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1巻
1-2
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四年前、社交界デビューに向けて準備を進めている最中に母が亡くなり、その日からずっと、この日のために頑張ってきた。
パトリスに選ばれ、「花嫁の色」をまとって彼の隣に立つために。
建前では「今夜の舞踏会で花嫁が選ばれる」ことになっているが、実際の選考は三年前から始まっている。
まずその年、デビュタントの舞踏会に集まった十五歳から十八歳の乙女たちのうち、パトリスの審美眼に適わなかった者から弾かれた。
その後も様々な催しを通じてふるいに掛けられ、当初数百人いた候補者は今年の始めには十数人にまで絞られていた。
数が減るほどかけられる期待もプレッシャーも強くなり、それに耐えかねて心身を病んだ令嬢や出奔した令嬢、見栄を張りすぎて破産してしまった家もある。
グレースもここ一年ほど眠りが浅く、食も細まり、「もういっそ、候補から外れて楽になりたい」と思ったことも一度や二度ではなかった。
――でも、諦めなくてよかった。
王太子妃の条件は見目麗しく、才気にあふれた女性であること。
そして、金髪碧眼が好ましいとされている。
実際、国王も王妃もパトリスも、淡い金髪にサファイアにも喩えられる青い瞳をしている。
グレースは瞳こそ青く、ブロンドはブロンドではあるものの、淡くピンクがかった毛色のため、減点対象といえる。
それを血の滲むような努力で補い、選考に残ってきたのだ。
パトリスは美しいが少しばかり高慢で、独善的なところがある青年だった。
そんな彼の意に沿うよう、出しゃばらず、笑顔を絶やさず、けれど、「退屈な女だ」と言われないため、関心を引きつづけられるように心を砕いて。
ついに、そうついに先月、「舞踏会では君の髪に薔薇を飾ろう。それに似合う、白いドレスを着てきてくれ」と言ってもらえたとき。
グレースは「光栄に存じます」と控えめに返したものの、屋敷に帰ってから、亡き母の肖像の前で泣いてしまった。
四年前、今わの際にかけられた言葉。
「あなたは私の子。あの寝取り女のような愚かで汚らわしい、いやらしい女になってはいけません。この国で最も貴く、尊い淑女におなりなさい」という、母の願いを叶えられた安堵で。
――お母様、私、頑張りましたわ。
感慨を胸に、グレースは背すじを伸ばして前を見つめる。
華やかに着飾った令嬢がパトリスの前に一人、また一人と進みでて、深々とお辞儀をしては身を起こし、曖昧な笑みを浮かべて去っていく。
その笑みには「やはり選ばれなかった」という落胆と「これでようやく新たな縁を探せる」という解放感が滲んでいた。
最後に控えていたグレースは、そっと息を整えると静かに前へと進みでた。
パトリスの前に立ち、深く腰を落として睫毛を伏せたところで、ゆっくりと彼が立ち上がる。
その手には棘を取られた一輪の薔薇がある。
未来の花嫁の髪に飾る、真っ赤な薔薇が。
――ああ、ようやく。
花嫁候補から、正当な婚約者となれる。ついに母との約束を果たせた。
グッと熱いものが胸にこみあげてきた、そのときだった。
戸惑いと興奮が混ざったざわめきが、さざ波のように背後から押しよせてきたのは。
グレースは振りむきたい衝動を抑え、そっと目蓋をひらいて顔を上げ――え、と眉をひそめる。
パトリスの瞳はグレースを映してはいなかった。
サファイアの目をみひらき、ジッと一点を見つめている。
いったいどうしたのだろう、と振り向いた先には――
――アリソン?
プラチナブロンドの髪にサファイアの瞳、真珠の肌に珊瑚の唇。
妖精のごとく愛らしいかんばせに、花咲くような笑みを浮かべた輝く乙女――ひとつ下の異母妹――の姿があった。
その華奢な身体にまとう色に気付いて、グレースはハッと息を呑む。
「まあ、白だなんて……!」
心の中で呟いた言葉を、誰かが口に出すのが聞こえた。
「お美しいけれど、どちらのお嬢様?」
戸惑いまじりに囁き交わす人々の声など耳に入らないかのように、アリソンは無邪気な笑みを浮かべながら、純白のドレスの裾をひらひらと揺らして駆けてくる。
「お姉様!」
そうして、グレースの前で足をとめると、その先のパトリスに目を向けることなく、チロリと舌を出して「ごめんなさい!」と謝った。
「ご招待されていないのはわかっているけれど、お姉様の晴れ姿をどうしても拝見したくって、お父様にお願いしちゃいました!」
「お父様に?」
「ええ、そうよ! 見て、ドレスもおそろいなの! お父様が仕立ててくださったのよ!」
「お父様が?」
父がその色の意味を知らなかったはずがない。
けれど、アリソンにねだられて、ダメだとは言えなかったのだろう。
長年日陰の身に甘んじさせていた、秘密の恋人の忘れ形見であるアリソンを、父は天使か王女様のように可愛がっているから。
――でも、いくらなんでも、今日だけは窘めていただきたかったわ。
うふふ、と笑うアリソンの過ぎた無邪気さと、父の甘さに、思わず言葉を失うグレースの傍らを、パトリスが通りすぎる。
「君は、候補にはいなかったが……」
ポツリと聞こえた呟きに、グレースはアリソンのふるまいを咎められるかもしれないと気付き、慌てて立ち上がり、頭を垂れた。
「申しわけございません、殿下! 妹の無礼をお詫びいたします。アリソンに悪気はないのです、この子は十八になったばかりで、まだ社交界デビューもすんでおらず――」
「アリソン」
グレースの言葉を遮るように、パトリスが口にした彼女の名前は、やけに甘く響いた。
「見た目通り、愛らしい名だ」
「殿下?」
「グレースの妹ならば育ちも素養も確かだろう」
唐突で、どこか言いわけめいた言葉に、グレースの胸に嫌な予感がこみあげる。
――どうしてそんな? ああ、まさか! 嘘でしょう?
