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動き出した時

新居にて ② ☆

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 しかしそれも束の間。

「ノア、あの思ったより広いのね……?」

(一部屋目が居間かと思った……まだ一階なのに四部屋目……? 掃除大丈夫かしら? 使用人を雇った方が……)

「ああ……仕事で使える部屋も必要かと思って。いずれ僕達の家族を迎えた時にも安心だし、この広さなら図書室も作れるから。掃除なら任せて……!」

 門扉の大きさから予想した屋敷よりも中は数倍広く。

「クローゼット……室……? ノア、あの……洋服……ありがとう……」

(そ、そっか。クローゼットって部屋なのよね。前に泊まったホテルの部屋より大きいし、豪華な気がするけれど……)

「ごめんね。エリスの今の好みに自信がなくて。少し用意し過ぎた……かな」

 二部屋あるクローゼット室にはエリスが半年かけても全て着れないであろう有名ブランドのカジュアル服を始め、この家から一体どこへ着ていくかも不明な程の高価なドレスに装飾品、靴がこれでもかと揃えられ。


「ノア、これは……?? あの……き、綺麗ね……! 繊細でお姫様が使うカップみたい……」

(これ、装飾ではないのよね? 私、絶対柄を折るわ……!)

「そうだね。柄が細いし危なかったかな……」

 エリスのような一般庶民が使う食器やキッチン器具に混ざるのは、エリスの月給半年分にボーナスを付けても購入出来るか不明な高級カトラリーだった。


(ある程度想像もしてたけれども……ここは別邸にも満たない仮の拠点的な意味合いで購入したんじゃ……? でも待って、さっきのノアのあの言葉……)

 衝撃を受けながらも必死に平静を装うエリスに、ノアも次第にしょんぼりと萎れていく。

「なるべく前に家で使っていたメーカーのものを取り寄せたんだけれども、なかなか難しくて……ごめん、エリス」
「ち、違うの! ありがとう。ノア。ただあんまりして貰ってばかりだから……」

 エリスは慌てて己の胸の内を正確に表す言葉を探す。

 三部屋続く図書室に地味で目立たないが上品で丈夫そうなエリス好みの服たち、女性物の仕事用の靴に食器、家具や室内装飾まで。それらの多くは派手さや煌びやかさを最小限に抑え、優雅さや高級感さえも感じさせ過ぎないよう細心の注意が払われている。

 元々ノアが購入した屋敷と言えども、その間取りや用意された品々を見れば、当初からエリスとの暮らしを想定していた事は手に取るようであった。

 だからほんの少しだけノアとの世界の違いに驚き、罪悪感や引け目を感じてしまったのだ。

(これからもきっと思うのかもしれないわ。でも……)

 しばし逡巡し、エリスは微笑んだ。


 遠慮でも欺瞞でもなく、驚きや罪悪感よりもずっと多くの嬉しい気持ちや感謝をノアには伝えたい。

「びっくりしたの! ありがとう、ノア」

 エリスの反応に、ノアはほっとしたように笑みを和らげた。

「良かった……。夕飯も用意したんだ。急ぎだったから出来合いのものを届けて貰って……」
 「口に合うかわからないけれども」とノアは続けると、居間への扉を開ける。案内された部屋の中央、食卓の上にはミートパイとパン、野菜の煮込みが並んでいた。
「ふ、ふふっ……本当にありがとう。ノア」

 広大な屋敷に高価な服や装飾品。てっきり食事も数度しか味わった事の無いコース料理をどこからか現れた使用人に囲まれて取るのかと思いきや。

「せっかくだから冷めないうちに頂きましょう。お腹すいちゃったわ!」
「ああ。そうだね」

 場所や時は違えども、口元に手を当て微笑むノアに懐かしさと安堵を覚える。彼が帰ってきたのだと、改めて実感する夕食はエリスにとって特別な時間となった。



 楽しく穏やかな時を過ごし。場の空気が少しずつ変化している事にエリスが気付いたのは、食事を終えた頃だ。

「エリス、先入る……? ……替えの服は用意してあるんだ……」
 口ごもるノアの頬は熟れた果実のように赤い。つられてエリスの頬も熱くなる。
「え、ええ。ありがとう」

 替えの服という言葉が寝巻きを指すのか、下着までもを指すのかはその場では聞けず。後者だと知ったのは浴室が寝室に隣接し、更に言えばこの広大な屋敷の寝室は現時点では一部屋だと知った時だった。

(あんまり色んな部屋の説明を受けたから、同じ部屋だってことをすっかり忘れてた……。そっか、そうよね。夫婦だも……にはまだなってないような……?!)

