きっと日本で1番長いラブレターを君に送る

米屋 四季

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『朝陽と夕陽』

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 書いていた小説が完成し、僕は顔を上げる。
 閉じているカーテンの隙間から薄明かりが漏れていて、それを開くと東の方角に太陽が登っていた。
 母さんと父さんに自分の書いた小説を見せた後、自分の部屋に戻って小説を書き始めてから寝ることなく、今の今までずっと小説を書き続けていた。
 完成させたのは『僕と君』と題を打った、たったの4699文字の小説。
 それを書くためだけにかなりの時間を費やした。
 何度も書いた。何度も消した。何度も読み返した。
 喜びも悲しみも怒りも愛も感動も痛みも苦しみも後悔も感謝も――全部、全部、この4699文字に込めた。
 付き合いたい、とか、愛してる、といった言葉はあえて使わなかった。
 わざわざ書かなくても、この気持ちは嫌というほど菜花さんには伝わっているだろうから、必要無かった。
 それよりも、菜花 旭という存在が僕にもたらした変化を伝えることの方が、今の彼女に必要だと思った。
 完成させた小説を一刻でも早く菜花さんに読んでもらいたくて、僕は自分の部屋を飛び出す。
 一階に降りると、母さんと父さんはもう既に仕事に行ったみたいで、その姿はなかった。
 その代わりに、リビングの机の上にメモ書きとカブの鍵が置かれていた。

[夕へ

冷蔵庫の中におにぎりがあります。朝ご飯はちゃんと食べること。
そして、まだ寝ていないのなら、ちゃんと寝ること。
ちゃんと寝て、疲れがしっかりとれたら、気を付けて行ってらっしゃい。
バイクの鍵はもう返さなくていいです。

母より]

 ……僕は夢中で小説を書いていたから気付かなかったけど、母さんは仕事に行くまでの間に、僕の様子を確認しに来たのだろう。
 冷蔵庫を開けると、大きな塩おにぎり2つがラップに包まれ入れられていた。
 母さん、ありがとう。そして、ごめんなさい。
 そう心の内で謝り、僕は冷えたおにぎりを一気に頬張り、カブの鍵を持って家を出た。




 カブを停め、ユキカさんの家の前に立ち、僕はインターホンを鳴らす。
 僕はきっとユキカさんが前に言っていた自信に満ち溢れた顔をしていたのだろう。
 家から出てきたユキカさんは僕を見るや否や優しく微笑み、「少し待ってて。旭ちゃんはまだ実家にいるから、位置情報を四葩君に送ってあげるわ」と言ってスマホを取り出す。
 僕に位置情報を送ろうとスマホを操作するユキカさんを「あっ、待ってください」と僕は慌てて止めた。
 ……これを書いている今思うと、菜花さんの実家の位置情報を貰うのは僕にとって得しかないのに、どうして止めたんだろう? と本気で思う。
 言い訳をさせてもらうならば……この時の僕は一日以上寝ていないのと小説を書き切ったことによりテンションがおかしくなっていて、正常な判断が出来ていなかった。
 それに僕には僕なりの計画があって……って、ここでだらだらと言い訳を書いたところで過去は変えられない。
 まぁ、なんにせよ、次に僕がユキカさんにこうお願いしたのだけは確かだ。
 
「菜花さんにこれだけを伝えてくれませんか? 『自分だけ言いたいことを言って逃げるのは卑怯だ。最後に文句の1つや2つを言ってやるからそっちから会いに来い。菜花さんが1番好きな場所で待ってる』と。きっとそれで伝わると思うので」




