私を騙したあなたへ ―― 記憶を盗んだのは、あなたでした。

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31話【覚醒の歩法 ―― 硝煙の脱出と死神の偽書】

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 彩花は息を、鼓動までも呑み込んだ。  至近距離に立つ黒崎剛一郎から放たれる圧倒的な威圧感が、目に見えない重力となって彼女の肩を圧迫する。

 しかし、黒崎の瞳の奥底には、単なる怒りや勝利のほかに、何か懐かしいものを発見したような、奇妙で獰猛な喜びが火花のように一瞬宿ったのを、彩花は見逃さなかった。

 それは獲物を追い詰めた愉悦というより、失ったはずの「過去」を再び手中に収めた者の、悍ましい執着の眼差しだった。

「待てと言っているだろう!」

 黒崎の声は会場全体を支配する雷鳴となり、すべての視線が彩花に殺到する。  周囲がざわめき、恐怖の連鎖で混乱が生まれる。  逃げ場のない空間で、黒崎の足音が死の宣告のように一歩ずつ、確実に迫る。

 その刹那、至近距離を通り過ぎたウェイターが、まるで命懸けの芝居のように、持っていたトレイの上のワイングラスを意図的に床に落とした。  その瞬間、ウェイターの視線が微かに彩花の胸元のペンダントに動き、エリカが仕込んでいた「合図」を送った。

 グラスは厚いカーペットに鈍い音を立てただけで割れなかった。  だが、その一瞬の不自然な動作が、黒崎と警備員の意識をわずかに引き付けた。

 この数瞬の隙を、彩花は見逃さなかった。  ウェイターの緊迫した意図を、そしてこの演出が「味方の援護」であることを瞬時に察知し、遺伝子レベルで眠っていた格闘スキルが覚醒する。

 彩花は「キャッ!」という悲鳴を上げながら、ドレスの裾を翻して体勢を極限まで低くした。  右足の太ももからふくらはぎにかけての筋肉が、爆発的なエネルギーを伴って躍動する。

 彩花は右足のかかとで勢いよく、ウェイターが落としたグラスを正確に蹴り上げた!

 空中に舞ったグラスは、鋭い音と共に床に叩きつけられ、ダイヤモンドの砂礫のようなガラスの破片が閃光となって激しく飛び散る。  飛び散った赤ワインの、鉄を含んだような芳醇かつ不気味な香りが鼻腔を突き、視界が鮮血の色に染まったかのような錯覚に陥った。

 ウェイターは計算通りバランスを崩し、持っていた銀色のトレイを派手に床に落とした。  その金属音と破片の衝撃波が追手の動きをさらに鈍らせる。  彩花の知性と身体能力が、初めて融合した瞬間だった。

「――出口は、西側へ」

 ウェイターは倒れこみ、顔を歪ませながらも、彩花にしか聞こえない緊迫した微かな声で囁いた。  混乱に乗じてかかとを返した彩花は、その言葉の意図を量る暇もなく、光射す出口に向かって脱出を賭けた疾走を開始した。

「逃がすな! 誰かそいつを捕らえろ!」

 黒崎の地を這うような怒声が背後から追いかけてくる。  しかし、床一面に散らばったガラスと、崩れたトレイが作り出した混乱が、追手の足取りを鈍らせる。

 その様子を、会場の隅の影から、スーツを着た痩せ型の男――鬼塚が、冷たい無表情でじっと見つめていた。  彼は、ウェイターが彩花を意図的にサポートした瞬間を、ただ一人見逃さなかった。

 彩花が会場を駆け抜ける瞬間、その背中に鬼塚の視線が突き刺さる。  それは単なる観察ではなく、プロの殺し屋が放つ「死の予感」を孕んだ威圧だった。  彩花の首筋を氷の刃で撫でられるような戦慄が走り、防衛本能が『あの男から目を離すな』と警鐘を鳴らし続けた。

 彩花は息を切らしながら、人混みを縫うように出口へ突進する。  高いヒールを脱ぎ捨て、裸足に近い状態で大理石の床を蹴るたび、足の裏に鋭い痛みが走るが、止まれば死ぬという執念が痛覚を麻痺させていた。

 心臓は破れんばかりに鼓動し、脱出への執念が彼女を突き動かす。  あと少し、あと数歩――。  彩花は最後の力を振り絞り、光差す出口へ、闇からの解放を求め飛び込んだ。

「はぁ…はぁ……っ!」

 外の夜気を肺いっぱいに吸い込み、彩花は決死の逃走の末に、一瞬の安堵に胸を撫で下ろす。  だが、完全な安全はない。黒崎は必ず、今この瞬間も追っている。

 彩花は人気のない裏路地に身を隠し、冷たい壁に背を寄せた。  耳を澄ますと、警備員の足音と、黒崎の怒声が遠くから、しかし確実に近づいてくる。

「どこへ行った、あの女!」

 彩花の激しい心臓の音が、自分の耳にまで響く。  呼吸を殺し、身を低くした。  その時、彩花のスマートフォンが微かに振動した。

 見覚えのない番号からのメッセージが表示されている。

『お前は、すでに包囲されている。大人しく降伏しろ。さもなくば、蓮の命はない』

 彩花は氷のように息を呑んだ。  だが、すぐに違和感に気付いた。  蓮なら、どんな窮地でも決して私の心を乱すような連絡はさせない。  それに、彼が捕まれば真っ先に連絡してくるのは悠斗のはずだ。

