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こいに惑う
望み ⑥
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突然の出来事に、エリスは呆然としていた。
男に見覚えはない。銀灰色の髪と瞳はこの部屋のように無機質で、下がった口角と眉間のしわ、銀縁の眼鏡は硬い印象を受ける。歳は五十前後に見えるが、もしかしたらもっと若いのかもしれない。
また、ニットにズボン、革の靴と装いはラフだが、どれもエリスでも知っている名の通ったメーカーのものばかり。先程の男達とは違い、貴族もしくは富裕層らしい事が見て取れる。
「お前、動物じゃないな?」
鋭い視線が全身を一つ一つ突き刺していく。
すぐには意味がわからず、無言を貫いていると、男から独り言のような呟きが漏れた。
「ああ。やはり。するとあの卑しい男の化身のうち、誰かの手駒か。あの噂を流したのもお前らだな?」
忌々しそうに顔を歪め、男は続ける。
(動物? 何かの比喩か隠語? それに噂って……)
「お前の主は……いいや、相手はやはりカルロか? それともジーニアス? お前らはどこまで知っているんだ? ……言え。さもなくば一本ずつ骨を砕く」
男の手がエリスへと伸びていく。
「安心しろ。魔法で一瞬だ。まずは鼻か頬骨。それとも腕か……」
ゆっくりと、しかし確かな悪意をまとう動きに肌が粟立つ。銀灰色の瞳は薄く笑っていた。
瞬間。エリスの視界が一面、湖を通したように滲んで。微妙に色味の異なる青色の膜が幾重にもエリスを覆う。
呆気に取られる間もなく、二人の境で乾いた破裂音が響き、男の指先から山吹色の閃光が八方へと走った。
「ッ!」
「?!」
男が飛び退き、エリスもまた息を飲む。
(ノアの魔法……? え、ええと……)
「しゅ、守護魔法アマ……」
「お前……何故! 何故、アメリア様の加護を持っている?」
牽制や抑止力になればとの言葉は、言い終わる前に叫喚にかき消される。
感情の灯らなかった男の瞳は、今や爛々と光り、眦には涙まで浮かぶ。薄い唇は歪み、愉悦とも皮肉とも取れる笑みを象っていた。
(アメリア様……? アメリア様って、アメリア元王妃様の事……? じゃあこの人はもしかして……)
突然出てきた聞き覚えのある名が、一人の人物を思い出させる。
ノアの両親の死に深く関わった疑いがあり、今回の晩餐会潜入の目的にも関わっているであろう人物――――。
「あなた、エーミール卿なの……?」
驚きに思わず口をついて出た名は、目の前の男と寸分違わなかったようだ。
「それがどうした。私はお前に聞いているのだ。お前はどこで、あの方の加護を得た?」
「誤解です。私はあなたの言うアメリア様を……」
「気安く呼ぶな」
何者をも許さぬ冷たい声が遮り、再び骨ばった手が伸ばされる。今度は一度目よりも派手に光は弾け、エーミールを壁まで弾き飛ばした。
二重に重なる薄青色の膜も、やはり何かしらの魔法の一貫らしい。今回も僅かな間のみ現れ、山吹色の閃光が消えた頃には跡形もなく消失。魔法攻撃が可視や発現を左右するのかもしれない。
(どうしよう。もう一度あの言葉を言ってみる? でも、耳も貸してくれない気がする……)
「あぁ。どうしようか。すぐに殺さずとも観賞用とするのも……」
背を打ったエーミールがゆっくりと顔を上げる。
焦点の合わぬ瞳は熱を含ませ潤み、歪んだ唇は艶めいた笑みを造る。が、それらは何故か、とある悪魔とその周りで苦しむ影達を連想させた。
(そっくりだわ……)
冷たい汗が背中を伝う。全身を震わせるような動悸が更に大きくなり、胸が熱くなる。
(また……?)
