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1話:僕を食らう空白と止まった時計が刻む逆行の予感
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世界が白く濁っていく。
燈(ともり)にとって、それは朝の光のせいではなく、脳の内側からじわじわと侵食してくる空白のせいだった。
二十四歳という若さで宣告された、若年性認知症。
最初、それは鍵をどこに置いたか忘れるといった、ありふれた不注意のふりをして現れた。しかし、今やそれは飢えた獣のように、彼の人生を、愛した映画の筋書きを、親友の笑い声を、そして昨日自分が何を願っていたかという魂の輪郭を、容赦なく食い荒らしている。
燈は、海沿いの古びたアパートの、西日の差し込むワンルームで立ち尽くしていた。
壁には無数の付箋が貼られている。それらはまるで、崩れ落ちそうな崖を必死に繋ぎ止める楔(くさび)のようにも見えた。
「ガスは左に回して消す」
「通帳は机の二段目」
「朝になれば必ずいる女性は、母親ではない。ヘルパーの佐藤さんだ」
彼は、震える手で左手首に巻かれた腕時計に触れた。
銀色のフレームは傷だらけで、風防には蜘蛛の巣のような亀裂が入っている。秒針は四時十四分を指したまま、氷漬けにされた遺体のように凍りついている。
なぜこの時計を捨てずにいるのか。なぜこの時刻で止まっているのか。その理由を探ろうとするたび、燈の思考は霧の中へと迷い込む。ただ、この冷たい金属が肌に触れている時だけ、自分がまだ幽霊ではなく、血の通った人間であるという泥臭い実感が得られるのだ。
「録音、開始」
燈は、使い古されたボイスレコーダーを手に取った。
その筐体(きょうたい)には、不自然なほど鮮やかな青いリボンが、何重にも、解けないように固く結びつけられている。まるで、大切な臓器が零れ落ちるのを防ぐ包帯のように。
「今日、二月十五日。僕はまだ、自分の名前を言える。燈。火を灯すと書いて、燈だ。外は晴れ。……さっき、郵便受けを確認しに行った時、隣の部屋の住人とすれ違った。たぶん、挨拶をされた気がする。僕は笑い返しただろうか。それとも、石像のような顔をして立ち尽くしていただろうか。それを思い出すのが、今はもう、少しだけ怖い」
燈は言葉を切った。
レコーダーに自分の声を吹き込む行為は、未来の自分へ送る遺言であり、同時に今の自分を殺さないための執拗な祈りだった。彼は、スピーカーから漏れる微かな磁気ノイズに、溺れる者が藁(わら)を掴むような手つきで縋(すが)っている。
「大切なことを、忘れるな。青いリボンのレコーダーを、決して手放すな。ここに、僕のすべてがある。たとえ明日、目覚めた僕が、僕じゃない誰かになっていても。このリボンだけは、絶対に解くな」
録音を終えると、彼はそれを大切にポケットにしまい、逃げるように部屋を出た。
記憶の残骸に囲まれた四方の壁は、夜になると彼の喉を締め上げる監獄へと姿を変える。燈は、まだ鮮やかな色を残している世界を網膜に焼き付けるため、街へと繰り出した。
冬の海風が、燈の痩せた肩を突き抜けて肌を刺す。
坂道を下り、防波堤を歩く。寄せては返す波の音は、世界の脈拍のようでもあり、誰かのすすり泣きのようにも聴こえた。この街の風景は、幸いにもまだ、彼の中に「知っている場所」としての輪郭を保っていた。
沈みゆく夕陽が、海面を赤黒いインクを流したように染め上げている。
その波打ち際。打ち寄せられた流木の上に、一人の少女が座っていた。
彼女は膝に大きなスケッチブックを広げ、何かに憑りつかれたような凄まじい集中力で筆を動かしている。
燈は、引き寄せられるように彼女の背後に立った。
彼女が描いているのは、穏やかな夕暮れの景色ではなかった。
