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32話【深淵の結託 ―― 国家を凌駕する闇と呪われた血脈】
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「もし、クロノスが国際的な、国家を凌駕するほどの巨大組織と繋がっていたら……」
風見の言葉が放たれた瞬間、探偵事務所の空気は一瞬にして絶対零度まで凍りついた。 窓の外で鳴っていた遠い街の喧騒すら、厚いガラスに遮断されたかのように聞こえなくなる。
一同の表情には、氷のような冷たい戦慄が走った。 その想定が現実であるならば、自分たちが今対峙しているのは単なる犯罪企業ではない。
法や倫理、そして国境という概念すら、金と暴力で溶解させる「世界の裏側」そのものを敵に回していることを意味していた。
「まさか……そんな、冗談でしょう。一企業が国を超えるなんて」
蓮の低い声が、静まり返った部屋に重く、鈍く響いた。 その声は、自分自身の言葉で恐怖を否定しようとする、微かな震えを孕んでいた。
「可能性は、極めて高い。否定する要素がどこにもないのだ。黒崎の野望は、もはや単なる国内の利権という矮小な枠には収まっていない。世界規模の支配、人類の記憶や精神の根幹すら管理下に置こうとする、神をも恐れぬ企みが、このデータの裏側に透けて見える」
悠斗は眉をひそめ、青白い光を放つ端末の画面を見つめた。 そこには、網の目のように複雑に絡み合った、タックスヘイブンを経由する資金流用のネットワークが映し出されている。
「だとすれば、我々の戦いは、日本の司法や警察の手に負えるレベルではない。これまで以上に、極秘裏に、そして……文字通り、命の予備がいくつあっても足りないほど過酷なものになるだろう。もはや、この国に安全な場所など、一平方センチメートルたりとも存在しないのかもしれない」
彩花は、テーブルの下で震える拳を、爪が食い込むほどぎゅっと握りしめた。 その瞳には、恐怖を焼き払うような、青白く鋭い光が宿っていた。
「それでも、私たちは一歩も引かない。父が命を懸けて遺した夢を泥足で汚し、世界を脅かそうとするその悪を、私はこの手で必ず引きずり下ろす」
五人は互いの目を見つめ合い、運命共同体としての静かな、しかし鋼のような信頼を心に刻んだ。
窓の向こうに沈む夕日は、まるでこれから始まる凄惨な殺戮の序章を告げるかのように、不気味なほど赤く、血の色そのものとなって輝いていた。
しかし、一同が結束を固めるその裏側で、風見の胸中には鋼の針が突き刺さるような、鋭く不穏な違和感が走っていた。 刑事として、そして闇の世界の住人として生きてきた彼だけの本能が、静かに、だが執拗に警鐘を鳴らし続けている。
(チームの中に、裏切り者がいる……?)
その予感は、エリカの報告に混じる不自然な「空白」から生じていた。 彼女は黒崎との接触を頻繁に繰り返している。潜入捜査という大義名分はあるが、その核心的なやり取りの内容が、ある時期を境に一切チームに報告されなくなっているのだ。
風見は、胃を鋭い刃物で掻き回されるような葛藤に苛まれていた。 エリカを疑いたくない。彼女が蓮に向ける、あの痛々しいほど純粋な献身が偽りだとは到底思えない。
だが、闇の世界では、愛ゆえに人は盲目になり、愛ゆえに守るべき者のために、最も残酷な裏切りを選択することもある。
風見は深く眉をひそめ、冷たくなったコーヒーを一口含んだ。 泥のような苦味が舌に残り、自分自身の疑惑が仲間を蝕んでいるのではないかという嫌悪感と、真実を見逃せない責任感との間で、彼の心は千々に乱れていた。
……同じ時刻、薄暗い路地裏。
街灯の光が電圧の不安定さゆえにわずかに揺れ、湿ったアスファルトに怪物の爪のような影が伸びる場所で、エリカは独り立っていた。
「本当に、このリスクを負う価値があるのかしら……」
吐き出す吐息は白く、心臓を万力で握りつぶされるような圧迫感が彼女を襲う。 風見のあの刺すような視線が脳裏をよぎるが、彼女は蓮を救うため、そして彼が背負わされた「宿命」の正体を突き止めるため、独断でこの死地へと足を踏み入れた。
そのとき、背後から低く、硬い革靴がアスファルトの粒子を削るような、心臓を直接撫でる冷徹な足音が響いた。
「待たせたな。忠実な小鳥よ」
振り向くと、黒崎剛一郎の不敵で傲慢な笑みが、街灯の逆光の中にどす黒く浮かび上がっていた。 その目は、狙いを定めた獲物の頸動脈を確実に引き千切る、飢えた捕食者の輝きを宿している。
