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06 裏庭にて
しおりを挟む夜、明かり一つない裏庭には、洗濯を干すための柱が何本も立てられている。
そこを千鳥足で歩く、美の神のごとき美丈夫が一人。
酔ったケェアは酒臭い息を吐き、鼻を鳴らす。
妻となるはずの孕み腹と二人きりの正餐は、散々だった。
案内されたのは長すぎる机の端。
領主が座るのは、反対側の端。
座る位置が正しかったのかすら、貴族の礼儀作法を知らないケェアには分からない。
一切の会話がなく、食器とカトラリーがぶつかる音しかしなかった。
会話をしようと思っても、大声で怒鳴らなくては聞こえない距離でどうしろというのか。
目の前の食事が美味いのか不味いのかさえ、重たく冷えきった沈黙の前では意味を失う。
老家令から伝えられた、嫌われていないという言葉を信じるには、領主の態度はひどすぎた。
庶民に対して傲慢な態度をとる、貴族そのものにしか見えなかった。
無言のまま口の中に詰め込むだけの食事の後で、案内された客間に用意されていた酒瓶を見つけるなり、水のように飲み干した。
酔いの勢いで外に出てきたケェアは、ほとんど満月に近い月を見上げる。
外に出て良いかの確認などしていない。
いずれここで暮らすようになるのだから、許可などいらないだろう。
これからずっと、こうなのか。
まとまらない考えが頭の中をぐるぐると回る。
夜空を見上げるたびに、ケェアは思う。
なんて赤い月だ。
血のように赤い。
青白い月は、どこにもない。
透き通るように儚くも力強く輝く白銀の月は、この……にはない。
それでも月は満ちて欠けていく。
どんな月であっても。
時は止まらず、過去を悔いても変えることはできない。
ケェアの父は、戦働きで与えられた騎士爵を持っていた。
幼心に憧れて騎士を目指した。
戦う強いオスは格好良い!と思った。
体格は恵まれていても心が追いつかなくて、ケェアは苦労をして騎士爵を得た。
それからも慢心せずに、常に先陣を切って戦場を駆けぬけ、文字通り死地を駆けずり回って騎士団長になった。
地位や名誉や世襲爵位が欲しかったわけではない。
他に生き方を知らなかった。
収集品を集めるような気持ちでいた。
己の理想を、ただ追い求めていただけだった。
それがいけなかったのか。
いつしか、自分の望みが分からなくなるほど、殺してしまった。
ただの仕事として。
敵として対面したものには命乞いされ、目を合わせることすら恐れられるばかりで、騎士としての誇りなどどこにもない。
誰かを守れる存在になりたかったはずなのに、今のケェアには守りたい相手も、守ってくれと頼んでくる相手もいない。
知識も権力も領土も持っていない、成り上がりの乱暴者で貧乏人。
それが騎士爵位、準男爵位を持つ元庶民への世襲貴族の見方だ。
庶民からすれば憧れであるとともに、一番身近に存在する貴族であるのに、国を運営しているはずの代々の貴族が、命を投げ打って戦う者を、能力で登ってくる者を軽んじている。
貴族を殺せるはずがない、と思っているのか。
国を敵に回す愚か者ではないと買われているのか。
どちらであっても、成り上がりとしてケェアは軽んじられていた。
ここでもそうなのか。
敵国ではなくても、隣国と接しているからなのか、姿は見えずとも屋敷中に潜められた、隠密の気配を常に感じているというのに。
ケェアは、本当にあれを妻にしなくてはいけないのか、と顔すら見せない領主の姿に絶望を感じた。
良い土地だと思った。
良い人々だと思った。
妻となる領主が自分を迎え入れてくれる人であれば、と願った。
大きな美しい扇で顔を隠し、挨拶の後には一言も話さない。
毛並みが黒っぽいことだけは分かったが、食堂内が薄暗かったので種族もよく分からない。
キツネの地の領主ならシシか?
黒いシシがいる、とどこかで聞いたことがある。
しかし器用に片手で食事をする様を見ただけではなんとも言い難く、思い出してみれば、皿の肉などは初めから小さく切られているようでもあった。
先代領主が若くして亡くなったのなら、子供?
それにしては声が低かった。
初めから、歩み寄る気などなかったのか。
名ばかりの、体面だけの婿にして、飼い殺すつもりなのか。
自分はまた、貴族の策略にまんまと嵌められたのか。
そう思うと腸が煮えくり返る気がして、ケェアが唸り声を上げると、物陰から「ひゃっ」と悲鳴が聞こえた。
「誰かいるのか」
(あるぇ、誰?全然気がつかなかったよ?)
ケェアを見張っている隠密かと思いつつも、盗み見ているような気配を感じなかったが?と首をかしげた。
さぞかし凄腕なのかと思いきや、それなら情けない悲鳴などあげないだろう。
「誰だ、姿を見せよ」
(まさかのOBAKE?マジモンのお化け屋敷は勘弁してくれよ)
「……は、はい、あの、すいません」
あっさりと諦めたのか、か細い声と共に物陰から姿を見せたのは……。
「……」
(うっひゃー!!?)
「すいません、このような醜い姿を御身の前に晒して、申し訳ございませんっ」
無言のケェアにちらりと視線を向けるなり、怯えたような声を残してそそくさと立ち去ろうとする。
その細い腕に思わず手を伸ばしてしまったのは、何故なのか、とケェアは自分に聞くけれど、答えは出ない。
「あ、あの、な、何かっ」
「そなたは?」
(うわ、うわ、うわ、……す、す、スッゲー美人!!)
ケェアの内面は外に出ない。
外に出せない。
それでも、手が勝手に動いていた。
「わ、わたしはエトレです、ここの下働きです、すいません、ごめんなさい」
「何を謝る」
(ウヘ、どもってる、かわいい、萌えるぅ)
「いいえ、あの、どうか離して頂きたくっ」
「落ち着け、自分は怒っている訳ではない」
(むしろその戸惑い顔をずっと見ていたいーっ!)
「え、あの、でも、その」
「エトレ、君と話がしたい、駄目か?」
(うわはー、困ってる所まで可愛いなぁ)
ケェアはうっとりと夢を見るかのように囁いた。
誰にも言ったことのない秘密が、そうさせた。
彼の目の前に姿を見せたのは、とても醜く、そしてケェアにとって、彼にとってだけは、とても美しいと心底から思わせる存在だった。
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