真っ黒な闇の中に、爆発するような白い光飛沫が飛び散り、その渦中で二つの手が互いを求めて虚空を掻いている――。それは、あまりに切実な「喪失」の肖像だった。
「それは、何ですか」
震える声で問いかけると、少女は驚いたように肩を跳ねさせ、こちらを振り返った。
夕陽を背負った彼女の顔は、眩しい光輪の中に溶け、一瞬だけ透明な幻のように見えた。大きな瞳には、燃えるような茜色が映り込んでいる。
彼女は、何かを言おうとして唇を戦慄(わなな)かせた。
しかし、その喉から音が零れることはなかった。
代わりに彼女は、首に巻いていた灰色のアスコットタイのようなストールを慌てて直そうとした。その際、布地の隙間から、消えない過去の痕跡が覗いた。
喉元を横一文字に、まるで誰かを呼ぼうとして引き裂かれたかのような、赤黒く盛り上がった古い傷痕。
彼女は燈の視線を逃れるように瞳を伏せ、スケッチブックの真っ白なページに、祈るような手つきで文字を綴った。
『怖い絵を、見せてしまってごめんなさい。つい、筆が勝手に動いてしまって』
「いえ、謝らないでください。ただ……あまりに切実な、叫びのような絵だったので。思わず、声をかけてしまいました」
彼女はスケッチブックを胸に抱え、再びペンを走らせた。
『凪(なぎ)といいます。声が、出ないんです。昔、全部あそこに置いてきてしまったから』
彼女が指差したのは、太陽が溶け落ち、闇が滲(にじ)み始めた沖合の海だった。
その指先は僅かに震えており、燈は彼女もまた、自分と同じような深い喪失の淵に立っているのだと直感した。
「僕も同じです。僕は、自分の記憶を、毎日少しずつどこかに落としてきている。凪さん、と言いましたね。よかったら、僕の隣に座ってくれませんか。一人で海を見ていると、潮騒に名前を吸い取られてしまいそうなんだ」
二人は並んで、暮れなずむ海を見つめた。
燈は堰を切ったように、自分の脳が壊れていく恐怖や、青いリボンのレコーダーに託した希望を話した。凪は頷きもせず、かといって哀れみもせず、ただ傍らにいて燈の言葉を凪いだ風のように受け止めていた。
「凪さん。お願いがある。もし、僕がいつか、自分の名前すら忘れてしまったら。その時、君が僕に、教えてほしいんだ。僕は、どんな風に笑っていたのかを。僕が忘れた僕の破片を、繋ぎ合わせてほしいんだ」
凪は、燈を真っ直ぐに見つめた。彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
彼女はスケッチブックに、紙を突き破らんばかりの強い筆圧で書いた。
『約束します。ひだまりが消えても、私が覚えています。たとえ、あなたが私を忘れても。私は、何度でもあなたを見つけます。約束です』
その時だった。
燈の脳内で凄まじい衝撃が走った。
遠い記憶の底から、錆び付いた鉄の扉が開くような轟音が響く。
視界が紅蓮に染まり、現実の海がかき消える。
――冷たい濁流。
――割れた窓ガラスから差し込む、不自然に明るい月の光。
――必死に伸ばされた、血まみれの小さな手。
「が、あ、はっ」
燈は肺の中の酸素をすべて奪われたような窒息感に襲われ、砂浜に膝をついた。喉から込み上げる鉄の味に咽(むせ)び、ポケットからボイスレコーダーが滑り落ちる。
「燈さん」
凪が声にならない叫びを上げ、燈の肩を掴む。
その瞬間、燈の左手首にある止まった腕時計が、カチリ、と明瞭な音を立てた。
それは再動の音ではなかった。
運命が静かに、逆回転を始めた合図だった。
数分後、燈は朦朧(もうろう)とする意識の中で目を開けた。
凪は幽霊のような青白い顔で、砂まみれになったレコーダーを両手で捧げ持っていた。彼女の指先は氷のように冷たかった。
「ありがとう、凪さん。明日も、ここで会えますか」
凪は、祈りを捧げる聖女のような表情で、何度も頷いた。
アパートへの帰り道、燈は奇妙な違和感を覚えた。
