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第3話 重力は愛を逃がせない
しおりを挟む旧校舎の裏手。ノアの足音が遠ざかり、完全に気配が消えたその瞬間。
俺は背後の資材の山に、崩れ落ちるように背中を預けた。
「……ッ、はぁ……っ」
喉の奥から、押し殺していた嗚咽が漏れる。
俺は震える手で、自分の顔を覆った。
――俺、クライヴ・オルステッドには、記憶がある。
これから十年後に起こる悲劇と、俺が犯し続けた「後悔」の記憶が。
あの日。雨の夜。
俺は冷たくなったノアの亡骸を抱きしめ、自分の愚かさを呪って泣き叫んだ。
どうして、生きているうちに言わなかったんだ。
「愛している」と。
「俺が本当に欲しかったのは、最初から君だけだった」と。
◇◇◇
前の人生で、俺はエレナと結婚した。
だが、そこに男女の愛はなかった。
彼女は幼馴染で、病弱な妹のような存在だった。実家からの圧力に耐えかねていた彼女を守るため、俺は「契約」として夫の座に就いたのだ。
彼女もそれを望んでいた。「クライヴとなら、安心して養生できるわ」と笑っていた。
だが、俺の心にはすでに、別の人間が住み着いていた。
アカデミーの後輩、ノア・ベルベット。
不器用で、人の良い、俺の後ろをいつもついて回る蜂蜜色の髪の青年。
彼が俺に好意を寄せてくれていることになんて、とっくに気づいていた。
それでも、俺は彼の手を取らなかった。
俺には「エレナを守る」という義務があったからだ。
将来の決まっている俺が、ノアの想いに応えれば、彼を「愛人のような惨めな立場」にしてしまう。
だから俺は、彼の好意に気づかないフリをして、卒業と同時に彼を突き放した。
それが間違いの始まりだった。
エレナは病死し、俺は彼女を救えなかった罪悪感に苛まれた。
そんな俺を救い上げてくれたのが、またしてもノアだった。
「かりそめでいいから使ってください」と、彼は俺の妻になった。
嬉しかった。本当は舞い上がりたいほど嬉しかった。
だが、俺は自分を許せなかった。
幼馴染一人守れなかった無能な男が、ぬけぬけと初恋の相手と幸せになっていいはずがない。
だから俺は「研究」に逃げた。愛を封印し、冷徹な仮面を被り続けた。
その結果が、ノアの孤独な死だ。
俺は、二度も間違えたのだ。
だから、禁忌の魔法で時間を戻した。
今度こそ、間違えない。
エレナの病気は必ず治す。だが、結婚はしない。彼女には別の幸せを見つけてもらう。
そしてノア。
愛する君には、俺という「臆病な死神」には関わらせない。
君を遠ざけ、嫌われることで、今度こそ君を自由にする。それが、俺ができる唯一の償いだ。
「……これでいい」
俺は自分の右手を握りしめる。
さっき、転びそうになったノアを助け、そして無慈悲に突き放した手だ。
『虫唾が走る』なんて暴言を吐いた時の、ノアの傷ついた顔が脳裏に焼き付いている。
身が裂けるほど辛い。
だが、これでノアは俺を諦めるはずだ。
俺のことなど忘れて、どこか平和な場所で、俺以外の誰かと幸せになってくれればいい。
そう思っていた。
だが――俺は、ノアという人間を、そして運命の皮肉を甘く見ていたのかもしれない。
◇◇◇
それから一週間。
俺は、不可解な焦燥感に苛まれていた。
アカデミーの第三図書室。
俺は窓際の席で本を広げていたが、内容は一文字も頭に入ってこない。
神経は、数メートル離れた書架の陰に向けられていた。
そこに、ノアが隠れている。
問題なのは、彼の視線だ。
ノアの視線の先には、俺ではなく、離れた席に座るエレナがいた。
ノアは、しきりにエレナを見つめ、そしてチラチラと俺を見てくる。
その瞳には、嫉妬や羨望の色はない。あるのは、なぜか「焦り」と「心配」だ。
まるで、「早く彼女に話しかけてください」とでも言いたげな態度。
(……どういうつもりだ?)
俺は困惑した。
記憶の中(学生時代)のノアは、俺がエレナと話すと、わかりやすく落ち込んだり、羨ましそうな顔をしたりしていた。
だが、今のノアは違う。
まるで仲人のように、俺とエレナをくっつけたがっているように見える。
なぜだ?