「剛一郎さん……約束通り、話して。蓮の『出生の秘密』。彼がなぜあんなにも苦しまなければならないのか、そのすべてを」
エリカは奥歯を噛み締め、声を震わせることなく、氷のような毅然とした態度で対峙した。 だが、黒崎の口から吐き出されたのは、彼女の魂を根底から汚染するような、おぞましき真実の羅列だった。
「ふふふ……期待を裏切らない、最高の悲劇を教えてやろう。蓮という存在はな、愛や奇跡の結果生まれた命などではない。あれは、クロノスが数世代にわたって『血の淘汰』を執拗に繰り返し、交配と遺伝子選別を極限まで重ねて作り上げた、究極の『実験体』なのだよ」
黒崎は一歩近づき、エリカの耳元で愛を囁くような甘い声で続けた。
「より優れた記憶保持、より高い精神的耐久性。それらを備えた完璧な『器』を一つ生み出すために、どれほどの数に上る不適合品が、ゴミのように廃棄され、焼却されてきたか、お前には想像もつくまい。蓮の血脈は、数千人の名もなき犠牲者の死体の上にデザインされた、呪われた傑作なのだよ。彼は人間ではない。完成された『製品』だ」
「……まさか、そんな、嘘だ、嘘よ……!」
エリカの瞳が激しく揺れ、言葉を失う。 「器」「廃棄」「不適合品」――人間を生命として扱わない、生理的な嫌悪感を催すワードが、汚泥のように彼女の耳から脳へと侵食していく。
蓮が抱えていた、あの夜ごとの悪夢も、得体の知れない孤独も、すべてはクロノスの冒涜的な執着が生んだ「設計図通り」の反応に過ぎない。その事実に、彼女は胃の底からせり上がる、酸っぱい吐き気を抑えることができなかった。
「さて、情報の提供者としては、もう用済みだ。お前は知りすぎた。私の最高傑作の、隠された設計図をな」
黒崎は躊躇なく、懐から取り出した黒い銃をエリカに向けた。
「……っ!」
反射的に身をかわしたエリカだったが、背後の闇から影のように現れた複数の男たちが、彼女を鋼の檻のように取り囲んだ。 多勢に無勢。瞬く間に細い腕をへし折るような力で掴まれ、逃げ場は完全に断たれた。
「逃がすな! 始末しろ!」
黒崎の冷酷な命令が飛ぶ。 エリカは死に物狂いで肘を突き出し、相手の顔面を打とうとした。 しかし、追っ手の湿った指が彼女の足首を乱暴に掴み、冷たいコンクリートへと引きずり倒そうとしたその時――。
夜の静寂を切り裂き、一人の男が「野生の獣」のごとき速さで路地に躍り込んだ。
風見だ。
その動きには、およそ月日の経過を感じさせる澱(よど)みが一切なかった。 長年、組織の最前線から退いていたはずの身体は、かつて裏社会を震撼させた『掃除屋』としての鋭い本能を、この一瞬で完全なまでに呼び覚ましている。
踏み出した一歩は、重心の移動を視覚が捉えられぬほど滑らかで、それでいて地面を揺らす地鳴りのような重圧を伴っていた。
風見は、男が引き金に指をかけるわずか数コンマ秒の刹那を突いた。 相手の呼吸の合間を盗むように懐へ滑り込み、掌底で拳銃のシリンダーを上から力強く制圧する。
同時に、逆の手の手刀が男の鎖骨と首筋が交差する急所を、解剖学的な正確さで穿った。 ミリッ、という不快な関節のきしむ音と、軟骨が砕ける乾いた音が、逃げ場のない路地に響き渡る。男は声すら上げられず、膝から崩れ落ちた。
「なっ……貴様、まさか……まだ動けるというのか!」
黒崎の顔色が、一瞬で土色に変わった。 街灯に照らされた風見の瞳は、過去の凄惨な闇そのものを抱え込んだように深く、そして一度捕らえた獲物を決して許さない、絶対零度の冷たさを湛えている。
「ま、またお前か……風見……! 腐れ縁にも程がある!」
黒崎の声は、怒りを超え、明確な「本能的な恐怖」に震えていた。 風見がかつて組織で『掃除屋』として君臨していた最盛期。無駄の一切を省いた一撃で強者を沈め、死体すら残さず闇を処理してきた、あの怪物じみた圧倒的な武。
黒崎は、自身の頸動脈が今にも刈り取られるかのような幻覚に襲われていた。 風見が放つ『静かなる暴力』。それは、対峙する者に自らの死を強制的に確信させる、逃れようのない圧威だった。
風見は静かに、しかし一歩ごとに空気を圧縮するような威圧感で、黒崎へと歩みを進める。
「黒崎……お前はまた、己の底知れぬ欲望のために、罪のない人間を、魂を持った人間を、ただの道具として使い潰そうとしているのか」
その声は低く、だが路地の壁に反響し、黒崎の精神を直接切り裂くように鋭く響いた。