 菜花さんが1番好きな場所。そこに僕はユキカさんの家を出発してからすぐに向かったので、昼過ぎには到着した。
 駐車場にカブを停め、学校のグランドから遊具を全て撤去してみましたって感じのただっ広い広場を抜けると、目の前に海が広がる。
 ここは僕と菜花さんが初めて出かけた時に訪れた、夕陽が綺麗に見える海岸だ。
 潮が引いていれば潮干狩りをしている人もいるが、今は潮が満ちており、平日の真っ昼間というのもあってか、この場所にいるのは僕1人だった。
 ……到着した今さらになって思うが、もし菜花さんが僕に会いに来る気になったとしても、ちゃんとここに来てくれるだろうか?
 菜花さんの1番好きな場所で待っていると伝えてほしいとユキカさんには言ったが、正確には菜花さんの1番好きな景色だ。
 しかも菜花さんはここの夕焼けの景色が好きなので、もし僕の意図を汲み取ってくれていたとしても、夕方にここに来るかもしれない。
 家で菜花さんと話すよりも、1番思い出に残っている場所で菜花さんと話せば彼女を説得できる可能性が上がるかもしれないと、この場所を選んだが……こんなことなら、あの時にちゃんとユキカさんから菜花さんの家の場所を教えてもらって、直接菜花さんに会いに行けばよかった。
 そんな後悔が今さらになって次々と、時間が経って冷静になってきた頭を悶々と悩ませ、白い砂浜に置かれているたった1つのベンチに僕はとりあえず腰を降ろす。
 春の心地の良い気温。雲の無い快晴に広がる青空。底が透き通って見えるほど綺麗な海。肌を撫でるように吹くささやかな浜風。
 それらが酷使してきた体と頭を労り、とてつもない疲労感と睡魔が急激に僕を襲った。
 少しだけ休もうか……。そう思いながら、目を瞑る。
 限界はとうの前から迎えていたのだろう。
 意識はすぐ、微睡の中に落ちていった。




 気が付けば僕はどこかの林道に立っていた。
 周りを見渡すことは出来ても、どうしてか動くことが出来ない。
 周囲には僕以外の人はいなくて、緑が生い茂った沢山の木々に僕は囲まれていた。
 こんな状況にも関わらず、なぜか僕は焦ってはいなかった。
 ここに来る前に何をしていたのかを、思い出そうともしなかった。
 しばらくの間、流れていく時間に身を任せるがままにぼーっと突っ立っていると、奥の方から何やら人の話す声が聞こえてきた。
 次第に声は僕の方に近づいてきて、奥の方からこっちに向かって歩いて来る3人の人影が見えた。
 僕は声を出さずに、3人が僕の元に来るのを待つ。
 そして、3人の顔がしっかりと確認出来るところまで迫ってきて――その3人の内の1人は、僕だった。
 もう1人の僕がいることに驚きはなく、有り得るはずがない目の前の光景に、これは夢なんだ、と思った。
 僕がいて。いつものように首に一眼レフをぶら下げている菜花さんがいて。その間に小さな女の子がいた。
 僕と菜花さんは何かを話しながら、真ん中にいる小さな女の子の手を引いて歩いている。
 その3人の顔は眩しいほどの笑顔で……きっと誰が見ても、幸せそうだった。
 3人は僕が見えていないのか、僕の横を素通りし、そのまま歩き続ける。
 僕は振り返って、幸せそうな3人の後ろ姿を眺め続けた。
 ただ、それだけの夢。
 それなのに、どうしてか――僕はとても幸せな気持ちになれたんだ。
 

 

 瞼の裏側で眩しさを感じ、僕は目を開いた。
 ボヤけていた視界は段々と焦点が合っていき、目の前の景色を鮮明に映し出す。
 青色に染まっていた空は茜色に染まっていた。
 日中はギラギラと輝いていた太陽はまん丸な円形となって海の上に浮かび、ゆらゆらと揺らめく海面にオレンジ色の道を作っている。
 あぁ、綺麗だなぁ……。
 まだ不明瞭な頭でそう思いながら、僕は目の前の美しい景色に魅入る。
 そうしてしばらくの間、ぼーっと目の前の景色を眺めていると、徐々に脳は覚醒していき――僕はふと違和感を感じた。
 人が3人ほど座れるベンチの右端に僕は座っているはずなのに、左肩が柔らかい何かに触れている。
 明らかに硬い木材の感触ではないし、ましてや右端に座っているから左肩が何かに当たるわけがないのに……他に考えられる可能性としては、隣にいる見ず知らずの人に寄りかかって……。

「うわっ⁉︎ す、すみません!」

 僕は慌てて体を右側に逸らし、隣に顔を向ける。
 そして、隣に座っている人の顔を確認した瞬間――一瞬だけ頭の中が真っ白になって、それから色々な感情が一気に溢れ出して……僕は泣いてしまいそうになった。
 もう2度と会えないかもしれない。そう思っていた人が、そこにいた。