グレースは、彼との間に燃えるような情熱は感じてはいなかった。
それでも共に過ごす時間を重ね、言葉を交わすうちに絆のようなものが芽生えた気でいた。
まだ仄かな想いだが、いつしか互いに揺るぎない愛情に育つだろうと信じていた。
それなのに――
「君こそ、私の花嫁にふさわしい」
熱っぽい囁きと共に、自分が授かるはずだった薔薇がアリソンの髪に飾られるのを、グレースは 頭を上げかけた姿勢で固まり、呆然と見つめていた。
「ああ、思った通り、よく映える。なんと美しい……!」
恍惚とパトリスが呟いて、アリソンの手を取る。
その甲に口付けを受けたアリソンは「まぁ」と胸を押さえ、頬を薔薇色に染め上げながら、グレースに視線を向ける。
そして、へにゃりと眉尻を下げ、大きな瞳を潤ませて口をひらいた。
「ああ、ごめんなさい、お姉様。私、こんなつもりではなかったのに……!」
困ったように詫びる、輝くばかりに美しい義妹を見つめ、グレースは――選ばれなかった花嫁は――ぎこちない笑みを浮かべて言祝ぐほかなかった。
「いえ、おめでとう、アリソン」
この四年間の努力が一瞬で無に帰した、生まれながらの美という祝福に負けたことへの、激しい落胆と動揺で震える手を、きつく握りこみながら。
* * *
波乱の舞踏会から一カ月後。
グレースは王都に建つ、スィトルイユ侯爵家のタウンハウスの二階、婦人の小間で、アリソンと共にレースを編んでいた。
このひと月、慌ただしかったが、花嫁がグレースからアリソンに変わっても混乱はなかった。
元々、輿入れの準備は進んでいたから。
たくさんのリネンや化粧道具、初夜のシュミーズ、化粧着、着心地のいいガウンも、新しく注文する必要はない。
グレースのために仕立てられたすべてのものが、アリソンのために役立っている。
――それを素直に喜べないなんて、姉失格よね……
婚礼のドレスも生地を選んだばかりで、補正の必要はない。
大きく変わるとしたら、花嫁のベールくらいで――
「できたわ、お姉様!」
不意に弾んだアリソンの声が響いて、グレースはハッと物思いから覚めた。
「……まあ、ようやく完成したのね」
アリソンが示した品を目にして、頬をゆるめる。
細い指が誇らしげに掲げているのは、白薔薇模様が編まれたレースのベールだった。
「ええ、一生完成しなかったらどうしようと思ったけれど、間に合ってよかったわ! ふふ、これでお姉様を困らせずにすんだわね!」
ニコニコと笑うアリソンに、グレースは一瞬言葉に詰まってしまう。
アリソンの背丈と同じくらいの直径を持つ、ゆるやかな円形のベール。
それを彼女が編みはじめたのは、もう三年も前のことだ。
グレースの亡き母、アデライドが婚礼で用いたベールが、手入れのためにトルソーにかけられていて、それを目にしたアリソンが「着けたい!」と父にねだり、「それだけはダメだよ」と断られたのが切っ掛けだった。
父がアリソンの願いを聞かなかったのは、記憶にある限り、あのときだけだ。
――お母様への償いのおつもりなのでしょうね。
アリソンとグレースは教会の名簿上では同腹の姉妹だが、実際には母親が違う。
アリソンの母であるキャロルに「アリソンが侯爵家の娘として嫁げるようにしてほしい」と頼まれた父が、こっそりと嫡子、つまりグレースの母との子として届け出たのだ。
下級貴族の娘だったキャロルは母が生家から連れてきたメイドの一人で、父の手がついたことで別宅を与えられて、以後、父の心を母から奪い続けてきた。
母は彼女が亡くなり、アリソンを引き取ることになるまで、それを知らなかった。
別宅に引っ越す際、「実家に帰ります」と言って辞めていったキャロルの言葉を、ずっと母は信じていたのだ。
当時、アリソンは七歳。
別宅に越して三年後に生まれた子供だったので、実に十年以上もの間、不貞が続いていたことになる。
ひどく取り乱した母は父を責め、アリソンを責め、アリソンを庇う父をさらに責め立てて、亡きキャロルへの憎悪と嫌悪を撒き散らし、それをグレースにも押し付け、心を壊して儚くなった。
「私のベールはグレースに。正しい娘に。あの汚らわしい、寝取り女の娘にふれさせないで!」という、呪詛めいた言葉を遺して。
父は母への後ろめたさから、その言葉を守っているのだ。
だから、ベールだけはアリソンに与えなかった。
――ベール以外のものは、何でも与えてらしたけれど。
母の形見でも、グレースのものでも、アリソンが望めばすべて。
「お姉様のそれすてきね! 私も欲しいわ!」と無邪気に彼女が口にすれば、父はすぐさまそれを叶えた。
グレースから取りあげ、アリソンに渡すという方法で。
そのたびにアリソンは大きな目を潤ませ、「いいの? でも、お姉様に悪いわ」と悲しそうな顔をするものだから、グレースは「いいのよ」と微笑むしかない。
最初は抗いもしたが、アリソンが納得しても父が納得してくれなくて。
