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2話:忘却のスピードと君を愛することが君を消すことだった理由
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目覚めは、冷たい空虚の中にあった。
燈は、真っ白な天井をぼんやりと見つめていた。昨日までそこにあったはずの、色彩豊かな付箋たちが一枚も残っていない。まるで世界が一度洗濯され、干し上げられたあとのような、無機質な静寂。昨日までの自分が、この部屋に確かに存在していたという証明が、根こそぎ剥ぎ取られていた。
燈は枕元を必死に探った。指先に触れたのは、不自然なほど鮮やかな青いリボン。その先には、昨日まではなかったはずの真新しい日記帳が結ばれていた。この部屋に誰かが入った形跡はないのに、なぜ「新品」が用意されているのか。その不気味なほどの清潔さは、死者が残した遺言のような冷たさを帯びていた。
震える手で一ページ目を開く。そこには、確かに自分の筆跡で、自分に宛てた冷徹な命令が記されていた。
「今日、二月十五日。僕は海辺で、凪という少女に出会うはずだ。絶対に、彼女の手を離してはいけない。これは、僕が僕を殺してでも守るべき、一分間の物語だ」
燈は眉をひそめた。今日は、二月十六日ではないのか。昨日の自分は一体、何を言っている。日記の日付は、まるで時間がそこから進むことを拒んでいるかのように、昨日のまま停滞していた。
左手首を確認すると、そこにあるべき重みがない。皮膚には、長年愛用していた腕時計の跡が白く残っているが、四時十四分で止まった銀色の機械は、跡形もなく消えていた。焦燥に駆られ、彼は裸足のまま部屋を飛び出した。
二月の海風は、昨日の記憶を削り取る砥石のようだ。
燈は防波堤を走り、昨日と同じ場所を目指した。肺が焼けるように熱い。空はどこまでも高く、青い。その青さが、今の自分にはあまりに無慈避に思えた。やがて、流木の上に座る少女の背中が見えた。
「凪さん!」
必死に叫んだその名前が、口をついた瞬間に、なぜか胸の奥が鋭く痛んだ。
振り返った凪の瞳。それは、初めて出会った人間を迎えるそれではない。数百年もの間、地獄の淵で一人、誰かの訪れを待ち続けていたような、絶望と歓喜が泥沼のように混ざり合った、狂おしい眼差しだった。
凪は震える手でスケッチブックを掲げた。
『燈さん、逃げて。あなたの中の記憶(ゼロ)が、私を殺しに来る』
意味がわからない。燈は一歩近づこうとした。その瞬間、鼓膜を直接針で刺されるような、凄まじい海鳴りの音が脳内で炸裂した。
ただの潮騒ではない。それは幾千もの死者の嘆きを凝縮したような、物理的な質量を伴うノイズだった。耳の奥で、鉄錆の混じった水が逆流するような音がする。
「う、あぁっ!」
燈は耳を押さえてうずくまった。激しい耳鳴り。視界が急速にセピア色に染まり、現実の風景が砂のように崩れていく。凪が駆け寄り、燈の肩を強く掴んだ。その拍子に、彼女の手元から重いスケッチブックが滑り落ちた。
風に煽られ、ページが高速でめくれた。
燈の視線が、表紙のすぐ裏側に吸い寄せられた。そこには、彼女が頑なに隠し続けていたはずの一ページ目があった。
そこには美しい風景など描かれていない。
ただ、黒いクレヨンで塗りつぶされた巨大な円が描かれ、その中に、燈が失くしたはずの腕時計が、狂ったような緻密さで写実されていた。針は四時十四分を指し、そこから黒い血のようなインクが滴っている。そして、その円を囲むように、数万回もなぞったかのような黒い文字が、紙を突き破らんばかりの執念で記されていた。
