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1巻
1-1
プロローグ いいえ、必ず見分けてみせます!
爽やかな初夏の宵。
太陽と月の化身、夫婦神イシクルとラヴァを祀るアニマス神殿、その北殿の一室。
白く塗られた壁に豪奢なタペストリーがかかり、品の良い調度が並ぶ部屋の真ん中で、一人の娘と二人の青年が向きあっていた。
少女と呼ぶには大人びているが、女と呼ぶには初々しさが残る――そんな年頃の娘は、化粧台の前にあるような丸椅子に腰を下ろしており、膝の上に置かれた手をキュッと握りこんでいる。
サラサラと背に流れる髪は白銀色。
精緻なレースをあしらった胸元からは豊かなふくらみが覗き、彼女が身につける淡い菫色のドレスは、彼女の抜けるように白い肌を美しく引き立てている。
その顔は人形のように愛らしく整っているが、奇妙なことに、娘の目は艶やかな絹のスカーフによって覆われていた。
「……では、クレア。始めるぞ」
「三分したら交代だからね」
そう声をかけた青年たちは娘に負けず劣らず、いやそれ以上に美しかった。
年の頃は二十歳前後。
均整の取れた長身にまとうのは、金糸の刺繍を施したそろいの深青の上着にベスト、白いドレスシャツとトラウザーズ。
サラリと整えられた髪は朝陽のごとく淡い金色で、長い睫毛に縁どられた瞳は初夏の空を映したように澄んだ青色をしている。
彫りの深いその顔立ちは「端整」という言葉では足りないほど、天井から下がったシャンデリアの輝きがかすむほど、まばゆさに目を細めたくなるほどに整っていた。
特筆すべきは、二人が鏡に映したように同じ顔をしていることだろう。
違うのは彼らの持ち物と、浮かぶ笑みの種類。
娘から見て左に立つ青年は唇の端をつり上げた皮肉げな笑みを浮かべており、右に立つ青年はにんまりと楽しげに口元をほころばせている。
そして、左に立つ青年は手ぶらだが、右に立つ青年の手には小さな砂時計が載っていた。
これから始まるちょっとしたゲームに使うための小道具が。
「準備はいい、クレア?」
手のひらで砂時計を弾ませ、右の青年が尋ねる。
「……はい、どうぞ」
娘――クレアは小さく頷くと、内心の緊張を押し隠して、そう答えたのだった。
――大丈夫、きちんと見分けてみせるわ。
心の中で呟くと同時に、コンと砂時計を置く音が聞こえて、小さく鼓動が跳ねる。
――最初はどちらかしら……?
コクンと喉を鳴らして、閉ざされた視界の代わりに耳をすませて気配を窺う。
すると、不意に頬の辺りの空気がふわりと動き、耳たぶをひんやりとした何か――恐らくは指が――かすめ、クレアは反射のようにビクリと肩を揺らしてしまった。
途端、ふ、と小さく笑う気配がして、クレアはムッと眉をひそめる。
けれど、その怒りも長くは続かない。
ハラハラと頬に垂れる髪をそっとすくわれ、こめかみをくすぐるようにして耳にかけられて。
それから、ふれるかふれないかの力加減で耳の縁をゆっくりと辿られると、ぞわりとこみあげる不思議な感覚に意識を奪われる。
「……っ」
優美な顔立ちに似合わず、彼――どちらかはわからないが――の手は鍛錬によるものなのか硬く、自分の頼りない手とはまるで違う感触に鼓動がざわめいた。
硬い指先はクレアの耳をなぞり、頬を辿って、首すじへ下りていく。
ゆっくりゆっくりと。どこにふれられるのが一番弱いか、探るように。
くすぐったさと似ているようで違う、肌の奥が疼くような感覚に、思わず妙な吐息がこぼれそうになるのを、クレアはグッと奥歯を噛みしめて堪える。
クレアの肌を辿る手は鎖骨まで下りたところで引き返し、首すじをなぞって頬へ向かう。
その後は耳たぶには戻らず、横に滑って唇にふれた。
唇の上側、下側と口紅を塗るように指の腹でなぞっていく。
ゆったりと唇の上を指が滑るたび、耳たぶや首すじをなぞられたのとはまた違う淡く甘い痺れが走る。
「……っ、ぁ」
思わず小さく吐息をこぼすと、目の前に立つ誰かが微かに笑う気配がして、クレアにふれる指先が薄くひらいた唇を悪戯になぞって頬へと流れていった。
――いったい、これはどちらの手なのかしら……
こんな風に嬲るようなさわり方をするのは、いったい、どちらなのだろう。
あまりにも二人が同じ顔をしているので、「いっそ見えない方が、違いが分かりやすくなるのではないか」と思いついたのが、つい十分ほど前。
「目隠しをして手にふれてみてもいいですか?」と尋ねたところ、このゲームを提案されたのだ。
「こういうことって、一番違いが出るものだから」と。
けれど考えてみると、それぞれがどのようなふれ方をするのかを知っていなければ、「正解」を当てようがない。
最初から、クレアには勝ち目のないゲームだったのだ。
――悔しい、どうして始める前に気付かなかったのかしら……!
