九十九歳の砂時計、十の後悔、十の忘却

108

文字の大きさ
2 / 10

第2話:山頂の沈黙、銀河の約束

しおりを挟む
 ——ふたつめの後悔:未知への恐怖に敗れ、可能性を捨てた日——


 九十九歳の慎一郎は、深夜の病室で激しい虚脱感に襲われていた。  つい先ほどまで、胸の奥には確かに「誰かと肩を組んで笑っていた」という熱い感覚があった。しかし、その「誰か」の名前も、共に流したはずの汗の記憶も、今の彼には思い出せない。サイドテーブルに置かれた社史の表紙をなぞっても、隣に写る大柄な男の顔は、霧の向こう側にあるようにぼやけていた。

「これが……代償か」  ひとつめの後悔を消したことで、彼の人生からは「孤独な成功」の苦みが消えた。代わりに、誰かと共に歩んだ「温かな歴史」が刻まれたはずなのだが、その記憶自体が対価として削り取られてしまったのだ。  成功の証拠(社史)だけが残り、それを味わう心(記憶)が消える。それはあまりに過酷な神の遊びに思えた。

 だが、休んでいる暇はない。慎一郎の意識の底から、新たな砂が零れ落ちる。  次に彼が直面すべきは、人生で最も奇妙で、かつ最も臆病な選択をしたあの日の記憶だった。


 ——一九五〇年代。慎一郎は二十代半ばの、血気盛んな青年だった。  康介(今の慎一郎には名前も思い出せない『相棒』)と共に立ち上げたビジネスが軌道に乗り始めた頃、彼は一人、都会の喧騒を離れて奥多摩の山々を登っていた。

 山頂付近、標高千五百メートル。  夕闇が迫り、空が燃えるような朱色から深い藍色へと溶けゆく「逢魔が時」。  静寂。風の音さえ止まったその時、世界の法則が歪んだ。  突如として、頭上の空間が裂けたかのように、眩い光が溢れ出したのだ。

 そこに出現したのは、重力を無視して滞留する、直径二十メートルほどの銀色の球体だった。表面には見たこともない幾何学的な紋様が蠢き、音もなく回転している。  かつての慎一郎は、この圧倒的な「未知」を前にして、腰を抜かした。  理解できない。理屈が通じない。その恐怖が、彼の好奇心を完全に塗りつぶした。彼はUFOから何かが降りてくる前に、叫び声を上げながら斜面を駆け下りた。

 その後、その山域では不思議な磁場や発光現象が報告されたが、慎一郎は二度とそこへは近寄らなかった。彼はビジネスの世界で「現実」だけを信じる冷徹な男となり、空を見上げることをやめた。  あの日、もし逃げ出さずにあの一歩を踏み出していたら、人類の、そして自分の歴史はどう変わっていたのか。それが、彼の人生の「ふたつめの欠落」だった。

(……今度は、逃げない。この足が震えていても)


 慎一郎の意識が、若き日の逞しい肉体に宿る。  冷たい山の空気。肺に吸い込む草の匂い。  そして目の前には、あの銀色の球体が滞空している。

 猛烈な恐怖が襲う。本能が「逃げろ」と叫ぶ。だが、九十九年の後悔を背負った慎一郎の精神は、その足を一歩前へと踏み出させた。 「……私は、ここにいるぞ!」  掠れた声で叫ぶ。  すると、球体の下部から柔らかな光の柱が降り注ぎ、そこから「彼ら」が現れた。

 透明感のある青い皮膚、深淵を見通すような大きな瞳。それは、地球上のどの生物とも異なる姿をしていたが、慎一郎が感じたのは威圧感ではなく、途方もない「哀しみ」と「知性」だった。  彼らは言葉を発しなかった。だが、慎一郎の脳内に直接、静かな波のような思念が流れ込んできた。 『……逃げなかったのだな、小さき命よ』

「ああ。……一度逃げて、一生後悔したからな」  宇宙人のリーダーらしき存在が、慎一郎の前に立ち、その細い指先を彼の額に触れた。  その瞬間、慎一郎の視界は爆発した。

 何万年も前に滅び去った銀河の歴史。環境破壊で死にゆく惑星の断末魔。そして、彼らが宇宙を放浪し、生命の種を守ろうとしている切実な祈り。  慎一郎は、人類が抱える環境汚染や戦争という問題が、いかに矮小で、かつ深刻なものであるかを突きつけられた。 『我々は、この星の「青さ」に希望を見た。だが、このままでは、我々の故郷と同じ道を辿る。……受け取るか? 我々の智慧を。それを正しく使う勇気が、お前にあるか?』


 慎一郎は、その日から「二つの世界」を繋ぐ架け橋となった。  彼は宇宙人から受け取った、大気を浄化し水を再生する「クリーン・エネルギー」の基礎知識を、現代の科学技術と融合させるべく奔走した。

 だが、それは茨の道だった。 「宇宙人からもらった技術だと? 石川くん、君はついに頭がおかしくなったのか」  かつてのビジネスパートナー(康介)でさえ、慎一郎を疑った。世間は彼をペテン師と呼び、既得権益を守ろうとするエネルギー企業からは命を狙われた。

