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第一話

「諭吉さんと私が巣立った日」(3)

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「あ、そこまだ汚れが残ってるよ」
「……はい」

私は言われるがまま、隅にへばりついていた汚れにモップを押し付けた。一擦り、二擦り……キラキラと輝く染みは中々落ちてくれない。溜息をつきながら三擦りをすると、カラスの鳴き声が聞こえた。

「気にせんでええ、向こうもちょっかいは出してこんよ」

縁さんはそう言うけど、やはり気になってしまう。あれも妖怪とか、あやかしとかの類なんだよな。縁さんは大丈夫って言うけど私はただの一般人だぞ。もし、いきなり襲われたらどうすればいいんだろう。モップやバケツじゃ明らかに太刀打ちできないぞ、どこぞの旅人だってひのきの棒くらい装備しているのに……変な笑い声が出そう。それに、さっきから通行人にも見られているような気がするんだけど。

「あの、このツナギって本当に効果があるんですか?」
「あるある、普通の人間ならまずはわしらのことが認識できんようになってるけえ、安心してええよ」

相変わらずあっけらかんとした縁さんだが、それでも納得できない。自意識過剰とかじゃなくて絶対に見られてるって、これ。

「勘のええのなら、なんか気になる程度で終わるけえ大丈夫よ。それにばっちり見えとるんならこっち側のじゃけえ意識せんでええ」

結局、私の姿は誰かには見られてるって事じゃないか。もう一度言うけど、一応うら若き乙女である私が、路上の汚れを汗だくで掃除している姿を……今の私はコンビニの制服だって可愛く見えるぞ。ほら、すぐそこにあるコンビニのバイトの子、凄く可愛い。それと自転車で荷物を運んでいる宅配便のお姉さんとかも……うん、まあ、ね。
「もっと腰入れて磨かんと終わらんで」

私が想像していたのと、違いすぎないか、これ……

**

「よっしゃ、着いたよ」

事務所から出て一時間ほど、ようやく目的の場所に着いたらしい。縁さんは手馴れた様子でコインパーキングに車を停めた。道中では色んな事を聞いたが、肝心の仕事内容については詳しい説明が無かったので、私は未だに緊張していた。

「ほいじゃあ、車から降りる前に……お嬢ちゃん、あそこ何か見えるか」

そう言って縁さんが指差した場所は、何の変哲も無い商業ビルだった。複数のテナントが入っているのか、様々な看板が取り付けられてある。一目見ただけでは、これといった異常は感じられなかった。けど、私は縁さんが何を言いたいのかすぐにわかった。

「道路と入り口に面している所、キラキラしていますね」

私が事務所に来る前に見かけた、化学工場の廃棄物みたいなもの。それが、水溜りのように複数に分かれて広がっている。それなのに、通行人は気にする様子も無い。まるで、そこには穴があるかのように無意識に水溜りのようなものを避けていた。

「ほうよ、お嬢ちゃんやっぱり素質あるなあ」

満足げに頷く縁さんだったけど、私はどうも釈然としなかった。というのも避けているのは人だけではなく、猫やカラスも近寄ろうとはしていない。それどころか、確実に見えているような動きで飛び越えたりしている……ちょっと待って、あれ、こっち見てる?

「滅茶苦茶睨まれている気がするんですけど」

思わず縁さんの二の腕を掴んでしまった。だって、あの目絶対に動物の目じゃないんだもん。

「あれはわしと同じんが化けとるだけじゃ」

私の腕を振りほどこうともせずに淡々と縁さんは言ったが、逆に私の掴む力はますます強くなった。だって、あれじゃあ、普通の動物と全く区別つかないじゃん……

「お嬢ちゃん、流石に痛いって」
「あ、ごめんなさい」

慌てて腕を離したが、よく考えると縁さんも元は猫だよね……あれ、ちょっと待てよ?

「あの、縁さんって、その、猫なんですよね」
「厳密に言うとちょっと違うかもしれんの、猫の姿は楽じゃけど」

てっきり、化け猫の類と思っていたけど違うのか。

「わしは無駄に年喰っとるだけのおいぼれよ、まあ、そのおかげで変化だけは得意じゃけどな」
「ということは、こっちを見てきた猫やカラスも、他の妖怪やあやかしが化けているってこと……ですか?」
「そうじゃろうな、詳しい正体まではわからんが。人間の世界を渡り歩くだけならあの姿で十分じゃろうて」

私は離した手で改めて腕を組み、少し考え込むふりをした。いや、実際にちゃんと考えているけど、どうも自分の住んでいる世界があやふやになりかけている。今まで普通の猫ちゃんや鳥さんだったものが、実はそうじゃなくて……昔の事を思い出しながら現在の事を忘れそうになっていくこの感覚が、どうも気持ち悪い。

「縁さんは、どうしてその姿に化けているんですか?」

考え込んでもしょうがないので、とりあえず質問をしてみた。

「子供の姿じゃ酒も煙草も買えんし、年頃の娘の姿じゃったらおめかしやなんやで金がかかるけえな。積極的に人間を化かそうとせん限りこの格好が一番楽なんよ」

確かにそうだけど、妙に現実的な答えでちょっと拍子抜けしそうになった。

「それにな、人間に化けるっちゅうのは結構面倒くさくてな、お嬢ちゃん普段は二本足で生活しとるけどある日、四つんばいで暮らせ言われたら戸惑うじゃろ。じゃけえ人間と積極的に交流しようとせん限り好んで化けようとはせんのよ」

ふむふむ、と一応は頷いて見せるが、どうも要領を得ない。かと言ってこれ以上考えてもますますわからなくなるだろうから、私はいつも通りの手を使うことにした。

「おっと、そろそろ取り掛からんと間に合わんな、ほいじゃあ行こうか」
「はい」

現実逃避してとりあえず後回し。今はなにも考えず目の前のことだけに集中しよう。縁さんに言われるまま、私は車から降りてバックドアーを開けた。
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