「消えて、消えて、消えて、燈さんだけは生き延びて。私が全部、あの日置いてきたから」
「凪さん、これ、は……」
燈の問いかけに、凪は喉をかきむしるような仕草を見せた。声にならない絶叫が、彼女の喉にある古い傷痕を、赤黒く浮き上がらせる。
彼女は慌ててスケッチブックを奪い返し、次のページに書き殴った。
『指をすり抜ける笑顔を、もう一度だけ信じようとした。でも、それをあなたが思い出すとき、世界はまた崩れてしまう。この光は救いじゃない。私たちの罪を暴く火刑なんだ』
そのフレーズを目にした瞬間、燈の脳裏に、心臓の鼓動を掻き乱すような不協和音が響いた。
不意に、燈の足元がふらついた。
自分の足が、自分の意志を離れて、凪の喉元へと伸びようとする。
指先が、彼女の傷痕に触れる。その感触は、驚くほど冷たく、同時に焼けるような熱を帯びていた。
「僕の中に、誰か……零がいるのか?」
燈は自らの右手を左手で必死に押さえつけた。
彼の内側で、記憶の進行が、医学的な理屈を置き去りにして加速し始める。さっきまで覚えていた「今朝、日記を読んだこと」が、墨を流したように真っ黒な余白へと消えていく。凪を見ている。彼女を愛おしいと思う。だが、その感情を繋ぎ止めるための言葉の杭が、一秒ごとに脳の細胞から剥がれ落ちていく。
その進行速度は異常だった。通常、認知症は数年単位で進むものだ。だが燈の場合、凪という存在に触れ、彼女との情緒的交流を深めようとした瞬間に、まるで防波堤が決壊したように忘却が流れ込んでくる。
凪は燈の手を握りしめ、自分に引き寄せた。彼女の頬を絶え間なく涙が伝う。
彼女はスケッチブックを開き、そこに自分の記憶の欠片を絞り出すように書き記していく。
『この痛みが、私たちが生きていた唯一の証拠だから。思い出さなくていい。でも、私を忘れることだけは、忘れないで』
燈は、その文字を目に焼き付けようとした。だが、彼の網膜は、彼女の言葉を意味として捉えることを拒絶し始めていた。文字はただの黒い線になり、線はただの汚れに変わる。
「凪さん。僕の名前を、呼んでくれ。声が出ないなら、心の中で叫んでくれ。僕は、自分が誰か……もう、わからなくなりそうだ。自分が自分でなくなる前に、君が僕を繋ぎ止めてくれ」
燈は海に向かって叫んだ。その声は潮風にかき消され、空ろに響く。
空を見上げると、まだ太陽が高い位置にあるというのに、彼は一番星を探すような切実さで虚空を仰いだ。
その時、二人の背後から、重く粘りつくような足音が聞こえた。
振り返ると、そこにはアパートの隣人である源さんが立っていた。
いつもは好々爺として笑っている老人が、今は鬼のような形相で二人を凝視している。その手には、古びた、それでいて手入れの行き届いた一振りの漁師ナイフが握られていた。
「お前……お前、あの時の……」
源さんの言葉は震えていた。彼の視線は、燈ではなく、燈の背後に立つ目に見えない何かへと向けられていた。
「お前たちは、あの日の波に魂を半分置いてきちまったんだ。生きてるのか死んでるのか、判別もつかねえ幽霊みたいな二人だ! 燈、そいつから離れろ。そいつは凪じゃねえ。そいつは、お前の記憶を喰らうために海から還ってきた「余白」だ!」
海鳴りの音が、さらに暴力的になり、周囲の風景を歪ませる。
燈の意識の端で、激しいドラムとオーケストラが入り混じったような響きが轟いた。痛みさえも燃料にして、誰もいない明日へ。そんな絶望的な航路へ自分たちが引きずり込まれていくような予感に、燈は吐き気を覚えた。
倒れ込む燈を、凪が必死に支える。彼女の喉から、ヒュウ、と笛のような、あるいは悲鳴のような音が漏れた。
燈は、深い闇の中で見た。
逆回転する腕時計の針。四時十四分から始まった針は、今や恐ろしい速度で歴史を遡っている。