 夢心地のまま入浴を終え、用意して貰った下着とネグリジェ型の寝巻きに着替えたエリスは自らの寝所ーー屋敷の二階、主夫婦の寝室で顔を覆う。

 今更と何をと言われればその通りだろう。

 エリスだって右も左もわからぬ処女では無い。ノアの裸体を初めて見る訳でも無ければ、どのような事を行うか具体的に知らない訳でも無く。
 ただほんの少し前まで、一度しか経験した事のないその行為は彼との別れや続いた悲しい記憶で薄れ、目を背けるように思い出すこともしなかっただけ。

 つまるところ、恋愛的な経験に非常に乏しいエリスは、ノアと再びそういう事をするとは、しかも今夜そのような流れになるとは意識していなかった為、大変動揺していた。

 寝室には小さなテーブルセットに本棚、そして天蓋の付いた大きなベッドが一つ。

 万が一にもベッドは高貴な身分のノア専用で、エリスは床、もしくはおやすみの挨拶をしてから廊下で寝る可能性も捨てきれなくもないが。

『すぐに済ませてくるから、少し待っててくれると嬉しい』
 ――浴室へと消える際にエリスへとかけられた言葉からも、握られた手と甘い眼差しからも、鈍いエリスにもその線は薄そうに感じた。

(よ、世の中の成人男女ってこんなにすぐするものなの?! わからないわ……! ど、どうしよう。沢山食べたからお腹とか……そ、それにまたあんな、あんな……)

 羞恥にエリスは悶える。三年半前、初めてノアと愛し合った時はそれこそ隅々まで、見られ、口付けられ、弄られ……一挙一動息を飲まれながらも、それはそれは丁寧に扱われたのだ。

(またノアとそういう事をするなんて……嫌じゃない、嬉しいけれど……不安だわ……変じゃない? 予定なんて無かったし余計な贅肉とか、匂いとか……)

 幻滅されたら? 体を重ねて記憶が美化されている事に気付いたら? 他の誰かの方が良かったとがっかりされたら?

 そこまで思考し、エリスは首を振った。

 それこそ今更後悔しても遅い。多少、エリスの体には落胆するかもしれない。しかしノアはそれだけで相手に冷たくするような人間ではない……はずだとエリスは信じている。
「ああもう! 大丈夫だって……!」

「どうしたの?」

「うっわぁ、あ、ノ、ノア!」
 心地の良い低音が耳元をくすぐり、エリスは色気の無い叫び声上げた。振り向いた先、ノアは悪戯っぽく笑む。

「お待たせ、エリス」

 湯上がりの頬は上気し、煌めく金髪はしっとりと濡れていた。
 上質の絹で作られたエリスと揃いの寝間着は純白で、それがかえって彼の色香を際立たせている。直視出来ず瞳を伏せると、今度はベルガモットに混じった彼の柔らかな香りがエリスの鼓動を速くさせた。

 未だ湯の温もりを残した手がベッドの上のエリスの手に触れる。躊躇うようにゆっくりと温もりが絡められる。

「ノア、あの……」

 エリスなりに精一杯、彼に応えるようにぎゅっと握り返すと、頭上で息を飲むような気配を感じた。

「……うん」
「そ、それになりに貧相で……あの、余計な部分もありますが……っ、こ、ここ今晩は宜しくお願いします……」
「へ…………えっ?! えっ……?!」

 数秒の間を置いて。高低の差がある二度の音と共に、ノアの気配が僅かに遠くなる。

 失言をしたのだと気付き、慌てて顔を上げれば先程よりも増して頬を真っ赤にし瞳を丸くさせた彼が目に入った。

「え、っとあの……ごめんノア、ち、違った……?」
「違わないよ……!」

 混乱するエリスにノアは強く首を振ると、おずおずと続ける。
「けど、良いの……? 僕、今夜はキスだけのつもりで……本当に? その、準備はちゃんと……エリスに内緒で実は色々……だけど、本当に疲れてない?」
「だ、大丈夫……元気……」

 ノアの問いにエリスは若干混乱しながら、緊張で舌を噛みそうになりながらも、精一杯の気持ちを口にした。心臓が破裂しそうなほど大きく、速く鼓動を刻む。

「なら良いんだけど……その、久しぶりだから……僕の方が余裕なくて……」

 そこまで口にしノアは勢いよく立ち上がる。呆気に取られる間もなく彼はベッドサイドの抽斗を探り、すぐにまたエリスの傍へと座った。彼の後ろ、ベッドの上に広がるそれらにエリスの頬が再び熱を持つ。

「ノア……それ……」

 工芸品のような上品な造りの小瓶に桃色を基調とした金字のパッケージの紙箱、実験室にでもありそうな無味乾燥な遮光瓶などなど。一見して統一性のないそれらはおそらく。

「初めての時……かなり無理させたから……あった方が良いと勝手に僕が判断しただけなんだけど……」

 ノアの声が益々小さくなり、最後は消え入るような大きさとなる。真っ赤な耳が金色の髪から覗き、エリスの胸がきゅうと締め付けられる。不躾にも彼の反応が可愛らしいと思ってしまったのだ。

 何もよりも、心の奥底ではエリスを求め、期待し精一杯準備をしていてくれた事に、胸がいっぱいになる。

(嬉しい……はしたないけれども、私ノアがこんな風に準備してくれた事が……すごく……)

「もちろん精一杯努力はする……します」

 温もりが再び近付いてエリスを包む。二人どちらともわからぬ鼓動が早鐘を打っていた。湯上りの肌は熱く、抱擁は次第に力強くなっていく。


「エリスの夫にしてくれますか?」
「……宜しくお願いします……」

 エリスは何度も首肯し、羞恥から掠れてしまった声の代わりにぎゅっと寝巻きを握った。
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