「この子はずっと日陰の身で、苦労してきたのだぞ」「妹にやさしくするのが姉の務めだろう?」と窘められ、ときに叱責されるうちに、諦める癖がついていった。
――でも、私だけじゃないわ……アリソンだって自分のせいでもないのに、お母様に憎まれて、ずっと辛い思いをしてきたのですもの。
それを埋め合わせてあげたいと父が思うのも、無理はないことなのだ。
――そうよ。アリソンには辛い思いをした分、幸せになる権利があるのよ。
アリソンが掲げたベール、そのレースの一編み一編みに、彼女の悲しみや願いがこめられているようで、グレースはそっとアリソンの手を取り微笑んだ。
「完成してよかったわね。本当にきれいよ。お母様のベールなんかよりも、ずっときれい。きっと、あなたによく似合うわ」
その言葉を聞き、アリソンの瞳が揺れて、笑みが消え、サッと長い睫毛が伏せられる。
「……ありがとう、お姉様」
長い沈黙の後、ゆるゆると微笑を浮かべて返されて、グレースは笑みを深める。
この一カ月、心のどこかにくすぶっていた王太子妃への未練が、フッと溶けていったような気がした。
――お母様との約束は守れなかったけれど……
アリソンが幸せになれるのならば、それでいいと思えた。
「……せっかくだから、飾りましょうか」
ニコリと笑って立ち上がり、部屋の隅に置かれていたトルソーを中央にまで運んできて、さあ、とアリソンを促す。
「はい、お姉様!」
ひらりと広げたベールがトルソーにかけられ、二人並んでそれをながめる。
穏やかな空気が広がったところで、ノックの音が響いた。
「――パトリス殿下がいらっしゃいました」
「まあ、もう? すぐに行くわ!」
執事の声にアリソンが華やいだ声で答え、あ、と目を輝かせる。
「そうだわ。このベール、殿下にも見ていただこうかしら? ねえ、お姉様、どう思う?」
「ええ、良いと思うわ」
グレースが頷くと、アリソンは嬉しそうに続けた。
「じゃあ、お姉様、先に殿下をおもてなししてらして」
「え?」
「殿下に見ていただくんですもの、きれいに整えてから行くわ! お部屋に入ったときに、パッと目に入って見惚れてもらえるようにね!」
悪戯を企むように、ふふ、と笑うアリソンに、グレースはつられて笑いながら頷いた。
「そう、わかったわ。でも、あまりお待たせしないようにね」
「はーい!」
元気な返事を背に部屋を出て、パトリスが待っているであろう応接間に向かった。
* * *
「……グレース。君か」
応接間に入って顔を合わせるなり、パトリスは気まずげに眉をひそめて言った。
あの夜から何度となくパトリスの訪問があったが、いつも決まってこのような反応をされる。
そのたびにグレースまで気まずい心地になるのだが、それでも、少しだけ嬉しくもあった。
グレースとの約束を反故にし、あっさりアリソンに乗り換えたことを、少しは後ろめたく思ってくれているのだとわかるから。
自分のこれまでの努力が、彼の心に少しは響いていたのだと思える気がして。
――そうよね。私の頑張りすべてが無駄だったわけではないはずよ。
だから、今ならば二人を素直に祝福できるはずだ。
「はい。ご挨拶だけでも、させていただこうかとうかがいました。妹もすぐに参ります」
「そうか。それはよかった」
グレースが穏やかに微笑むと、パトリスもぎこちないながらに笑みを返してきて、和やかな空気が漂いはじめる。
そのタイミングで軽やかな足音が近付いてきて、元気なアリソンの声が扉の向こうから響いた。
それから、パトリスとアリソンが語らいだしたところで、グレースは二人の邪魔をしないよう、早々に退出し、婦人の小間へと向かった。
アリソンのベールのお披露目の前に、編みかけのレースを回収しようと思ったのだ。
――あのベール、殿下に褒めていただけるといいわね。
口元をほころばせながら扉に手をかけ、キィッとひらく。
そうして部屋に入って、パッと目に入ったのは――無残に引き千切られたベールだった。
「――っ」
驚きのあまり、一瞬声も出なかった。
「……なんてこと」
ようやく我に返って駆け寄り、手を伸ばし、損傷の度合いを確かめる。
手当たり次第に指をひっかけては、力まかせに引っぱったのだろう。
繊細な編み目はよれてほつれて、つながってはいけないところがつながり、だらしなく引き伸ばされて、美しい白薔薇たちも無残に歪み、散ってしまっている。
「こんな……ひどい、いったい誰が!?」
どうにかして繕えないか、目を凝らして必死に無事な部分を探していると、廊下の方から笑い声が響いた。
「三年もかかりましたのよ? 殿下との婚礼に間に合ってようございました!」
「はは、そうか。それは楽しみだ」
グレースはハッと顔を上げる。
このありさまを見たら、アリソンはどれほどショックを受けるだろう。
――ダメ! 見せてはいけない!
