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こいに惑う

望み ④

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「手を貸してやっても良いんだぜ?」
「……」

 脳内に直接語りかけてくる悪魔に対し、エリスは気付かぬふりをし、無言を貫き通していた。

 意味深長な言葉を残し消え去ったナールは、意外にもすぐにエリスの傍へと姿を表した。
 彼が提示した契約を結ぶ見込みは薄いと踏んだのか、物騒な取引は持ちかけてこないものの。構って欲しい飼い猫や子供のように、エリスの周りを飛び回っては、頻繁に話しかけてきている。

(ナールさんの言う事がどこまで本当かまだわからないけれど。私と手を組みたがってるって事は……)

 エリスは室内を調べながら、ノアから渡された紙を思い出す。初代ブラッドと結んだ契約内容には【両継承者各々の能力の使用・新たな契約の提起】とあった。

 またナールやノアは、新しい契約を結ぶ際には、互いにそれ相応のリスクがかかる事を仄めかしている。

 それらは、現状が多大な労力を割いても手を組む必要性がある危機的な状況だという可能性を示しているように思える。

(ならば結界の話が本当か……もしくは、新契約の話そのものがナールさんの嘘……?)

 思えばノアのメモには【契約はナールの魔力を元とした魔法によるであり、】ともあった気がする。

 今回の契約に期限は設定されていない。
 書斎にあった本にも、『リオンの竪琴』の引用から始まる箇所の総括は”特定の魔法契約の成立には及び”だったはずだ。


(彼は最初から契約を結ぶ気が無かった……?)

 浮かんだ一つの推論にエリスは戸惑う。
 無意味と理解しながらも目を凝らし、本棚に並ぶ書物の題を呟いたが、効果は薄かった。

 仮定の話ではあるが、ナール側に一切旨味のない新契約の提案も、感情のみに訴えかけた誘いも、何か別の意図があって起こした行動だというのなら一応は辻褄が合う。

 また、数々の些細な違和感や現在の状況へと繋がった度重なる偶然にも説明がつくだろう。

(でも、どうして……?)

 悶々とした気持ちを持て余しながら、エリスは辺りを見回した。

(まだ、そうとは限らない……。とにかく次に繋がることを今はしていかないと……)

 エリスのいる部屋の扉は一つだけ。窓は天窓と合わせて大小三つあるが、天窓以外は大きな本棚で塞がれている。

 幸運にも背の高い本棚を利用すれば天窓に手は届きそうだが、小さな窓を破壊し抜け出す事は難しい。大声で助けを呼ぼうにも、屋敷が森の中や大邸宅の住宅街でない場合は、全く意味を成さないばかりか一層危険になるだけのように思えた。

(今のところ結界の存在は否定しきれない。指輪の探知機能を使ったとしても、こちらの居場所がわからない事だってあるのよね……)

 当面はノアの指示通りに、甘んじて捕まっているつもりだ。しかし彼が助けに来れない可能性が濃厚となった時には、迅速に他の手を打つしかないだろう。

 冷えきった室内は静まり返っている。フクロウの鳴き声などの外の音は一切聞こえず、扉の外や隣接する部屋に人が居る気配さえも感じられなかった。
 エリスはそっと嘆息する。

(もし自力で脱出するとなったら、見張りの人が単独や少人数で来てくれるとか、魔法がうまく発動して全員倒れてくれるとか……偶然が重ならないと難しそう。せめてナールさんの言っている事の真偽が確かめられれば良いんだけれど……)

 暇を持て余したナールは、ふわふわとクラゲのように宙を漂っている。

「あの……」
「なんだ?」
「ナールさんとは、さっきの内容でしか新しく契約できないんですか?」
「は?」

 片眉を上げた悪魔を見て、慌ててエリスは言い直した。

「その、先程の暴力的な破壊行動はなるべく避けたいんです……ノアを疑うような事も。ですが、冷静に考えて現状私一人での脱出は難しいと思ったんです……」

 先程から一転、手のひらを返したようにも感じられる言葉に、思わずエリスは俯く。
 しかし一人で全て対処できるほど自分に力が無い事は自覚している。偶然と奇跡に頼りきる事はできない。
 ナールはこちらを見透かすようにニヤリと笑うと、

「内容にもよるな。俺が納得するような契約内容ならば、考えてやっても良い」
 意外にも乗り気な様子で身を乗り出してきた。

「本当ですか! ありがとうございます!」
 手を取ろうとしたエリスのそれは、呆気なく空を切る。

「あっ」
「ハハッ。基本俺の存在は曖昧だからな。言っただろ? 力を使って他の奴になれば触れるが、この姿じゃあ集中して、ものの一、二秒さ」
「……あ、はい……」

 上手い合いの手が思いつかず、唇から苦さの残る愛想笑いが漏れた。

(自分そのものが曖昧で、他の人を装えば認知されるって事なのよね……。考えたらそれって、少し寂しいわ……)

 人ならざる者の気持ちは計り知れず、他者の気持ちも全ては想像である。それでも侘しさを感じてしまうのは、エリスのエゴなのかもしれないが。

 ひんやりとした室内の空気に反して、こみ上げる思いからなのか胸はじんわりと熱い。

「ナールさん。一時、力を貸してくれませんか。何もかもではなくて、限定的で構いません。それにその方が、契約の時の負担も小さい気がして」

 エリスは改まって、ナールへと頭を下げた。

「……嬢ちゃんは目が良いな。良いぜ? でもその前にお前は何をかけてくれるんだ?」


 ほんの少し困ったように笑う悪魔にエリスは条件と報酬、保障を耳打ちする。

「……どうです?」
「まあ良いぜ。なかなか面白ろそうだしな」
「あと……」

 そしてもう一つ。エリスは一つの私案も付け足した。
 今度はナールの眉根にしわが寄り、小鳥のように首が傾げられる。


「それは、人間の間でまた流行ってるのか?」
「そう、ですね……? 私の周りでは」

 どのような答えをすべきか図りかね、エリスもまた首を傾げた。

「良いぜ。嬢ちゃんの提案を全面的に飲もうじゃねぇか」
「ありがとうございます」

 ナールと取り決めを交わし、エリスは安堵の息をついた。

「では私は……」

 不意に、胸元がじんわりと温かくなる。明確な熱に反応するかのように、目の前を浮遊していたナールの姿が消えた。

 異変を確かめられる間も与えられずに、部屋の扉が開いて。眩い光が薄闇を割く。

「え……?」

 見上げた先、扉から入ってきた男の瞳は感情の灯らない冷たい色をしていた。
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