そんなことを考えつつ、執拗に首すじを撫で回され、くすぐったさと淡い快感の境界で身悶えていると、不意にピタリと刺激がやみ、スッと手が離れていった。
ホッとクレアが息をつくと同時に、コンと砂時計をひっくり返す音が響いて、二つの足音が交差する。
――交代の時間だわ。
反射のように身を強ばらせると、忍び笑いがクレアの耳をくすぐり、ひたりと両の頬を手のひらで包まれた。
ザラリと硬い指の感触、大きさは先ほどの手とよく似ている。
けれど、今度の手は、先ほどの手よりも少しだけ体温が高いように感じた。
その温もりを伝えるように、あるいはクレアの頬の感触を確かめるように、頬にふれる手に力がこもり、ゆっくりと頬を撫で、顔の輪郭を辿っていく。
そのまま首を伝い、滑りおりた手は鎖骨のくぼみを悪戯にくすぐってから、ふたつの胸の膨らみをサッと指先でなぞった。
ほんの一瞬、羽根ぼうきでかすめるような些細な刺激。
それにもかかわらず、ふれられた場所に余韻めいた熱が残り、引き結んだ唇からは、ん、と大げさな呻き――というには甘い声がこぼれた。
その反応に煽られたのか、また一つ忍び笑いが聞こえたと思うと、今度はかすめるのではなく、ひたりと胸のふくらみに指を添える。
「……っ」
ピクリと肩を揺らしたきり、クレアが制止の声をあげずにいると、その手の動きは少しずつ大胆になっていった。
胸元から覗くふくらみに指を沈めては離し、するすると指の腹で撫で回されて、くすぐったさとそれだけではない、淡く甘い痺れがチリチリと肌の奥に溜まっていく。
――ああ、もう。こんな反応したくないのに……!
頬が熱い。きっと彼らの目には、すっかりとクレアの肌が上気しているのが見えているだろう。
耳に届く二つの息遣いは落ちついていて、自分一人だけが息を乱し、与えられる刺激を――愛撫を受け入れるような反応を示していることが恥ずかしくて堪らない。
けれど、仕方ないといえば仕方がないことなのだ。
クレアはずっと彼ら――いや彼に、フィリウス王国の王太子「ウィリアム・フィリウス」に恋をしていたのだから。
孤児院で暮らしていた頃から噂を聞いて憧れていた。そして四年前、彼が十六歳という若さで兵を率いて盗賊団を討伐した際の凱旋パレードで目にした瞬間、その美しさに心を奪われた。
十五歳で孤児院を出て、神殿の巫女となってからの三年間は、月に一度神殿に祈りを捧げに訪れる「ウィリアム」をこっそりと覗き見ては、胸を高鳴らせていた。
言葉を交わしたことはなくても、クレアにとって「ウィリアム」は初恋の人だった。
その想いが今もなお心のどこかに残っていて、この身体を勘違いさせ、過剰に反応させているのだろう。
――そうじゃないとおかしいわ。だって、もう好きじゃないはずだもの……!
本当の「ウィリアム」は、彼らはクレアが憧れていたような理想の王子様ではなかった。
軽薄で皮肉屋で、少しばかり強引で高慢で、不完全な生身の男たちだった。
だから、こんな風な反応はしたくはない。
安い女だと思われたくないのに。
「……っ、ふ、……ぅ」
絶え間ない刺激に噛み殺しきれない吐息が唇の隙間からあふれ、そのうち、ふれられてもいない胸の先がチリチリと疼き、段々と硬くなっていくのがわかって焦りがこみ上げる。
それに気付いたのか気付いていないのか、それとも布越しでは物足りなくなったのか。
クレアにふれる手が大きくひらいた襟ぐりから覗く胸の谷間をなぞり、そのままドレスの内側へと滑りこもうとしたところで、クレアはついに降参の声を上げた。
「……ダメ、やめてください……っ」
途端、肌を辿る手がピタリととまる。
クレアは、すかさずその手をつかんで押しのけると、大きく息をつき、そっと目隠しを外した。
明るくなった視界に目がくらみ、菫色の目をパチパチとまたたいて、戻ってきた視界に映るのは二つ並んだ同じ顔。
「……どっちがどっちか、わかった?」
向かって右に立つ青年が、キュッと愉快そうに目を細める。
ぜんぜん、わからなかった――とは言えず、クレアが微かに息を乱したまま睨みつけると、右の青年はクスクスと笑いながら答えを口にした。
「あーあ、クレアったら、ダメだなぁ。最初にさわったのがリアム、二番目が私だよ?」
わざとらしく肩をすくめて楽しげに言うのは、きっと「兄のウィル」。
「顔が見えない方がきっと区別がつく、そう言いだしたのは君の方だったと思うが……芳しくない結果で残念だったな」
唇の端を微かに上げ、少々皮肉げな口調で慰めの言葉――かどうかは怪しいが――をかけてくるのは「弟のリアム」だろう。
「……今ならば、わかります」
悔しまぎれにそう告げると、二人はそっと視線を交わし、何かを企むように頷きあった。
――「今わかったところで無駄だ」とでも思っているんでしょうね。
こうしてわかりやすく口調や表情で性格を出してくれれば区別がつくが、「本番の試験」では、きっとそのようなサービスはしてくれないだろう。
はあ、と思わず溜め息をこぼしたところに、双子の追い打ちがかかる。
「……まあ、見分けられないままでいてくれた方が、こちらとしては助かるがな」