街灯の下を歩く自分の影が、時折、二つに分かれて見えた。
振り返っても誰もいない。だが、確かに誰かの視線が、彼の背中を焼くように見つめていた。何者かが自分の「余白」に忍び込んでいるような、粘りつくような気配。
部屋に戻り、燈は震える指でボイスレコーダーの再生ボタンを押した。
「今日、二月十五日。僕はまだ、自分の名前を言える。燈。火を灯すと書いて……」
自分の声を聴きながら、燈は安堵してベッドに横たわった。
だが、異変はその後に起きた。
録音したはずの自分の声が途切れた直後、ノイズの向こうから、聴いたことのない音が響いたのだ。
――ゴボッ、ゴボッ――
水中で重くもがくような、苦しげな音。
そして、肺を突き破るような、幼い少年の泣き声。
「助けて、お兄ちゃん。暗いよ、冷たいよ」
燈の全身の血が凍り付いた。
レコーダーを縛る青いリボンが、意思を持つ血管のように、その締め付けを強める。
この器械は、数ヶ月前に自分が買ったはずの新品だ。なのに、なぜ十年前の地獄のような記憶が混じっているのか。
彼は錯乱しながら、リボンを引き千切ろうとした。
しかし、その際に目に飛び込んできたものに、燈は息を呑んだ。
リボンの裏側。筐体に直接、鋭利な刃物で刻まれた文字。
「海へ。兄さんより」
海(かい)。燈の記憶には存在しない名前。
だが、その響きを聴いた瞬間、心臓が裂けるような激痛が走った。
彼は吸い寄せられるように早送りボタンを押した。
記録の更に奥、膨大な絶望を圧縮したような磁気の渦。
そこで流れたのは、燈自身の声に酷似した、だが全く別の人格を感じさせる冷徹な声だった。
「燈。これを聴いているなら、おめでとう。君は今日、凪と再会した。……そして、今日ですべてを失う。僕は君の記憶を肥料にして、この物語をもう一度やり直すことにしたんだ」
燈はレコーダーを壁に投げつけた。
窓を開け、深夜の海に向かって叫ぼうとした瞬間、彼は見てしまった。
窓ガラスに映る、自分の左手首。
四時十四分で止まっていた腕時計の針が、恐ろしい速度で逆回転を始めている。
三時……二時……一時……。
時間が物理的に巻き戻っていく。
それに同期するように、燈の脳内から、凪と過ごした夕暮れの記憶が、彼女の涙の温もりが、恐ろしい勢いで消えていく。自分が誰を愛し、誰と約束したのか、その「質感」が砂となってこぼれ落ちる。
「あ、あ、あ,あ、あ」
燈は喉を掻きむしり、床に倒れ伏した。
すべてが闇に呑まれる直前、彼は部屋の隅に立つ影を見た。
それは、十年前の自分――かつて「零(ゼロ)」と呼ばれていたかもしれない、少年の残像だった。
影は、悲しげな笑顔で囁いた。
「おかえり。さあ、十一年目の今日を始めよう」
燈の意識は断絶し、世界は完全な静寂へと没入した。
……そして翌朝。
小鳥の囀りで目を覚ました燈は、部屋の壁が真っ白であることに気づく。
昨日まで貼られていたはずの「付箋」が、一枚残らず消えていたのだ。
「あれ……? ここは、どこだっけ」
燈は、枕元に置かれた「青いリボン」を不思議そうに手に取った。
そのリボンの先には、真新しい日記帳が結ばれていた。
一ページ目を開くと、そこには燈自身の筆跡で、こう記されていた。
『今日、二月十五日。僕は海辺で、凪という少女に出会うはずだ。絶対に、彼女の手を離してはいけない。これは、僕が僕を殺してでも守るべき、一分間の物語だ』
窓の外では、昨日と同じ太陽が、昨日と同じように昇り始めていた。
時間が逆行したはずの現実と、矛盾する日記の指示。
燈は混乱しながらも、導かれるように家を出る。
そして、防波堤に座る凪の背中を見つけた時、彼は叫んだ。
「凪さん!」
振り返った凪の瞳には、初対面のはずの燈を見て、絶望と愛しさが入り混じった光が宿っていた。
彼女は、スケッチブックにこう書いた。
『燈さん、逃げて。あなたの中の記憶(ゼロ)が、私を殺しに来る』