 それでも、慎一郎は諦めなかった。  山頂で出会ったリーナという名の宇宙人の女性(彼女は、慎一郎に地球の音楽を教わることを好んだ)と、人目を忍んで交流を続けた。 「リーナ。君たちの技術があれば、地球は救える。だが、人間の心はまだ、その光に追いついていないんだ」  慎一郎は、アトリエ(以前の記憶でソフィーと過ごした場所とはまた違う、孤独な研究室)で、リーナから授かった数式を解き続けた。  リーナは、青く輝く手で慎一郎のノートに触れ、寂しげに笑った。 『シンイチロウ。あなたは独りではない。あなたの勇気が、いつかこの星の空の色を守る』

 十年、二十年という歳月が流れた。  慎一郎が主導したプロジェクト『Blue Earth』は、ついに世界を動かした。砂漠は緑に変わり、海洋のプラスチックは分解され、空にはかつての透明な青が戻った。  慎一郎は、「ビジネスの成功者」ではなく、「地球を救った救世主」として歴史に刻まれることになったのだ。


 彼らが地球を去る日が来た。  あの日と同じ山頂。再び現れた銀色の球体。 「リーナ、本当に行くのか」 『我々の役目は終わった。……シンイチロウ。あなたは、この星の未来のために、自分自身の人生を捧げた。ありがとう』  リーナが、別れの印として慎一郎に小さなペンダントを渡した。それは、宇宙の共通言語で「平和」を意味する石だった。

 球体が光の中に消えていくのを見届け、慎一郎は深い充足感の中で目を閉じた。  だが、その瞬間、耳元で砂時計がひっくり返る残酷な音が響いた。

 ——現実の病室。  慎一郎は、点滴のチューブに繋がれた自分の腕を見て、絶叫に近い吐息を漏らした。  部屋の様子が一変している。  壁に飾られていた「経済界の勲章」はすべて消え、代わりに世界中から届いた感謝の手紙と、ノーベル平和賞の盾が置かれていた。  窓の外を見れば、そこにはかつてのような煤けたスモッグはない。澄み渡った冬の空が、宇宙の深淵を思わせるほど青く、どこまでも広がっている。

「……できたんだな。俺は、地球を守ったんだ」  慎一郎は、震える手でサイドテーブルにあるはずの「ペンダント」を探した。  だが、手の中には何もない。

 そして、また「それ」が始まった。  脳が焼け付くような痛み。  ……リーナ。  つい数秒前まで、その名を、その青い皮膚の質感を、確かに愛おしく感じていたはずだ。  だが、その記憶が、猛スピードで剥がれ落ちていく。  山頂で彼女と何を話したのか。彼女の瞳がどんな色だったのか。   「……ああ、消える。止まってくれ、消えないでくれ……!」  慎一郎は、自分の頭をかきむしった。  地球は救われた。大気は美しくなった。だが、そのために誰と出会い、どんな孤独な戦いをしてきたのか、その「過程」の記憶がすべて消滅していく。    彼は、窓の外の美しい青空を見つめる。  なぜ、この空がこれほどまでに綺麗なのか。  なぜ、自分はこんなにも涙が止まらないのか。  その理由が、もうわからない。

 ふたつめの後悔は昇華された。  しかし、彼に残された記憶は、もう半分も残っていなかった。    カレンダーの数字が、また一枚、虚空へと舞い上がる。  残された時間は、あと八日。  そして、三つ目の後悔——「最優先すべきだった家族を、最も後回しにした罪」が、冷たく彼を待ち受けていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

再婚相手の連れ子は、僕が恋したレンタル彼女。――完璧な義妹は、深夜の自室で「練習」を強いてくる

まさき
恋愛
「初めまして、お兄さん。これからよろしくお願いしますね」 父の再婚によって現れた義理の妹・水瀬 凛(みなせ りん)。 清楚なワンピースを纏い、非の打ち所がない笑顔で挨拶をする彼女を見て、僕は息が止まるかと思った。 なぜなら彼女は、僕が貯金を叩いて一度だけレンタルし、その圧倒的なプロ意識と可憐さに――本気で恋をしてしまった人気No.1レンタル彼女だったから。 学校では誰もが憧れる高嶺の花。 家では親も感心するほど「理想の妹」を演じる彼女。 しかし、二人きりになった深夜のキッチンで、彼女は冷たい瞳で僕を射抜く。 「……私の仕事のこと、親に言ったらタダじゃおかないから」 秘密を共有したことで始まった、一つ屋根の下の奇妙な生活。 彼女は「さらなるスキルアップ」を名目に、僕の部屋を訪れるようになる。 「ねえ、もっと本気で抱きしめて。……そんなんじゃ、次のデートの練習にならないでしょ?」 これは、仕事(レンタル)か、演技(家族)か、それとも――。 完璧すぎる義妹に翻弄され、理性が溶けていく10日間の物語。 『著者より』 もしこの話が合えば、マイページに他の作品も置いてあります。 https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/658724858

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...