「そうだ。もうすぐ手に入る……ならば、残影などあの方への冒涜にほかならないな……」
「っ!」
ゆらりとゆらりと。さながら屍が生への未練を持て余し彷徨うように。エーミールがエリスへと近付いていく。
(逃げなきゃ……)
頭では既に判断が下り、すぐにでも行動に移すべきだとの答えが出ているはずなのに。エリスの体は思うように動かない。
(しっかりして、早く……! このままじゃ……)
「そうか。お前のような卑しいものがあの方に近付く事があるから、私がいるのかもしれない……」
エーミールの声が薄闇を震わす。鼓膜の奥で、あの叫び達がエーミールとエリスを揶揄するように嘲笑う。
ほとんど意味を成さぬ速さで、エリスは地面を這うように後退る。エリスを青白い手が追い、不意に。エーミールの表情が驚愕と悲哀に歪んだ。
「……どうして、何故、お前もあの方と同じ……」
「っ!」
言い終わる前に、エリスは思い切りエーミールの臑を左手でなぎ払い、揺らいだ長身へと体当たりする。
否、なぎ払おうとした刹那。
胸元のペンダントが熱と共に深い青色の閃光を放ち、臑へめがけて勢いをつけていた左手先でもまた、強い光が膨らんだ。
「⁉」
「ッ⁉」
エリスとエーミールが息を飲むと同時に、鼓膜を貫くような破裂音が轟く。
目もくらむような白光が室内を満たして。次いで、深い青色が瞑った瞼の裏を掠める。同時にふわりと、エリスの鼻先をベルガモットと温かな香りがくすぐった。
(……!)
「ノア!」
「エリス、大丈夫?」
瞳を開けたエリスの前には、誰よりも信頼し、信じたくも願う者の背中。淡い金の髪は乱れ、息を整える為か肩は大きく揺れている。
(ノア、だ……)
張り詰めていた何かが溢れ、エリスの頬を濡らす。
しかしそれもすぐに。
「う、うぅ」
微かなエーミールの呻き声によって、現実へと引き戻された。
エリスは唇を引き結び、エーミールとノアの挙動にすぐに反応できるよう姿勢を正す。素早く腰を上げ、膝をつき、小声で指示があっても良いよう耳を澄ませた。
「エリス、少し後ろで」
囁くような小声にエリスは頷く。
エーミールは咳き込みながらもゆっくりと体を起こした。歪められた顔には、信じられないものを見るような畏怖と嫌悪。今もって尚も、嘲笑めいた微笑みは唇に残る。
「……? お前は、」
「ノア」
鋭い声音でただそれだけ。ノアは答える。
「ッ、」
エーミールは舌打ちすると、くるりと踵を返した。
微動だにしないノアと直前の言葉に、エリスは従う。
エーミールによって部屋の扉が乱暴に閉められ、派手な音が張り詰めた室内を揺るがして数秒。ふっと緊張の糸が解けたように、目の前の肩から力が抜けた。
「エリス!」
振り向いたノアに、エリスは抱きすくめられる。伝わってきたのは温もりと、僅かな震え。彼の香りに微かに混じる血の匂い。
「ごめん、エリス……」
「ノア。大丈夫。怪我もないし、ありがとう」
「怪我、無いから良いとか……そんな問題じゃない。もっと、もっと……エリスは怒って良いんだ……」
どうしたら伝わるだろうかと少しだけ考えて。エリスはノアに負けないようにと、更に強く強く抱き締め返す。
「ノア、ありがとう。大好きよ。ノアが望むなら、帰ったらちょっとだけ怒ろうか?」
エリスが笑うと、耳元を泣き笑いに似たノアの吐息がくすぐった。益々温かくなる胸は心地よい心音を奏で、重なるノアの体からも同じ音が伝わってくる。
「お願いするよ。エリス、ありがとう。僕も君のことが大好きだ……」
「ノア……!」
ありったけの想いを込めて、エリスはぎゅうとノアを抱き締めた。
何度だってエリスは思う。そしてこれからもきっと、思い続けるのだろう。