扉がひらいた瞬間、グレースは咄嗟にトルソーを背で隠していた。
「……まあ、お姉様!」
グレースを見つけたアリソンが一瞬の沈黙の後、満面の笑みを浮かべる。
「先に来てらしたのね! もう、どうして隠すの?」
「あのね、アリソン」
「そんなにもったいぶらなくてもいいのに! ほら、早く殿下に見せてさしあげて――」
キラキラと目を輝かせて駆け寄ってきたアリソンが、ひょいとグレースの背後を覗きこむ。
直後、悲痛な叫びが響き渡った。
「いやっ! ベールがっ、いやぁああっ!」
グレースを押しのけ、トルソーに取りすがったアリソンが、先ほどグレースがしていたように、必死にベールをたぐりながら、何度も悲鳴を上げる。
「こんなっ、こんなの、ひどいっ」
その声に引き寄せられるように、執事や侍女が次々と駆けつけてきて、気付くと屋敷中の使用人たちが扉の前に集まって、部屋を覗きこんでいた。
そうなって、ようやく叫び疲れたのか、アリソンはペタンとその場に座りこむと、涙に潤んだ目をグレースに向け、ポツリと呟いた。
「……どうして、お姉様」
それはきっと「どうしてこんなことになったの?」という意味合いだったのだろう。
けれど、この場では違った意味に響いてしまったのだ。
呆然としていたパトリスがアリソンの言葉に、ハッとしたようにグレースを見る。
「っ、グレース!? 君がやったのか!?」
「まさか!」
慌ててグレースは首を横に振るが、パトリスはサファイアの瞳を義憤に燃え立たせ、問い質してきた。
「では、なぜ隠した!? 私たちが部屋に入ったとき、君はベールを隠しただろう!? 後ろめたいことがあるからではないのか!?」
「それは、妹がショックを受けるかと――」
「白々しい! 本当はベールを破って逃げるつもりが、私たちが思ったよりも早く戻ってきたから、逃げるタイミングを逃したのだろう?」
疑問の形を取りながらも、その口調は断定的だった。
「誰か、グレースの犯行を目撃した者はいないか!?」
パトリスの言葉に、ざわざわと顔を見合わせ、囁き交わす使用人たち。その中から、おずおずと一人の従僕が進み出てくる。
「……あの、私、廊下に立っておりましたので見ておりました。アリソン様が婦人の小間をご退室なさってから、入られたのはグレース様だけです」
その言葉に「やはりな」とパトリスが頷き、グレースに向けられる使用人たちの視線が冷ややかな色を帯びる。
「違います、本当に――」
「お姉様、どうしてっ」
うろたえながらも潔白を訴えようとしたところで、すがりついてきたアリソンに阻まれる。
「私が舞踏会に行って、お姉様の夢を壊してしまったから? だから、その仕返しに? 私のせいなの?」
「ちが――」
「見そこなったぞグレース!」
涙ながらのアリソンの糾弾に、パトリスが加勢する。
「君がこのように卑劣な人間だったとは、あの夜の私の判断は正しかったということか……そうだ、君を選ばなくて正解だったのだ!」
どこかホッとしたように言い放ちながら、アリソンの肩を抱き寄せ、キリリと睨みつけてくる。
「私を奪われて、いや、どうせ王太子妃の座が目当てだったのだろう? それを横取りされて腹が立ったのだな? だが、妹だぞ!? なぜ、このような非道な真似ができるのだ! 私の愛するアリソンにこのような……君がアリソンの姉でなければ、反逆罪にでも問いたいところだ!」
「殿下、違います! お姉様は王太子妃にではなく、殿下の妻になりたかったのです。そのためにずっと頑張ってらして……だから殿下への愛ゆえですわ! どうかお慈悲を!」
慌てたようなアリソンの言葉が、グレースの胸に突き刺さる。
グレースを庇いながらも、信じてはくれないのかと。
「何が愛だ! ふざけるな! ただの権力への欲望じゃないか! 汚らわしい!」
「やめてください、お姉様は悪くないの! 私のせいだから!」
涙まじりのアリソンの訴えに、パトリスが苛立ちを煽られたように糾弾の声を強める。
「グレース、ここまで君を想っている妹を君は身勝手に傷付けたのだぞ! どう償わせるか、よくよく考えなくてはな! おい、グレースをどこかに閉じこめておけ!」
「は、はい。……お嬢様、失礼いたします」
戸惑い顔の執事に腕をつかまれ、グレースは「違う」と首を横に振る。
それでも、「早く行け!」とパトリスの声がかかると、執事は眉をひそめながらもグレースの手を引き、歩きはじめた。
「違うの、お願いっ、信じて……!」
「お嬢様、旦那様に穏便にすませていただけるようお頼みいたしますから、どうかこれ以上、殿下の御心を逆撫でなさらないでください」
生まれたときから知っている執事に弱りきった声で諫められて、グレースは口をつぐむ。
自分の言葉など、もはや誰にも届きはしないのだ。
心の奥底にピシリとヒビが入った音が聞こえたようで、それ以上抗うことなく、グレースはうなだれたまま引き立てられていった。
そして、十日間の謹慎の後、ひそかに沙汰が下された。
妹のアリソンの名誉を傷つけぬよう、表立っては罪に問わない。
代わりに、その身をもって、この国の役に立つことで償え。
国王に次ぐ地位と権勢を持ちながらも、その悪評ゆえに縁付く令嬢がいなかったテルノワール公爵家当主。「凌辱公」の異名を持つ男。
ジスラン・ド・テルノワールの妻となれ――と。
パトリスに選ばれ、「花嫁の色」をまとって彼の隣に立つために。