【第1話 あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『僕の記憶が消えるたび、君は「はじめまして」と泣いた。』――その残酷で美しい幕が上がりました。
若年性認知症という「空白」に侵食される燈。
喉の傷痕に「叫び」を封じ込めた、声を持たない少女・凪。
潮騒の街で出会った二人の時計が、重なった瞬間に逆回転を始める――。
それは救いへのカウントダウンか、それとも11年前の地獄へと回帰する合図なのか。物語は今、記憶のネガフィルムを現像するように、隠された真実を暴き出していきます。
▼本作の深淵を聴く(物語を「完成」させるために)
この物語には、テキストだけでは現像しきれない「魂のノイズ」が存在します。それは、私108(sund)が燈と凪の絶望と希望を直接「音」へと変換した楽曲たちです。
①『暁光の航路 ―Route of Dawn―』
――本編メインテーマ。
夜明けの光が闇を裂くような、凛とした美しさと疾走感。
この音源が持つ、突き抜けるような透明感と力強いビートこそが、凪の「声にならない祈り」そのものです。この聖歌が響くとき、あなたは燈と共に、逆行する運命の波止場に立つことになります。
②『余白の証明』
――第1話 推奨挿入歌。
目覚めるたびに世界が漂白されていく恐怖と、それでも「君」がいた場所を探そうとする意志。
切ないピアノの旋律が、燈の脳内を侵食する「空白」の静寂を完璧に現像します。消えゆく記憶の輪郭をなぞるような、この調べを聴きながら、物語の行間を感じてください。
③『欠片の記憶 ―Relic of Mind―』
――逆回転を始めた運命を象徴する、エモーショナルな楽曲。
砂のようにこぼれ落ちる過去を繋ぎ止めるような、焦燥感と熱量。
どれだけ必死に手を伸ばしても、指の間から記憶が砂となって消えていく……その「喪失のスピード」を音で体感したとき、物語のリアリティは加速します。
④『ひだまりの約束』
――凪が心の中に封じ込めた、純粋で残酷な「祈り」のバラード。
「たとえあなたが私を忘れても、私が覚えている」。
ひだまりのような温もりと、氷のような孤独。二つの感情が交錯するこの曲を聴くとき、ラストシーンで凪が流した涙の本当の意味に、あなたは気づくはずです。
【音楽と共に、物語の真の結末へ】
これらの楽曲は、108が燈のポケットにある「ボイスレコーダー」に刻まれた磁気情報を、そのままメロディへと写し取ったものです。
テキストを読み、音楽を聴き、二つの感覚がシンクロしたとき――『僕の記憶が消えるたび、君は「はじめまして」と泣いた。』は、あなたの心の中で本当の「完成」を迎えます。
【物語とシンクロする公式リンク】
Music (Suno): https://suno.com/song/@108sund
(※ここで全曲のフルバージョンを、物語の進行に合わせて聴くことができます)
TikTok: @108sund
X (Official): @108sund
もし少しでも「燈と凪の、美しくも歪んだ運命を見届けたい」と感じていただけたら、【お気に入り登録】や【感想】、【ポイント投票】をいただけますと、止まった時計の針を動かす大きな力になります。
【次回予告:第2話「忘却のスピードと君を愛することが君を消すことだった理由」】
目覚めると、壁の付箋がすべて消えていた。
昨日出会ったはずの凪を、燈はもう「知らない少女」として見つめる。
だが、凪がスケッチブックに綴ったのは、警告という名の愛の言葉だった。
「燈さん、逃げて。あなたの中の記憶(ゼロ)が、私を殺しに来る」
加速する忘却。そして、ボイスレコーダーに残された「聴いた覚えのない少年の泣き声」。
第2話、物語はさらに深く、闇の奥へと潜っていきます。
【次回予告】
