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穏やかな日々の終わり

夢から醒めた王子は ②

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 エリスはぼんやりと天井を見た。羊に似た形の薄茶のシミは、二か月前と変わっていない。

 懐かしい夢を見た。

 サラに内緒でノアとこっそり出かけた記憶。裏山にある二人の場所で、あの『石消しゲーム』で勝負をしている夢だった。

(雪が融けるからあの洞窟にもそろそろ行けそうね……)

 ノアが出て行ってから二月経っていた。季節はもうすぐ傍に春を迎えている。

 出て行って間もなくして、エリスは生まれて初めてひどい風邪を引いた。意識を失うほどの高熱が三日三晩続き、あの強くたくましいサラを泣かせてしまった。彼女の涙を見たのはハンナの死以来、二度目の事だった。

 その後も微熱が続き、今も職場へ復帰出来ていない。週に何日かは、今日のように起き上がることさえなかなか叶わない日もある。

 そして。
(ノアは……元気かな。まだ、終わらないのかな……)


 ノアは帰ってきていない。それどころかあの日から一切、彼からの連絡はなかった。

 王都に無事着いたのかも、今どこに居るのかさえエリスは知らない。生きているのかさえ、エリスには容易に調べる術を持っていなかった。
 ただ待つだけの役は辛い。何度も王都に出向かおうと思ったが、この身体では耐えられそうにない。そしてまた、ノアの邪魔になるのではと思うと、元気になったとしても行動には移せそうになかった。

「エリス、入るわね」
 凛とした声がノックの音と共にドアの外から聞こえた。エリスは「はい」と承諾の返事をし、ゆっくりと上体を起こす。はずだった。

 ぐらりと身体が傾き、倒れそうになる。すんでの所で布団に手をついて免れるが、胃の奥から何かがせり上がってくるような嫌な感覚は抑えられない。エリスは思わず口元を抑えた。
「エリス! 大丈夫⁈」
 入ってきたサラが顔色を変えて、エリスへと駆け寄る。彼女の顔はエリスに負けず劣らず青かった。

「大丈夫だよ。ちょっと寝ぼけてるみたい。ごめんねサラ姉」
「……」

 心配しなくても良いと精一杯微笑んだはずなのに、何も言わないサラの眉間には深いしわが寄っている。もの言いたげな唇はよく見ると震えていた。泣きそうな瞳にひたすら罪悪感を覚える。

(早く元気にならなきゃ……駄目だなぁ私。ノアばかりでなくサラ姉にも本当に迷惑をかけてばっかり)

「……ドニ先生、もう来てくれたの? 嬉しいな……。診察だとしても、まい……毎日、ありがたいね」

 このままだとまたサラを泣かせてしまうかもしれない、そんな風に思い、エリスは話を変えようとした。
 それなのにすぐに息が切れてしまい、うまく話すことが出来ない。目が回り、か細い自分の声もどこか遠くから聞こえるようだった。

「そうね。みんなエリスの事が心配なのよ。ねぇ、だからもう……」
 義姉の声はそれ以上聞き取れなかった。ただ彼女にぎゅうっと抱き締められる。

「大丈夫だって……サラ姉。ほら、先生、来るんでしょう?」
「……そうね。玄関で物音がしたわ。先生でしょう。行ってくるからエリスは準備してるのよ」
「うん、わかった。先生にうつさないように……気を付けなきゃね」

 弱々しく微笑むエリスに、サラは再びもの言いたげな視線を向けた。しかし直ぐに「平気よ」と笑顔を作り部屋を出ていく。

(サラ姉には無理をさせてしまってるわ……心労が顔に出てるもの)

 エリスは深くため息を吐き、窓の外を見た。
 また今日も、きっとノアからの連絡は無いのだ。あったのならばとっくにサラが伝えている。

「ちょっと……め……‼ ……くだ……!」
 サラの焦ったような声が聞こえ、エリスは声のした方へとぱっと視線を向けた。

 扉の奥、部屋の外でサラは誰かと口論している。おそらくドニでは無いだろう。ドニは声を荒らげるような性格ではないし、一緒に聞こえる声も彼より若い。

 では一体、誰なのだろう。

「失礼」
「ちょっと、貴方……」
 サラを押し切るように入ってきたのは見覚えのある商人風の男だった。ノアに定期的に会いに来る、髭のある男だ。

「あの……」
「エリス・オルブライトだな?」
「……はい」

 男の問いにエリスは首を縦に振る。何の感情も感じられない瞳は、ある種の薄寒さを感じさせた。
「出て行ってください! 貴方達と私達はもう何の関係もないと――」

「サラ様、両陛下がご逝去なされました」

 サラの声を遮るように冷たく言い放たれた言葉にその場の空気が凍り付く。驚きに瞳を見開くエリスとサラに、男は追い打ちをかけるように言葉を続けた。

「オルコット閣下からも改めてご連絡がいくと思いますが、いずれは全国民も知ることとなるかと」

 とても冗談で言えるような内容ではない。
 オルコット閣下とはおそらく国王の側近の一人であるオルコット公爵であろう。
  一国の王と王妃を蔑むような発言をし辱めたばかりか、オルコット家の名を出したとなれば、場所によっては不敬罪で捕らえられてもおかしくない内容だ。

 しかし男が全くの嘘を吐いているようにも見えなかった。

「そうですか。ですが何故、それをこの子の前で言うのです」

 不穏な言葉を吐く男にひるむことなく、サラは相手を睨みつける。男は何事もなかったかのようにサラからエリスへと視線を戻した。

「これはノア殿下からです。『心ばかりだが、これで新たな幸せを。私のことは一切忘れて欲しい』だそうです」

 どさりと目の前に投げ出されたのは赤い布袋。それは図らずかエリスが贈り、ノアから贈られたあの指輪の箱と同じ材質だった。

「これは……」

 訳も分からずにエリスは男を見上げる。目深にかぶられた帽子から、今度は明らかに憐れむような視線を向けられる。

「ノア殿下が戻ることはありません。これから忙しくなります。いずれは相応の身分のお方とこの国の為にご結婚なされるでしょう。その為にも貴方という存在はあってはならないのです。ご理解ください。『全てはこの国の者の為に。愛されたことを誇りに生きよ』と、カルロ殿下とジーニアス殿下からもお言葉をお預かりしてきました」
「出て行きなさい!」

 義姉の声が響く。ぐらりと身体が傾いて、布団に手をつき支えることはもう出来なかった。目の前が真っ白なのか、真っ黒なのか、それさえも判断できない。

 サラの悲鳴にも近い声がどこか遠くで聞こえている。

 ノアの胸元を離れない魔術のかかったペンダント。時折ノアに会いに来る商人風の男。ノアが決して村から出ないという事情。

 彼は罪人の息子なのかもしれない。或いは親戚や何者かに命を狙われるような理由がある者。たとえば何処かの貴族の妾腹や庶子など。そんな風にエリスは予想していた。


 しかし本当にそれらは、予想でしかなかったのだ。



 二日後。

 国王と王妃の死と、行方不明となっていたこの国の第三王子、ノア・マリーツ・エリオット・ルイス・ファン・デル・ライが王都に帰還したとの報せは、多くの国民の心に大きな衝撃を与えた。

 一方で、ミニアム村から婚約者を置いて突如いなくなったノアが、その第三王子だと疑う者は誰一人居らず。

 エリスが意識を取り戻したときには既に、ノアの住んでいた屋敷は跡形もなく焼失していた。
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