あなたの瞳に映るのは、僕じゃなくていい。〜死に戻り薬師は、元旦那様の恋を応援する〜

キノア9g

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第1話 ハッピーエンドへの案内状

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 深夜二時を回った研究室は、石造りの床から芯まで冷え切っていた。
 重厚なカーテンの隙間から、青白い月光が細く差し込んでいる。部屋に満ちるのは、煮詰まった薬液のツンとする刺激臭と、古い羊皮紙の匂い。そして、カリカリと羽ペンを走らせる硬質な音だけ。

「……クライヴ様」

 僕は声を潜めて、彼の背中に呼びかけた。
 返事はない。わかっていたことだ。彼は今、計算式の海に深く潜っている。
 王立研究院時代からの先輩であり、今は僕の夫となった人。
 広い背中は、ここ数日まともに寝台で眠っていないせいで、少し小さく見えた。漆黒の髪は無造作に跳ね、美しい黒のローブも皺が寄っている。
 僕は音を立てないように配膳台を押し、彼の机の端に、淹れたてのコーヒーと、片手で摘めるパンを置いた。

「少し、休憩なさってくださいね」

 独り言のように呟いて、冷めたカップを下げる。
 ふと、彼が顔を上げた。
 眼鏡の奥にある、黄金の瞳が僕を射抜く。その鋭い光に、心臓が甘く跳ねた。もう十年以上も近くにいるのに、僕はまだこの人に恋をしている。

「……ノアか」
「はい。お夜食をお持ちしました。今回は香草抜きですよ、先輩」

 ふざけて昔の呼び名を使うと、彼はわずかに苦笑した。この一瞬だけ、張り詰めた空気が緩む。

「すまない。助かる」
「いいえ。僕が勝手にやっていることですから」

 彼はパンを手に取りながら、机の隅に飾られた銀の額縁に視線をやった。
 硝子の向こうで微笑んでいるのは、繊細な筆致で描かれた細密画の美女――亡き前妻、エレナ様だ。
 彼の表情が、ふっと柔らかく、そして痛切なものに変わる。

(……ああ、やっぱり)

 胸の奥が、古傷のように疼く。
 彼がエレナ様と結婚した時も、彼女が奇病に倒れた時も、そして彼女が亡き人となってからも。僕はそのすべてを近くで見てきた。
 彼女が亡き後、若き天才魔術師である彼のもとには、貴族たちからの縁談が雪崩のように押し寄せた。
 研究の時間を奪われ、憔悴していく彼を見ていられなくて――『提案』をしたのは、僕の方だった。

 ――『僕を隠れ蓑に使ってください』

 あの日、僕は彼に言ったのだ。
 男性同士でも書類上の結婚はできる。僕が「妻」になれば、うるさい縁談はすべて断れる。僕は薬師として研究の手伝いができるし、生活の邪魔もしない。
 だから、どうか僕を使ってください、と。

 『君の家名を汚すことになる』と渋る彼に、『僕はあなたと研究ができればそれでいいんです。恋愛なんてもともと興味ありませんから』と、大嘘をついて笑ってみせた。
 そうして始まった、「かりそめの結婚」。
 僕たちは「夫婦」という名の、ただの共同研究者だ。

「――魔力係数が合わない」

 クライヴ様が苛立ち紛れに髪をかき上げた。

「『白灰病(はくかいびょう)』の進行速度に対して、重力圧縮が追いつかない。これでは、患部が灰になる前に薬が届かないんだ」

 白灰病。
 発症すると、指先や四肢から徐々に体が白い灰となって崩れ落ち、最後には心臓までもがサラサラと音を立てて崩壊する、不治の奇病。
 エレナ様を奪ったその病を、彼は憎んでいる。
 憎んで、憎んで、その憎悪と同じくらいの熱量で、救えなかった過去を愛している。

「……クライヴ様。ベラドンナの配合比率を、あと一摘(ひとつまみ)分だけ下げてみてはいかがでしょう」
「なに?」
「重力干渉を強めるよりも、薬液の浸透率を変えるんです。昔、アカデミーの論文で読みました。灰化しかけた組織の隙間に入り込むには、その方が効率的だと」

 僕の言葉に、彼はハッとして手を止めた。
 黄金の瞳が、今度はしっかりと僕を捉える。そこには、研究者としての興奮と、長年の助手である僕への信頼が宿っている。

「……そうか。あの時の理論か。ノア、お前は本当によく覚えているな」
「クライヴ様のことなら、何でも覚えていますよ」

 冗談めかして言ったけれど、それは半分以上本音だった。
 彼はすでに新しい羊皮紙を取り出し、猛烈な勢いで計算を始めていた。

「試す価値はある。すぐに調合だ。ノア、いつもの」
「はい、わかっています」

 言葉少なに意図を汲み取り、僕は白衣の袖をまくった。
 阿吽の呼吸。長年連れ添った夫婦のような連携。
 けれど、繋がっているのは「目的」だけで、心ではない。
 二人の影が月明かりの下で一つに重なるのを、僕は切なさとともに見つめていた。