「はじめまして」。その一言が、僕たちの毎日の終わりの合図だった。
奪い合うように消えていく記憶の余白で、凪さんが綴り続けた「嘘」とは——。
次回:2/21 21:00 UP予定
この物語の欠片を見失わないよう、【お気に入り登録】や【フォロー】をお願いします。止まった時計を動かすのは、あなたの指先です。
燈(ともり)にとって、それは朝の光のせいではなく、脳の内側からじわじわと侵食してくる空白のせいだった。
二十四歳という若さで宣告された、若年性認知症。
最初、それは鍵をどこに置いたか忘れるといった、ありふれた不注意のふりをして現れた。しかし、今やそれは飢えた獣のように、彼の人生を、愛した映画の筋書きを、親友の笑い声を、そして昨日自分が何を願っていたかという魂の輪郭を、容赦なく食い荒らしている。
燈は、海沿いの古びたアパートの、西日の差し込むワンルームで立ち尽くしていた。
壁には無数の付箋が貼られている。それらはまるで、崩れ落ちそうな崖を必死に繋ぎ止める楔(くさび)のようにも見えた。
「ガスは左に回して消す」
「通帳は机の二段目」
「朝になれば必ずいる女性は、母親ではない。ヘルパーの佐藤さんだ」
彼は、震える手で左手首に巻かれた腕時計に触れた。
銀色のフレームは傷だらけで、風防には蜘蛛の巣のような亀裂が入っている。秒針は四時十四分を指したまま、氷漬けにされた遺体のように凍りついている。
なぜこの時計を捨てずにいるのか。なぜこの時刻で止まっているのか。その理由を探ろうとするたび、燈の思考は霧の中へと迷い込む。ただ、この冷たい金属が肌に触れている時だけ、自分がまだ幽霊ではなく、血の通った人間であるという泥臭い実感が得られるのだ。
「録音、開始」
燈は、使い古されたボイスレコーダーを手に取った。
その筐体(きょうたい)には、不自然なほど鮮やかな青いリボンが、何重にも、解けないように固く結びつけられている。まるで、大切な臓器が零れ落ちるのを防ぐ包帯のように。
「今日、二月十五日。僕はまだ、自分の名前を言える。燈。火を灯すと書いて、燈だ。外は晴れ。……さっき、郵便受けを確認しに行った時、隣の部屋の住人とすれ違った。たぶん、挨拶をされた気がする。僕は笑い返しただろうか。それとも、石像のような顔をして立ち尽くしていただろうか。それを思い出すのが、今はもう、少しだけ怖い」
燈は言葉を切った。
レコーダーに自分の声を吹き込む行為は、未来の自分へ送る遺言であり、同時に今の自分を殺さないための執拗な祈りだった。彼は、スピーカーから漏れる微かな磁気ノイズに、溺れる者が藁(わら)を掴むような手つきで縋(すが)っている。
「大切なことを、忘れるな。青いリボンのレコーダーを、決して手放すな。ここに、僕のすべてがある。たとえ明日、目覚めた僕が、僕じゃない誰かになっていても。このリボンだけは、絶対に解くな」
録音を終えると、彼はそれを大切にポケットにしまい、逃げるように部屋を出た。
記憶の残骸に囲まれた四方の壁は、夜になると彼の喉を締め上げる監獄へと姿を変える。燈は、まだ鮮やかな色を残している世界を網膜に焼き付けるため、街へと繰り出した。
冬の海風が、燈の痩せた肩を突き抜けて肌を刺す。
坂道を下り、防波堤を歩く。寄せては返す波の音は、世界の脈拍のようでもあり、誰かのすすり泣きのようにも聴こえた。この街の風景は、幸いにもまだ、彼の中に「知っている場所」としての輪郭を保っていた。
沈みゆく夕陽が、海面を赤黒いインクを流したように染め上げている。
その波打ち際。打ち寄せられた流木の上に、一人の少女が座っていた。
彼女は膝に大きなスケッチブックを広げ、何かに憑りつかれたような凄まじい集中力で筆を動かしている。
燈は、引き寄せられるように彼女の背後に立った。
彼女が描いているのは、穏やかな夕暮れの景色ではなかった。