「おはよう。と言っても、もうそんな時間じゃないけどね」

 菜花さんはそう言って、淡く微笑む。
 懐かしい声だった。懐かしい表情だった。
 菜花さんと会えなかったこの1ヶ月半の間、彼女のことを思わない日は無かったのに、数年も、いや、数十年も会っていないような、それぐらいの懐かしさを僕は感じていた。
 いつからいたの? 少し痩せた? 体は大丈夫? 会いに来てくれないかと思ってた。――言いたいことはいっぱいあったけど、声が出なかった。
 だけど、それらは代わりに、僕の表情として出ていたのかもしれない。

「勘違いしないでね。四葩君と付き合う気なんてこれっぽっちもないし、そもそも本当は会う気さえもなかったよ。でも、おばあちゃんがわざわざ私のところに来て『四葩君に会ってあげて』ってお願いしてきたから、だから仕方なく来ただけで……」

 菜花さんは淡々とそう説明すると、僕から顔を逸らして海の方に目を向け、さらに言葉を続ける。

「で? 最後に言いたい文句ってなに? それを聞いたら私はもう帰るから」

 あまりにも冷たい言葉。
 それを聞いて、菜花さんと会えたことによって緩んでいた気を、僕は引き締める。
 菜花さんと別れた1ヶ月半前から、彼女の気持ちは何も変わってはいない。
 ここで菜花さんの心を動かすことが出来なければ、僕たちの関係は本当に終わってしまう。
 きっとこれが最後のチャンスだ。
 余計な言葉なんていらない。僕は僕の書いた小説と菜花さんを信じるだけ。
 僕はポケットからスマホを取り出し、『僕と君』と題を打った小説を開く。

「さあって、読んでもらおうか。約5000文字。僕が菜花さんに伝えたいことを全部ここに詰めてきた」

 僕はスマホを菜花さんに差し出す。
 しかし、差し出されたスマホを菜花さんは中々受け取ろうとはしない。
 何かを警戒するような顔で、菜花さんは僕とスマホを交互に見つめる。
 約5000文字。それらが全て文句ではないことなんてきっと菜花さんは理解していた。
 僕がどんな気持ちでどれだけ一生懸命にこの小説を書いたのかを、きっと菜花さんは知っている。
 過去に僕の書いた小説を読んで心を動かされた菜花さんだからこそ、今回も僕の書いた小説を読んで固めた覚悟が揺らいでしまうのを恐れているのだろう。
 僕は何も言わない。けれど、じっと菜花さんの目を見つめ、さらにスマホを押し付けるように差し出す。
 僕のその行動に菜花さんは諦めるように「はぁ……」と一息吐いて、僕からスマホを受け取った。

「本当に……これが最後だから」
 
 菜花さんが僕に向けて言った言葉。だけど、それはまるで自分に言い聞かせるような言い方だった。
 菜花さんは『僕と君』を読み始める。
 小さな口をキュッと閉じ、大きくて丸い瞳を細かく動かし、画面の端を押さえる右手の親指を少しずつスワイプさせて。
 僕の書いた小説を菜花さんが読む時、いつもなら菜花さんの表情はころころと変わるのに、今回はかなり反応が薄かった。
 ……いや、正確に言うならば、菜花さんは表情が変わるのを我慢しながら読んでいる、の方が正しいのかもしれない。
 でも、元々が表情を大きく動かす人だから、時折り目元や口元が大きく動き、感情を隠しきれてはいなかった。
 菜花さんの口元がへの字を結ぶ。――なんとなく読んでいるところが分かった。神社で話した時に僕が感じた第一印象のところを菜花さんは読んでいるんだろうな。
 しばらくすると、今度は口元を緩ませて菜花さんは少しだけ表情を綻ばせた。――読む速さから察するに、菜花さんのような人になりたいと書いた部分を読んでいるのだろうか?
 そしてまたしばらくして、今度は…………表情が大きく変わった。
 菜花さんの丸くて大きな瞳が、さらに見開かれてより一層丸みを帯びる。
 その瞳に今にも溢れんばかりの涙が浮かぶ。
 菜花さんはちょっとだけ開いた口を、ギュッと唇を噛み締めるようにすぐに閉じた。
 泣くの我慢するように、菜花さんの表情がくしゃりと歪む。
 でも、貯蓄量を超えてしまった涙は瞳から溢れ出し、一粒、そしてまた一粒と、菜花さんの頬を伝って流れていく。
 ――僕が菜花さんに1番伝えたかったこと。僕が菜花さんの心に1番届いてほしかったところ。きっとそれが菜花さんに伝わった。菜花さんの心に届いた。
 それが確認できた僕は心の底から安堵した。きっと伝わるって信じてたけど、少しだけ不安もあったから。
 我慢し続けた反動からか、大きく変化させてしまった表情を菜花さんはもう戻すことが出来ないようで、それからずっと菜花さんは涙を流しながら僕の書いた小説を読み続けた。
 そうしていくばくかの時が過ぎて、菜花さんがスワイプさせていた右手の親指の動きが完全に止まった。
 もう小説を読み終えたのだろうか? 僕がそう思ったのと菜花さんが口を開いたのはほぼ同時だった。 