実体のない残像としての「零」が、海の底から自分を嘲笑いながら引きずり込もうとしている。
「お前の記憶は、すべて俺の餌だ。凪を愛せば愛すほど、彼女の時間は削り取られ、死へと近づく。お前が優しさだと思っている行為は、すべて彼女の寿命を削る剃刀なんだよ。お前は彼女を助けたんじゃない。自分と一緒に地獄へ連れて行く契約を結んだんだ」
「違う……そんなはずはない!」
燈は闇の中で叫んだ。だが、零の言葉を裏付けるように、凪の姿が少しずつ透き通っていく。彼女の存在そのものが、燈の記憶の忘却と引き換えに蒸発しているようだった。
再び燈が目を覚ましたとき、彼は砂浜に一人で倒れていた。
凪の姿も、源さんの姿もどこにもない。
ただ、砂に半ば埋まったボイスレコーダーが、誰の手も借りずに再生を始めた。
「今日、二月十五日。バッテリーは……やはり、100%のままだ」 ――録音された自分の声に混じる独白に燈は凍り付いた。一度も充電した記憶がない。なのに、この機械は永遠の命を得たかのように満タンの表示を維持し続けている。
続いて流れてきたのは、燈自身が吹き込んだ覚えのない、だが聞き紛うはずのない凪の声だった。
声が出ないはずの彼女が、嗚咽に混じりながら、血を吐くような思いで囁いていた。
「燈さん。私、あなたを殺しに……会いに行くね。そうしないと、あなたの中の怪物が世界を全部飲み込んでしまうから。ごめんね。愛してるなんて言葉、もう一度だけ、声にして伝えたかった。ひだまりのような、あの日のあなたの声を、私は一度も忘れたことはないよ」
燈は、震える手でレコーダーの青いリボンを握りしめた。
リボンは、いつの間にか赤黒く変色し、生臭い潮の香りを放っていた。
海鳴りは止まない。それどころか、それは街全体を飲み込むような轟音へと成長していた。
そして、燈の脳内からは、ついさっきまでそこにいたはずの「源さん」という人物の顔が、霧に包まれるように薄れ始めていた。存在したという事実ごと、指の間からこぼれ落ちていく。
加速する忘却。逆行する時間。
空を見上げると、まだ昼だというのに、一つだけ狂ったように輝く星が見えた。
それは、希望などではない。
終わりへと誘う冷酷な道標だった。
燈は、砂を噛むような思いで立ち上がった。足元に落ちていた凪のスケッチブック。その最新のページには、まだ乾いていないインクで、たった一行、こう書かれていた。
『さよなら、私の光。明日のあなたは、もう私を知らない』
燈の頬を、一筋の涙が伝った。その涙が砂に落ちた瞬間、彼の左手首に、消えたはずの腕時計が再び現れた。
針は、四時十三分を指していた。
一分間、戻っている。
その意味を理解する暇もなく、燈の意識は再び白く塗りつぶされた。
――そして、再び朝が来る。
燈は、真っ白な天井を見つめていた。
壁の付箋は、一枚もない。
枕元には、なぜか用意されている青いリボンに結ばれた新しい日記帳。
燈は一ページ目を開いた。そこには、震える自分の文字でこうあった。
「今日、二月十五日。僕は海辺で、凪という少女に出会うはずだ」
燈は、それを読み上げることさえできず、ただ理由もわからぬ涙を流した。
窓の外では、昨日と同じ太陽が、昨日と同じ軌道で昇り始めていた。
(第2話 完)
【第2話 あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
加速する忘却、逆回転を始めた腕時計、そして「愛するほどに相手を消してしまう」という残酷な等価交換。
記憶を食らう獣を飼い慣らそうとする燈と、声と引き換えに「過去」を背負い続ける凪。
二人が防波堤で重ねた指先は、救いだったのでしょうか。それとも、終わりへと続く秒読みの合図だったのでしょうか。