「ふざけるなッ! お前は我々の組織を裏切った、恩知らずの犬だ! その手でどれほどの闇を始末してきたか、もう忘れたとでも言うのか!」
黒崎は堪えきれず吠えるが、その脚は自分でも気づかぬうちにガクガクと震え、後ずさりしていた。 風見は微動だにせず、ただ神の審判を下す使者のように冷徹に宣告した。
「過去の過ちは、私が一生をかけて背負う。血塗られたこの両手でしか成せぬこともある。二度と同じ過ちは犯させない。クロノスという、この世界に巣食う巨大な癌細胞を、私はここで、根こそぎ終わらせる」
風見の背後で、エリカは地面に膝をついたまま、震えながら彼が放つ圧倒的な「闇を裂く力」を見つめていた。
夜の帳が下り、街灯がジジッという音を立てて消えかかる中、かつての死神と現在の支配者の対峙が、物語をさらなる深淵へと、引きずり込んでいくのだった。
【第32話:あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
第32話は、ついに風見所長の「掃除屋」としての牙が剥かれ、蓮の過酷な出生の秘密が語られる、極めて密度の高いエピソードとなりました。 物語は非常に重要な局面を迎えておりますが、本作の更新は次の第33話をもって一度、お休みをいただこうと思います。
実は、他の作品の執筆も並行しており、毎日更新を続けるにはかなりのエネルギーを必要としています。毎日楽しみにしてくださるファンの方がいれば頑張れるのですが、現状ではなかなかモチベーションを維持するのが難しい状況です。
そのため、以下のいずれかの条件を満たした場合に、本作への「需要がある」と判断して再開させていただこうと考えています。
・お気に入り登録が「3人」になった時 ・第32話、あるいは、次話(第33話)への「いいね(♡)」が「5つ」を超えた時
勝手なお願いではありますが、もしこの先の展開を読みたいと思ってくださる方がいらっしゃれば、リアクションをいただけると大変励みになります。
またいつか、皆様の応援と共に物語を動かせる日が来ることを願っております。
風見の言葉が放たれた瞬間、探偵事務所の空気は一瞬にして絶対零度まで凍りついた。 窓の外で鳴っていた遠い街の喧騒すら、厚いガラスに遮断されたかのように聞こえなくなる。
一同の表情には、氷のような冷たい戦慄が走った。 その想定が現実であるならば、自分たちが今対峙しているのは単なる犯罪企業ではない。
法や倫理、そして国境という概念すら、金と暴力で溶解させる「世界の裏側」そのものを敵に回していることを意味していた。
「まさか……そんな、冗談でしょう。一企業が国を超えるなんて」
蓮の低い声が、静まり返った部屋に重く、鈍く響いた。 その声は、自分自身の言葉で恐怖を否定しようとする、微かな震えを孕んでいた。
「可能性は、極めて高い。否定する要素がどこにもないのだ。黒崎の野望は、もはや単なる国内の利権という矮小な枠には収まっていない。世界規模の支配、人類の記憶や精神の根幹すら管理下に置こうとする、神をも恐れぬ企みが、このデータの裏側に透けて見える」
悠斗は眉をひそめ、青白い光を放つ端末の画面を見つめた。 そこには、網の目のように複雑に絡み合った、タックスヘイブンを経由する資金流用のネットワークが映し出されている。
「だとすれば、我々の戦いは、日本の司法や警察の手に負えるレベルではない。これまで以上に、極秘裏に、そして……文字通り、命の予備がいくつあっても足りないほど過酷なものになるだろう。もはや、この国に安全な場所など、一平方センチメートルたりとも存在しないのかもしれない」
彩花は、テーブルの下で震える拳を、爪が食い込むほどぎゅっと握りしめた。 その瞳には、恐怖を焼き払うような、青白く鋭い光が宿っていた。
「それでも、私たちは一歩も引かない。父が命を懸けて遺した夢を泥足で汚し、世界を脅かそうとするその悪を、私はこの手で必ず引きずり下ろす」
五人は互いの目を見つめ合い、運命共同体としての静かな、しかし鋼のような信頼を心に刻んだ。
窓の向こうに沈む夕日は、まるでこれから始まる凄惨な殺戮の序章を告げるかのように、不気味なほど赤く、血の色そのものとなって輝いていた。
しかし、一同が結束を固めるその裏側で、風見の胸中には鋼の針が突き刺さるような、鋭く不穏な違和感が走っていた。 刑事として、そして闇の世界の住人として生きてきた彼だけの本能が、静かに、だが執拗に警鐘を鳴らし続けている。
(チームの中に、裏切り者がいる……?)