彼の傍に居たい。今、傍に居られる事が何よりも嬉しく、誇らしい。
ふと。ノアへの不信を煽る悪魔の言葉が脳裏を過ったが、エリスは幼子に諭すようにそれに首を振る。脳内の悪魔も、実は知っていたとばかりに悪戯っぽく笑む。
いつの間にか。エリスの眦からも熱い雫が零れ落ちていた。
男に見覚えはない。銀灰色の髪と瞳はこの部屋のように無機質で、下がった口角と眉間のしわ、銀縁の眼鏡は硬い印象を受ける。歳は五十前後に見えるが、もしかしたらもっと若いのかもしれない。
また、ニットにズボン、革の靴と装いはラフだが、どれもエリスでも知っている名の通ったメーカーのものばかり。先程の男達とは違い、貴族もしくは富裕層らしい事が見て取れる。
「お前、動物じゃないな?」
鋭い視線が全身を一つ一つ突き刺していく。
すぐには意味がわからず、無言を貫いていると、男から独り言のような呟きが漏れた。
「ああ。やはり。するとあの卑しい男の化身のうち、誰かの手駒か。あの噂を流したのもお前らだな?」
忌々しそうに顔を歪め、男は続ける。
(動物? 何かの比喩か隠語? それに噂って……)
「お前の主は……いいや、相手はやはりカルロか? それともジーニアス? お前らはどこまで知っているんだ? ……言え。さもなくば一本ずつ骨を砕く」
男の手がエリスへと伸びていく。
「安心しろ。魔法で一瞬だ。まずは鼻か頬骨。それとも腕か……」
ゆっくりと、しかし確かな悪意をまとう動きに肌が粟立つ。銀灰色の瞳は薄く笑っていた。
瞬間。エリスの視界が一面、湖を通したように滲んで。微妙に色味の異なる青色の膜が幾重にもエリスを覆う。
呆気に取られる間もなく、二人の境で乾いた破裂音が響き、男の指先から山吹色の閃光が八方へと走った。
「ッ!」
「?!」
男が飛び退き、エリスもまた息を飲む。
(ノアの魔法……? え、ええと……)
「しゅ、守護魔法アマ……」
「お前……何故! 何故、アメリア様の加護を持っている?」
牽制や抑止力になればとの言葉は、言い終わる前に叫喚にかき消される。
感情の灯らなかった男の瞳は、今や爛々と光り、眦には涙まで浮かぶ。薄い唇は歪み、愉悦とも皮肉とも取れる笑みを象っていた。
(アメリア様……? アメリア様って、アメリア元王妃様の事……? じゃあこの人はもしかして……)
突然出てきた聞き覚えのある名が、一人の人物を思い出させる。
ノアの両親の死に深く関わった疑いがあり、今回の晩餐会潜入の目的にも関わっているであろう人物――――。
「あなた、エーミール卿なの……?」
驚きに思わず口をついて出た名は、目の前の男と寸分違わなかったようだ。
「それがどうした。私はお前に聞いているのだ。お前はどこで、あの方の加護を得た?」
「誤解です。私はあなたの言うアメリア様を……」
「気安く呼ぶな」
何者をも許さぬ冷たい声が遮り、再び骨ばった手が伸ばされる。今度は一度目よりも派手に光は弾け、エーミールを壁まで弾き飛ばした。
二重に重なる薄青色の膜も、やはり何かしらの魔法の一貫らしい。今回も僅かな間のみ現れ、山吹色の閃光が消えた頃には跡形もなく消失。魔法攻撃が可視や発現を左右するのかもしれない。
(どうしよう。もう一度あの言葉を言ってみる? でも、耳も貸してくれない気がする……)
「あぁ。どうしようか。すぐに殺さずとも観賞用とするのも……」
背を打ったエーミールがゆっくりと顔を上げる。
焦点の合わぬ瞳は熱を含ませ潤み、歪んだ唇は艶めいた笑みを造る。が、それらは何故か、とある悪魔とその周りで苦しむ影達を連想させた。
(そっくりだわ……)
冷たい汗が背中を伝う。全身を震わせるような動悸が更に大きくなり、胸が熱くなる。
(また……?)
