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第4話 身代わりの代償
しおりを挟むクライヴ先輩に「虫唾が走る」と拒絶されてから、一ヶ月が過ぎた。
アカデミーの中庭には紫陽花が咲き乱れ、季節は雨季に入ろうとしていた。
あの日以来、僕たちの間には分厚い氷の壁があった。
廊下ですれ違えば、彼は僕から視線を逸らし、冷徹な他人の顔をして通り過ぎる。
僕もまた、彼の視界に入らないよう、息を潜めて生活していた。
周囲の学生たちは噂していた。
「あの二人、どうしたんだ?」
「ベルベットが何かやらかして、オルステッド先輩に見限られたらしいぜ」
その通りだ。僕は見限られた。
『お前のような奴を見ると、虫唾が走る』
あの時突き放された感触と、冷たい黄金の瞳を思い出すだけで、今でも胸が締め付けられる。
けれど、僕はそれでいいと必死に自分に言い聞かせていた。
遠くから見る彼は、以前にも増して研究に没頭しているようだった。
頬はこけ、目の下の隈は濃くなり、鬼気迫る形相で書物を漁っている。
その姿を見るたびに、僕の胸は痛んだ。
(……そんなに根を詰めて。体を壊してしまいますよ、先輩)
僕には、彼があんなに焦っている理由はわからない――でも、きっと大切な誰かのためなのだろう。
相手はやはり、名門ベルグマン家の令嬢、エレナ様だ。
冷たい態度はとっていても、彼の瞳はエレナ様のことを見つめている。きっとあれは愛情の裏返しだったのだ。
新進気鋭の魔術師とはいえ、まだ若い彼が彼女の伴侶として認められるには、相当な重圧があるのだろう。
「もっと実績を上げなければ」「彼女にふさわしい男にならなければ」
そんなふうに、真面目な彼のことだから、結婚に向けて必死に成果を求めているのかもしれない。
(先輩は何も知らない。これから彼女に起こる悲劇を……)
彼が必死に積み上げようとしている幸せな未来が、もうすぐ『病』によって脅かされることを、今の彼は知る由もないのだ。
そう思うと、やつれた彼の横顔が、たまらなく愛おしく、そして不憫だった。
でも大丈夫です、先輩。
あなたには見えていなくても、僕には未来が見えています。
嫌われ者の僕が、何としてでも助け舟を出しますからね。
◇◇◇
そして、運命の日がやってきた。
六月十五日。
前の人生で、エレナ様が最初の発作を起こし、倒れた日だ。
朝から雨が降っていた。
僕は授業をサボり、中庭が見下ろせる時計塔の陰に隠れていた。
ここからなら、昼休みに中庭を通るエレナ様の様子が見えるはずだ。
心臓が早鐘を打つ。
この時代には、まだ『白灰病』の治療法は確立されていない。当然、クライヴ先輩だって治し方を知るよしもない。
彼女が倒れて、先輩が絶望する前に――今夜にでも研究室に忍び込んで、僕の記憶にあるレシピを置いてこなければ。
正午を告げる鐘が鳴った。
灰色の空の下、色とりどりの傘の花が中庭に開く。
その中に、見覚えのある栗色の髪を見つけた。
「……エレナ様」
彼女は、友人の令嬢たちと連れ立って歩いていた。
足取りは軽い。顔色は遠目にも良く、楽しげに笑い声を上げているのが聞こえてくる。
僕は息を詰めて見守った。
一分、五分、十分……。
時間は過ぎていく。
しかし、彼女の体に異変は起きなかった。
それどころか、彼女の隣に一人の男子生徒が駆け寄り、親しげに話しかけた。エレナ様は恥ずかしそうに頬を染め、彼に微笑み返している。
(……あれ?)
あの男子生徒は、隣国の留学生だ。
エレナ様は、クライヴ先輩ではなく、彼と親しくしているのか?