「そうだね、おとなしく諦めて、私たち二人の女神になってよ」
皮肉屋のリアムの言葉に、軽薄なウィルの台詞が続く。
ムッとしたクレアは勢いよく顔を上げると、余裕綽々で見下ろす双子を睨みつけて――
「いいえ、必ず見分けてみせます! 絶対に!」
クレアが女神役を務めるフィリウスの祝祭、二十と七日後に行われる儀式までには必ず、できるようになってみせる。
男神役である二人に向かって、毅然とそう宣言したのだった。
第一章 絶対に負けられない戦い
双子との目隠しゲームから遡ること四日。
これから自分の人生が大きく変わることなど知る由もなく、クレアは、いつも通りに巫女の仕事をこなしていた。
クレアの勤務先であり、居住場所でもあるアニマス神殿は、フィリウス王国の北西に聳える山を背にして建つ、四つの棟で構成される石造りの建物だ。
元は二千年も昔、山肌にできた天然の洞窟を祈祷場所とした小さなものだったらしい。
やがてそこを本殿とし、いくつもの建物が建てられては壊され、紆余曲折を経て、今の形に落ちついたのが五百年ほど前。
現在は本殿であり洞窟と繋がる北殿、神官が住まう東殿、巫女の住まいと遠方からの参拝者を泊める客室がある西殿、それから人々が自由に出入りできる拝殿である南殿。
その四つのエリアに分かれている。
北殿は王族のみが入れるエリアのため普段は使われておらず、クレアも神殿の巫女となって三年が経つが足を踏み入れたことはない。
もっとも、入る必要もなかったからなのだが……
クレアの主な仕事は拝殿での信徒の応対。救いを求める人々に、偉大なる神々から賜った祝福を分け与えることだ。
アニマス神殿が祀るイシクルとラヴァ。
仲睦まじい夫婦神である二柱は二千年の昔、直系の子である「フィリウス」が生まれたときに、その祝いとしてすべての人の子に一人一人違った特別な力、「祝福」を授けたと言われている。
それは神々からの贈り物――「ギフト」と呼ばれ、「髪が人よりも早く伸びる」だとか「四つ葉のクローバーを一瞬で見つけられる」といったささやかなものから、「空中から水を出せる」「食べ物の腐敗を遅らせられる」といった生活に便利なものまで多岐にわたる。
その中でも、特に人々の役に立つ優れたギフトを持つ者は、神々の偉大さを人々に示すために、神官や巫女として神殿に仕えるのが習わしとなっている。
クレアもそのうちの一人というわけだ。
クレアのギフトは「治癒」。
「祈りで人を治せる」という、わかりやすく便利な力だ。
ギフトが発現する時期は人によって違い、クレアの場合は十四歳の誕生日だった。
孤児院で年少の子がケーキを切り分けるときに指を切って大泣きし、それを治そうとしたことでギフトが発現した。
孤児院の院長はクレアのギフトを知って、すぐに神殿にクレアを売りこんでくれた。
後ろ盾がなく教育も充分に受けていない孤児が就ける仕事は限られている。
その中で神殿は一番と言っていい就職先だ。
きっと皆に大切にしてもらえる、一生食うに困らないだろうから――と。
そうして、クレアは十五歳で孤児院を出て、巫女になったのだ。
「……では、お祈りを始めていきますね、スミスさん」
石壁に穿たれた窓から、部屋の中に茜色の陽ざしが差しこむ。
クレアは、向かいの寝椅子に腰を下ろした本日三十一人目の患者――信徒に向かって、やさしく微笑みかけた。
「は、はい、お願いします!」
フェルト帽を左手でつかんでペコリと頭を下げたのは、恰幅の良い四十半ばの男。
土木職人のまとめ役をしているそうで、本人もこの道三十年の現役の大工だという。
重たい木材を扱うだけあって、白いシャツに包まれた肩も胸も大きく盛り上がっているが、その右手首から先は白い包帯で覆われている。
仕事中に崩れた資材の下敷きになり、潰されてしまったのだそうだ。
「……大変な目に遭いましたね」
「本当ですよ……何もしなくても痛いし、おまけにギフトまで使えなくなってしまって……」
「まあ、ギフトまで?」
「そうなんです! ……といっても、俺のは大したギフトじゃなくてですね、一カ月先までの天気がわかるっていうものなんですけど……それでも仕事柄、結構役に立ってたんですよ。ほら、いつ雨が降るかわかれば職人の手配だとか作業日程を組みやすくなるでしょう?」
「確かに、スミスさんのお仕事には大切なギフトですね」
「そうでしょう?」
男は誇らしげに頬をほころばせるが、すぐに悲痛な面持ちに変わって、シュンと肩を落とす。
「なのに利き腕もギフトもダメになったら……もう商売あがったりですよ」
「それは、さぞご不安だったでしょうね……ですが、もう大丈夫ですよ。すぐに治しますから!」
励ますように言いながら、クレアは座っていた丸椅子から立ちあがった。
身にまとった古式ゆかしい一枚布の装束の裾を押さえて、スッと膝をつく。
そして、手首から先にふれないよう注意しながら、そっと彼の腕をとり、目蓋を閉じた。
途端、視界が闇に染まる。
けれど、意識を研ぎ澄ませてみると、目蓋の向こう側が透けるように、先ほどまで見ていた光景が浮かび上がってくる。
けれど、実際の視界と違って、今、クレアが「見ている」彼の腕には包帯が巻かれていない。