 ◇◇◇

 それから三日三晩、僕たちは不眠不休で実験を続けた。
 そして、運命の瞬間は、唐突に訪れた。
 コポォ……と、薬瓶の中の液体が、濁った灰色から、透き通るような黄金色へと変色したのだ。
 重力魔法で圧縮された魔力が、小さな瓶の中で星のように瞬いている。

「……できた」

 震える声だった。
 クライヴ様が、薬瓶を両手で包み込むように持ち上げる。
 僕は息を殺してそれを見守った。
 完成した。『月の雫の秘薬』。これさえあれば、白灰病の進行を止め、失われた組織を再生することができる。

「エレナ……」

 静寂の中で、その名前が響いた。
 歓喜と、深い安堵に濡れた声だった。
 クライヴ様は、薬瓶を愛おしそうに胸に抱き、それから銀の額縁に向かって語りかけた。

「やっとだ。やっと君との約束を果たせる。これで、君のような悲劇を二度と生まなくて済むんだ」

 彼は泣いていた。
 学生時代から彼を知っているけれど、人前で涙を見せるなんて初めてだった。
 それほどまでに、彼の心はずっとエレナ様に囚われていたのだ。

 僕は、その背中をただ見つめていた。
 「おめでとうございます」と言おうとした唇が、縫い付けられたように動かない。
 視界が滲んでいく。
 
 研究が完成した。
 それはつまり――僕たちの「契約」が終わることを意味していた。

 彼が縁談を断っていた最大の理由は「研究の邪魔だから」だ。
 その研究が終わった今、彼にはもう、僕という「隠れ蓑」は必要ない。
 これからは、亡き妻への愛を胸に生きるもよし、余裕ができて新しい恋を探すもよし。
 どちらにせよ、僕の役目は終わったのだ。

(ああ……やっと、楽になってもらえるんですね)

 すとん、と腑に落ちた。
 これ以上そばにいたら、僕はきっと欲張ってしまう。
 「僕じゃだめですか」と、困らせることを言ってしまう。
 そんなふうに友情を壊して終わるくらいなら、いっそ、役に立ったまま消えたい。

 僕は逃げるように、そっと自分の白衣を脱いだ。
 椅子の背にかけ、彼に気づかれないように足音を殺す。
 振り返らなかった。
 振り返れば、彼が「どこへ行くんだ」と呼び止めてくれるかもしれないなんて、淡い期待をしてしまうから。

 重い扉を閉める瞬間、隙間から見えたのは、肖像画に額を押し付ける彼の横顔。
 それは、僕が十年間想い続け、一度も向けられたことのない、愛に満ちた顔だった。


 ◇◇◇

 屋敷を出ると、外は冷たい雨が叩きつけていた。
 石畳を打つ激しい雨音が、僕の鼓膜を塞ぐ。
 雨避けのマントも羽織らずに歩き出した。

「……はは、馬鹿だなあ、僕」

 雨に紛れて、嗚咽が漏れた。
 自分から提案したことじゃないか。あなたの盾になります、恋愛感情なんてありませんって。
 最後までその嘘を突き通せたなら、それは素晴らしい「助手」としての最後だったはずだ。
 なのに、なんでこんなに苦しいんだろう。

 涙が止まらなかった。
 雨なのか涙なのかわからないまま、視界がぐしゃぐしゃに歪む。
 足がもつれた。
 ふらりと、馬車道へはみ出した、その時だった。

「――ッ! おい!!」

 怒号と共に、蹄の音が間近で炸裂した。
 視線を上げると、巨大な馬の影が目前に迫っていた。
 
(ああ……これは、天罰なのかもしれないな)

 本心を偽って彼を騙し、邪な理由で結婚したから。
 絶対手に入らないとわかっていたのに、もしかしたらを願って欲張ってしまったから。

 ドォン、という鈍い衝撃。
 時が引き伸ばされたように、景色が緩やかに回転した。
 石畳に叩きつけられる痛みよりも先に、冷たさが全身を支配する。
 遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。

(クライヴ様……)

 薄れゆく意識の中で、走馬灯のように浮かんだのは、やっぱり彼の顔だった。
 アカデミーの図書館で本を読んでいた横顔。
 僕の淹れたコーヒーを飲んで「美味いな」と笑った顔。
 そして、最後に見せた、エレナ様への愛に溢れた涙。