先輩が彼女を避けているせいで、関係性が変わってしまったのだろうか。
いやでも、誰と仲良くなろうと関係ない。重要なのは――。
「……元気だ」
エレナ様は、倒れなかった。
昼休みが終わり、彼女が軽やかな足取りで校舎へ戻っていくまで、僕は瞬きも惜しんで見つめていた。
間違いなく、彼女は健康そのものだった。
僕は壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。
安堵で膝の力が抜けたのだ。
「よかった……」
歴史が変わったんだ。
もしかしたら、僕がクライヴ先輩と関わらなかったことで、運命の歯車が少しずれたのかもしれない。
『白灰病』は、魔力共鳴やストレスが引き金になると言われている。
もしかしたら、未来が変わったことで、彼女にかかるはずだった負荷が消えたのかもしれない。
「よかった……本当によかった……」
涙が滲んだ。
これで、クライヴ先輩は「幼馴染を死なせた」というトラウマを背負わなくて済む。
地獄のような研究の日々に囚われることもない。
何も知らない彼は、これからも彼女のために、前を向いて研究を続けられる。
僕の役目は終わったんだ。
「幸福な結末への案内人」としての役割は、これ以上ない形で果たされた。
レシピを渡す必要もなくなった。
(さあ、帰ろう)
これからは、ただの他人として生きていこう。
先輩が立派な魔術師になるのを、遠くの街の情報紙で知るのを楽しみにしながら。
そう思って、立ち上がろうとした時だった。
「――ごほっ」
喉の奥で、小さな異物感が弾けた。
咳が出た。
雨に濡れたせいだろうか。最近、食欲もなかったし、少し風邪気味なのかもしれない。
「けほっ、かはッ……!」
咳が止まらない。
肺の奥が、焼け付くように熱い。まるで、吸い込んだ空気が硝子の破片に変わったかのような、鋭い痛み。
「う、ぁ……?」
口元を押さえた掌に、何かが付着していた。
血ではない。
白く、キラキラと光る――美しい砂のような粉末。
「……え」
背筋が凍りついた。
僕は震える手で、自分の指先を見た。
右手の小指。その先端が、白く変色していた。
肌色を失い、まるで陶器のように硬質化し、その表面からサラサラと白い灰がこぼれ落ちている。
見覚えがある。
前の人生で、エレナ様が亡くなる直前、その体はこの白い灰となって崩れ落ちていった。
そして、研究室の薬瓶の中で、クライヴ先輩が憎々しげに睨んでいた病原体の結晶。
「はく……かい、びょう……?」
『白灰病』。
不治の病。
なぜ? どうして僕が?
これはエレナ様がかかるはずの病気だ。魔力を持たない平民上がりの僕がかかるような病気じゃないはずなのに。
混乱する頭の中で、一つの仮説が浮かび上がった。
――運命は、収支を合わせようとする。
誰かが助かれば、代わりに誰かがその代償を払わなければならないとしたら?
クライヴ先輩の周りにある「悲劇の因子」を、エレナ様が回避した分、一番近くにいた(いたつもりだった)僕が引き受けたのだとしたら?
「……はは」
笑いがこみ上げてきた。
恐怖よりも先に、妙な納得感が僕を包み込んだ。
「そうか。僕が、代わりになれたんだ」
なんて光栄なことだろう。
ただの脇役だった僕が、大好きな彼の「大切な人」の身代わりになれたなんて。
これでエレナ様は安全だ。病魔は標的を僕に変えたのだから。
体の力が抜け、僕は冷たい石畳に仰向けに倒れた。
雨粒が顔を打つ。
右手の小指から、パラパラと灰がこぼれ、雨に溶けて流れていく。
(痛いなぁ……)
体中が軋むように痛い。
死ぬのは二回目だけれど、やっぱり怖いものは怖い。
でも、前の時みたいに馬車に轢かれるよりは、少しはマシかもしれない。
少なくとも今回は、自分の意志で選べる結末だ。
ふと、クライヴ先輩の顔が浮かんだ。
黄金の瞳。不器用な笑顔。
会いたい。
今すぐ彼のもとへ走って、「助けて」と縋り付きたい。
彼なら、何とかしてくれるかもしれない。
(……だめだ)
僕は首を横に振った。
それだけは、絶対にだめだ。
今の彼にとって、僕は「虫唾が走るほど嫌いな後輩」だ。
そんな奴の話取り合ってもくれないだろう。
僕のせいで、またあんなに憎み続けた『白灰病』と関わらせることになる。