「…………なにこれ?」

 菜花さんの発したその声は、消え入りそうなほどに細々しかった。

「こんなこと伝えられても……私は、もう……」

 菜花さんの濡れている瞳が小さく揺れる。

「こんなのっ!」

 痛々しい叫び声を菜花さんはあげて、編集のボタンをタップし、震える指先がゴミ箱のアイコンに触れた。
 『僕と君』が[小説]のファイルから消失する。
 そしてすぐさま、菜花さんは最近削除した項目欄を開き、そこに表示されている『僕と君』も消そうとした。
 僕は何もせずに、菜花さんの行動を見守る。
 『僕と君』は菜花さんのためだけに書いた小説だ。だから、どうしようと菜花さんの自由だ。

【このメモは削除されます。この操作は取り消せません。本当に削除されますか?】

 最後の警告メッセージがスマホの画面に表示される。
 菜花さんの指がスムーズに動いたのはそこまでだった。
 【削除】――真っ赤に染まったその文字を菜花さんは見つめる。
 震える指先は中々画面に届かない。
 もし、その指先が画面に触れたら、僕が一生懸命頑張った数時間がたったのそれだけで、無に帰してしまう。
 だけど、僕は何も言わない。
 菜花さんを信じているから、彼女の行動の行く末を僕は見守り続けた。
 ……結局、菜花さんの指先が画面に届くことはなかった。
 菜花さんは僕のスマホを、大切な物を守るように、ギュッと胸に押し当て抱きしめる。
 それが菜花さんの出した答えだった。
 菜花さんの瞳から止まっていた涙がまたぽろぽろと溢れる。

「私と一緒に居たって……幸せになんてなれないのに……」

 苦しそうに呟いた菜花さんのその言葉を聞いて――僕はもう我慢することが出来なかった。
 体が勝手に動いていた。

「――あっ……」

 突然僕に抱きしめられた菜花さんは驚きで小さく声をあげる。
 それでも僕は菜花さんの体を離さない。
 今にも崩れ落ちてしまいそうなほどぼろぼろな菜花さんを、壊れないように、どこか遠くに行ってしまわないように、抱きしめ続けた。
 
「ずっといつまでも幸せに暮らしている人たちなんてそうそういないよ。大切な人が病気になったり、事故に遭ったり、不幸が訪れてしまう可能性は誰にでもある。でも、そういった苦しみや痛みを大切な人と共有して、分かち合って、支え合う。それが誰かと一緒に生きていくってことだと、僕は思うんだ」

 菜花さんの心を閉ざしている最後の扉。それを菜花さん自身が壊せるように、僕はさらに言葉を重ねる。

「ねぇ、僕は菜花さんの本音が聞きたいよ」

 その僕の言葉を最後に、僕たちの間に静寂が訪れる。
 波の音が、木々の揺れる音が、何かしらの鳥の鳴く声が、耳に届く。
 僕の書いた小説はきっと菜花さんの心に届いていた。けれど、変えることまでは出来なかったのだろうか?
 そう思った直後だった。菜花さんが口を開いた。

「四葩君はいいの? ……私と一緒に居たら、他の人からあの2人は不幸だって思われるかもしれないんだよ?」

 菜花さんの発したその声は震えていて、ささやかな波の音に攫われてしまいそうなほど小さかった。

「……他人がどう思おうが僕は構わないし、勝手に思わせておけばいい。大切なのは僕たちがどう思うかだ。僕たちの幸せは誰かになんて決められない。僕たちの幸せは僕たちで決める」

