3 / 6
見られたかもしれない白いアレ
しおりを挟む
グリは椅子に腰掛けていた。
まるで大きな物差しが背中にくくりつけられたように、背筋をピンと伸ばしている。
両手は膝の上に置いているけど、テーブルの下に隠れて見えないのをいいことに、親指を握ったり緩めたり落ち着かない。
そして、なるべく首を動かさないように、大きな目をくるりと動かしてあたりを見回した。
目に入るのは、ペンション『草原の丘』の見慣れた調度品たちだ。
窓際で暖かな日差しを受けているベッド、使い込まれて飴色に光る飾り棚。
壁にかかったおかみさんお手製のタペストリーは、どの客室よりも細かい刺繍で飾られている。前におかみさんが、この部屋は一番広くて上等な客室だから特に気に入ったものを選んだの、と話してくれた。
タペストリーを穴があくほど見つめた後、目の前のテーブルに目を戻した。
見慣れたティーカップに注がれているのは飲み慣れた野草茶ではなく、薫り高い紅茶。その向こうには、ベリーや杏のジャムが宝石のようにキラキラ輝く焼き菓子。ほんのり甘いお酒の香りがする、ドライフルーツがたっぷり入ったケーキ。ナッツを絡めた一口サイズのチョコレートもある。
夢のようなお菓子の向こう側には同じ紅茶が注がれたカップがあって、その主はニコニコしながらこちらを見つめている。
――昨日、階段から転がり落ちた後。
童話の中のお姫様のように都合よく失神することができなかったグリは、瞬時に立ち上がるとすごい勢いで貴族様に非礼を詫びた。恥ずかしくて消えてしまいたくて、顔なんて見ている暇が無かった。
そして心配するおかみさんに、
「大丈夫です!怪我はないです!」
と連呼しながら『草原の丘』の玄関を出ると、一目散に走って家路に着いた。正直に言うとおしりが痛かったけど、そんな些細なことはこの際どうでもよかった。
父も母も息を上げて帰宅したグリに驚いていたが、お客さんの前で階段から落ちたので恥ずかしくて走って帰ってきたと正直に言うと、納得した様子だった。納得されてしまうのが悲しかった。
おかみさんを助けるために数日泊りがけで働きたいというと、二人とも応援してくれたので安心した。
ベッドに入っても、いきなり階段から落ちて走って飛び出す、という自分の失態が何度も再生されて眠れなかった。それだけではなく、貴族様のふんわりした黒髪や、品の良いたたずまいなんかも脳裏に焼きついて離れなかった。
――目が合ったとき、笑いかけてくれたな。
貴族様にとってそんなことは深い意味なんてないことはわかっている。でも、あの美しい男性が自分のような田舎娘に笑顔を向けてくれたことがとてもうれしかった。
――落ちたときに、パンツが見えてたらどうしよう。
貴族様の優しい笑顔、ズキリと痛むおしり、見られたかもしれないパンツ。
代わる代わる襲ってくる言いようの無い感情がこそばゆく、グリは枕に顔をうずめて足をばたばたすることしかできなかった。
いつの間にか眠ったらしく、まぶしい朝を迎えた。
数日分の着替えや洗面用具が詰まったかばんを持って『草原の丘』に向かうと、なだらかな斜面にはグリの膝ほどの高さに白いつぼみをつけた細い茎が、涼しい風にそよそよと揺れていた。
「わ、メルヘンドロップがもう咲いてる」
グリはピンク色に色づいた花を見つけると、そっと茎から摘みとった。花の根元に唇を当てると、甘い蜜がこぼれてくる。
「甘いなぁ」
花を唇に挟んだまま、グリは今年初めてのメルヘンドロップをうっとりと味わった。
メルヘンドロップは不思議な植物で、つぼみや咲き始めの花は白色だが、花の付け根の蜜が熟すにつれてだんだんとピンク色に変わっていく。花をあまり傷つけないように、毎朝ひとつだけメルヘンドロップの蜜を味わうのがグリにとってひそかな楽しみだった。
―そういえば、メルヘンドロップの蜜をなめると恋が叶うんだっけ。
そんなことを思い出して、グリは赤面した。昨晩あれほど、深い意味なんてないと考えようとした優しい笑顔がまた脳裏に戻ってくる。
今までおいしいおやつとしか思っていなかったメルヘンドロップが急に恋の妙薬のように感じられ、なんだか自分がうしろめたいことをしているような気持ちになった。
慌ててピンク色の花を口から離してそっと地面に置くと、グリはぺちぺちと両手で自分の頬をたたいて気合を入れ直し歩き始めた。
アーチをくぐると、おかみさんは朝食の配膳を済ませて庭木の水やりをしていた。
「おはようございます。昨日はすみませんでした。…その、お客様の前でそそっかしい失敗をしてしまって」
「あらおはようグリ。いいんだよ、今日もう一回きちんとご挨拶しておいで。それより本当に怪我はないのかい?あんな勢いで飛び出していったから、私もディアス様もぽかんとしちゃったよ」
おかみさんは今思い出してもおかしい、といった様子で笑った。グリもつられて笑顔になる。
「ちょっとおしりが痛いんですけど、大丈夫です。貴族様のお名前はディアス様、というのですね」