「そうだ。もうすぐ手に入る……ならば、残影などあの方への冒涜にほかならないな……」
「っ!」
ゆらりとゆらりと。さながら屍が生への未練を持て余し彷徨うように。エーミールがエリスへと近付いていく。
(逃げなきゃ……)
頭では既に判断が下り、すぐにでも行動に移すべきだとの答えが出ているはずなのに。エリスの体は思うように動かない。
(しっかりして、早く……! このままじゃ……)
「そうか。お前のような卑しいものがあの方に近付く事があるから、私がいるのかもしれない……」
エーミールの声が薄闇を震わす。鼓膜の奥で、あの叫び達がエーミールとエリスを揶揄するように嘲笑う。
ほとんど意味を成さぬ速さで、エリスは地面を這うように後退る。エリスを青白い手が追い、不意に。エーミールの表情が驚愕と悲哀に歪んだ。
「……どうして、何故、お前もあの方と同じ……」
「っ!」
言い終わる前に、エリスは思い切りエーミールの臑を左手でなぎ払い、揺らいだ長身へと体当たりする。
否、なぎ払おうとした刹那。
胸元のペンダントが熱と共に深い青色の閃光を放ち、臑へめがけて勢いをつけていた左手先でもまた、強い光が膨らんだ。
「⁉」
「ッ⁉」
エリスとエーミールが息を飲むと同時に、鼓膜を貫くような破裂音が轟く。
目もくらむような白光が室内を満たして。次いで、深い青色が瞑った瞼の裏を掠める。同時にふわりと、エリスの鼻先をベルガモットと温かな香りがくすぐった。
(……!)
「ノア!」
「エリス、大丈夫?」
瞳を開けたエリスの前には、誰よりも信頼し、信じたくも願う者の背中。淡い金の髪は乱れ、息を整える為か肩は大きく揺れている。
(ノア、だ……)
張り詰めていた何かが溢れ、エリスの頬を濡らす。
しかしそれもすぐに。
「う、うぅ」
微かなエーミールの呻き声によって、現実へと引き戻された。
エリスは唇を引き結び、エーミールとノアの挙動にすぐに反応できるよう姿勢を正す。素早く腰を上げ、膝をつき、小声で指示があっても良いよう耳を澄ませた。
「エリス、少し後ろで」
囁くような小声にエリスは頷く。
エーミールは咳き込みながらもゆっくりと体を起こした。歪められた顔には、信じられないものを見るような畏怖と嫌悪。今もって尚も、嘲笑めいた微笑みは唇に残る。
「……? お前は、」
「ノア」
鋭い声音でただそれだけ。ノアは答える。
「ッ、」
エーミールは舌打ちすると、くるりと踵を返した。
微動だにしないノアと直前の言葉に、エリスは従う。
エーミールによって部屋の扉が乱暴に閉められ、派手な音が張り詰めた室内を揺るがして数秒。ふっと緊張の糸が解けたように、目の前の肩から力が抜けた。
「エリス!」
振り向いたノアに、エリスは抱きすくめられる。伝わってきたのは温もりと、僅かな震え。彼の香りに微かに混じる血の匂い。
「ごめん、エリス……」
「ノア。大丈夫。怪我もないし、ありがとう」
「怪我、無いから良いとか……そんな問題じゃない。もっと、もっと……エリスは怒って良いんだ……」
どうしたら伝わるだろうかと少しだけ考えて。エリスはノアに負けないようにと、更に強く強く抱き締め返す。
「ノア、ありがとう。大好きよ。ノアが望むなら、帰ったらちょっとだけ怒ろうか?」
エリスが笑うと、耳元を泣き笑いに似たノアの吐息がくすぐった。益々温かくなる胸は心地よい心音を奏で、重なるノアの体からも同じ音が伝わってくる。
「お願いするよ。エリス、ありがとう。僕も君のことが大好きだ……」
「ノア……!」
ありったけの想いを込めて、エリスはぎゅうとノアを抱き締めた。
何度だってエリスは思う。そしてこれからもきっと、思い続けるのだろう。
彼の傍に居たい。今、傍に居られる事が何よりも嬉しく、誇らしい。
ふと。ノアへの不信を煽る悪魔の言葉が脳裏を過ったが、エリスは幼子に諭すようにそれに首を振る。脳内の悪魔も、実は知っていたとばかりに悪戯っぽく笑む。
いつの間にか。エリスの眦からも熱い雫が零れ落ちていた。
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