真っ黒な闇の中に、爆発するような白い光飛沫が飛び散り、その渦中で二つの手が互いを求めて虚空を掻いている――。それは、あまりに切実な「喪失」の肖像だった。
「それは、何ですか」
震える声で問いかけると、少女は驚いたように肩を跳ねさせ、こちらを振り返った。
夕陽を背負った彼女の顔は、眩しい光輪の中に溶け、一瞬だけ透明な幻のように見えた。大きな瞳には、燃えるような茜色が映り込んでいる。
彼女は、何かを言おうとして唇を戦慄(わなな)かせた。
しかし、その喉から音が零れることはなかった。
代わりに彼女は、首に巻いていた灰色のアスコットタイのようなストールを慌てて直そうとした。その際、布地の隙間から、消えない過去の痕跡が覗いた。
喉元を横一文字に、まるで誰かを呼ぼうとして引き裂かれたかのような、赤黒く盛り上がった古い傷痕。
彼女は燈の視線を逃れるように瞳を伏せ、スケッチブックの真っ白なページに、祈るような手つきで文字を綴った。
『怖い絵を、見せてしまってごめんなさい。つい、筆が勝手に動いてしまって』
「いえ、謝らないでください。ただ……あまりに切実な、叫びのような絵だったので。思わず、声をかけてしまいました」
彼女はスケッチブックを胸に抱え、再びペンを走らせた。
『凪(なぎ)といいます。声が、出ないんです。昔、全部あそこに置いてきてしまったから』
彼女が指差したのは、太陽が溶け落ち、闇が滲(にじ)み始めた沖合の海だった。
その指先は僅かに震えており、燈は彼女もまた、自分と同じような深い喪失の淵に立っているのだと直感した。
「僕も同じです。僕は、自分の記憶を、毎日少しずつどこかに落としてきている。凪さん、と言いましたね。よかったら、僕の隣に座ってくれませんか。一人で海を見ていると、潮騒に名前を吸い取られてしまいそうなんだ」
二人は並んで、暮れなずむ海を見つめた。
燈は堰を切ったように、自分の脳が壊れていく恐怖や、青いリボンのレコーダーに託した希望を話した。凪は頷きもせず、かといって哀れみもせず、ただ傍らにいて燈の言葉を凪いだ風のように受け止めていた。
「凪さん。お願いがある。もし、僕がいつか、自分の名前すら忘れてしまったら。その時、君が僕に、教えてほしいんだ。僕は、どんな風に笑っていたのかを。僕が忘れた僕の破片を、繋ぎ合わせてほしいんだ」
凪は、燈を真っ直ぐに見つめた。彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
彼女はスケッチブックに、紙を突き破らんばかりの強い筆圧で書いた。
『約束します。ひだまりが消えても、私が覚えています。たとえ、あなたが私を忘れても。私は、何度でもあなたを見つけます。約束です』
その時だった。
燈の脳内で凄まじい衝撃が走った。
遠い記憶の底から、錆び付いた鉄の扉が開くような轟音が響く。
視界が紅蓮に染まり、現実の海がかき消える。
――冷たい濁流。
――割れた窓ガラスから差し込む、不自然に明るい月の光。
――必死に伸ばされた、血まみれの小さな手。
「が、あ、はっ」
燈は肺の中の酸素をすべて奪われたような窒息感に襲われ、砂浜に膝をついた。喉から込み上げる鉄の味に咽(むせ)び、ポケットからボイスレコーダーが滑り落ちる。
「燈さん」
凪が声にならない叫びを上げ、燈の肩を掴む。
その瞬間、燈の左手首にある止まった腕時計が、カチリ、と明瞭な音を立てた。
それは再動の音ではなかった。
運命が静かに、逆回転を始めた合図だった。
数分後、燈は朦朧(もうろう)とする意識の中で目を開けた。
凪は幽霊のような青白い顔で、砂まみれになったレコーダーを両手で捧げ持っていた。彼女の指先は氷のように冷たかった。
「ありがとう、凪さん。明日も、ここで会えますか」
凪は、祈りを捧げる聖女のような表情で、何度も頷いた。
アパートへの帰り道、燈は奇妙な違和感を覚えた。
街灯の下を歩く自分の影が、時折、二つに分かれて見えた。