建前では「今夜の舞踏会で花嫁が選ばれる」ことになっているが、実際の選考は三年前から始まっている。
まずその年、デビュタントの舞踏会に集まった十五歳から十八歳の乙女たちのうち、パトリスの審美眼に適わなかった者から弾かれた。
その後も様々な催しを通じてふるいに掛けられ、当初数百人いた候補者は今年の始めには十数人にまで絞られていた。
数が減るほどかけられる期待もプレッシャーも強くなり、それに耐えかねて心身を病んだ令嬢や出奔した令嬢、見栄を張りすぎて破産してしまった家もある。
グレースもここ一年ほど眠りが浅く、食も細まり、「もういっそ、候補から外れて楽になりたい」と思ったことも一度や二度ではなかった。
――でも、諦めなくてよかった。
王太子妃の条件は見目麗しく、才気にあふれた女性であること。
そして、金髪碧眼が好ましいとされている。
実際、国王も王妃もパトリスも、淡い金髪にサファイアにも喩えられる青い瞳をしている。
グレースは瞳こそ青く、ブロンドはブロンドではあるものの、淡くピンクがかった毛色のため、減点対象といえる。
それを血の滲むような努力で補い、選考に残ってきたのだ。
パトリスは美しいが少しばかり高慢で、独善的なところがある青年だった。
そんな彼の意に沿うよう、出しゃばらず、笑顔を絶やさず、けれど、「退屈な女だ」と言われないため、関心を引きつづけられるように心を砕いて。
ついに、そうついに先月、「舞踏会では君の髪に薔薇を飾ろう。それに似合う、白いドレスを着てきてくれ」と言ってもらえたとき。
グレースは「光栄に存じます」と控えめに返したものの、屋敷に帰ってから、亡き母の肖像の前で泣いてしまった。
四年前、今わの際にかけられた言葉。
「あなたは私の子。あの寝取り女のような愚かで汚らわしい、いやらしい女になってはいけません。この国で最も貴く、尊い淑女におなりなさい」という、母の願いを叶えられた安堵で。
――お母様、私、頑張りましたわ。
感慨を胸に、グレースは背すじを伸ばして前を見つめる。
華やかに着飾った令嬢がパトリスの前に一人、また一人と進みでて、深々とお辞儀をしては身を起こし、曖昧な笑みを浮かべて去っていく。
その笑みには「やはり選ばれなかった」という落胆と「これでようやく新たな縁を探せる」という解放感が滲んでいた。
最後に控えていたグレースは、そっと息を整えると静かに前へと進みでた。
パトリスの前に立ち、深く腰を落として睫毛を伏せたところで、ゆっくりと彼が立ち上がる。
その手には棘を取られた一輪の薔薇がある。
未来の花嫁の髪に飾る、真っ赤な薔薇が。
――ああ、ようやく。
花嫁候補から、正当な婚約者となれる。ついに母との約束を果たせた。
グッと熱いものが胸にこみあげてきた、そのときだった。
戸惑いと興奮が混ざったざわめきが、さざ波のように背後から押しよせてきたのは。
グレースは振りむきたい衝動を抑え、そっと目蓋をひらいて顔を上げ――え、と眉をひそめる。
パトリスの瞳はグレースを映してはいなかった。
サファイアの目をみひらき、ジッと一点を見つめている。
いったいどうしたのだろう、と振り向いた先には――
――アリソン?
プラチナブロンドの髪にサファイアの瞳、真珠の肌に珊瑚の唇。
妖精のごとく愛らしいかんばせに、花咲くような笑みを浮かべた輝く乙女――ひとつ下の異母妹――の姿があった。
その華奢な身体にまとう色に気付いて、グレースはハッと息を呑む。
「まあ、白だなんて……!」
心の中で呟いた言葉を、誰かが口に出すのが聞こえた。
「お美しいけれど、どちらのお嬢様?」
戸惑いまじりに囁き交わす人々の声など耳に入らないかのように、アリソンは無邪気な笑みを浮かべながら、純白のドレスの裾をひらひらと揺らして駆けてくる。
「お姉様!」
そうして、グレースの前で足をとめると、その先のパトリスに目を向けることなく、チロリと舌を出して「ごめんなさい!」と謝った。
「ご招待されていないのはわかっているけれど、お姉様の晴れ姿をどうしても拝見したくって、お父様にお願いしちゃいました!」
「お父様に?」
「ええ、そうよ! 見て、ドレスもおそろいなの! お父様が仕立ててくださったのよ!」
「お父様が?」
父がその色の意味を知らなかったはずがない。
けれど、アリソンにねだられて、ダメだとは言えなかったのだろう。
長年日陰の身に甘んじさせていた、秘密の恋人の忘れ形見であるアリソンを、父は天使か王女様のように可愛がっているから。
――でも、いくらなんでも、今日だけは窘めていただきたかったわ。
うふふ、と笑うアリソンの過ぎた無邪気さと、父の甘さに、思わず言葉を失うグレースの傍らを、パトリスが通りすぎる。
「君は、候補にはいなかったが……」
ポツリと聞こえた呟きに、グレースはアリソンのふるまいを咎められるかもしれないと気付き、慌てて立ち上がり、頭を垂れた。
「申しわけございません、殿下! 妹の無礼をお詫びいたします。アリソンに悪気はないのです、この子は十八になったばかりで、まだ社交界デビューもすんでおらず――」
「アリソン」
グレースの言葉を遮るように、パトリスが口にした彼女の名前は、やけに甘く響いた。
「見た目通り、愛らしい名だ」
「殿下?」
「グレースの妹ならば育ちも素養も確かだろう」
唐突で、どこか言いわけめいた言葉に、グレースの胸に嫌な予感がこみあげる。
――どうしてそんな? ああ、まさか! 嘘でしょう?
