九十九歳の砂時計、十の後悔、十の忘却

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第1話:黄金のアイデア、砂の友情

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 ——ひとつめの後悔:親友を裏切り、孤高の成功を選んだ日——


 深い呼吸をした。空気は肺を満たし、それと同時に降り積もる九十九年分の記憶が、鉛のように心を重くする。  石川慎一郎はその長い人生の終わりに立っていた。  九十九歳。医者から宣告された余命は、わずか十日。  窓の外には、冬の淡い光に包まれた東京の街並みが広がっている。かつて自分がその発展に寄与し、いくつものビルを建て、経済という名の戦場を駆け抜けた街だ。壁には、時の総理大臣から授与された勲章や、経済界の重鎮として表紙を飾った古びた雑誌が飾られている。  世間は彼を「戦後最大の成功者の一人」と呼ぶ。だが、死の淵に立つ慎一郎の胸に去来するのは、達成感ではなかった。それは、心の一番深い場所に沈殿し、決して消えることのない泥のような「後悔」だった。

 彼は窓に映る自分の、深く刻まれた皺を見つめる。  今は亡き妻、美紀との穏やかな生活。子供たちの誕生。戦場から奇跡的に生還した夜。光り輝く瞬間は確かにあった。しかし、その輝きと同じ数だけ、彼は誰かを踏み台にし、切り捨て、孤独を積み上げてきた。 「……やり直せるのなら」  掠れた声が病室に響いたその時、奇跡は起きた。  脳裏に、眩い砂時計が浮かび上がる。サラサラと逆流する砂の音と共に、視界が白濁していく。それは九十九年の人生の節目に十回だけ介入できる、神からの残酷な慈悲——タイムリープの力の目覚めだった。  慎一郎の意識は、猛烈な加速と共に、最も鋭い痛みを持つ「ひとつめの後悔」へと引き戻されていった。


 鼻を突く安価なカレーの匂い。換気扇の回る鈍い音。学生たちの怒号に近い議論。  目を開けると、そこは一九四〇年代後半、戦後の混迷から立ち上がろうとする熱気に満ちた大学の学生食堂だった。 「慎ちゃん、聞けよ! これが俺たちの時代の、新しい『武器』になるんだ!」  目の前に、一人の若者が座っていた。高島康介。  抜群の体格に、戦後の窮乏を感じさせない端正な顔立ち。何よりも、その瞳には世界を塗り替えようとする意志の炎が宿っていた。慎一郎にとって、康介は親友であり、同時に一生追いつけないと確信させる「天才」だった。

 康介はテーブルの上に、ボロボロのノートを広げた。そこには緻密な文字と図解で、あるビジネスモデルが記されていた。 「今は本一冊買うのも大変だ。神保町まで行っても在庫がない。だから、全国の古書店をネットワークで繋ぐんだ。注文があれば、俺たちが即座に手配して送り届ける。……いつか、これが電波に乗って瞬時にやり取りされる時代が来る。これは単なる古本屋じゃない。情報の革命なんだよ!」  康介の弾けるような笑い声が、周囲の学生たちの注目を集める。

 かつての慎一郎は、この瞬間に「嫉妬の炎」を燃やした。  自分にはこの発想がない。自分は康介の引き立て役でしかないのか。その劣等感が、運命を狂わせたのだ。  史実では、慎一郎はこの数日後、康介に黙ってこのノートを盗み出し、有力な出資者の元へ持ち込んだ。康介を置き去りにしたまま会社を興し、彼を業界から永久に追放した。それが慎一郎の「成功者」としての第一歩であり、同時に「人間」としての死の始まりだった。

(……いや、違う。俺が欲しかったのは、こんな紙切れじゃない)


「慎ちゃん? どうしたんだよ、顔色が悪いぞ。カレー、口に合わなかったか?」  康介が心配そうに覗き込んでくる。その無防備で純粋な優しさが、今の慎一郎の心に深く突き刺さった。 「康介」  慎一郎は、震える手で康介のノートを閉じた。 「……そのアイデアは、お前が考えている以上に価値がある。何兆円という金を動かし、世界を変える力を持っている」 「ははっ、言い過ぎだよ。まずは数万円の軍資金からだろ」 「いや、本当だ。……だから、康介。俺と組んでくれないか。お前は、太陽だ。俺は、その熱を現実の力に変える『炉』になる。お前のアイデアを、俺が守る。誰にも奪わせない。……もちろん、俺自身からもだ」