 彩花は知性をフル回転させ、このメッセージが単なる虚勢であり、自分の焦りを誘うための黒崎の心理的な罠であると見抜いた。

 黒崎の脅迫を振り切るように、彩花のスマートフォンが再び震えた。  画面には「悠斗」の文字が、安堵の光のように点滅している。

「彩花さん、無事か? 今、状況は?」

 悠斗の冷静で頼もしい声が、冷たい夜の空気の中で、彼女の耳に届いた。  その声は、緊張で張り詰めた彩花の心を、ほんの少しだけ解きほぐした。

「ええ、なんとか逃げ切りました。偽の証拠を掴まされ、罠にかかってしまいましたが……でも、確かな手応えはあります」

 彩花は安堵のため息をひとつ漏らし、状況を伝えた。

「了解。君の居場所は特定した。すぐに指定の場所へ迎えに行く。絶対に動くな」

 電話を切ると、彩花は再び周囲を慎重に警戒した。  路地の静けさの中、風が頬を撫で、遠くで犬の吠え声がかすかに聞こえる。  追手の声はもう届かない。

 彩花は蓮を信じ、黒崎の脅迫を無視する決意を固め、慎重に足を進めた。  人通りの少ない裏道を抜け、月明かりに照らされた公園に辿り着く。

 そして、公園の暗がりで待機していた蓮と悠斗の二人と合流した。  そこには、まだエリカの姿はなかった。  その不在が、彩花の胸に微かな不安の棘を差す。

 互いの安否を確認し、言葉よりも雄弁な視線だけで互いの胸の内を理解し合う。  三人は、生還の喜びをひそやかに分かち合った。

「無事でよかった……そして、よくやってくれた」

 蓮の声には、愛する者を守り抜き、大きな成果を得たという安堵と、これから戦う覚悟が混ざっていた。  彩花は小さく頷き、冷えた夜風に身を委ねながら思う。  これで、クロノスの悪事を暴くための、決定的な一歩を踏み出せたのだと。

 その頃、探偵事務所では風見が静かに立ち上がり、窓の外に視線を投じていた。  茜色に染まる夕日が、高層ビルの窓ガラスを燃えるような夕焼けの色に照らし出す。  その光に映る彼の横顔には、深い哀愁と譲れない決意が同居していた。

 かつて、彼は理想に燃える若き警視庁捜査一課の刑事だった。  クロノスの闇を追う中で、彼はあの日、人生のすべてを失った。

 風見は、震える自分の掌を見つめた。  脳裏に焼き付いているのは、爆発炎上する自家用車の熱風と、その炎に包まれた妻子の絶叫だ。

 黒煙が茜色の空を覆い尽くす中、彼はただ瓦礫の前に立ち尽くすことしかできなかった。  助けを呼ぶ自らの声は虚しく掻き消され、指先はあまりの恐怖と無力感に、痙攣するように激しく震えていた。

 あの時、自らの正義感が招いた最悪の結末――。  守るべき家族を守れなかった屈辱と悔恨は、今も消えない刺青のように胸の奥で疼いている。

「私は……あの時、自惚れから真実を甘く見て、取り返しのつかない形で大切なものを失った。だが、二度と同じ過ちは犯さない。あの日から、私の正義は復讐へと変わった。だが、その復讐の果てに、この子たちが笑える未来があるなら……」

 風見はゆっくりと体を転じ、戻ってきた同志たちを、そしてこれから戻るであろうエリカの席を静かに見据えた。

「君たちと共に、クロノスを倒し、私の失った正義を、ここで必ず貫く。家族の魂に報いるためにもな」

 その声には、過去の深い悔恨、そして熟練の身を押してでも戦い抜くという、揺るぎない決意が鮮明に込められていた。

 夜の帳が下りる事務所の中で、五人の意志は、かつてないほど強固に結びつこうとしていた。

【第31話:あとがき】

 最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

 第31話は、彩花の知性と勇気が光る脱出劇、そして風見所長が背負う凄絶な過去が語られる回となりました。  物語は非常に重要な局面を迎えておりますが、本作の更新は第33話をもって一度、お休みをいただこうと思います。

 実は、他の作品の執筆も並行しており、毎日更新を続けるにはかなりのエネルギーを必要としています。毎日楽しみにしてくださるファンの方がいれば頑張れるのですが、現状ではなかなかモチベーションを維持するのが難しい状況です。

 そのため、以下のいずれかの条件を満たした場合に、本作への「需要がある」と判断して再開させていただこうと考えています。

 ・お気に入り登録が「3人」になった時  ・あるいは、第31話から33話への「いいね(♡)」が「5つ」を超えた時

 勝手なお願いではありますが、もしこの先の展開を読みたいと思ってくださる方がいらっしゃれば、リアクションをいただけると大変励みになります。

 またいつか、皆様の応援と共に物語を動かせる日が来ることを願っております。
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