白い包帯の代わりに見えるのは、腕にモヤモヤとまとわりつく赤黒い靄のような何か。
その人にふれて目をつむると、クレアにはその人の抱える怪我や病が靄となって見えるのだ。
――赤色が濃いわ……さぞ、お辛いでしょうね。
クレアは眉をひそめ、そっと溜め息をつく。
靄の赤色が濃いほど傷が新しく痛みが鮮明で、黒に近付くほど治しにくくはなるが、痛みは落ちついていることが多い。
少しでも早くこの苦痛を取りのぞいてあげたい。そう思い、クレアは祈りを捧げはじめた。
難しい祝詞は必要なく、「痛いの痛いの飛んでいけ」くらいの言葉で充分。心から「この人の痛みや苦しみがなくなりますように」と願うだけで事足りる。
心の中で祈りを呟くと同時に、ドクンとクレアの鼓動が速まった。
心臓が脈打つごとに、拍動によって押しだされるように胸の中心から光があふれ、腕を伝って、男の腕に流れこんでいく。
やがて、光は彼の手首の先で渦巻く靄とぶつかった。
「――っ」
目蓋の向こうで、男がハッと息を呑む気配がする。
しばらくの間、光と靄はせめぎあい、やがて光に押し負けた靄がポロポロと崩れはじめる。
赤黒い靄を払い、白い光が五本の指の形を描きだしていく。
完全に靄が見えなくなったところで、そっとクレアが目蓋をひらくと、愕然と目を瞠る男と目が合った。
「……具合はいかがですか?」
ニコリとクレアが問いかけると、男はパチパチとまばたきをしてから、パッと自分の右腕に視線を落とし、急いた手付きで包帯をほどいて――「おお!」と歓声を上げる。
「すごい! 手が! 治った! ああ、すごい! 俺の手だ!」
瞳を輝かせて何度も指をひらいては閉じて、それから、男は感極まったようにクレアの手を握り締めた。
「ありがとうございます……! さすが……さすがは癒しの巫女様だ! 何と御礼を言っていいか……あなたは俺や家族の恩人です!」
「いえいえ、この力は偉大なる主がお与えくださったものですから。すべてはイシクル神とラヴァ神のお導きですわ!」
感謝の言葉を言い募る男に向かって、クレアはニコリと笑ってそう言い返した。
それから、さらに五人の治療をこなし、ようやくクレアは今日の分の仕事を終えた。
窓から差しこむ光は、いつの間にか青白い月光に変わっていた。
「うーん、今日もよく働い――わっ、と」
グッと伸びをしながら椅子から立ちあがったところで、くらりと立ちくらみが起きる。
慌てて踏みとどまり、胸を押さえて、ふう、と息をつく。
「……ちょっと今日は、ギフトを使いすぎちゃったかしら」
人数はいつもと変わらないが、靄の濃い人がいたせいか、いつもより疲労感が強い。
「全員治しおわるまで、もってよかったわ」
ギフトは、いつでも無限に使えるわけではない。
雨水を貯めた水がめから水を汲みだすように、ギフトを使うと身体の中にある「何か」が減っていき、限界を超えると、以後、その「何か」がある程度貯まるまで発動しなくなるのだ。
他にも、ギフトが使えなくなる条件はいくつかある。
病や怪我を負っているときもそうだ。治るまでは使えない。
特に注意しなくてはいけないのが怪我で、身体の一部が欠損するなど修復不可能なレベルの怪我を負ってしまうと、二度とギフトが発動しなくなる。
今日治療したスミスという職人も、クレアの治療を受けなければギフトを失っていただろう。
――そうならなくて、何よりね。
世間話という名の問診の中で、彼は孫が生まれたばかりだと言っていた。
治った腕でバリバリ稼いで、孫ともたくさん遊べるだろう。
その光景を思いうかべて、ふふ、と頬をゆるめると、クレアは、よし、と気合いを入れ直す。
――よし、今日は早く寝て、明日もたくさん治すわよ!
そう心に決めたところで、「寝る前に、ご飯だよ」と言うように、くう、とおなかが鳴った。
クレアは反射のようにポンとおなかを押さえて、プッと一人で噴きだした。
――まあ、よく働いた証拠よね。
きっと今日は、いつもよりご飯が美味しいだろう。
早く食堂に行こうと、クレアは信徒用のひざ掛けやタオルを手早く畳んで片付け、グルリと部屋を見渡した。
クレアが与えられている仕事部屋は、入り口から反対の壁まで歩いて十歩もない小さな部屋だ。
設備も、信徒用の寝椅子が一脚、そしてクレアが座る丸椅子が一脚あるきり。
それでも大部屋を衝立で仕切って働いている巫女や神官もいるので、優遇されている方だろう。
――これもギフトのおかげね。
クレアの他にも治療系のギフトを持つ者がいないわけではない。ただ「咳止め専門」だったり「骨折専門」だったりと治せる範囲が決まっていて、クレアのように病も傷も区別なく治せるタイプは珍しいのだ。
少しばかり疲れるが衣食住に困ることもなく、人々の役にも立て、その上、担当した信徒の寄進から、いくばくかを報酬として受け取ることができる。
クレアはそのほとんどを孤児院に送っていた。毎月院長が送ってくれる手紙で、子供たちの靴を新しくしただとか、ボロボロだった図書室の絵本を買い替えたと教えてもらうたびに、誇らしい気持ちになる。
――来月はもう少し多く仕送りができるように、もっともっと頑張らないとね!