この世界線のノアは、俺のことなど好きではないのか?
ズキン、と胸が痛む。
望み通りのはずだ。嫌われるのが目的だったはずだ。
なのに、彼から「早くあっちへ行け」と無言で促されると、どうしようもなく惨めな気持ちになる。
違うんだ、ノア。
俺がエレナといたのは義務だ。俺が本当に隣にいたかったのは、いつだってお前なんだ。
だが、そんなこと言えるはずもない。
俺は魔導書を乱暴に閉じた。
ノアの意図が読めない。だが、俺は誰の指図も受けない。
エレナと結婚すれば、それは「一度目の悲劇(お前との不幸な結婚)」への入り口になるかもしれない。
だから俺は、ノアの視線を無視し、エレナとも関わらず、ひたすら孤独を貫くしかなかった。
◇◇◇
その日の夕方。
俺の困惑は、決定的な出来事によって「絶望」へと変わった。
研究室へ向かう渡り廊下。
前方から、大量の羊皮紙の束を抱えたエレナが歩いてくる。そして、後方の柱の陰には、またしてもノアの気配があった。
また監視か。お前は一体、何がしたいんだ。
その時。
エレナの足が、敷物のめくれに引っかかった。
「あっ……」
彼女の体が大きく傾く。
反射的に、俺は魔力を練り上げた。助けるのが当たり前だ。人として。
だが、その瞬間。
柱の陰から、ノアが身を乗り出すのが見えた。
その顔は、「助けてあげて!」と、訴えかけていた。
――その表情を見て、俺の中で何かが冷え切った。
(そうか。お前はそんなに、俺と彼女をくっつけたいのか)
俺が彼女を助ければ、ノアは喜ぶだろう。
「やっぱりお似合いだ」と納得して、俺への未練など欠片もなく去っていくのだろう。
……嫌だ。
俺は子供のように駄々をこねたくなった。
俺がお前に抱いている愛は、お前の思惑通りに動く駒じゃない。
俺はエレナを愛していない。俺が見ているのはお前だけだ。それを証明したい。
歪んだ衝動だった。
俺は歯を食いしばり、練り上げた魔力を散らした。
そして、倒れ込んでくるエレナを支えるどころか、一歩横へ退いて避けた。
ドサッ、バラバラバラ……。
派手な音を立てて、エレナが床に倒れ込む。
「……ッ、痛……」
痛がる幼馴染を見下ろしながら、俺は心の中で謝罪した。
すまない、エレナ。お前を助け起こせば、ノアが誤解する。
「やっぱり先輩はエレナ様が好きなんだ」と、あいつの中で決定事項になってしまう。それだけはどうしても耐えられなかった。
「足元には気をつけることだ。……ベルグマン令嬢」
わざと冷たい声を出し、俺は彼女の横を通り過ぎた。
背後で、ノアが飛び出してくる気配がした。
軽蔑してくれ、ノア。
「どうして助けないんだ」と。
「お似合い」なんていう勘違いを、俺はお前の目の前で叩き壊してやる。
◇◇◇
だが、ノアは俺が思う以上に頑固で、そして不可解だった。
旧校舎の裏階段で、彼に追いつかれた時。
彼の目には、俺への軽蔑よりも、強い憤りが宿っていた。
「先輩の魔法なら助けられたはずなのに、どうして助けてあげなかったんですか!」
詰め寄るノアの声が震えている。
俺は冷徹な仮面を被り直した。
「俺には関係ないことだ」
「関係なくないでしょう! 彼女はあなたの幼馴染で……それに、大切な人になるはずでしょう!?」
――は?
俺は耳を疑った。
大切な人になる「はず」?
なぜ、そんな予言のような言い方をする?
「大切な人? ……誰がそんなことを言った」
「だ、だって……お二人はお似合いです。家柄も、容姿も。誰もがそう言っています」
「評判など知ったことか」
俺は吐き捨てるように言い、背を向けた。
耐えられない。
なぜお前は、そんなに必死な顔で、俺を他の女の元へ追いやろうとする?
お前は俺のことが好きだったんじゃないのか?
前の人生で見せてくれたあの恥じらうような笑顔は、俺の幻想だったのか?