階段下の物置の隅にかばんを降ろすと、スカートのすそに枯れ草なんかがついていないか確認しつつ、ぱんぱんとはたいてみた。以前どこかの客室に置いてあったのか、埃をかぶった鏡があったので目をやった。
癖のないこげ茶色の髪は邪魔にならないように一つにまとめているものの、そろそろ切らなければ面倒な長さだった。濃いグレーがかった緑色の瞳は、薄暗い物置の中ではほとんど色彩を持っていない。
客観的に言ってしまえば、華が無かった。
「…うん。知ってる」
グリはややうんざりした調子で鏡を見るのをやめると、物置を出た。
自分の容姿がどうであろうと、階段から転がり落ちた娘であることには変わりない。まずは気を取り直して、貴族様改め、ディアス様にきちんとご挨拶しなければ。
グリは深呼吸すると、勇気を出して客室のドアをノックしたのだった。
まるで大きな物差しが背中にくくりつけられたように、背筋をピンと伸ばしている。
両手は膝の上に置いているけど、テーブルの下に隠れて見えないのをいいことに、親指を握ったり緩めたり落ち着かない。
そして、なるべく首を動かさないように、大きな目をくるりと動かしてあたりを見回した。
目に入るのは、ペンション『草原の丘』の見慣れた調度品たちだ。
窓際で暖かな日差しを受けているベッド、使い込まれて飴色に光る飾り棚。
壁にかかったおかみさんお手製のタペストリーは、どの客室よりも細かい刺繍で飾られている。前におかみさんが、この部屋は一番広くて上等な客室だから特に気に入ったものを選んだの、と話してくれた。
タペストリーを穴があくほど見つめた後、目の前のテーブルに目を戻した。
見慣れたティーカップに注がれているのは飲み慣れた野草茶ではなく、薫り高い紅茶。その向こうには、ベリーや杏のジャムが宝石のようにキラキラ輝く焼き菓子。ほんのり甘いお酒の香りがする、ドライフルーツがたっぷり入ったケーキ。ナッツを絡めた一口サイズのチョコレートもある。
夢のようなお菓子の向こう側には同じ紅茶が注がれたカップがあって、その主はニコニコしながらこちらを見つめている。
――昨日、階段から転がり落ちた後。
童話の中のお姫様のように都合よく失神することができなかったグリは、瞬時に立ち上がるとすごい勢いで貴族様に非礼を詫びた。恥ずかしくて消えてしまいたくて、顔なんて見ている暇が無かった。
そして心配するおかみさんに、
「大丈夫です!怪我はないです!」
と連呼しながら『草原の丘』の玄関を出ると、一目散に走って家路に着いた。正直に言うとおしりが痛かったけど、そんな些細なことはこの際どうでもよかった。
父も母も息を上げて帰宅したグリに驚いていたが、お客さんの前で階段から落ちたので恥ずかしくて走って帰ってきたと正直に言うと、納得した様子だった。納得されてしまうのが悲しかった。
おかみさんを助けるために数日泊りがけで働きたいというと、二人とも応援してくれたので安心した。
ベッドに入っても、いきなり階段から落ちて走って飛び出す、という自分の失態が何度も再生されて眠れなかった。それだけではなく、貴族様のふんわりした黒髪や、品の良いたたずまいなんかも脳裏に焼きついて離れなかった。
――目が合ったとき、笑いかけてくれたな。
貴族様にとってそんなことは深い意味なんてないことはわかっている。でも、あの美しい男性が自分のような田舎娘に笑顔を向けてくれたことがとてもうれしかった。
――落ちたときに、パンツが見えてたらどうしよう。
貴族様の優しい笑顔、ズキリと痛むおしり、見られたかもしれないパンツ。
代わる代わる襲ってくる言いようの無い感情がこそばゆく、グリは枕に顔をうずめて足をばたばたすることしかできなかった。
いつの間にか眠ったらしく、まぶしい朝を迎えた。
数日分の着替えや洗面用具が詰まったかばんを持って『草原の丘』に向かうと、なだらかな斜面にはグリの膝ほどの高さに白いつぼみをつけた細い茎が、涼しい風にそよそよと揺れていた。
「わ、メルヘンドロップがもう咲いてる」
グリはピンク色に色づいた花を見つけると、そっと茎から摘みとった。花の根元に唇を当てると、甘い蜜がこぼれてくる。
「甘いなぁ」
花を唇に挟んだまま、グリは今年初めてのメルヘンドロップをうっとりと味わった。
メルヘンドロップは不思議な植物で、つぼみや咲き始めの花は白色だが、花の付け根の蜜が熟すにつれてだんだんとピンク色に変わっていく。花をあまり傷つけないように、毎朝ひとつだけメルヘンドロップの蜜を味わうのがグリにとってひそかな楽しみだった。
―そういえば、メルヘンドロップの蜜をなめると恋が叶うんだっけ。
そんなことを思い出して、グリは赤面した。昨晩あれほど、深い意味なんてないと考えようとした優しい笑顔がまた脳裏に戻ってくる。
今までおいしいおやつとしか思っていなかったメルヘンドロップが急に恋の妙薬のように感じられ、なんだか自分がうしろめたいことをしているような気持ちになった。