「昨日」が「明日」に塗り替えられるたび、彼らの魂は削り取られ、世界は真っ白な「余白」へと飲み込まれていきます。この物語は、そんな一分間の生を繋ぎ止めるための、命懸けの現像記録です。
▼本作の深淵を聴く(物語を「完成」させるために)
これらは単なるBGMではありません。私108(sund)が、燈の脳内を侵食するノイズと、凪が喉の奥に封じ込めた絶叫を、直接「音」へと変換した楽曲たちです。
①『余白の証明』
――第2話 メインテーマ。
朝、目覚めるたびに世界が漂白されていく恐怖と、それでも「君」がいた場所を探そうとする意志の旋律。
透明感のあるピアノが、燈の消えゆく記憶の輪郭をなぞり、ドラマチックなサビが「忘れたくない」という魂の叫びを現像します。この曲を聴くとき、あなたは燈と共に、奪われ続ける日常の切なさに立ち向かうことになるでしょう。
②『欠片の記憶 ―Relic of Mind―』
――砂のようにこぼれ落ちる過去を繋ぎ止める、エモーショナルな楽曲。
疾走感のあるギターと切ないメロディが、逆回転する時間の残酷さを象徴します。
どれだけ必死に手を伸ばしても、指の間から記憶が砂となって消えていく。その「喪失のスピード」を音で体感したとき、凪がスケッチブックに綴った言葉の重さが、あなたの胸を激しく揺さぶります。
③『ひだまりの約束』
――凪がボイスレコーダーに遺した、血を吐くような「祈り」のバラード。
「たとえあなたが私を忘れても、私が覚えている」。
ひだまりのような温もりと、氷のような孤独。二つの感情が交錯するこの曲は、声を失った彼女が心の中で叫び続けていた、ただ一つの愛の証明です。
④『暁光の航路 ―Route of Dawn―』
――絶望の海へ漕ぎ出す、圧倒的スケールの聖歌。
「痛みさえも燃料にして、誰もいない明日へ」。
(3)の音源が持つ凛とした美しさが、時間の逆行に抗い、再び海辺へと向かう燈の背中を押し上げます。この旋律が響くとき、物語は「悲劇」を超えた、新たな運命の現像へと加速します。
【音楽と共に、物語の真の結末へ】
これらの楽曲は、108が物語の「行間」を埋めるために、燈と凪の命の鼓動を直接音へと変換したものです。
テキストを読み、音楽を聴き、二つの感覚がシンクロしたとき――『僕の記憶が消えるたび、君は「はじめまして」と泣いた。』は、あなたの心の中で本当の「完成」を迎えます。
【物語とシンクロする公式リンク】
Music (Suno): https://suno.com/song/@108sund
(※ここで全曲のフルバージョンを、物語の進行に合わせて聴くことができます)
TikTok: @108sund
X (Official): @108sund
もし少しでも「燈と凪の、消えゆく愛の軌跡を見届けたい」と感じていただけたら、【お気に入り登録】や【感想】、【ポイント投票】をいただけますと、逆行する時間を止める大きな力になります。
【次回予告:第3話「母のコンソメスープとなぜ君が僕だけの真実を知っているのか」】
「凪さん、君はどうしてこの味を知っているんだ」
差し出されたスープは、死んだ母の味だった。
温もりを一つ得るたびに、未来が一つ塗りつぶされていく。
一方、源さんが放った言葉が、燈を戦慄させる。「お前たちは、あの日の波に魂を半分置いてきちまったんだ」
第3話、記憶の「開かずの間」がついに開かれます。
【次回予告】
「未完成の地図」に記された、実在しない白い灯台。
主治医・佐伯が告げる、燈の脳内に広がる「物理的な空洞」の正体とは。
次回:2/22 21:00 UP予定
物語が進むにつれ、楽曲の歌詞が意味を変えていきます。ぜひMusicリンクから楽曲を聴きながら、次の更新をお待ちください。
