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第5話 最後の手紙
しおりを挟むあばら家の屋根を叩く雨音だけが、世界の全てだった。
森の湿った空気と、カビ臭い床の匂い。
そして、自分の体からこぼれ落ちる、乾いた灰の匂い。
僕はベッドの上で、浅い呼吸を繰り返していた。
もう、体の半分は感覚がない。
右手は完全に石化して動かず、左足も太腿まで白く変色している。
視界も随分と狭くなった。まるで、擦り切れた古い幻灯機を見ているようだ。
(……そろそろだろうな)
死への恐怖は、不思議なほど薄れていた。
あるのは、静かな諦めと、ほんの少しの心残り。
枕元には、先日書き上げた手紙が置いてある。
これを、誰かに託さなければならない。
コン、コン。
控えめなノックの音が、静寂を破った。
「ノア様? 入りますよ」
軋むドアが開かれ、一人の青年が顔を覗かせた。
栗色の髪に、そばかすの残る人懐っこい顔立ち。
僕の数少ない友人であり、家が没落する前から付き合いのある従者、ルカだ。
彼は大きな籠を抱え、心配そうに眉を下げている。
「よかった、起きてらしたんですね。今日はスープを持ってきました。少しでも食べないと……って、ノア様!?」
ルカが籠を取り落とした。
駆け寄ってくる彼の目に、僕の異様な姿が映ってしまったのだ。
布団から覗く右腕。本来なら肌色であるはずのそれが、不気味なほど白く、硬質な輝きを放っているのを。
「な、なんですか、これ……! 腕が……石みたいに……!」
「……驚かせてごめんね、ルカ」
僕は掠れた声で笑おうとしたが、頬の筋肉がうまく動かなかった。
「近づかない方がいいよ。……『白灰病』だから」
「は……っ!?」
ルカが息を呑み、顔色を失った。
この国に生きる者なら、誰もが恐れる不治の病。
彼は後ずさるどころか、逆に僕のベッドの縁を強く握りしめた。
「どうして……いつからですか! なんで黙っていたんですか!」
「ごめん……迷惑をかけたくなくて」
「迷惑なわけないでしょう! すぐに医者を……いや、アカデミーへ! オルステッド先輩なら、何か知っているかもしれません!」
ルカが飛び出そうとするのを、僕は残された左手で必死に止めた。
その名前だけは、出してはいけない。
「だめだ……!」
「ノア様!」
「先輩には……絶対に、言わないで」
僕の懇願に、ルカが動きを止める。
僕は荒い息を整えながら、彼を見つめた。
「先輩は今、大事な時期なんだ。僕なんかのことで、煩わせたくない」
「でも、命に関わるんですよ!?」
「もう、手遅れだよ」
僕は自分の右腕に視線を落とした。
指先から崩れた灰が、ベッドのシーツの上に積もっている。
「薬はないんだ。……だから、静かに逝かせてほしい」
「そんな……」
ルカが崩れ落ちるように膝をついた。彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
僕は震える左手で、枕元の封筒を手に取った。
「ルカ。お願いがあるんだ」
「……なんですか。何でも言いつけてください」
「この手紙を、預かってほしい」
白い封筒を、彼の手のひらに乗せる。
宛名は書いていない。でも、彼ならわかるはずだ。
「僕が死んだら……これを、先輩に渡してほしい」
「……え?」
「僕の研究記録なんだ。先輩の研究の役に立つかもしれない。……でも、僕が書いたとは言わないで。『通りすがりの薬師の遺品だ』とでも言って、渡してほしい」
これが、僕の最後のわがままだ。
ルカは濡れた瞳で封筒を見つめ、それから強く唇を噛み締めた。
「……嫌です」
「ルカ?」
「死んでから渡せなんて、そんなの嫌です! 今すぐ渡しましょう! それで助けてもらいましょうよ! あの人なら、天才と言われるあの人なら、きっと!」
「だめだ!」
僕は声を張り上げた。喉が裂けるように痛い。
激しく咳き込み、口元から白い粉が舞う。
「けほっ、かはッ……! だめなんだ、ルカ……」
「ノア様……」
「先輩は、僕のことが嫌いなんだ。……『虫唾が走る』って、言われたんだよ」
その言葉を口にするだけで、心臓がえぐられるようだ。
「嫌われているのに、助けを求められない。……死に行く姿を見せて、不快な思いもさせたくない。……お願いだ、ルカ。僕の最後の願いを、聞いてくれないか」
僕の目から、ポロポロと結晶の涙がこぼれた。
ルカはしばらく嗚咽を漏らしていたが、やがて震える手で封筒を握りしめた。
「……わかり、ました」
「ありがとう」
「でも、約束はできません」
ルカはそう呟くと、脱兎のごとく部屋を飛び出した。
止める間もなかった。
バタン! と扉が閉まる音が、遠くの雷鳴のように響いた。
(……ルカ?)