その予感は、エリカの報告に混じる不自然な「空白」から生じていた。 彼女は黒崎との接触を頻繁に繰り返している。潜入捜査という大義名分はあるが、その核心的なやり取りの内容が、ある時期を境に一切チームに報告されなくなっているのだ。
風見は、胃を鋭い刃物で掻き回されるような葛藤に苛まれていた。 エリカを疑いたくない。彼女が蓮に向ける、あの痛々しいほど純粋な献身が偽りだとは到底思えない。
だが、闇の世界では、愛ゆえに人は盲目になり、愛ゆえに守るべき者のために、最も残酷な裏切りを選択することもある。
風見は深く眉をひそめ、冷たくなったコーヒーを一口含んだ。 泥のような苦味が舌に残り、自分自身の疑惑が仲間を蝕んでいるのではないかという嫌悪感と、真実を見逃せない責任感との間で、彼の心は千々に乱れていた。
……同じ時刻、薄暗い路地裏。
街灯の光が電圧の不安定さゆえにわずかに揺れ、湿ったアスファルトに怪物の爪のような影が伸びる場所で、エリカは独り立っていた。
「本当に、このリスクを負う価値があるのかしら……」
吐き出す吐息は白く、心臓を万力で握りつぶされるような圧迫感が彼女を襲う。 風見のあの刺すような視線が脳裏をよぎるが、彼女は蓮を救うため、そして彼が背負わされた「宿命」の正体を突き止めるため、独断でこの死地へと足を踏み入れた。
そのとき、背後から低く、硬い革靴がアスファルトの粒子を削るような、心臓を直接撫でる冷徹な足音が響いた。
「待たせたな。忠実な小鳥よ」
振り向くと、黒崎剛一郎の不敵で傲慢な笑みが、街灯の逆光の中にどす黒く浮かび上がっていた。 その目は、狙いを定めた獲物の頸動脈を確実に引き千切る、飢えた捕食者の輝きを宿している。
「剛一郎さん……約束通り、話して。蓮の『出生の秘密』。彼がなぜあんなにも苦しまなければならないのか、そのすべてを」
エリカは奥歯を噛み締め、声を震わせることなく、氷のような毅然とした態度で対峙した。 だが、黒崎の口から吐き出されたのは、彼女の魂を根底から汚染するような、おぞましき真実の羅列だった。
「ふふふ……期待を裏切らない、最高の悲劇を教えてやろう。蓮という存在はな、愛や奇跡の結果生まれた命などではない。あれは、クロノスが数世代にわたって『血の淘汰』を執拗に繰り返し、交配と遺伝子選別を極限まで重ねて作り上げた、究極の『実験体』なのだよ」
黒崎は一歩近づき、エリカの耳元で愛を囁くような甘い声で続けた。
「より優れた記憶保持、より高い精神的耐久性。それらを備えた完璧な『器』を一つ生み出すために、どれほどの数に上る不適合品が、ゴミのように廃棄され、焼却されてきたか、お前には想像もつくまい。蓮の血脈は、数千人の名もなき犠牲者の死体の上にデザインされた、呪われた傑作なのだよ。彼は人間ではない。完成された『製品』だ」
「……まさか、そんな、嘘だ、嘘よ……!」
エリカの瞳が激しく揺れ、言葉を失う。 「器」「廃棄」「不適合品」――人間を生命として扱わない、生理的な嫌悪感を催すワードが、汚泥のように彼女の耳から脳へと侵食していく。
蓮が抱えていた、あの夜ごとの悪夢も、得体の知れない孤独も、すべてはクロノスの冒涜的な執着が生んだ「設計図通り」の反応に過ぎない。その事実に、彼女は胃の底からせり上がる、酸っぱい吐き気を抑えることができなかった。
「さて、情報の提供者としては、もう用済みだ。お前は知りすぎた。私の最高傑作の、隠された設計図をな」
黒崎は躊躇なく、懐から取り出した黒い銃をエリカに向けた。
「……っ!」
反射的に身をかわしたエリカだったが、背後の闇から影のように現れた複数の男たちが、彼女を鋼の檻のように取り囲んだ。 多勢に無勢。瞬く間に細い腕をへし折るような力で掴まれ、逃げ場は完全に断たれた。
「逃がすな! 始末しろ!」
黒崎の冷酷な命令が飛ぶ。 エリカは死に物狂いで肘を突き出し、相手の顔面を打とうとした。 しかし、追っ手の湿った指が彼女の足首を乱暴に掴み、冷たいコンクリートへと引きずり倒そうとしたその時――。