 どうか――幸せになってください。
 僕のこの片想いは、墓場まで持っていきますから。
 だから、あなたのその綺麗な黄金の瞳が、これ以上悲しみで曇りませんように。

 思考が、プツリと途切れた。
 深い闇が僕を飲み込んでいく。
 これが、ノア・ベルベットの人生の結末。
 長年の片想いを隠し通し、友のふりをして死んでいく、臆病な助手の最期。

 ――のはずだった。


 ◇◇◇

「……っ、は!?」

 弾かれたように、僕は上半身を起こした。
 激しい動悸で胸が痛い。喉が渇いて張り付いている。
 僕は荒い息をつきながら、自分の体をまさぐった。
 馬車に轢かれたはずの激痛がない。
 あるのは、古びた毛布の感触と、どこか懐かしい匂い。

「ここは……?」

 薄暗い室内を見渡す。
 狭い下宿の一室。壁には乾燥させた薬草が吊るされ、床にはアカデミーの古い魔導書が積み上げられている。
 そこは、クライヴ様の屋敷ではない。
 僕が彼と「結婚」する前、一人暮らしをしていた部屋だ。

「なんで……僕、死んだんじゃ……」

 呆然としながら、枕元にあった鏡を手に取る。
 映っていたのは、蜂蜜色の髪と、泣き腫らしたような緑の瞳。
 そして――記憶の中よりも、明らかに幼い自分の顔。

「嘘だ……」

 震える手で、机の上に投げ出されていた新聞を掴む。
 そこにある日付を見て、僕は息を呑んだ。
 記されていたのは、僕が死んだあの日から、ちょうど十年前の日付。

 僕、ノア・ベルベットが十八歳だった頃。
 アカデミーを卒業し、クライヴ様がエレナ様と結婚する少し前。
 まだ、彼らが「夫婦」ですらなく、ただの恋人同士だった時期だ。

「戻って、きた……?」

 状況が飲み込めない。でも、この古傷のない手も、窓の外から聞こえるアカデミーの鐘の音も、すべてが現実だ。
 神様がチャンスをくれたのだろうか。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。
 僕の頭の中に、未来の記憶が残っているということだ。

「……レシピ」

 呟いた声が震えた。
 脳裏に鮮明に浮かび上がる数式。魔力の波長。薬草の配合比率。
 クライヴ様が六年かけて、命を削って完成させた『月の雫の秘薬』の作り方を、僕はすべて覚えている。

 心臓が早鐘を打つ。
 まだ、クライヴ様はエレナ様と結婚すらしていない。もちろん、彼女はまだ病気にかかっていない。
 でも、今の僕なら。この知識があれば。
 これから発症するであろうエレナ様を、救うことができる。

 そうすれば、クライヴ様はあの地獄のような研究の日々を送らなくて済む。
 最愛の人を失って、心を凍らせて生きる必要もなくなる。

 ――そして、僕と「かりそめの結婚」をする必要もなくなる。

 ズキン、と胸が痛んだ。
 もし歴史を変えれば、僕は彼の妻にはなれない。
 あの屋敷で過ごした時間も、背中合わせで研究した時間も、すべて消える。
 彼はエレナ様と結ばれて、幸せな家庭を築くだろう。
 僕はただの「後輩」に戻るだけだ。

(……それでも)

 僕はぎゅっと拳を握りしめた。
 思い出してしまったのだ。あの夜、完成した薬を抱いて泣いていた、彼の姿を。
 あんなに嬉しそうな顔をする人を、僕は他に知らない。
 
「決めた」

 僕は涙を手の甲で乱暴に拭い、鏡の中の自分を睨みつけた。
 泣くな。
 二度目の人生は、自分のためじゃなく、あの人のために使うんだ。

「僕はもう、あなたの伴侶にはなりません」

 幸福な結末(ハッピーエンド)へご案内します。
 あなたが愛する人が灰にならず、笑顔で隣にいてくれる世界へ。
 そのために必要な知識(レシピ)は、僕がこっそり届けます。
 僕なんかと偽の結婚なんてしなくていいように。

「だから、クライヴ先輩……今度は、ちゃんと幸せになってね」

 胸の痛みは消えない。
 きっと、彼がエレナ様と抱き合う姿を見たら、僕はまた死ぬほど傷つくのだろう。
 それでも、あの雨の夜、絶望の中で彼を一人残して死ぬよりはずっといい。
 彼が笑っていてくれるなら。
 
 僕は喜んで、ただの「後輩」に徹しよう。
 朝日が部屋を照らし出す。
 僕の、二度目の人生が始まった。
 
 ――けれど、この時の僕はまだ知らなかった。
 運命というものが、そう簡単に変えられるものではないことを。
 そして、あの漆黒の髪の魔術師が持つ「重力」が、一度捕らえたものを絶対に離さない、強烈な執着を秘めていることを。
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