嫌な予感がした。
でも、僕にはもう、彼を追いかける足も、大声を出す力も残っていなかった。
ただ、窓の外の雨音だけが、激しさを増していた。
◇◇◇
ルカは走っていた。
森のぬかるんだ道を、泥だらけになりながら、全力で走っていた。
雨が頬を打ちつけ、涙と混ざり合う。
「馬鹿野郎……!」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
死を受け入れているノア様に腹が立った。
何も知らずにいるオルステッド先輩に腹が立った。
そして何より、何もできない無力な自分に腹が立った。
(『虫唾が走る』だって? そんなわけあるか!)
ルカは知っていた。
ノアがどれだけクライヴを慕っていたか。
そして、クライヴがノアに向ける眼差しが、決して「嫌悪」などではなかったことを。
遠くから見ているルカには、二人はどう見ても「両片思い」だった。
だからこそ、最近の二人の断絶がもどかしく、不可解だったのだ。
懐に入れた手紙が、熱を帯びているように感じる。
『死んでから渡してほしい』
そんな約束、守れるわけがない。
死んでからで何になる。遺品なんて、ただの紙切れだ。
生きていなきゃ意味ないだろうが!
「死なせるもんか……!」
ルカはアカデミーの正門を強引に突破した。
門番の静止を振り切り、研究棟へ向かう。
心臓が破裂しそうだった。でも、足は止めない。
ノア様の命が、この手紙にかかっている気がしたからだ。
◇◇◇
王立魔術アカデミー、最奥の研究室。
そこは、静寂と荒廃に包まれていた。
床には割れた硝子片が散らばり、書類の山が雪崩を起こしている。
部屋の主であるクライヴ・オルステッドは、デスクに突っ伏していた。
「……くそ」
何日寝ていないだろうか。
目の下にはどす黒い隈ができ、漆黒の髪は脂ぎって乱れている。
美丈夫と謳われた面影は見る影もない。
『月の雫の秘薬』の研究は、完全に行き詰まっていた。
エレナの発病予定日まで、あと何日だろうか。
いくら計算しても、いくら魔力を込めても、薬液は濁ったまま結晶化しない。
(ノア……)
意識が朦朧とする中で、呼ぶのはやはり彼の名前だ。
一ヶ月前、彼を拒絶してから、一度も姿を見ていない。
休学届が出されたと聞いた時は、心臓が止まるかと思った。
一身上の都合で遠くへ行く、と聞いた。
実家に帰ったのだろうか。それとも、俺の顔を見るのも嫌で、どこかへ行ってしまったのだろうか。
「それでいい……」
自分に言い聞かせる。
彼が俺のいない場所で、元気に生きているなら、それでいい。
俺はここで朽ち果てるまで、この数式と戦うだけだ。
その時だった。
バンッ!!
研究室の扉が、乱暴に開け放たれた。
風雨と共に飛び込んできたのは、ずぶ濡れの青年――ノアの従者、ルカだった。
「……なんだ、貴様は」
クライヴは気だるげに顔を上げた。
今は誰とも会いたくない。不法侵入者なら、重力で叩き出すだけだ。
だが、ルカは怯まなかった。
彼は肩で息をしながら、クライヴを睨みつけた。その目には、殺気すらこもっていた。
「オルステッド先輩……!」
「出て行け。俺は忙しい」
「ふざけるな! あんたがここでふんぞり返っている間に、ノア様が……ノア様が死にかけているんですよ!!」
――え?