夜の静寂を切り裂き、一人の男が「野生の獣」のごとき速さで路地に躍り込んだ。
風見だ。
その動きには、およそ月日の経過を感じさせる澱(よど)みが一切なかった。 長年、組織の最前線から退いていたはずの身体は、かつて裏社会を震撼させた『掃除屋』としての鋭い本能を、この一瞬で完全なまでに呼び覚ましている。
踏み出した一歩は、重心の移動を視覚が捉えられぬほど滑らかで、それでいて地面を揺らす地鳴りのような重圧を伴っていた。
風見は、男が引き金に指をかけるわずか数コンマ秒の刹那を突いた。 相手の呼吸の合間を盗むように懐へ滑り込み、掌底で拳銃のシリンダーを上から力強く制圧する。
同時に、逆の手の手刀が男の鎖骨と首筋が交差する急所を、解剖学的な正確さで穿った。 ミリッ、という不快な関節のきしむ音と、軟骨が砕ける乾いた音が、逃げ場のない路地に響き渡る。男は声すら上げられず、膝から崩れ落ちた。
「なっ……貴様、まさか……まだ動けるというのか!」
黒崎の顔色が、一瞬で土色に変わった。 街灯に照らされた風見の瞳は、過去の凄惨な闇そのものを抱え込んだように深く、そして一度捕らえた獲物を決して許さない、絶対零度の冷たさを湛えている。
「ま、またお前か……風見……! 腐れ縁にも程がある!」
黒崎の声は、怒りを超え、明確な「本能的な恐怖」に震えていた。 風見がかつて組織で『掃除屋』として君臨していた最盛期。無駄の一切を省いた一撃で強者を沈め、死体すら残さず闇を処理してきた、あの怪物じみた圧倒的な武。
黒崎は、自身の頸動脈が今にも刈り取られるかのような幻覚に襲われていた。 風見が放つ『静かなる暴力』。それは、対峙する者に自らの死を強制的に確信させる、逃れようのない圧威だった。
風見は静かに、しかし一歩ごとに空気を圧縮するような威圧感で、黒崎へと歩みを進める。
「黒崎……お前はまた、己の底知れぬ欲望のために、罪のない人間を、魂を持った人間を、ただの道具として使い潰そうとしているのか」
その声は低く、だが路地の壁に反響し、黒崎の精神を直接切り裂くように鋭く響いた。
「ふざけるなッ! お前は我々の組織を裏切った、恩知らずの犬だ! その手でどれほどの闇を始末してきたか、もう忘れたとでも言うのか!」
黒崎は堪えきれず吠えるが、その脚は自分でも気づかぬうちにガクガクと震え、後ずさりしていた。 風見は微動だにせず、ただ神の審判を下す使者のように冷徹に宣告した。
「過去の過ちは、私が一生をかけて背負う。血塗られたこの両手でしか成せぬこともある。二度と同じ過ちは犯させない。クロノスという、この世界に巣食う巨大な癌細胞を、私はここで、根こそぎ終わらせる」
風見の背後で、エリカは地面に膝をついたまま、震えながら彼が放つ圧倒的な「闇を裂く力」を見つめていた。
夜の帳が下り、街灯がジジッという音を立てて消えかかる中、かつての死神と現在の支配者の対峙が、物語をさらなる深淵へと、引きずり込んでいくのだった。
【第32話:あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
第32話は、ついに風見所長の「掃除屋」としての牙が剥かれ、蓮の過酷な出生の秘密が語られる、極めて密度の高いエピソードとなりました。 物語は非常に重要な局面を迎えておりますが、本作の更新は次の第33話をもって一度、お休みをいただこうと思います。
実は、他の作品の執筆も並行しており、毎日更新を続けるにはかなりのエネルギーを必要としています。毎日楽しみにしてくださるファンの方がいれば頑張れるのですが、現状ではなかなかモチベーションを維持するのが難しい状況です。
そのため、以下のいずれかの条件を満たした場合に、本作への「需要がある」と判断して再開させていただこうと考えています。
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