「待ってください!」
「……離せ」
「離しません。先輩、どうかエレナ様と向き合ってください。このままでは、誤解されてしまいます」
ノアが俺のローブを掴む。その華奢な指が、俺の理性をギリギリと締め上げる。
「彼女は優しくて、素敵な方です。きっと先輩の支えになります。先輩は幸せになれる。僕なんかよりずっと、先輩にふさわしい人なんです!」
その言葉が、俺の最後の一線を越えさせた。
ふさわしい?
お前は何もわかっていない。
俺の人生を本当に支えていたのは、エレナではなく、いつだってノアだったことを。
研究に行き詰まった夜、お前が淹れてくれたコーヒーの味を。
俺の不器用な生き方を、「素敵です」と肯定してくれたあの笑顔を。
俺が求めているのは、家柄でも、世間体でも、幼馴染の安心感でもない。お前という光だけなんだ。
それを「僕なんか」と否定されることは、俺の魂そのものを否定されるのと同じだった。
そして何より、今のノアが俺に向けている感情が、「愛」ではなく「同情」や「お節介」にしか見えないことが、たまらなく苦しかった。
「……ふざけるな」
気づけば、俺は彼の横の壁を殴りつけていた。
拳の痛みなど感じない。
「俺が誰を選ぼうと、俺の勝手だ。お前ごときが……何も知らない部外者が、知ったような口を利くな!」
怒鳴り散らしながら、俺は泣きそうだった。
俺がどれだけお前を愛しているか。なぜお前を突き放すのか。
そして、俺がエレナとの結婚をどれほど後悔していたか。
何も知らないくせに、勝手に俺の幸せを決めつけるな。
怯えるノアの瞳に、俺の歪んだ顔が映る。
もう、限界だった。
これ以上そばにいたら、俺は彼を押し倒して、全てをぶちまけてしまうかもしれない。
「俺を愛してくれ、俺にはお前しかいないんだ」と、子供のように縋り付いてしまうかもしれない。
「……お前のそういう、誰にでもいい顔をして、自分を殺して笑うところが、本当に嫌いなんだ」
精一杯の拒絶の言葉。
それは、自分を犠牲にしようとする彼への、俺なりの精一杯の「愛の裏返し」だった。
俺は逃げた。
腰を抜かしたノアを置き去りにして。
◇◇◇
研究室に戻った俺は、実験台の上の器具を全てなぎ払った。
ガシャン、パリーン!
硝子の割れる音が、静寂を引き裂く。
「……くそッ!!」
俺は髪をかきむしり、床に膝をついた。
わからない。
なぜ、今回のノアはあんな行動をとるんだ。
俺のことなど微塵も想っていないのか?
それとも、最初から俺の片想いだったのか?
視線を、散らばった魔導器具の残骸に向ける。
そこには、失敗作の薬液が黒く濁って溜まっていた。
「……完成しない」
絶望的な事実が、俺を打ちのめす。
エレナの発病まであと約一ヶ月。
俺の記憶にあるレシピは、七割方完成している。だが、最も重要な「核」の部分――魔力の圧縮と薬液の融合比率だけが、どうしても思い出せない。
前の人生で、その工程を担当していたのは俺じゃない。
ノアの持つ『解析』の才能と、鋭い直感が不可欠だったのだ。
つまり、ノアがいなければ、この薬は作れない。
「……ハハ」
乾いた笑いが漏れる。
なんて皮肉だ。
ノアを遠ざければ、薬は完成せず、エレナは死ぬ。
かといってノアを巻き込めば、薬は完成するが、その代償にノアがまた死ぬかもしれない。
しかも、今のノアは俺を避け、エレナとの仲を取り持とうとしている。
そんな彼に、「薬を作るのを手伝え」なんて言えるはずがない。言えば彼は、「エレナ様のためですね!」と喜んで協力し、その命を削るだろう。
詰んでいる。
このままでは、誰も救えない。
俺は割れた硝子片を握りしめた。鋭い痛みが、混乱する思考をわずかに冷やす。
「それでも、やるしかない」
意地でも一人で完成させてやる。
ノアに「ふさわしい」と言われたエレナを救い(今度こそ友人として)、そしてノアが誰かと笑って生きていける未来を作るために。
たとえ、その未来の隣に俺がいなくても。
俺の瞳に映るのは、最初から最後まで、ノア、お前だけだ。
それが伝わることは永遠になくても。
窓の外では、夜の帳が下りようとしていた。
すれ違う二人の想いは、交わることなく平行線を辿り――やがて訪れる「運命の日」へと、無慈悲にカウントダウンを進めていく。
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