慌ててピンク色の花を口から離してそっと地面に置くと、グリはぺちぺちと両手で自分の頬をたたいて気合を入れ直し歩き始めた。
アーチをくぐると、おかみさんは朝食の配膳を済ませて庭木の水やりをしていた。
「おはようございます。昨日はすみませんでした。…その、お客様の前でそそっかしい失敗をしてしまって」
「あらおはようグリ。いいんだよ、今日もう一回きちんとご挨拶しておいで。それより本当に怪我はないのかい?あんな勢いで飛び出していったから、私もディアス様もぽかんとしちゃったよ」
おかみさんは今思い出してもおかしい、といった様子で笑った。グリもつられて笑顔になる。
「ちょっとおしりが痛いんですけど、大丈夫です。貴族様のお名前はディアス様、というのですね」
階段下の物置の隅にかばんを降ろすと、スカートのすそに枯れ草なんかがついていないか確認しつつ、ぱんぱんとはたいてみた。以前どこかの客室に置いてあったのか、埃をかぶった鏡があったので目をやった。
癖のないこげ茶色の髪は邪魔にならないように一つにまとめているものの、そろそろ切らなければ面倒な長さだった。濃いグレーがかった緑色の瞳は、薄暗い物置の中ではほとんど色彩を持っていない。
客観的に言ってしまえば、華が無かった。
「…うん。知ってる」
グリはややうんざりした調子で鏡を見るのをやめると、物置を出た。
自分の容姿がどうであろうと、階段から転がり落ちた娘であることには変わりない。まずは気を取り直して、貴族様改め、ディアス様にきちんとご挨拶しなければ。
グリは深呼吸すると、勇気を出して客室のドアをノックしたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
身代わり令嬢、恋した公爵に真実を伝えて去ろうとしたら、絡めとられる(ごめんなさぁぁぁぁい!あなたの本当の婚約者は、私の姉です)
柳葉うら
恋愛
(ごめんなさぁぁぁぁい!)
辺境伯令嬢のウィルマは心の中で土下座した。
結婚が嫌で家出した姉の身代わりをして、誰もが羨むような素敵な公爵様の婚約者として会ったのだが、公爵あまりにも良い人すぎて、申し訳なくて仕方がないのだ。
正直者で面食いな身代わり令嬢と、そんな令嬢のことが実は昔から好きだった策士なヒーローがドタバタとするお話です。
さくっと読んでいただけるかと思います。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
好きすぎます!※殿下ではなく、殿下の騎獣が
和島逆
恋愛
「ずっと……お慕い申し上げておりました」
エヴェリーナは伯爵令嬢でありながら、飛空騎士団の騎獣世話係を目指す。たとえ思いが叶わずとも、大好きな相手の側にいるために。
けれど騎士団長であり王弟でもあるジェラルドは、自他ともに認める女嫌い。エヴェリーナの告白を冷たく切り捨てる。
「エヴェリーナ嬢。あいにくだが」
「心よりお慕いしております。大好きなのです。殿下の騎獣──……ライオネル様のことが!」
──エヴェリーナのお目当ては、ジェラルドではなく獅子の騎獣ライオネルだったのだ。
悪役令嬢だとわかったので身を引こうとしたところ、何故か溺愛されました。
香取鞠里
恋愛
公爵令嬢のマリエッタは、皇太子妃候補として育てられてきた。
皇太子殿下との仲はまずまずだったが、ある日、伝説の女神として現れたサクラに皇太子妃の座を奪われてしまう。
さらには、サクラの陰謀により、マリエッタは反逆罪により国外追放されて、のたれ死んでしまう。
しかし、死んだと思っていたのに、気づけばサクラが現れる二年前の16歳のある日の朝に戻っていた。
それは避けなければと別の行き方を探るが、なぜか殿下に一度目の人生の時以上に溺愛されてしまい……!?
婚約破棄された悪役令嬢の心の声が面白かったので求婚してみた
夕景あき
恋愛
人の心の声が聞こえるカイルは、孤独の闇に閉じこもっていた。唯一の救いは、心の声まで真摯で温かい異母兄、第一王子の存在だけだった。
そんなカイルが、外交(婚約者探し)という名目で三国交流会へ向かうと、目の前で隣国の第二王子による公開婚約破棄が発生する。
婚約破棄された令嬢グレースは、表情一つ変えない高潔な令嬢。しかし、カイルがその心の声を聞き取ると、思いも寄らない内容が聞こえてきたのだった。
婚約破棄したら食べられました(物理)
かぜかおる
恋愛
人族のリサは竜種のアレンに出会った時からいい匂いがするから食べたいと言われ続けている。
婚約者もいるから無理と言い続けるも、アレンもしつこく食べたいと言ってくる。
そんな日々が日常と化していたある日
リサは婚約者から婚約破棄を突きつけられる
グロは無し
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる