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◆ 参 ◆
しおりを挟む火を起こし、飯を炊く。
少しすると古参のおしまがやってきた。
そのまましばし休む間もなく厨の中で立ち回る。生駒屋の家族と弥生の分だけ支度すればいい朝夕と違い、通いの職人たちもいれ両手で足りぬ人数分の食事を用意するのはせわしない。
みそ汁に刻んだ葱を入れる頃合いになったころ、ようやく一息ついたおしまが話しかけてきた。
「伊之助さんとこの息子に絡まれたんだって?」
おしまにとって文次はあくまでも伊之助の息子らしい。
近くの下駄屋の伊之助のもとにふらりと帰ってきた文次は悪い人間ではないのだが、あまり仕事にも身が入らず女を口説くのが好きらしい。
がっしりとしていかにも貫禄と頼もしさがあるこのおしまは、認めた相手の名しか呼ばない。故に彼女に認められぬ者は誰々の子供、どこそこの奉公人でしかないのだ。
薄く笑って「大したことはないです」と弥生は返した。
「気持ちはわからないでもないんだけどね」
笑いながらおしまは葱をざざっとみそ汁へとぶち込んだ。
「あんたは真面目で働き者で器量もいい。多少愛想がなくったって男どもが放って置かない気持ちはわかるよ。あたしだったら大喜びで浮かれるってのに、勿体ないったらありゃしない」
「そんなこと言って、おしまさんは旦那さん一筋じゃないですか」
「連れ合いも長いからね。情も湧くさ。ついでに愚痴もわんさか湧くけどね」
からからと笑うおしまと飯をよそい、みそ汁を注ぐ。小鉢を添えて、漬物を刻み大急ぎで膳を用意する。
食べたら後片付けをして、掃除に繕いものにおりんの遊び相手をする。
忙しないのが有り難かった。
こうして日々忙しなく働いていれば時は過ぎる。
何も考えずに時が過ぎていくのは弥生にとってはなによりも有り難かった。
女中を一人増やそうかという話が出た時でさえ、給金は同じでいい、自分がその分も働くからと勝三郎に強請っては「お前、そりゃ普通は逆だろう」と呆れられたほどだ。
誰もが、忘れろと言うことを知っている。
前を向き、しっかり生きろ。
その言葉が正しいことだってわかっている。
だけどそれは言う程に簡単なことではないこともよく知っている。
弥生は忘れたいと願い、また忘れたくないと願ってもいる。
当時、弥生が勤めていたお屋敷は柳屋といって薬種問屋を営んでいた。
歴史の長い大層な大店で、死者を出し全焼した折には随分と騒がれもしたものだ。
屋敷の使用人というよりは、お嬢さまの酔狂で話し相手として雇われていた弥生はその日、お使いを頼まれ屋敷には居なかった。
だから焼け出されて職も住処も失ったとはいえ、弥生の体には火傷ひとつなかった。
だけどそれでも、あの火事は弥生の心を殺した。
生き延びたことが辛かった。それでも命を絶つことさえできず、その日暮らしのように生きていた。
春だった。
痛手が癒えず、大切な人を喪って、死んだように生きていた弥生のことなどお構いなしとばかりに世間は浮き立っていた。
この世は己のものとばかりに春を謳歌する桜見物に賑わう人々。
麗らかな陽気は花の蕾を開かせて、人々の心を際限なく浮き立たせた。
その陽気に当てられすぎたのか、顔を赤く染め、酒臭い息と意味をなさぬ言葉を喚き散らしながら包丁を振り回す男が一人。
狂気に濁ったその眼は、狂乱を増したかのように逃げまどう人々の中で親とはぐれてしまった幼い少女を捉えた。
振り下ろされた刃物は痛みよりも熱さを伝えた。
気づいた時には弥生は幼い少女、おりんを背に庇ってその凶刃を受けていた。
とっさに男に飛びかかった男衆のお陰もあって傷はそう深くはなく、傷痕は残ったがいまも動く分には支障がない。
涙を流し、両手を握って何度も礼を告げるお妙と、弥生が負った傷を詫びる勝三郎の姿に、見かねた弥生は正直に打ち明けた。
自分は勇敢だったわけでも慈悲深いわけでもない、と。
いっそ、あの凶刃に貫かれるのを望んでさえいたのだ、と。
だが年若い娘のそんな告白は彼らにとって痛ましいだけだったようで、そのときのことが切っ掛けで弥生は生駒屋で住み込みで働かせて貰えることになった。
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