そう気合いを入れると、クレアは明日に備えて腹ごしらえをするべく、仕事部屋を後にした。
参拝時間を過ぎているため、拝殿内には人影がほとんどない。
信徒はもちろん、神官や巫女もそれぞれの殿に帰ったのだろう。
――私も早く帰ろうっと。
古めかしい太い石柱の間を抜け、二手に分かれた廊下に出たところで、左手の曲がり角の向こうから笑い声――いや、嗤い声が聞こえてきた。
「本当は双子なんだろう?」
「どっちが兄だ?」
耳に届いた言葉を理解するなり、クレアはパッと駆けだす。
サッと廊下を曲がって目に飛びこんできたのは、壁際で身を寄せあう十歳ほどの黒髪の少年二人と、それを囲む三人の男の姿。
皆、クレアとは違ったデザインの一枚布の装束をまとっている。
「こんばんは、皆さん、お疲れさまです!」
クレアは挨拶をしながら素早く三人の男――神官と二人の少年の間に割りこむと、少年たちを背に庇い、ニコリと笑みを作って神官たちに問いかけた。
「私の弟たちが何か、ご迷惑でもおかけしましたでしょうか?」
「……いや、別に」
「ちょっと、聞いてみただけだよ」
神官たちはクレアの笑顔に気圧されたように顔を背けると、そそくさと去っていった。
「……ルディ、ラディ、大丈夫?」
三人の姿が見えなくなったところで、くるりと振り向き、クレアは少年たちに声をかける。
俯いていた二人がおずおずと顔を上げる。二つの顔は、鏡に映したようによく似ていた。
爽やかな初夏の宵。
太陽と月の化身、夫婦神イシクルとラヴァを祀るアニマス神殿、その北殿の一室。
白く塗られた壁に豪奢なタペストリーがかかり、品の良い調度が並ぶ部屋の真ん中で、一人の娘と二人の青年が向きあっていた。
少女と呼ぶには大人びているが、女と呼ぶには初々しさが残る――そんな年頃の娘は、化粧台の前にあるような丸椅子に腰を下ろしており、膝の上に置かれた手をキュッと握りこんでいる。
サラサラと背に流れる髪は白銀色。
精緻なレースをあしらった胸元からは豊かなふくらみが覗き、彼女が身につける淡い菫色のドレスは、彼女の抜けるように白い肌を美しく引き立てている。
その顔は人形のように愛らしく整っているが、奇妙なことに、娘の目は艶やかな絹のスカーフによって覆われていた。
「……では、クレア。始めるぞ」
「三分したら交代だからね」
そう声をかけた青年たちは娘に負けず劣らず、いやそれ以上に美しかった。
年の頃は二十歳前後。
均整の取れた長身にまとうのは、金糸の刺繍を施したそろいの深青の上着にベスト、白いドレスシャツとトラウザーズ。
サラリと整えられた髪は朝陽のごとく淡い金色で、長い睫毛に縁どられた瞳は初夏の空を映したように澄んだ青色をしている。
彫りの深いその顔立ちは「端整」という言葉では足りないほど、天井から下がったシャンデリアの輝きがかすむほど、まばゆさに目を細めたくなるほどに整っていた。
特筆すべきは、二人が鏡に映したように同じ顔をしていることだろう。
違うのは彼らの持ち物と、浮かぶ笑みの種類。
娘から見て左に立つ青年は唇の端をつり上げた皮肉げな笑みを浮かべており、右に立つ青年はにんまりと楽しげに口元をほころばせている。
そして、左に立つ青年は手ぶらだが、右に立つ青年の手には小さな砂時計が載っていた。
これから始まるちょっとしたゲームに使うための小道具が。
「準備はいい、クレア?」
手のひらで砂時計を弾ませ、右の青年が尋ねる。
「……はい、どうぞ」
娘――クレアは小さく頷くと、内心の緊張を押し隠して、そう答えたのだった。
――大丈夫、きちんと見分けてみせるわ。
心の中で呟くと同時に、コンと砂時計を置く音が聞こえて、小さく鼓動が跳ねる。
――最初はどちらかしら……?
コクンと喉を鳴らして、閉ざされた視界の代わりに耳をすませて気配を窺う。
すると、不意に頬の辺りの空気がふわりと動き、耳たぶをひんやりとした何か――恐らくは指が――かすめ、クレアは反射のようにビクリと肩を揺らしてしまった。
途端、ふ、と小さく笑う気配がして、クレアはムッと眉をひそめる。
けれど、その怒りも長くは続かない。
ハラハラと頬に垂れる髪をそっとすくわれ、こめかみをくすぐるようにして耳にかけられて。
それから、ふれるかふれないかの力加減で耳の縁をゆっくりと辿られると、ぞわりとこみあげる不思議な感覚に意識を奪われる。
「……っ」
優美な顔立ちに似合わず、彼――どちらかはわからないが――の手は鍛錬によるものなのか硬く、自分の頼りない手とはまるで違う感触に鼓動がざわめいた。
硬い指先はクレアの耳をなぞり、頬を辿って、首すじへ下りていく。
ゆっくりゆっくりと。どこにふれられるのが一番弱いか、探るように。
くすぐったさと似ているようで違う、肌の奥が疼くような感覚に、思わず妙な吐息がこぼれそうになるのを、クレアはグッと奥歯を噛みしめて堪える。
クレアの肌を辿る手は鎖骨まで下りたところで引き返し、首すじをなぞって頬へ向かう。
その後は耳たぶには戻らず、横に滑って唇にふれた。
唇の上側、下側と口紅を塗るように指の腹でなぞっていく。
ゆったりと唇の上を指が滑るたび、耳たぶや首すじをなぞられたのとはまた違う淡く甘い痺れが走る。
「……っ、ぁ」
思わず小さく吐息をこぼすと、目の前に立つ誰かが微かに笑う気配がして、クレアにふれる指先が薄くひらいた唇を悪戯になぞって頬へと流れていった。
――いったい、これはどちらの手なのかしら……
こんな風に嬲るようなさわり方をするのは、いったい、どちらなのだろう。
あまりにも二人が同じ顔をしているので、「いっそ見えない方が、違いが分かりやすくなるのではないか」と思いついたのが、つい十分ほど前。
「目隠しをして手にふれてみてもいいですか?」と尋ねたところ、このゲームを提案されたのだ。
「こういうことって、一番違いが出るものだから」と。
けれど考えてみると、それぞれがどのようなふれ方をするのかを知っていなければ、「正解」を当てようがない。
最初から、クレアには勝ち目のないゲームだったのだ。
――悔しい、どうして始める前に気付かなかったのかしら……!