 慎一郎は、椅子から立ち上がり、康介に対して深く、九十度の礼をした。  周囲の学生たちがざわつく。エリートの誉れ高い石川慎一郎が、一学生である高島に頭を下げているのだ。 「康介。俺は今まで、お前に嫉妬していた。お前の才能を盗んで、独り占めしたいと思っていた。……でも、そんな成功に価値はないと、九十九年かけてようやく理解したんだ。俺を、お前の隣に置いてくれ。共同経営者として、対等なパートナーとして」

 長い沈黙が流れた。  康介は驚きに目を見開いていたが、やがて、その瞳に熱いものが込み上げた。彼は立ち上がり、慎一郎の肩を力強く掴んだ。 「……バカ野郎。改まって頭なんか下げんなよ。俺一人じゃ、帳簿一つ付けられないって知ってるだろ? 俺の方こそ、慎ちゃんがいてくれないと、ただの夢想家で終わっちまう」  康介の大きな手が、慎一郎の右手を握りしめる。 「やろうぜ、二人で。世界をひっくり返してやるんだ!」


 そこからの数年間は、慎一郎が知っている「孤独な成功」とは似ても似つかない、泥臭くも輝かしい日々だった。  二人は焼け跡の残る街で小さな事務所を構えた。康介が次々と出す革新的な——しかし時には無謀な——アイデアを、慎一郎が寝る間も惜しんで緻密な事業計画に落とし込んでいく。  資金が底を突き、ヤミ金に近い業者から追い回された夜もあった。二人は一つのアンパンを分け合いながら、冬の公園で震えた。 「慎ちゃん、ごめんな。俺のせいで、お前までこんな目に」 「黙れ、康介。……この苦労こそが、俺たちの資産だ。見ていろ、来月には必ず出資者を黙らせてやる」  かつての人生で、慎一郎は高級車を乗り回し、秘書に囲まれていた。だが、このボロアパートで康介と夢を語り合う夜の方が、比較しようもないほど心が満たされていた。

 やがて、二人の会社「高島・石川商会」は、日本初のオンライン注文システムの先駆けを作り上げ、爆発的な成長を遂げた。  数十年後。二人は並んで、高層ビルの最上階に立っていた。 「慎ちゃん。俺たち、本当にやり遂げたな」  白髪の混じった康介が、横で笑っている。 「ああ。……だが、これからだ。世界はもっと広くなる」  慎一郎は確信していた。一人で辿り着いた山頂は寒々しい荒野だったが、友と登ったこの場所には、温かい風が吹いているのだと。


 ——唐突に、視界が歪んだ。  激しい耳鳴りと共に、康介の笑い声が遠ざかっていく。 「……介! 康介!」  伸ばした手は空を切り、慎一郎の意識は現代の病室へと引き戻された。

 九十九歳の肉体。点滴の音。  慎一郎は、激しい動悸と共に目を開けた。 「……成功、したのか?」  彼は震える手で、枕元のサイドテーブルを探った。  そこには、変化があった。  かつて彼が一人で表紙を飾っていたビジネス誌は消え、代わりに分厚い一冊の社史が置かれていた。タイトルは『高島・石川グループ:二人の先駆者が歩んだ道』。  表紙には、若き日の慎一郎と康介が、肩を組んで笑っている写真が印刷されている。

「……やり直せた。俺は、康介を裏切らなかったんだ……」  慎一郎は、溢れ出す涙を拭おうとした。  だが、その瞬間、脳の奥底で「何か」が削り取られるような激痛が走った。

「……あ、あ……」  彼は表紙の写真を見つめる。  隣で笑っている、この大柄な男。  ……誰だ?  名前が思い出せない。  共にアンパンを分け合った記憶が。資金繰りに苦しみ、夜通し議論したあの熱い言葉が。  まるで、太陽に照らされた砂の城のように、サラサラと崩れ落ち、消えていく。

 これが、タイムリープの「対価」。  過去を書き換えた結果、生じた「新しい歴史」の記憶を、彼は保持し続けることができない。後悔を解消するたびに、彼は人生の輝かしい断片を失っていくのだ。

「……あ、ああ……」  慎一郎は、名前も思い出せなくなった「最高の相棒」の写真に指を触れ、慟哭した。  心は温かい。だが、理由がわからない。  ひとつめの後悔は昇華された。しかし、その代償として彼は、手に入れたはずの「友情の記憶」を支払った。

 カレンダーの数字が、音もなく一枚剥がれ落ちる。  残された時間は、あと九日。  そして、二つ目の後悔——「未知との遭遇から逃げ出したあの日」が、彼の意識を招いていた。
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