燈は、真っ白な天井をぼんやりと見つめていた。昨日までそこにあったはずの、色彩豊かな付箋たちが一枚も残っていない。まるで世界が一度洗濯され、干し上げられたあとのような、無機質な静寂。昨日までの自分が、この部屋に確かに存在していたという証明が、根こそぎ剥ぎ取られていた。
燈は枕元を必死に探った。指先に触れたのは、不自然なほど鮮やかな青いリボン。その先には、昨日まではなかったはずの真新しい日記帳が結ばれていた。この部屋に誰かが入った形跡はないのに、なぜ「新品」が用意されているのか。その不気味なほどの清潔さは、死者が残した遺言のような冷たさを帯びていた。
震える手で一ページ目を開く。そこには、確かに自分の筆跡で、自分に宛てた冷徹な命令が記されていた。
「今日、二月十五日。僕は海辺で、凪という少女に出会うはずだ。絶対に、彼女の手を離してはいけない。これは、僕が僕を殺してでも守るべき、一分間の物語だ」
燈は眉をひそめた。今日は、二月十六日ではないのか。昨日の自分は一体、何を言っている。日記の日付は、まるで時間がそこから進むことを拒んでいるかのように、昨日のまま停滞していた。
左手首を確認すると、そこにあるべき重みがない。皮膚には、長年愛用していた腕時計の跡が白く残っているが、四時十四分で止まった銀色の機械は、跡形もなく消えていた。焦燥に駆られ、彼は裸足のまま部屋を飛び出した。
二月の海風は、昨日の記憶を削り取る砥石のようだ。
燈は防波堤を走り、昨日と同じ場所を目指した。肺が焼けるように熱い。空はどこまでも高く、青い。その青さが、今の自分にはあまりに無慈避に思えた。やがて、流木の上に座る少女の背中が見えた。
「凪さん!」
必死に叫んだその名前が、口をついた瞬間に、なぜか胸の奥が鋭く痛んだ。
振り返った凪の瞳。それは、初めて出会った人間を迎えるそれではない。数百年もの間、地獄の淵で一人、誰かの訪れを待ち続けていたような、絶望と歓喜が泥沼のように混ざり合った、狂おしい眼差しだった。
凪は震える手でスケッチブックを掲げた。
『燈さん、逃げて。あなたの中の記憶(ゼロ)が、私を殺しに来る』
意味がわからない。燈は一歩近づこうとした。その瞬間、鼓膜を直接針で刺されるような、凄まじい海鳴りの音が脳内で炸裂した。
ただの潮騒ではない。それは幾千もの死者の嘆きを凝縮したような、物理的な質量を伴うノイズだった。耳の奥で、鉄錆の混じった水が逆流するような音がする。
「う、あぁっ!」
燈は耳を押さえてうずくまった。激しい耳鳴り。視界が急速にセピア色に染まり、現実の風景が砂のように崩れていく。凪が駆け寄り、燈の肩を強く掴んだ。その拍子に、彼女の手元から重いスケッチブックが滑り落ちた。
風に煽られ、ページが高速でめくれた。
燈の視線が、表紙のすぐ裏側に吸い寄せられた。そこには、彼女が頑なに隠し続けていたはずの一ページ目があった。
そこには美しい風景など描かれていない。
ただ、黒いクレヨンで塗りつぶされた巨大な円が描かれ、その中に、燈が失くしたはずの腕時計が、狂ったような緻密さで写実されていた。針は四時十四分を指し、そこから黒い血のようなインクが滴っている。そして、その円を囲むように、数万回もなぞったかのような黒い文字が、紙を突き破らんばかりの執念で記されていた。
「消えて、消えて、消えて、燈さんだけは生き延びて。私が全部、あの日置いてきたから」
「凪さん、これ、は……」
燈の問いかけに、凪は喉をかきむしるような仕草を見せた。声にならない絶叫が、彼女の喉にある古い傷痕を、赤黒く浮き上がらせる。
彼女は慌ててスケッチブックを奪い返し、次のページに書き殴った。