 僕がそう言うと、菜花さんの手が僕の背中にそっと触れた。

「私……四葩君が思ってるほど強くはないよ。四葩君のこといっぱい傷付けちゃうかもしれないよ……」

「大丈夫だよ。菜花さんの弱さも僕はちゃんと知っている。それに前にも言ったけど、いくら傷付けられたって僕は菜花さんを嫌いになんてならないよ」

 僕のその返答に、僕を抱きしめる菜花さんの腕に弱々しくも力が込められる。

「でも、医療費だって馬鹿にはならないし、手術することになれば体の傷跡だって増えるし……」

「もしかして僕が外見だけで菜花さんを好きになったと思ってる? ……まぁ、傷跡が増えるのは確かに悲しいことだけれど、僕は菜花さんの全てが好きだから。それにお金のことも心配いらないよ。僕が仕事をたくさん頑張る」

「それじゃあ四葩君の夢は――」

「絶対に諦めるもんか。だって菜花さんと約束したからな。何年かかったとしても、絶対に叶えてやる。だから――」

 僕は強く、強く、菜花さんの体を抱きしめる。
 これから言う言葉が菜花さんの心に届くように。
 僕の心が菜花さんに伝わるように。

「僕と一緒に生きてくれませんか?」

 ――きっとその言葉は、僕の心は、菜花さんの心にちゃんと届いた。
 少し息苦しくなるほど、菜花さんの僕を抱きしめる力が強まる。

「ごめんなさい……。酷いことしたり、言ったり……本当にごめんなさい……。四葩君のことが嫌いだなんて……思ったことは一度もないよ……。私、本当は私……」

 菜花さんが僕から体を離す。
 菜花さんと目が合う。
 夕陽に照らされ、琥珀色に輝く濡れた瞳はしっかりと僕を捉えていて――

「私、四葩君のことが大好きだよ」

 ――そう言って、涙を溢しながら菜花さんは微笑んだ。
 僕のことが好きだと、初めてその言葉が菜花さんの口から聞けた。
 それは僕がずっと待ち続けていた言葉であり、菜花さんがずっと言うのを我慢していた言葉。
 僕は嬉しくって、たまらなくて――

「僕も菜花さんのことが大好きだ」

 そう返して、僕は再び菜花さんを抱きしめる。
 菜花さんもまた、僕を強く抱き返した。
 僕は泣きながら笑っていた。
 きっと菜花さんもまた、泣きながら笑っていた。




 僕たちはベンチに座り、ささやかな波の音を聞きながら夕陽が沈んでいくのを眺めていた。
 夕陽は地平線に届く前に段々と崩れて消えていく。
 夕陽が消えて完全に見えなくなってしまうまで、僕たちは黙ってそれを見届けた。
 空が柔らかい茜色から真っ赤な焼け空に染まる、そして赤色から紫へ、紫から深い青色に。
 地平線で混じり合う橙色と深い青色の薄明は言葉では言い表せないほど幻想的だった。
 空の藍色に染まった部分には一等星が浮かんでいる。
 もうすぐ夜がやってくる。

「綺麗だね……」

 菜花さんは海の方を眺めながら、目を細めて囁くように呟く。
 そして――

「この美しい景色に呑まれるように……このまま私も消えてしまえばいいのに……」

 と、菜花さんは微笑んだ。
 今が心の底から幸せであると菜花さんが感じているからこそ、あの言葉を口にしたということを僕は知っている。
 僕も同じ気持ちだ――と菜花さんに同調したかったけど……でも、僕はそれをしなかった。

「駄目だよ」

「えっ?」

 きっと菜花さんは僕が同調してくれると思っていたからか、予想外の僕の言葉に菜花さんの目が驚きで丸くなる。
 そんな間抜けな顔をしている菜花さんを僕は笑う。
 そして、僕は笑いながら菜花さんにこう言った。
 
「だって、まだまだこれから沢山の幸せが僕たちを待ってるんだ。消えてしまうには勿体ないよ」

 僕のその言葉に、菜花さんはさらに目を大きく丸くさせる。
 そして――菜花さんは大粒の涙を一粒だけ流し、「そうだね」と明るく微笑んだ。
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