そんなことを考えつつ、執拗に首すじを撫で回され、くすぐったさと淡い快感の境界で身悶えていると、不意にピタリと刺激がやみ、スッと手が離れていった。
ホッとクレアが息をつくと同時に、コンと砂時計をひっくり返す音が響いて、二つの足音が交差する。
――交代の時間だわ。
反射のように身を強ばらせると、忍び笑いがクレアの耳をくすぐり、ひたりと両の頬を手のひらで包まれた。
ザラリと硬い指の感触、大きさは先ほどの手とよく似ている。
けれど、今度の手は、先ほどの手よりも少しだけ体温が高いように感じた。
その温もりを伝えるように、あるいはクレアの頬の感触を確かめるように、頬にふれる手に力がこもり、ゆっくりと頬を撫で、顔の輪郭を辿っていく。
そのまま首を伝い、滑りおりた手は鎖骨のくぼみを悪戯にくすぐってから、ふたつの胸の膨らみをサッと指先でなぞった。
ほんの一瞬、羽根ぼうきでかすめるような些細な刺激。
それにもかかわらず、ふれられた場所に余韻めいた熱が残り、引き結んだ唇からは、ん、と大げさな呻き――というには甘い声がこぼれた。
その反応に煽られたのか、また一つ忍び笑いが聞こえたと思うと、今度はかすめるのではなく、ひたりと胸のふくらみに指を添える。
「……っ」
ピクリと肩を揺らしたきり、クレアが制止の声をあげずにいると、その手の動きは少しずつ大胆になっていった。
胸元から覗くふくらみに指を沈めては離し、するすると指の腹で撫で回されて、くすぐったさとそれだけではない、淡く甘い痺れがチリチリと肌の奥に溜まっていく。
――ああ、もう。こんな反応したくないのに……!
頬が熱い。きっと彼らの目には、すっかりとクレアの肌が上気しているのが見えているだろう。
耳に届く二つの息遣いは落ちついていて、自分一人だけが息を乱し、与えられる刺激を――愛撫を受け入れるような反応を示していることが恥ずかしくて堪らない。
けれど、仕方ないといえば仕方がないことなのだ。
クレアはずっと彼ら――いや彼に、フィリウス王国の王太子「ウィリアム・フィリウス」に恋をしていたのだから。
孤児院で暮らしていた頃から噂を聞いて憧れていた。そして四年前、彼が十六歳という若さで兵を率いて盗賊団を討伐した際の凱旋パレードで目にした瞬間、その美しさに心を奪われた。
十五歳で孤児院を出て、神殿の巫女となってからの三年間は、月に一度神殿に祈りを捧げに訪れる「ウィリアム」をこっそりと覗き見ては、胸を高鳴らせていた。
言葉を交わしたことはなくても、クレアにとって「ウィリアム」は初恋の人だった。
その想いが今もなお心のどこかに残っていて、この身体を勘違いさせ、過剰に反応させているのだろう。
――そうじゃないとおかしいわ。だって、もう好きじゃないはずだもの……!
本当の「ウィリアム」は、彼らはクレアが憧れていたような理想の王子様ではなかった。
軽薄で皮肉屋で、少しばかり強引で高慢で、不完全な生身の男たちだった。
だから、こんな風な反応はしたくはない。
安い女だと思われたくないのに。
「……っ、ふ、……ぅ」
絶え間ない刺激に噛み殺しきれない吐息が唇の隙間からあふれ、そのうち、ふれられてもいない胸の先がチリチリと疼き、段々と硬くなっていくのがわかって焦りがこみ上げる。
それに気付いたのか気付いていないのか、それとも布越しでは物足りなくなったのか。
クレアにふれる手が大きくひらいた襟ぐりから覗く胸の谷間をなぞり、そのままドレスの内側へと滑りこもうとしたところで、クレアはついに降参の声を上げた。
「……ダメ、やめてください……っ」
途端、肌を辿る手がピタリととまる。
クレアは、すかさずその手をつかんで押しのけると、大きく息をつき、そっと目隠しを外した。
明るくなった視界に目がくらみ、菫色の目をパチパチとまたたいて、戻ってきた視界に映るのは二つ並んだ同じ顔。
「……どっちがどっちか、わかった?」
向かって右に立つ青年が、キュッと愉快そうに目を細める。
ぜんぜん、わからなかった――とは言えず、クレアが微かに息を乱したまま睨みつけると、右の青年はクスクスと笑いながら答えを口にした。
「あーあ、クレアったら、ダメだなぁ。最初にさわったのがリアム、二番目が私だよ?」
わざとらしく肩をすくめて楽しげに言うのは、きっと「兄のウィル」。
「顔が見えない方がきっと区別がつく、そう言いだしたのは君の方だったと思うが……芳しくない結果で残念だったな」
唇の端を微かに上げ、少々皮肉げな口調で慰めの言葉――かどうかは怪しいが――をかけてくるのは「弟のリアム」だろう。
「……今ならば、わかります」
悔しまぎれにそう告げると、二人はそっと視線を交わし、何かを企むように頷きあった。
――「今わかったところで無駄だ」とでも思っているんでしょうね。
こうしてわかりやすく口調や表情で性格を出してくれれば区別がつくが、「本番の試験」では、きっとそのようなサービスはしてくれないだろう。
はあ、と思わず溜め息をこぼしたところに、双子の追い打ちがかかる。
「……まあ、見分けられないままでいてくれた方が、こちらとしては助かるがな」
「そうだね、おとなしく諦めて、私たち二人の女神になってよ」
皮肉屋のリアムの言葉に、軽薄なウィルの台詞が続く。
ムッとしたクレアは勢いよく顔を上げると、余裕綽々で見下ろす双子を睨みつけて――
「いいえ、必ず見分けてみせます! 絶対に!」
クレアが女神役を務めるフィリウスの祝祭、二十と七日後に行われる儀式までには必ず、できるようになってみせる。
男神役である二人に向かって、毅然とそう宣言したのだった。
第一章 絶対に負けられない戦い
双子との目隠しゲームから遡ること四日。
