッシュな印象はなく、普通の優しいお父さんと言ったところだろう。

 能力的にもそれほど優れているタイプでは無かったが、シンは父親の事が大好きだった。

 彼は泣いているソフィーの横に片膝を着き、頭を撫でた。

「大丈夫、大丈夫だよ、ソフィアちゃん、君はいつも頑張ってるんだから、僕は知ってるよ、だから、自信を持って」

「うん、うん」

 ソフィーが父に抱えられて部屋を出る。

 出る前に、父がシンに言った。

「シン、あまりソフィアちゃんに負担を掛けないようにね、お前は賢いんだから」

「父さんは、姉ちゃんの味方なの?」

 父は一瞬、悩むような素ぶりをした。

 答えにくい質問だったかなと、シンは思った。

「……シン、父さんはお前を愛している。お休み」

 そう言うと、グスグスとむせび泣くソフィーを連れて視界から消えた。




 翌日、再びシンは約束の時間にソフィーとグランドピアノの前で落ち合う。


 シンは言う。

「よく逃げなかったな、姉ちゃん」

 ソフィーも強気に返す。

「へへんっ!私だって、伊達に春祭家の跡取り娘やってないんだからね!」

「その意気だ。時間は限られている、早速始めようか」

「いいわ、来なさいっ!」


 そんなやり取りをして、シンはソフィーへ指導を始める。


 凄く厳しい特訓になると思っていたソフィーは、そのカリキュラムを見て意外な気持ちになった。


「ねぇ、シン、コレって………」


「そうだ、ピアノの先生の作ったカリキュラムに、少し俺のテクニックを加えただけだ」


「………たしかに、コレだったら私にもできるけど」

「けど、なに?」

「なんか、……普通過ぎない?」

「基礎基本が1番大切なんだって、姉ちゃんも小学生の頃に習っていたはずだよ?」

「……それは、そうだけど、でも」

「でも?」

「シンのあの演奏、……普通じゃなかった」

「うん?」

「クラシックって、あんなに凄いんだって、初めて分かったの」

「それはありがとう」

「なのに、なんでこんな普通のカリキュラムなの?」

「そんなの、大事だからだよ」

「これで、シンみたいに弾けるようになるの?」

「それは、この特訓をすべてこなした後に分かるよ」

 ソフィーがシンの目を見つめる。

 信頼はしているが、疑ってもいる。

 少し複雑な心境だった。

「………そう、なの?」

「魔法でも使ってると思ったのか?」

「うん、……だって、あんなに凄いのに、何も特別なことがないなんて、考えられないから」

 シンは少し考える。

 ピンっと、何かを思いついたようだ。

「姉ちゃん、料理を作る時は、何を見て作る?」

「……レシピ本」

「じゃあ、その本は誰が書いているの?」

「料理の先生」

「その先生は、どうして料理本を出しているかは分かる?」

「…………人気があって、美味しいから?」

「そう」

「だから?」

「初心者ってのは、本のレシピをアレンジする傾向が強い」

「……どういうこと?」

「つまり、料理が上手い人ほど、アレンジをせずに作るんだよ」

「え?でも、上手い人って、オリジナルの料理いっぱい持ってない?」

「持ってるさ」

「だったら、色んなアレンジをした方が良いんじゃないの?」

「そう、それが間違いなんだ」

「意味わかんない」

「レシピ本には、小さじ、大さじ、グラム数の分量、入れる順番、茹で時間、そのほか、色んな手順を事細かく記してある」

「うん、そうだね」

「だけど、誰もに作らないんだ」

「そんなわけない…………、と思う」

「例えば、茹で時間が1分30秒と書いてあるのに、3分茹でてしまったら、どうなると思う?」

「それは……味が変わるんじゃない?」

「そうなんだ。本来なら、茹で時間はキッチンタイマーで計るべきなんだ」

「そっか」

「だけど俺は、家庭科の先生を除いて、レシピ本の茹で時間をタイマーで計る人に会った事がない」

「…………そう、なんだ」

「つまり、実力の無い人間のは、単なるってわけだ」

「…………ごめんなさい、シン」

「なんで謝るんだよ」

「私、茹で時間とか計ったことない」

「俺は責めないよ」

「計らなくて良いのかな?」

「ダメだ」

「じゃあ、計る」

「よろしい」

「あとでゆでたまご作ってあげるね」

