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第一章 黄巾の乱

弱すぎる敵の弊害

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 戦闘を終え、陣に戻り、しばらく移動したところで野営を張ったあと、劉備が鄒靖に呼び出されたので、俺も同行した。

「どうだった、黄巾の連中は?」

 鄒靖の問いかけに、劉備は何も答えられず、苦々しい表情で顔を背ける。

「弱かっただろ?」
「……はい」

 絞り出すように答えた劉備は、鄒靖に再び視線を戻した。

「だから、鄒校尉は……あのような戦い方を?」
「ま、そういうこった。俺らだってやりたくてやってるわけじゃねぇよ」

 人は人を殺して平静でいられるほど、強い生き物じゃない。
 なので、他人の命を奪うには、それなりの理由が必要になる。
 その理由として最も強く人を支えるのは、なにかを守るため、というものじゃないだろうか。
 それは自分自身の命であったり、財産であったり、あるいは親しい人の尊厳であったり。
 やらなきゃやられるから仕方なく。
 ここでやっとかなきゃ、あとで大切な人や物を奪われるかも知れないから。
 そんな理由でもなければ、人は人を殺せやしない。

「敵が弱いってのは、本来歓迎すべきことなんだがなぁ……」

 鄒靖は嘆息し、呟く。
 敵が弱ければ生き延びる確率は上がるし、味方の犠牲も少なくて済む。
 でも、黄巾の連中は弱すぎた。

「最初のうちは普通に戦ってたんだよ、俺たちも。だが、そのうち心がぶっ壊れちまう兵が続出してな」

 ――なぜ自分は彼らを殺しているのか?


 弱すぎる敵を一方的になぶり殺しにしていると、ふとこんなことを思ってしまうらしい。

 剣を振り、槍を払えばバタバタと死んでいく黄巾の兵たちを殺しているうちに、“放っておいても勝手にくたばるんじゃないか?”“自分が手を下さなくてもいいんじゃないか?”なんて考えが頭をよぎる。
 そもそも漢朝が敷いた悪政が原因で生まれたのが、黄巾を象徴とする太平道だ。
 言ってみれば彼らも被害者なのだ。

「できれば殺したかねぇんだが、そういうわけにもいかねぇし」

 黄巾の連中は、いずれ近隣の村や街を襲う賊徒でなので、放っておくことはできない。
 せめて逃げてくれれば……、そしてそのまま太平道を抜けて市井しせいにまぎれてくれれば、多少の目こぼしはできるのだが、彼らは逃げることなく向かってくる。
 殺しても殺しても同朋の屍を踏み越えて迫ってくる、か弱くも凶悪な時代の被害者たちを、何度も何度も殺していくうちに、心がおかしくなってしまう兵が続出した、というわけだ。

「遠くから石ぶつけて、死体の処理を他人に任せちまえば、ちったぁましなのさ。やってることに変わりはねぇがよ」

 鄒靖が投石を基本戦術にしているのには、そういう理由があったのだ。

「で、どうする? 石は充分に用意してるぜ? やってられねぇってんなら、帰ってもいいさ。お前らは官軍じゃねぇからな」
「……考えさせてください」
「2日ほどここで休むから、じっくり考えな」

 劉備は一礼してその場を辞し、俺も後に続いた。

 鄒靖の幕舎を出て義勇兵たちの野営地に行くまで、しばらく無言だった。

「なぁ、憲和」

 先に口を開いたのは劉備だった。

「なんだ」
「君はどうするんだ?」
「どう、って?」
「このまま私たちについてくるのか?」

 ということは、少なくとも劉備はここで逃げるつもりはないらしい。

「益徳から聞いたよ。大変だったみたいだな」
「……ああ、そうだな」

 人を殺した。
 そんなつもりはなかったけど、戦場で武器を振り回したんだ。
 その武器に当たった結果、人が死んだのなら、俺が殺したってことなんだろう。
 いやな気分だ。
 そのうち慣れるのかもしれないが、できれば慣れたくはない。
 でも、いま胸にわだかまる気分の悪さは、さっさと消えて欲しかった。
 人ひとりの命を奪っておいて、都合のいいことを言っているのかもしれないけど。

「母上は、寂しい思いをしているだろうな」

 そうだな……楼桑村ろうそうそんに帰って、ようさんと静かに暮らすってのはありかもしれない。
 俺がここにいるのは、誰に頼まれたからでも、なにかを強制されたからでもない。
 気がつけば簡雍になっていたけど、俺がここにいるのは俺の意思だ。
 べつに史実をなぞらなくちゃいけないなんてルールもないしな。
 ただ劉備の近くで、この三国志の世界を見て回りたいという好奇心だけで、ここにいるようなもんだ。
 それがしんどいってんなら、投げ出したっていいだろう。
 劉備のそばから簡雍ひとりいなくなったからって、大した影響もなさそうだしな。

「……考えさせてくれ」

 ひとまず俺はそう答えた。

「そうだな。私にも考えなくてはならないことがたくさんありそうだし、今日のところは幕舎に帰って休むか」
「ああ」

 義勇軍の野営地に着いた俺と劉備は、そこで別れた。

「ああ、そうだ。もしものときは、国譲こくじょう――いや、田豫でんよを頼む」

 最後にそれだけを告げて、劉備は自分の幕舎へと去っていった。

 幕舎は荷物になるので、できるだけ数を少なくする必要があり、2~3名でひとつを使っている。
 劉備は関羽、張飛と同じ幕舎を使っていた。
 まぁあいつらは普段から同じ部屋で寝ることが多いから、慣れてるんだろう。
 かくいう俺は、少し小さめの幕舎を、田豫と使っている。
 日は落ち、かなり暗くなっているが、幕舎から灯りが漏れていないので、もう寝ているのかな。
 今日は戦闘明けに移動をしたので、すでに休んでいる者は多く、義勇軍の野営地は静かだった。

「ただいま」

 一応声をかけて幕舎に入ったが、寝床に田豫の姿はない。

「あれ、国譲?」

 もしかしたら関羽らと劉備の帰りでも待っているのだろうか、とも思ったが、ふと幕舎に人の気配を感じた。

「国譲……?」

 目をこらすと、幕舎の隅で膝を抱えて小さくなっている田豫の姿が見えた。
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