麗しの貴族様は田舎娘のお楽しみを知らない

中村わこ

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麗しの貴族様はおまじないを信じない

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思ったよりも早く、その時は訪れた。

 太陽はまだのんびりと空高く、暖かい光を注いでいる。
 グリはペンションの庭先で、物置小屋の屋根の下に出来た大きなクモの巣を払おうとほうきを手に奮闘していた。くもの巣は粘りがあってほうきにまとわりつくが、隅々まできちんと落とさないとチリが残って見栄えが悪い。一生懸命大作を仕上げたクモには悪いが、こちらも仕事だから仕方がない。

 両手でほうきを持って爪先立ちしその先をくもの巣めがけて振り回すと、ご丁寧に梁に積もったホコリや何やらも一緒に落ちてくる。
 「わっぷ!」
 落ち葉やホコリ、謎の黒いふわふわが顔面めがけて落ちてくるのを見て、急いで数歩避難した。チリが静まった頃を見計らって目を開けると、くもの巣はホコリや落ち葉をくっつけてねちょねちょと梁に絡まっていた。
 グリがうんざり、といった表情でまたほうきを伸ばそうとしたそのとき、後ろから声をかけられた。
 「グリ、今出られる?」
 振り向くと、ディアスがこちらに手を振って笑っている。
 「あ、はい!」
 ぱっと笑顔になると急いでほうきを用具入れに戻し、すらりと背の高い声の主に駆け寄った。
 「ごめんね仕事中に」
 「いえ、クモの巣はいつでも落とせるので大丈夫です。じゃあ行きましょうか。ご案内しますね」
 元はといえば自分が誘ったのだけど、なんだかデートみたいでうれしいかった。

 「あ、ついてる」
 ディアスがいきなり背をかがめたので、グリの足は急停止した。
 「ふわ!」
 真剣な表情で頬に手が伸ばされ、長い指がそっと頬に触れた感触がした。視線のやりどころに困ってぎゅっと目をつむると、すぐに晴れやかな声がした。
 「ほら」
 目を開けてみると、ディアスの手のひらには落ち葉のかけらが乗っている。どうやらさっき梁から落ちてきたもののようだった。
 「あ、ありがとうございます……」
 落ち葉をくっつけたまま話していたことも、頬に触れられたことも同じくらい恥ずかしくて、体温が上がっていくのを感じた。
 『この人の前で、もっとちゃんと、一人前のレディのように振舞いたかった』
 急に思いがこみ上げてきて、それをどう表現していいのかわからなくて顔を伏せた。胸がどくどくと脈打っていて、目元がじんわり熱い。
 「どうしたの?」
 ディアスが遠慮がちに背中をなでてくれる。心配させるようなことはしてはいけない。これは私自身の心の問題だから。
 「大丈夫です。行きましょう」
 ちゃんと笑顔を作れたか心配だったが、ディアスは納得してくれたようだった。 
 
 「ここです」
 グリは笑顔でディアスを振り返った。
 そこはペンションの横から植え込みを抜けると現れる小高い丘で、グリのとっておきの場所だった。大きなクスノキが一本生えていて、なだらかな丘を一面に見渡すことが出来る。
 「すごい。きれいだ」
 ディアスが素直に感嘆の声を上げた。その瞳には丘に広がるピンク色の花々が写っていて、グリはなんだか胸が苦しくなった。

 「喜んでもらえてよかったです。都のほうでは、こんな景色は見られないと思って」
 もっと話したいけれど言葉に出来なくて、そっと足元のメルヘンドロップを一輪摘んだ。
 「咲き始めは白いんですけど、蜜が熟すとピンク色になるんです」
 花をそっとつまみ取ると、付け根を唇で挟んだ。すぅっと蜜を吸って、手のひらでピンク色の花を転がす。
 「こうやって吸うと甘いんです。不思議な花だから、蜜を吸うと恋が叶うっていうおまじないもあって。やってみますか?」
 ディアスは感心したようにうなずくと、グリの手からひょいとピンク色の花をつまみとった。その付け根を口に含むと、再びメルヘンドロップの花畑を見つめている。
 予想外の出来事に静止することも出来ず、グリはディアスの唇に納まったピンク色の花をぽかんと見つめた。
 これは間接キスではないですか?
 穴が開きそうに見つめているグリの視線を感じたのか、ディアスが花から唇を離した。そして困ったように笑った。
 「甘くない」

 鼓動が一気に高鳴って、目からぽろぽろと涙が落ちるのをグリは止めることができなかった。
 私のことを、からかっているんだろうか。
 恋の駆け引きに慣れた貴族ならば、小娘の気持ちをもてあそぶのはたやすいことだろう。勘違いした田舎娘が舞い上がったり落ち込んだり、一喜一憂するのを見て心の中で楽しんでいるのかもしれない。
 でも私はどうしようもなく、この人に恋をしている。
 それはグリの心の底にチカリと光る確かな事実だった。
 だから、伝えてしまおう。私の初恋を言葉にして、この人に渡してしまおう。


 彼女は少し顔を上げて、まっすぐに僕と目を合わせた。
 涙に濡れたヴェルディグリの瞳は彼女の強い意思を思わせて、とても美しい。
 初めて出会ったときに、驚いたように頬を染めた彼女。ぴしりと姿勢を正して、おいしそうにお菓子を食べる彼女。僕が結んであげたリボンをうれしそうに鏡に映す彼女。彼女はどんなときも眩しいくらいに命の輝きに満ちていて、愛おしかった。
 
 彼女が僕に向けた想いは、貴族に対する物珍しさを錯覚しているところもあるだろう。それでも、どうしようもなく彼女が欲しかった。
 意を決したように開かれた彼女の唇を、柔らかな口づけでそっとふさぐ。
 メルヘンドロップの蜜は僕には要らない。
 彼女の唇は、どんな花の蜜よりも甘いのだから。
 

 

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