グレースは、彼との間に燃えるような情熱は感じてはいなかった。
それでも共に過ごす時間を重ね、言葉を交わすうちに絆のようなものが芽生えた気でいた。
まだ仄かな想いだが、いつしか互いに揺るぎない愛情に育つだろうと信じていた。
それなのに――
「君こそ、私の花嫁にふさわしい」
熱っぽい囁きと共に、自分が授かるはずだった薔薇がアリソンの髪に飾られるのを、グレースは 頭を上げかけた姿勢で固まり、呆然と見つめていた。
「ああ、思った通り、よく映える。なんと美しい……!」
恍惚とパトリスが呟いて、アリソンの手を取る。
その甲に口付けを受けたアリソンは「まぁ」と胸を押さえ、頬を薔薇色に染め上げながら、グレースに視線を向ける。
そして、へにゃりと眉尻を下げ、大きな瞳を潤ませて口をひらいた。
「ああ、ごめんなさい、お姉様。私、こんなつもりではなかったのに……!」
困ったように詫びる、輝くばかりに美しい義妹を見つめ、グレースは――選ばれなかった花嫁は――ぎこちない笑みを浮かべて言祝ぐほかなかった。
「いえ、おめでとう、アリソン」
この四年間の努力が一瞬で無に帰した、生まれながらの美という祝福に負けたことへの、激しい落胆と動揺で震える手を、きつく握りこみながら。
* * *
波乱の舞踏会から一カ月後。
グレースは王都に建つ、スィトルイユ侯爵家のタウンハウスの二階、婦人の小間で、アリソンと共にレースを編んでいた。
このひと月、慌ただしかったが、花嫁がグレースからアリソンに変わっても混乱はなかった。
元々、輿入れの準備は進んでいたから。
たくさんのリネンや化粧道具、初夜のシュミーズ、化粧着、着心地のいいガウンも、新しく注文する必要はない。
グレースのために仕立てられたすべてのものが、アリソンのために役立っている。
――それを素直に喜べないなんて、姉失格よね……
婚礼のドレスも生地を選んだばかりで、補正の必要はない。
大きく変わるとしたら、花嫁のベールくらいで――
「できたわ、お姉様!」
不意に弾んだアリソンの声が響いて、グレースはハッと物思いから覚めた。
「……まあ、ようやく完成したのね」
アリソンが示した品を目にして、頬をゆるめる。
細い指が誇らしげに掲げているのは、白薔薇模様が編まれたレースのベールだった。
「ええ、一生完成しなかったらどうしようと思ったけれど、間に合ってよかったわ! ふふ、これでお姉様を困らせずにすんだわね!」
ニコニコと笑うアリソンに、グレースは一瞬言葉に詰まってしまう。
アリソンの背丈と同じくらいの直径を持つ、ゆるやかな円形のベール。
それを彼女が編みはじめたのは、もう三年も前のことだ。
グレースの亡き母、アデライドが婚礼で用いたベールが、手入れのためにトルソーにかけられていて、それを目にしたアリソンが「着けたい!」と父にねだり、「それだけはダメだよ」と断られたのが切っ掛けだった。
父がアリソンの願いを聞かなかったのは、記憶にある限り、あのときだけだ。
――お母様への償いのおつもりなのでしょうね。
アリソンとグレースは教会の名簿上では同腹の姉妹だが、実際には母親が違う。
アリソンの母であるキャロルに「アリソンが侯爵家の娘として嫁げるようにしてほしい」と頼まれた父が、こっそりと嫡子、つまりグレースの母との子として届け出たのだ。
下級貴族の娘だったキャロルは母が生家から連れてきたメイドの一人で、父の手がついたことで別宅を与えられて、以後、父の心を母から奪い続けてきた。
母は彼女が亡くなり、アリソンを引き取ることになるまで、それを知らなかった。
別宅に引っ越す際、「実家に帰ります」と言って辞めていったキャロルの言葉を、ずっと母は信じていたのだ。
当時、アリソンは七歳。
別宅に越して三年後に生まれた子供だったので、実に十年以上もの間、不貞が続いていたことになる。
ひどく取り乱した母は父を責め、アリソンを責め、アリソンを庇う父をさらに責め立てて、亡きキャロルへの憎悪と嫌悪を撒き散らし、それをグレースにも押し付け、心を壊して儚くなった。
「私のベールはグレースに。正しい娘に。あの汚らわしい、寝取り女の娘にふれさせないで!」という、呪詛めいた言葉を遺して。
父は母への後ろめたさから、その言葉を守っているのだ。
だから、ベールだけはアリソンに与えなかった。
――ベール以外のものは、何でも与えてらしたけれど。
母の形見でも、グレースのものでも、アリソンが望めばすべて。
「お姉様のそれすてきね! 私も欲しいわ!」と無邪気に彼女が口にすれば、父はすぐさまそれを叶えた。
グレースから取りあげ、アリソンに渡すという方法で。
そのたびにアリソンは大きな目を潤ませ、「いいの? でも、お姉様に悪いわ」と悲しそうな顔をするものだから、グレースは「いいのよ」と微笑むしかない。
最初は抗いもしたが、アリソンが納得しても父が納得してくれなくて。