これから自分の人生が大きく変わることなど知る由もなく、クレアは、いつも通りに巫女の仕事をこなしていた。
クレアの勤務先であり、居住場所でもあるアニマス神殿は、フィリウス王国の北西に聳える山を背にして建つ、四つの棟で構成される石造りの建物だ。
元は二千年も昔、山肌にできた天然の洞窟を祈祷場所とした小さなものだったらしい。
やがてそこを本殿とし、いくつもの建物が建てられては壊され、紆余曲折を経て、今の形に落ちついたのが五百年ほど前。
現在は本殿であり洞窟と繋がる北殿、神官が住まう東殿、巫女の住まいと遠方からの参拝者を泊める客室がある西殿、それから人々が自由に出入りできる拝殿である南殿。
その四つのエリアに分かれている。
北殿は王族のみが入れるエリアのため普段は使われておらず、クレアも神殿の巫女となって三年が経つが足を踏み入れたことはない。
もっとも、入る必要もなかったからなのだが……
クレアの主な仕事は拝殿での信徒の応対。救いを求める人々に、偉大なる神々から賜った祝福を分け与えることだ。
アニマス神殿が祀るイシクルとラヴァ。
仲睦まじい夫婦神である二柱は二千年の昔、直系の子である「フィリウス」が生まれたときに、その祝いとしてすべての人の子に一人一人違った特別な力、「祝福」を授けたと言われている。
それは神々からの贈り物――「ギフト」と呼ばれ、「髪が人よりも早く伸びる」だとか「四つ葉のクローバーを一瞬で見つけられる」といったささやかなものから、「空中から水を出せる」「食べ物の腐敗を遅らせられる」といった生活に便利なものまで多岐にわたる。
その中でも、特に人々の役に立つ優れたギフトを持つ者は、神々の偉大さを人々に示すために、神官や巫女として神殿に仕えるのが習わしとなっている。
クレアもそのうちの一人というわけだ。
クレアのギフトは「治癒」。
「祈りで人を治せる」という、わかりやすく便利な力だ。
ギフトが発現する時期は人によって違い、クレアの場合は十四歳の誕生日だった。
孤児院で年少の子がケーキを切り分けるときに指を切って大泣きし、それを治そうとしたことでギフトが発現した。
孤児院の院長はクレアのギフトを知って、すぐに神殿にクレアを売りこんでくれた。
後ろ盾がなく教育も充分に受けていない孤児が就ける仕事は限られている。
その中で神殿は一番と言っていい就職先だ。
きっと皆に大切にしてもらえる、一生食うに困らないだろうから――と。
そうして、クレアは十五歳で孤児院を出て、巫女になったのだ。
「……では、お祈りを始めていきますね、スミスさん」
石壁に穿たれた窓から、部屋の中に茜色の陽ざしが差しこむ。
クレアは、向かいの寝椅子に腰を下ろした本日三十一人目の患者――信徒に向かって、やさしく微笑みかけた。
「は、はい、お願いします!」
フェルト帽を左手でつかんでペコリと頭を下げたのは、恰幅の良い四十半ばの男。
土木職人のまとめ役をしているそうで、本人もこの道三十年の現役の大工だという。
重たい木材を扱うだけあって、白いシャツに包まれた肩も胸も大きく盛り上がっているが、その右手首から先は白い包帯で覆われている。
仕事中に崩れた資材の下敷きになり、潰されてしまったのだそうだ。
「……大変な目に遭いましたね」
「本当ですよ……何もしなくても痛いし、おまけにギフトまで使えなくなってしまって……」
「まあ、ギフトまで?」
「そうなんです! ……といっても、俺のは大したギフトじゃなくてですね、一カ月先までの天気がわかるっていうものなんですけど……それでも仕事柄、結構役に立ってたんですよ。ほら、いつ雨が降るかわかれば職人の手配だとか作業日程を組みやすくなるでしょう?」
「確かに、スミスさんのお仕事には大切なギフトですね」
「そうでしょう?」
男は誇らしげに頬をほころばせるが、すぐに悲痛な面持ちに変わって、シュンと肩を落とす。
「なのに利き腕もギフトもダメになったら……もう商売あがったりですよ」
「それは、さぞご不安だったでしょうね……ですが、もう大丈夫ですよ。すぐに治しますから!」
励ますように言いながら、クレアは座っていた丸椅子から立ちあがった。
身にまとった古式ゆかしい一枚布の装束の裾を押さえて、スッと膝をつく。
そして、手首から先にふれないよう注意しながら、そっと彼の腕をとり、目蓋を閉じた。
途端、視界が闇に染まる。
けれど、意識を研ぎ澄ませてみると、目蓋の向こう側が透けるように、先ほどまで見ていた光景が浮かび上がってくる。
けれど、実際の視界と違って、今、クレアが「見ている」彼の腕には包帯が巻かれていない。
白い包帯の代わりに見えるのは、腕にモヤモヤとまとわりつく赤黒い靄のような何か。
その人にふれて目をつむると、クレアにはその人の抱える怪我や病が靄となって見えるのだ。
――赤色が濃いわ……さぞ、お辛いでしょうね。
クレアは眉をひそめ、そっと溜め息をつく。
靄の赤色が濃いほど傷が新しく痛みが鮮明で、黒に近付くほど治しにくくはなるが、痛みは落ちついていることが多い。
少しでも早くこの苦痛を取りのぞいてあげたい。そう思い、クレアは祈りを捧げはじめた。
難しい祝詞は必要なく、「痛いの痛いの飛んでいけ」くらいの言葉で充分。心から「この人の痛みや苦しみがなくなりますように」と願うだけで事足りる。
心の中で祈りを呟くと同時に、ドクンとクレアの鼓動が速まった。
心臓が脈打つごとに、拍動によって押しだされるように胸の中心から光があふれ、腕を伝って、男の腕に流れこんでいく。
やがて、光は彼の手首の先で渦巻く靄とぶつかった。
「――っ」
目蓋の向こうで、男がハッと息を呑む気配がする。