『指をすり抜ける笑顔を、もう一度だけ信じようとした。でも、それをあなたが思い出すとき、世界はまた崩れてしまう。この光は救いじゃない。私たちの罪を暴く火刑なんだ』
そのフレーズを目にした瞬間、燈の脳裏に、心臓の鼓動を掻き乱すような不協和音が響いた。
不意に、燈の足元がふらついた。
自分の足が、自分の意志を離れて、凪の喉元へと伸びようとする。
指先が、彼女の傷痕に触れる。その感触は、驚くほど冷たく、同時に焼けるような熱を帯びていた。
「僕の中に、誰か……零がいるのか?」
燈は自らの右手を左手で必死に押さえつけた。
彼の内側で、記憶の進行が、医学的な理屈を置き去りにして加速し始める。さっきまで覚えていた「今朝、日記を読んだこと」が、墨を流したように真っ黒な余白へと消えていく。凪を見ている。彼女を愛おしいと思う。だが、その感情を繋ぎ止めるための言葉の杭が、一秒ごとに脳の細胞から剥がれ落ちていく。
その進行速度は異常だった。通常、認知症は数年単位で進むものだ。だが燈の場合、凪という存在に触れ、彼女との情緒的交流を深めようとした瞬間に、まるで防波堤が決壊したように忘却が流れ込んでくる。
凪は燈の手を握りしめ、自分に引き寄せた。彼女の頬を絶え間なく涙が伝う。
彼女はスケッチブックを開き、そこに自分の記憶の欠片を絞り出すように書き記していく。
『この痛みが、私たちが生きていた唯一の証拠だから。思い出さなくていい。でも、私を忘れることだけは、忘れないで』
燈は、その文字を目に焼き付けようとした。だが、彼の網膜は、彼女の言葉を意味として捉えることを拒絶し始めていた。文字はただの黒い線になり、線はただの汚れに変わる。
「凪さん。僕の名前を、呼んでくれ。声が出ないなら、心の中で叫んでくれ。僕は、自分が誰か……もう、わからなくなりそうだ。自分が自分でなくなる前に、君が僕を繋ぎ止めてくれ」
燈は海に向かって叫んだ。その声は潮風にかき消され、空ろに響く。
空を見上げると、まだ太陽が高い位置にあるというのに、彼は一番星を探すような切実さで虚空を仰いだ。
その時、二人の背後から、重く粘りつくような足音が聞こえた。
振り返ると、そこにはアパートの隣人である源さんが立っていた。
いつもは好々爺として笑っている老人が、今は鬼のような形相で二人を凝視している。その手には、古びた、それでいて手入れの行き届いた一振りの漁師ナイフが握られていた。
「お前……お前、あの時の……」
源さんの言葉は震えていた。彼の視線は、燈ではなく、燈の背後に立つ目に見えない何かへと向けられていた。
「お前たちは、あの日の波に魂を半分置いてきちまったんだ。生きてるのか死んでるのか、判別もつかねえ幽霊みたいな二人だ! 燈、そいつから離れろ。そいつは凪じゃねえ。そいつは、お前の記憶を喰らうために海から還ってきた「余白」だ!」
海鳴りの音が、さらに暴力的になり、周囲の風景を歪ませる。
燈の意識の端で、激しいドラムとオーケストラが入り混じったような響きが轟いた。痛みさえも燃料にして、誰もいない明日へ。そんな絶望的な航路へ自分たちが引きずり込まれていくような予感に、燈は吐き気を覚えた。
倒れ込む燈を、凪が必死に支える。彼女の喉から、ヒュウ、と笛のような、あるいは悲鳴のような音が漏れた。
燈は、深い闇の中で見た。
逆回転する腕時計の針。四時十四分から始まった針は、今や恐ろしい速度で歴史を遡っている。
実体のない残像としての「零」が、海の底から自分を嘲笑いながら引きずり込もうとしている。
「お前の記憶は、すべて俺の餌だ。凪を愛せば愛すほど、彼女の時間は削り取られ、死へと近づく。お前が優しさだと思っている行為は、すべて彼女の寿命を削る剃刀なんだよ。お前は彼女を助けたんじゃない。自分と一緒に地獄へ連れて行く契約を結んだんだ」