「この子はずっと日陰の身で、苦労してきたのだぞ」「妹にやさしくするのが姉の務めだろう?」と窘められ、ときに叱責されるうちに、諦める癖がついていった。
――でも、私だけじゃないわ……アリソンだって自分のせいでもないのに、お母様に憎まれて、ずっと辛い思いをしてきたのですもの。
それを埋め合わせてあげたいと父が思うのも、無理はないことなのだ。
――そうよ。アリソンには辛い思いをした分、幸せになる権利があるのよ。
アリソンが掲げたベール、そのレースの一編み一編みに、彼女の悲しみや願いがこめられているようで、グレースはそっとアリソンの手を取り微笑んだ。
「完成してよかったわね。本当にきれいよ。お母様のベールなんかよりも、ずっときれい。きっと、あなたによく似合うわ」
その言葉を聞き、アリソンの瞳が揺れて、笑みが消え、サッと長い睫毛が伏せられる。
「……ありがとう、お姉様」
長い沈黙の後、ゆるゆると微笑を浮かべて返されて、グレースは笑みを深める。
この一カ月、心のどこかにくすぶっていた王太子妃への未練が、フッと溶けていったような気がした。
――お母様との約束は守れなかったけれど……
アリソンが幸せになれるのならば、それでいいと思えた。
「……せっかくだから、飾りましょうか」
ニコリと笑って立ち上がり、部屋の隅に置かれていたトルソーを中央にまで運んできて、さあ、とアリソンを促す。
「はい、お姉様!」
ひらりと広げたベールがトルソーにかけられ、二人並んでそれをながめる。
穏やかな空気が広がったところで、ノックの音が響いた。
「――パトリス殿下がいらっしゃいました」
「まあ、もう? すぐに行くわ!」
執事の声にアリソンが華やいだ声で答え、あ、と目を輝かせる。
「そうだわ。このベール、殿下にも見ていただこうかしら? ねえ、お姉様、どう思う?」
「ええ、良いと思うわ」
グレースが頷くと、アリソンは嬉しそうに続けた。
「じゃあ、お姉様、先に殿下をおもてなししてらして」
「え?」
「殿下に見ていただくんですもの、きれいに整えてから行くわ! お部屋に入ったときに、パッと目に入って見惚れてもらえるようにね!」
悪戯を企むように、ふふ、と笑うアリソンに、グレースはつられて笑いながら頷いた。
「そう、わかったわ。でも、あまりお待たせしないようにね」
「はーい!」
元気な返事を背に部屋を出て、パトリスが待っているであろう応接間に向かった。
* * *
「……グレース。君か」
応接間に入って顔を合わせるなり、パトリスは気まずげに眉をひそめて言った。
あの夜から何度となくパトリスの訪問があったが、いつも決まってこのような反応をされる。
そのたびにグレースまで気まずい心地になるのだが、それでも、少しだけ嬉しくもあった。
グレースとの約束を反故にし、あっさりアリソンに乗り換えたことを、少しは後ろめたく思ってくれているのだとわかるから。
自分のこれまでの努力が、彼の心に少しは響いていたのだと思える気がして。
――そうよね。私の頑張りすべてが無駄だったわけではないはずよ。
だから、今ならば二人を素直に祝福できるはずだ。
「はい。ご挨拶だけでも、させていただこうかとうかがいました。妹もすぐに参ります」
「そうか。それはよかった」
グレースが穏やかに微笑むと、パトリスもぎこちないながらに笑みを返してきて、和やかな空気が漂いはじめる。
そのタイミングで軽やかな足音が近付いてきて、元気なアリソンの声が扉の向こうから響いた。
それから、パトリスとアリソンが語らいだしたところで、グレースは二人の邪魔をしないよう、早々に退出し、婦人の小間へと向かった。
アリソンのベールのお披露目の前に、編みかけのレースを回収しようと思ったのだ。
――あのベール、殿下に褒めていただけるといいわね。
口元をほころばせながら扉に手をかけ、キィッとひらく。
そうして部屋に入って、パッと目に入ったのは――無残に引き千切られたベールだった。
「――っ」
驚きのあまり、一瞬声も出なかった。
「……なんてこと」
ようやく我に返って駆け寄り、手を伸ばし、損傷の度合いを確かめる。
手当たり次第に指をひっかけては、力まかせに引っぱったのだろう。
繊細な編み目はよれてほつれて、つながってはいけないところがつながり、だらしなく引き伸ばされて、美しい白薔薇たちも無残に歪み、散ってしまっている。
「こんな……ひどい、いったい誰が!?」
どうにかして繕えないか、目を凝らして必死に無事な部分を探していると、廊下の方から笑い声が響いた。
「三年もかかりましたのよ? 殿下との婚礼に間に合ってようございました!」
「はは、そうか。それは楽しみだ」
グレースはハッと顔を上げる。
このありさまを見たら、アリソンはどれほどショックを受けるだろう。
――ダメ! 見せてはいけない!