しばらくの間、光と靄はせめぎあい、やがて光に押し負けた靄がポロポロと崩れはじめる。
赤黒い靄を払い、白い光が五本の指の形を描きだしていく。
完全に靄が見えなくなったところで、そっとクレアが目蓋をひらくと、愕然と目を瞠る男と目が合った。
「……具合はいかがですか?」
ニコリとクレアが問いかけると、男はパチパチとまばたきをしてから、パッと自分の右腕に視線を落とし、急いた手付きで包帯をほどいて――「おお!」と歓声を上げる。
「すごい! 手が! 治った! ああ、すごい! 俺の手だ!」
瞳を輝かせて何度も指をひらいては閉じて、それから、男は感極まったようにクレアの手を握り締めた。
「ありがとうございます……! さすが……さすがは癒しの巫女様だ! 何と御礼を言っていいか……あなたは俺や家族の恩人です!」
「いえいえ、この力は偉大なる主がお与えくださったものですから。すべてはイシクル神とラヴァ神のお導きですわ!」
感謝の言葉を言い募る男に向かって、クレアはニコリと笑ってそう言い返した。
それから、さらに五人の治療をこなし、ようやくクレアは今日の分の仕事を終えた。
窓から差しこむ光は、いつの間にか青白い月光に変わっていた。
「うーん、今日もよく働い――わっ、と」
グッと伸びをしながら椅子から立ちあがったところで、くらりと立ちくらみが起きる。
慌てて踏みとどまり、胸を押さえて、ふう、と息をつく。
「……ちょっと今日は、ギフトを使いすぎちゃったかしら」
人数はいつもと変わらないが、靄の濃い人がいたせいか、いつもより疲労感が強い。
「全員治しおわるまで、もってよかったわ」
ギフトは、いつでも無限に使えるわけではない。
雨水を貯めた水がめから水を汲みだすように、ギフトを使うと身体の中にある「何か」が減っていき、限界を超えると、以後、その「何か」がある程度貯まるまで発動しなくなるのだ。
他にも、ギフトが使えなくなる条件はいくつかある。
病や怪我を負っているときもそうだ。治るまでは使えない。
特に注意しなくてはいけないのが怪我で、身体の一部が欠損するなど修復不可能なレベルの怪我を負ってしまうと、二度とギフトが発動しなくなる。
今日治療したスミスという職人も、クレアの治療を受けなければギフトを失っていただろう。
――そうならなくて、何よりね。
世間話という名の問診の中で、彼は孫が生まれたばかりだと言っていた。
治った腕でバリバリ稼いで、孫ともたくさん遊べるだろう。
その光景を思いうかべて、ふふ、と頬をゆるめると、クレアは、よし、と気合いを入れ直す。
――よし、今日は早く寝て、明日もたくさん治すわよ!
そう心に決めたところで、「寝る前に、ご飯だよ」と言うように、くう、とおなかが鳴った。
クレアは反射のようにポンとおなかを押さえて、プッと一人で噴きだした。
――まあ、よく働いた証拠よね。
きっと今日は、いつもよりご飯が美味しいだろう。
早く食堂に行こうと、クレアは信徒用のひざ掛けやタオルを手早く畳んで片付け、グルリと部屋を見渡した。
クレアが与えられている仕事部屋は、入り口から反対の壁まで歩いて十歩もない小さな部屋だ。
設備も、信徒用の寝椅子が一脚、そしてクレアが座る丸椅子が一脚あるきり。
それでも大部屋を衝立で仕切って働いている巫女や神官もいるので、優遇されている方だろう。
――これもギフトのおかげね。
クレアの他にも治療系のギフトを持つ者がいないわけではない。ただ「咳止め専門」だったり「骨折専門」だったりと治せる範囲が決まっていて、クレアのように病も傷も区別なく治せるタイプは珍しいのだ。
少しばかり疲れるが衣食住に困ることもなく、人々の役にも立て、その上、担当した信徒の寄進から、いくばくかを報酬として受け取ることができる。
クレアはそのほとんどを孤児院に送っていた。毎月院長が送ってくれる手紙で、子供たちの靴を新しくしただとか、ボロボロだった図書室の絵本を買い替えたと教えてもらうたびに、誇らしい気持ちになる。
――来月はもう少し多く仕送りができるように、もっともっと頑張らないとね!
そう気合いを入れると、クレアは明日に備えて腹ごしらえをするべく、仕事部屋を後にした。
参拝時間を過ぎているため、拝殿内には人影がほとんどない。
信徒はもちろん、神官や巫女もそれぞれの殿に帰ったのだろう。
――私も早く帰ろうっと。
古めかしい太い石柱の間を抜け、二手に分かれた廊下に出たところで、左手の曲がり角の向こうから笑い声――いや、嗤い声が聞こえてきた。
「本当は双子なんだろう?」
「どっちが兄だ?」
耳に届いた言葉を理解するなり、クレアはパッと駆けだす。
サッと廊下を曲がって目に飛びこんできたのは、壁際で身を寄せあう十歳ほどの黒髪の少年二人と、それを囲む三人の男の姿。
皆、クレアとは違ったデザインの一枚布の装束をまとっている。
「こんばんは、皆さん、お疲れさまです!」
クレアは挨拶をしながら素早く三人の男――神官と二人の少年の間に割りこむと、少年たちを背に庇い、ニコリと笑みを作って神官たちに問いかけた。
「私の弟たちが何か、ご迷惑でもおかけしましたでしょうか?」
「……いや、別に」
「ちょっと、聞いてみただけだよ」
神官たちはクレアの笑顔に気圧されたように顔を背けると、そそくさと去っていった。
「……ルディ、ラディ、大丈夫?」
三人の姿が見えなくなったところで、くるりと振り向き、クレアは少年たちに声をかける。
俯いていた二人がおずおずと顔を上げる。二つの顔は、鏡に映したようによく似ていた。
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