「違う……そんなはずはない!」
燈は闇の中で叫んだ。だが、零の言葉を裏付けるように、凪の姿が少しずつ透き通っていく。彼女の存在そのものが、燈の記憶の忘却と引き換えに蒸発しているようだった。
再び燈が目を覚ましたとき、彼は砂浜に一人で倒れていた。
凪の姿も、源さんの姿もどこにもない。
ただ、砂に半ば埋まったボイスレコーダーが、誰の手も借りずに再生を始めた。
「今日、二月十五日。バッテリーは……やはり、100%のままだ」 ――録音された自分の声に混じる独白に燈は凍り付いた。一度も充電した記憶がない。なのに、この機械は永遠の命を得たかのように満タンの表示を維持し続けている。
続いて流れてきたのは、燈自身が吹き込んだ覚えのない、だが聞き紛うはずのない凪の声だった。
声が出ないはずの彼女が、嗚咽に混じりながら、血を吐くような思いで囁いていた。
「燈さん。私、あなたを殺しに……会いに行くね。そうしないと、あなたの中の怪物が世界を全部飲み込んでしまうから。ごめんね。愛してるなんて言葉、もう一度だけ、声にして伝えたかった。ひだまりのような、あの日のあなたの声を、私は一度も忘れたことはないよ」
燈は、震える手でレコーダーの青いリボンを握りしめた。
リボンは、いつの間にか赤黒く変色し、生臭い潮の香りを放っていた。
海鳴りは止まない。それどころか、それは街全体を飲み込むような轟音へと成長していた。
そして、燈の脳内からは、ついさっきまでそこにいたはずの「源さん」という人物の顔が、霧に包まれるように薄れ始めていた。存在したという事実ごと、指の間からこぼれ落ちていく。
加速する忘却。逆行する時間。
空を見上げると、まだ昼だというのに、一つだけ狂ったように輝く星が見えた。
それは、希望などではない。
終わりへと誘う冷酷な道標だった。
燈は、砂を噛むような思いで立ち上がった。足元に落ちていた凪のスケッチブック。その最新のページには、まだ乾いていないインクで、たった一行、こう書かれていた。
『さよなら、私の光。明日のあなたは、もう私を知らない』
燈の頬を、一筋の涙が伝った。その涙が砂に落ちた瞬間、彼の左手首に、消えたはずの腕時計が再び現れた。
針は、四時十三分を指していた。
一分間、戻っている。
その意味を理解する暇もなく、燈の意識は再び白く塗りつぶされた。
――そして、再び朝が来る。
燈は、真っ白な天井を見つめていた。
壁の付箋は、一枚もない。
枕元には、なぜか用意されている青いリボンに結ばれた新しい日記帳。
燈は一ページ目を開いた。そこには、震える自分の文字でこうあった。
「今日、二月十五日。僕は海辺で、凪という少女に出会うはずだ」
燈は、それを読み上げることさえできず、ただ理由もわからぬ涙を流した。
窓の外では、昨日と同じ太陽が、昨日と同じ軌道で昇り始めていた。
(第2話 完)
【第2話 あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
加速する忘却、逆回転を始めた腕時計、そして「愛するほどに相手を消してしまう」という残酷な等価交換。
記憶を食らう獣を飼い慣らそうとする燈と、声と引き換えに「過去」を背負い続ける凪。
二人が防波堤で重ねた指先は、救いだったのでしょうか。それとも、終わりへと続く秒読みの合図だったのでしょうか。
「昨日」が「明日」に塗り替えられるたび、彼らの魂は削り取られ、世界は真っ白な「余白」へと飲み込まれていきます。この物語は、そんな一分間の生を繋ぎ止めるための、命懸けの現像記録です。
▼本作の深淵を聴く(物語を「完成」させるために)