扉がひらいた瞬間、グレースは咄嗟にトルソーを背で隠していた。
「……まあ、お姉様!」
グレースを見つけたアリソンが一瞬の沈黙の後、満面の笑みを浮かべる。
「先に来てらしたのね! もう、どうして隠すの?」
「あのね、アリソン」
「そんなにもったいぶらなくてもいいのに! ほら、早く殿下に見せてさしあげて――」
キラキラと目を輝かせて駆け寄ってきたアリソンが、ひょいとグレースの背後を覗きこむ。
直後、悲痛な叫びが響き渡った。
「いやっ! ベールがっ、いやぁああっ!」
グレースを押しのけ、トルソーに取りすがったアリソンが、先ほどグレースがしていたように、必死にベールをたぐりながら、何度も悲鳴を上げる。
「こんなっ、こんなの、ひどいっ」
その声に引き寄せられるように、執事や侍女が次々と駆けつけてきて、気付くと屋敷中の使用人たちが扉の前に集まって、部屋を覗きこんでいた。
そうなって、ようやく叫び疲れたのか、アリソンはペタンとその場に座りこむと、涙に潤んだ目をグレースに向け、ポツリと呟いた。
「……どうして、お姉様」
それはきっと「どうしてこんなことになったの?」という意味合いだったのだろう。
けれど、この場では違った意味に響いてしまったのだ。
呆然としていたパトリスがアリソンの言葉に、ハッとしたようにグレースを見る。
「っ、グレース!? 君がやったのか!?」
「まさか!」
慌ててグレースは首を横に振るが、パトリスはサファイアの瞳を義憤に燃え立たせ、問い質してきた。
「では、なぜ隠した!? 私たちが部屋に入ったとき、君はベールを隠しただろう!? 後ろめたいことがあるからではないのか!?」
「それは、妹がショックを受けるかと――」
「白々しい! 本当はベールを破って逃げるつもりが、私たちが思ったよりも早く戻ってきたから、逃げるタイミングを逃したのだろう?」
疑問の形を取りながらも、その口調は断定的だった。
「誰か、グレースの犯行を目撃した者はいないか!?」
パトリスの言葉に、ざわざわと顔を見合わせ、囁き交わす使用人たち。その中から、おずおずと一人の従僕が進み出てくる。
「……あの、私、廊下に立っておりましたので見ておりました。アリソン様が婦人の小間をご退室なさってから、入られたのはグレース様だけです」
その言葉に「やはりな」とパトリスが頷き、グレースに向けられる使用人たちの視線が冷ややかな色を帯びる。
「違います、本当に――」
「お姉様、どうしてっ」
うろたえながらも潔白を訴えようとしたところで、すがりついてきたアリソンに阻まれる。
「私が舞踏会に行って、お姉様の夢を壊してしまったから? だから、その仕返しに? 私のせいなの?」
「ちが――」
「見そこなったぞグレース!」
涙ながらのアリソンの糾弾に、パトリスが加勢する。
「君がこのように卑劣な人間だったとは、あの夜の私の判断は正しかったということか……そうだ、君を選ばなくて正解だったのだ!」
どこかホッとしたように言い放ちながら、アリソンの肩を抱き寄せ、キリリと睨みつけてくる。
「私を奪われて、いや、どうせ王太子妃の座が目当てだったのだろう? それを横取りされて腹が立ったのだな? だが、妹だぞ!? なぜ、このような非道な真似ができるのだ! 私の愛するアリソンにこのような……君がアリソンの姉でなければ、反逆罪にでも問いたいところだ!」
「殿下、違います! お姉様は王太子妃にではなく、殿下の妻になりたかったのです。そのためにずっと頑張ってらして……だから殿下への愛ゆえですわ! どうかお慈悲を!」
慌てたようなアリソンの言葉が、グレースの胸に突き刺さる。
グレースを庇いながらも、信じてはくれないのかと。
「何が愛だ! ふざけるな! ただの権力への欲望じゃないか! 汚らわしい!」
「やめてください、お姉様は悪くないの! 私のせいだから!」
涙まじりのアリソンの訴えに、パトリスが苛立ちを煽られたように糾弾の声を強める。
「グレース、ここまで君を想っている妹を君は身勝手に傷付けたのだぞ! どう償わせるか、よくよく考えなくてはな! おい、グレースをどこかに閉じこめておけ!」
「は、はい。……お嬢様、失礼いたします」
戸惑い顔の執事に腕をつかまれ、グレースは「違う」と首を横に振る。
それでも、「早く行け!」とパトリスの声がかかると、執事は眉をひそめながらもグレースの手を引き、歩きはじめた。
「違うの、お願いっ、信じて……!」
「お嬢様、旦那様に穏便にすませていただけるようお頼みいたしますから、どうかこれ以上、殿下の御心を逆撫でなさらないでください」
生まれたときから知っている執事に弱りきった声で諫められて、グレースは口をつぐむ。
自分の言葉など、もはや誰にも届きはしないのだ。
心の奥底にピシリとヒビが入った音が聞こえたようで、それ以上抗うことなく、グレースはうなだれたまま引き立てられていった。
そして、十日間の謹慎の後、ひそかに沙汰が下された。
妹のアリソンの名誉を傷つけぬよう、表立っては罪に問わない。
代わりに、その身をもって、この国の役に立つことで償え。
国王に次ぐ地位と権勢を持ちながらも、その悪評ゆえに縁付く令嬢がいなかったテルノワール公爵家当主。「凌辱公」の異名を持つ男。
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