振り返っても誰もいない。だが、確かに誰かの視線が、彼の背中を焼くように見つめていた。何者かが自分の「余白」に忍び込んでいるような、粘りつくような気配。
部屋に戻り、燈は震える指でボイスレコーダーの再生ボタンを押した。
「今日、二月十五日。僕はまだ、自分の名前を言える。燈。火を灯すと書いて……」
自分の声を聴きながら、燈は安堵してベッドに横たわった。
だが、異変はその後に起きた。
録音したはずの自分の声が途切れた直後、ノイズの向こうから、聴いたことのない音が響いたのだ。
――ゴボッ、ゴボッ――
水中で重くもがくような、苦しげな音。
そして、肺を突き破るような、幼い少年の泣き声。
「助けて、お兄ちゃん。暗いよ、冷たいよ」
燈の全身の血が凍り付いた。
レコーダーを縛る青いリボンが、意思を持つ血管のように、その締め付けを強める。
この器械は、数ヶ月前に自分が買ったはずの新品だ。なのに、なぜ十年前の地獄のような記憶が混じっているのか。
彼は錯乱しながら、リボンを引き千切ろうとした。
しかし、その際に目に飛び込んできたものに、燈は息を呑んだ。
リボンの裏側。筐体に直接、鋭利な刃物で刻まれた文字。
「海へ。兄さんより」
海(かい)。燈の記憶には存在しない名前。
だが、その響きを聴いた瞬間、心臓が裂けるような激痛が走った。
彼は吸い寄せられるように早送りボタンを押した。
記録の更に奥、膨大な絶望を圧縮したような磁気の渦。
そこで流れたのは、燈自身の声に酷似した、だが全く別の人格を感じさせる冷徹な声だった。
「燈。これを聴いているなら、おめでとう。君は今日、凪と再会した。……そして、今日ですべてを失う。僕は君の記憶を肥料にして、この物語をもう一度やり直すことにしたんだ」
燈はレコーダーを壁に投げつけた。
窓を開け、深夜の海に向かって叫ぼうとした瞬間、彼は見てしまった。
窓ガラスに映る、自分の左手首。
四時十四分で止まっていた腕時計の針が、恐ろしい速度で逆回転を始めている。
三時……二時……一時……。
時間が物理的に巻き戻っていく。
それに同期するように、燈の脳内から、凪と過ごした夕暮れの記憶が、彼女の涙の温もりが、恐ろしい勢いで消えていく。自分が誰を愛し、誰と約束したのか、その「質感」が砂となってこぼれ落ちる。
「あ、あ、あ,あ、あ」
燈は喉を掻きむしり、床に倒れ伏した。
すべてが闇に呑まれる直前、彼は部屋の隅に立つ影を見た。
それは、十年前の自分――かつて「零(ゼロ)」と呼ばれていたかもしれない、少年の残像だった。
影は、悲しげな笑顔で囁いた。
「おかえり。さあ、十一年目の今日を始めよう」
燈の意識は断絶し、世界は完全な静寂へと没入した。
……そして翌朝。
小鳥の囀りで目を覚ました燈は、部屋の壁が真っ白であることに気づく。
昨日まで貼られていたはずの「付箋」が、一枚残らず消えていたのだ。
「あれ……? ここは、どこだっけ」
燈は、枕元に置かれた「青いリボン」を不思議そうに手に取った。
そのリボンの先には、真新しい日記帳が結ばれていた。
一ページ目を開くと、そこには燈自身の筆跡で、こう記されていた。
『今日、二月十五日。僕は海辺で、凪という少女に出会うはずだ。絶対に、彼女の手を離してはいけない。これは、僕が僕を殺してでも守るべき、一分間の物語だ』
窓の外では、昨日と同じ太陽が、昨日と同じように昇り始めていた。
時間が逆行したはずの現実と、矛盾する日記の指示。
燈は混乱しながらも、導かれるように家を出る。
そして、防波堤に座る凪の背中を見つけた時、彼は叫んだ。
「凪さん!」
振り返った凪の瞳には、初対面のはずの燈を見て、絶望と愛しさが入り混じった光が宿っていた。
彼女は、スケッチブックにこう書いた。
『燈さん、逃げて。あなたの中の記憶(ゼロ)が、私を殺しに来る』