これらは単なるBGMではありません。私108(sund)が、燈の脳内を侵食するノイズと、凪が喉の奥に封じ込めた絶叫を、直接「音」へと変換した楽曲たちです。
①『余白の証明』
――第2話 メインテーマ。
朝、目覚めるたびに世界が漂白されていく恐怖と、それでも「君」がいた場所を探そうとする意志の旋律。
透明感のあるピアノが、燈の消えゆく記憶の輪郭をなぞり、ドラマチックなサビが「忘れたくない」という魂の叫びを現像します。この曲を聴くとき、あなたは燈と共に、奪われ続ける日常の切なさに立ち向かうことになるでしょう。
②『欠片の記憶 ―Relic of Mind―』
――砂のようにこぼれ落ちる過去を繋ぎ止める、エモーショナルな楽曲。
疾走感のあるギターと切ないメロディが、逆回転する時間の残酷さを象徴します。
どれだけ必死に手を伸ばしても、指の間から記憶が砂となって消えていく。その「喪失のスピード」を音で体感したとき、凪がスケッチブックに綴った言葉の重さが、あなたの胸を激しく揺さぶります。
③『ひだまりの約束』
――凪がボイスレコーダーに遺した、血を吐くような「祈り」のバラード。
「たとえあなたが私を忘れても、私が覚えている」。
ひだまりのような温もりと、氷のような孤独。二つの感情が交錯するこの曲は、声を失った彼女が心の中で叫び続けていた、ただ一つの愛の証明です。
④『暁光の航路 ―Route of Dawn―』
――絶望の海へ漕ぎ出す、圧倒的スケールの聖歌。
「痛みさえも燃料にして、誰もいない明日へ」。
(3)の音源が持つ凛とした美しさが、時間の逆行に抗い、再び海辺へと向かう燈の背中を押し上げます。この旋律が響くとき、物語は「悲劇」を超えた、新たな運命の現像へと加速します。
【音楽と共に、物語の真の結末へ】
これらの楽曲は、108が物語の「行間」を埋めるために、燈と凪の命の鼓動を直接音へと変換したものです。
テキストを読み、音楽を聴き、二つの感覚がシンクロしたとき――『僕の記憶が消えるたび、君は「はじめまして」と泣いた。』は、あなたの心の中で本当の「完成」を迎えます。
【物語とシンクロする公式リンク】
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(※ここで全曲のフルバージョンを、物語の進行に合わせて聴くことができます)
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X (Official): @108sund
もし少しでも「燈と凪の、消えゆく愛の軌跡を見届けたい」と感じていただけたら、【お気に入り登録】や【感想】、【ポイント投票】をいただけますと、逆行する時間を止める大きな力になります。
【次回予告:第3話「母のコンソメスープとなぜ君が僕だけの真実を知っているのか」】
「凪さん、君はどうしてこの味を知っているんだ」
差し出されたスープは、死んだ母の味だった。
温もりを一つ得るたびに、未来が一つ塗りつぶされていく。
一方、源さんが放った言葉が、燈を戦慄させる。「お前たちは、あの日の波に魂を半分置いてきちまったんだ」
第3話、記憶の「開かずの間」がついに開かれます。
【次回予告】
「未完成の地図」に記された、実在しない白い灯台。
主治医・佐伯が告げる、燈の脳内に広がる「物理的な空洞」の正体とは。
次回:2/22 21:00 UP予定
物語が進むにつれ、楽曲の歌詞が意味を変えていきます。ぜひMusicリンクから楽曲を聴きながら、次の更新をお待ちください。
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