クライヴの思考が停止した。
世界から音が消えた。
「……何を、言っている?」
「『白灰病』です! もう、右腕も足も動かない……このままだと、いつまでもつかわからない!」
白灰病。
その単語が、クライヴの脳髄を貫いた。
嘘だ。
それはエレナがかかるはずの病気だ。
なぜノアが? 魔力のない彼が、なぜ?
俺が遠ざけたのに。彼を守るために、全てを犠牲にしたのに。
「嘘だ……そんなはずは……」
「嘘なもんか! これを見ろ!」
ルカが懐から封筒を取り出し、デスクの上に叩きつけた。
泥と雨で汚れた封筒。
宛名は書かれていない。
「ノア様が……死んでから渡してくれって、託された遺書です。でも、俺には無理だ。あんなに優しくて、あなたのことが大好きなあの方を、見殺しになんてできない!」
クライヴは震える手で、封筒を掴んだ。
封はされていない。
中から出てきたのは、何枚かの羊皮紙だった。
開いた瞬間、クライヴの目が釘付けになった。
そこにあったのは、見慣れた整った文字ではない。
震えて、歪んで、まるで利き手ではない手で書いたような、ミミズが這ったような文字。
『拝啓、クライヴ・オルステッド先輩へ』
そして、その下に書き連ねられていたのは。
クライヴが今、喉から手が出るほど欲していた、そしてどうしても思い出せなかった――『月の雫の秘薬』の、最後の調合工程の数式だった。
「――ッ!?」
息が止まった。
これは、未来の知識だ。
今の時代のノアが、独自の研究で辿り着けるはずのない、完成された未来のレシピ。
脳内で、全てのピースが激しい音を立てて繋がっていく。
なぜ、ノアが俺とエレナをくっつけようとしたのか。
なぜ、俺の体を気遣うような視線を送っていたのか。
なぜ、このタイミングでレシピを送ってきたのか。
彼も、知っていたのだ。
俺と同じように、時間を超えて戻ってきていたのだ。
そして、俺が彼を突き放したあの言葉を信じ込み、俺に嫌われたと思い込んだまま――それでもなお、俺のために、このレシピを残そうとしたのだ。
『先輩はすごいです。誰よりも優しくて、賢くて、僕の憧れでした』
『どうか、幸せになってください』
最後の行を読んだ時、クライヴの目から涙が流れ落ちた。
羊皮紙に、何かが乾いた跡がある。
それが涙ではなく、結晶化した粉末の跡であることに気づいた時、クライヴの理性が崩壊した。
「あああぁぁぁぁッ!!」
獣のような咆哮が、研究室を揺らした。
なんてことだ。
俺は、何てことをしてしまったんだ。
守りたかった。遠ざけてでも、生かしたかった。
なのに、俺の拒絶が、彼を追い詰め、また孤独な死へと追いやってしまった。
彼はずっと、俺のためだけに動いていたのだ。
俺が彼を愛していたように、彼もまた、俺を愛してくれていたのだ。
それなのに、俺たちは互いに「相手のため」と思って、最悪のすれ違いを演じ続けていた。
「ノア……ノアッ!!」
クライヴは手紙を握りしめ、立ち上がった。
もう、迷いはない。
研究は未完成? 関係ない。
このレシピがある。ノアの命の欠片がある。
俺の『重力』と、ノアの『知識』。二つが揃えば、不可能などない。
「案内しろ!!」
クライヴが叫んだ。
その全身から、かつてないほど強大な魔力が噴き出していた。
「ノアのところへ……今すぐだ!!」
窓硝子が、魔力の余波で粉々に砕け散った。
重力が歪む。
二度目の過ちを正すために。
愛する半身を取り戻すために。
死神と呼ばれた魔術師が、今、本気で運命に牙を剥く。
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