【第1話 あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『僕の記憶が消えるたび、君は「はじめまして」と泣いた。』――その残酷で美しい幕が上がりました。
若年性認知症という「空白」に侵食される燈。
喉の傷痕に「叫び」を封じ込めた、声を持たない少女・凪。
潮騒の街で出会った二人の時計が、重なった瞬間に逆回転を始める――。
それは救いへのカウントダウンか、それとも11年前の地獄へと回帰する合図なのか。物語は今、記憶のネガフィルムを現像するように、隠された真実を暴き出していきます。
▼本作の深淵を聴く(物語を「完成」させるために)
この物語には、テキストだけでは現像しきれない「魂のノイズ」が存在します。それは、私108(sund)が燈と凪の絶望と希望を直接「音」へと変換した楽曲たちです。
①『暁光の航路 ―Route of Dawn―』
――本編メインテーマ。
夜明けの光が闇を裂くような、凛とした美しさと疾走感。
この音源が持つ、突き抜けるような透明感と力強いビートこそが、凪の「声にならない祈り」そのものです。この聖歌が響くとき、あなたは燈と共に、逆行する運命の波止場に立つことになります。
②『余白の証明』
――第1話 推奨挿入歌。
目覚めるたびに世界が漂白されていく恐怖と、それでも「君」がいた場所を探そうとする意志。
切ないピアノの旋律が、燈の脳内を侵食する「空白」の静寂を完璧に現像します。消えゆく記憶の輪郭をなぞるような、この調べを聴きながら、物語の行間を感じてください。
③『欠片の記憶 ―Relic of Mind―』
――逆回転を始めた運命を象徴する、エモーショナルな楽曲。
砂のようにこぼれ落ちる過去を繋ぎ止めるような、焦燥感と熱量。
どれだけ必死に手を伸ばしても、指の間から記憶が砂となって消えていく……その「喪失のスピード」を音で体感したとき、物語のリアリティは加速します。
④『ひだまりの約束』
――凪が心の中に封じ込めた、純粋で残酷な「祈り」のバラード。
「たとえあなたが私を忘れても、私が覚えている」。
ひだまりのような温もりと、氷のような孤独。二つの感情が交錯するこの曲を聴くとき、ラストシーンで凪が流した涙の本当の意味に、あなたは気づくはずです。
【音楽と共に、物語の真の結末へ】
これらの楽曲は、108が燈のポケットにある「ボイスレコーダー」に刻まれた磁気情報を、そのままメロディへと写し取ったものです。
テキストを読み、音楽を聴き、二つの感覚がシンクロしたとき――『僕の記憶が消えるたび、君は「はじめまして」と泣いた。』は、あなたの心の中で本当の「完成」を迎えます。
【物語とシンクロする公式リンク】
Music (Suno): https://suno.com/song/@108sund
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【次回予告:第2話「忘却のスピードと君を愛することが君を消すことだった理由」】
目覚めると、壁の付箋がすべて消えていた。
昨日出会ったはずの凪を、燈はもう「知らない少女」として見つめる。
だが、凪がスケッチブックに綴ったのは、警告という名の愛の言葉だった。
「燈さん、逃げて。あなたの中の記憶(ゼロ)が、私を殺しに来る」
加速する忘却。そして、ボイスレコーダーに残された「聴いた覚えのない少年の泣き声」。
第2話、物語はさらに深く、闇の奥へと潜っていきます。
【次回予告】
「はじめまして」。その一言が、僕たちの毎日の終わりの合図だった。
奪い合うように消えていく記憶の余白で、凪さんが綴り続けた「嘘」とは——。
次回:2/21 21:00 UP予定
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