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9.恋しい地響き

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 翌朝目覚めたときには、ノアは屋敷からいなくなっていた。
 
「……どうして!?」
「申し訳ありません。主はどうしても外せない用事ができまして、屋敷を留守にしております」
 
 執事が深々と頭をさげる。
 
「そんな、だって昨日はあんなにやさしく……」
 
 言って、ウルリカははっと気づいた。
 
「もしかしてノア様は、わたくしのために国王陛下のもとへ行かれたのでは?」
「それもございますが――」
「やっぱりそうなのね」
 
 ウルリカはきゅっとドレスを握りしめた。
 最初は素っ気なかったけれども、ウルリカが泣けば態度を和らげてくれた。ノアはやさしい人なのだ。ウルリカを放っておけなくなったのだろう。
 そのやさしさに、ウルリカも甘えたいと思ってしまった。
 けれどそれはノアにとって危険なことなのではないだろうか。
 
 王都へ出たノアを、貴族たちは白豚公爵と呼ぶだろう。ウルリカに向けたような侮蔑の目を向けるかもしれない。
 もし国王陛下に会う前に、パトリックに会いでもしたら。
 
「こうしてはいられません。わたくしも王都へ」
「いいえ」
 
 立ちあがろうとしたウルリカを、執事が止める。
 
「主人からの命令です。舞踏会まではこの屋敷にいらっしゃるようにと」
「でも……」
「……ウルリカ様、表情ゆたかになられましたね」
 
 思わず眉を寄せたウルリカに、執事はやさしい笑みを浮かべて言った。
 
「昔話をしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん」
「幼いころの坊ちゃまは、それは聡明な方でした。物覚えがよく、利発で、誰もが成長を楽しみにしていたものです」
「……わかるわ」
 
 ウルリカはノアの幼いころを想像してみた。屈託なく笑う蹴鞠のようなノアが野原を駆けまわっている様子を。きっと可愛らしい子どもだったろう。
 
「けれども……坊ちゃまはある日、大きな挫折を経験されました。坊ちゃまの望む未来のためには膨大な努力が必要になることを知ったのです」
「……」
「それから坊ちゃまはほとんど屋敷を出なくなりました」
 
 それでも彼は、できる範囲のことはしたのだ。それが平穏なクロンヘイム領に表れている。
 
「ウルリカ様がいらっしゃって、坊ちゃまは変わりました。ついになすべきことを見つけたのです。出すぎたこととは思いますが、この老いぼれ、嬉しくて……」
 
 執事はハンカチをとりだすと涙を拭った。
 
「そう……わたくしがなにか少しでもよい影響になったのなら、それは嬉しいことね」
 
 パトリックにも父にも、ウルリカは価値のある令嬢であるはずだ。
 しかしノアとの関係とは違う。彼らはウルリカ自身を見てくれることはなかったのだと思う。
 
「それで、ノア様はどこへ行ったのかしら?」
「この老いぼれ、嬉しくて……ううう」
「……わかった、聞かないわ」
 
 さらに激しく泣き崩れる執事に、ウルリカはため息をついた。
 
(煙に巻かれてしまったけど、ノア様との約束を破るわけにもいかないわね)
 
 舞踏会までは屋敷を出ないと約束した。だからノアの残していった気配を探しながら、ここにいるしかないのだろう。
 
 けれどもノアのいない、地響きのしないクロンヘイム邸は静かすぎて、心にぽっかりと穴が空いてしまったようだ。
 
 寂しさをまぎらわすために猫を撫で続けたウルリカは、やがて猫たちから遠巻きにされるようになってしまった。
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