「いらない」

「ごめん」

「とにかく、茹で時間を計るつもりで、このカリキュラムをこなして欲しい。俺の願いはそれだけだ」

「分かった、がんばるね」

「あぁ、じゃあ、俺はそこの椅子に座ってゲームしてるから、頑張れよ」

 シンは壁に立て掛けてあるパイプ椅子を開くと、座ってゲームを始めた。


 ソフィーは怒る。


「なに!?シン、私を放置するわけ?なんなの?偉そうな事ばっかり言って」

「偉そうな事なんて言ってないよ、当たり前のことを言っただけだ」

「ゆでたまご食べるんじゃないの!?」

「食べないよ、何言ってんだ?茹でるに引っ張られ過ぎだろ。早く練習しなよ、俺も早く寝たいんだからさ」

「ったく、コレだからシンって嫌い!!」

「ハイハイ」


 と、そんなやり取りはしたものの、ソフィーにも集中力はある。


 一度弾き始めると、あとはスムーズだ。

 すぐに45分が経過する。

 シンが、スポーツドリンクをソフィーに渡した。

「ありがと、シン」

 汗をかいたソフィーが、ゴクゴクとノドを鳴らして水分補給する。

 真剣に取り組んでいる姿は、美しく映る。

 それは、他の人から見ても、シンにとっても同じだ。

 すぐに2時間が経過して、テストタイムに入る。

「さて姉ちゃん、今日の復習で、まとめて弾ききってね。1人でもやれるよね」

「え?シンが試験監になるんじゃないの?不正してないかとか、カンニングしてないかとか、見なきゃじゃん」

「何言ってんだよ、姉ちゃんがここで不正しようがカンニングしようが、俺はどうでも良い。姉ちゃんが自分で自分の首を絞めるだけだろ、それに何の意味があるんだよ。不正したきゃ、勝手にやれば?」

「はぁー!?なにそれ!!薄情者!!」

「自業自得なんだから、薄情も何も無いだろが。とにかく、30分くらい1人で集中してみろって」

 部屋を出かかるシンに声を掛けるソフィー。

「あ、あの、シン!」

「ん?」

「30分したら、戻るよね」

「…………さぁね」

 バタンっ、と扉を閉めるシン。


「うわーーーん、薄情者おおおおお」


 部屋からソフィーの声だけが響く。




 ソフィーは、もちろん不正をする事はなく、自制心でテストを乗り切った。




「終わったあああああ!!」



 ぐてーっと、ピアノの椅子に寄りかかるようにうつ伏せになるソフィー。


 頭の中は、シンへの感謝と苛立ちが混ざって変な気分だった。


 だが、やりきった事は確かだ。


 ここ最近、成績がかんばしくなかったため、自信を失っていた。


 だから、こうして何かの特訓をやり切るという事がほとんど無くなっていたのだ。


 清々しい思いだった。


 テスト終わったし、部屋に戻ろうと思ったら、自分の頭に何か固い物がコツンと当たった。



 顔を上げると、シンが小さいマヨネーズと塩の瓶を持って立っている。


 微笑して自分を見つめる弟、兼、ピアノの先生。


 何だろうと思って視線を下げると、目の前の小皿の上に、白い卵が乗っている。


「なにこれ」


「ゆでたまご」


「見たら分かるんだけど」


「見るだけで生卵との違いが分かるなんて、さすがは俺の姉ちゃんだ」


「バカにすんな」


「で?どっち?」


 シンは両手を振る。

 マヨネーズと、塩を持っている。


「…………マヨで」



「じゃあ、俺は塩で食べようかな」

 ソフィーは上体を起こし、茹で卵を片手にマヨネーズを受け取った。



「………2個しかないの?」


「そりゃ、俺と姉ちゃんの分しか茹でて無いもん」



「アンタのも寄越しなさいよ」


「やーだよっ!」


 シンは卵に塩をかけて二口で食べてしまった。


「あのさ、ありがとね、シン」


「本番が終わってから言って欲しいね、その言葉は」


「うん、私、がんばるね」

「当たり前だよ、それ食べたら、歯磨いてさっさと寝ろよな」

「うん」


 シンが先に部屋に行ってしまう。


 再び1人になるソフィー。






 ソフィーは、ピアノの前の椅子に再び座ると、ゆっくり時間をかけて、ゆでたまごを食べた。
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