この時代に薬はまだないのだ。
エレナ様が発病しなかった今、彼には薬を作る本来の動機すらない。
僕のために、彼に無理をさせるわけにはいかない。
何より。
彼に「白灰病の僕」など見せたくなかった。
彼の記憶の中の僕は、「鬱陶しかったけど、いつの間にかどこかへ消えた後輩」でいい。
悲しまれるより、忘れられたい。
「……隠れよう」
僕はふらつく体で立ち上がった。
誰にも見つからない場所へ。
ひっそりと灰になって、風に吹かれて消えてしまえる場所へ。
僕はポケットからハンカチを取り出し、灰になりかけた右手をきつく縛った。
アカデミーを出よう。休学届は、あとで郵送すればいい。
一人で動くのは骨が折れそうだ。実家から僕についてきてくれた従者のルカなら、きっと事情を深く聞かずに力を貸してくれるだろう。
雨脚が強まる中、僕は研究棟の方角を一度だけ振り返った。
分厚い石壁の向こうに、最愛の人がいる。
彼は今も、未来のために必死で研究しているのだろうか。
「愛していました、先輩。さようなら」
雨音に紛れて、誰にも届かない別れの言葉を紡ぐ。
これが、ノア・ベルベットの本当の最後。
幸福な結末の舞台裏で、ひっそりと幕を下ろす道化師の退場だ。
◇◇◇
一週間後。
街外れの森の奥にある、廃墟同然のあばら家。
かつて薬師ギルドが倉庫として使っていたその場所が、僕の終の棲家になった。
病の進行は驚くほど早かった。
右手はすでに手首まで白く石化し、動かない。
左足も膝まで灰になりかけていて、歩くことすらままならない。
咳をするたびに、口から白い粉が舞う。
ベッドに横たわりながら、僕は天井を見つめていた。
孤独だ。
静かすぎて、耳が痛い。
(先輩は、今頃どうしているかな)
僕がいなくなったことに気づいただろうか。
「せいせいした」と笑っているだろうか。
それとも、「あいつどこ行ったんだ?」くらいは思ってくれているだろうか。
――会いたい。
死が近づくにつれて、理性よりも本能が叫び出す。
声が聞きたい。体温に触れたい。
たとえ軽蔑の眼差しでもいいから、もう一度だけ、あの黄金の瞳に映りたい。
「そうだ……手紙、書かなきゃ」
僕は残された左手で、よれよれの羊皮紙を引き寄せた。
遺書ではない。これは「贈り物」だ。
この病気は、また誰かを襲うだろう。
その時、偉大な魔術師になるはずの先輩なら、この知識を活かして誰かを救えるはずだ。
僕の記憶にある、『月の雫の秘薬』のレシピ。
これが僕の生きた証。
『拝啓、クライヴ・オルステッド先輩へ』
震える左手で文字を書くのは難しかった。ミミズが這ったような字になってしまう。
それでも、僕は一文字ずつ魂を込めて羽ペンを走らせた。
『突然のお手紙申し訳ありません。一身上の都合で、遠くへ行くことになりました』
『これは、僕が独自に研究していた薬の研究記録です。いつか先輩の研究の、何かのヒントになれば嬉しいです』
『先輩はすごいです。誰よりも優しくて、賢くて、僕の憧れでした』
嘘は書かない。
「好きでした」という言葉だけは、飲み込んだ。
それを書いてしまえば、彼の重荷になるから。
『どうか、幸せになってください。心から祈っています』
書き終えた時、羊皮紙の上にポトリと何かが落ちた。
涙じゃない。
目から流れたのは、涙の代わりに生成された、小さな透明な結晶だった。
もう、泣くことすらできない体になってしまったらしい。
僕は苦笑しながら、手紙を封筒に入れた。
あとは、これを誰かに託すだけだ。
信頼できる友人――従者のルカに。彼なら、僕の死後にこっそりと届けてくれるはずだ。
「……クライヴ様」
意識が朦朧としてくる。
視界が白く霞む。
僕の命が燃え尽きるまで、あと一日もないだろう。
僕は目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、やはりあの人の笑顔だった。
もし許されるなら。
夢の中だけでいいから、もう一度、彼に名前を呼んでほしかった。
「ノア」と。
優しく、愛しげに響くあの声で。
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