【8話完結】あなたの瞳に映るのは、僕じゃなくていい。〜死に戻り薬師は、元旦那様の恋を応援する〜

キノア9g

文字の大きさ
6 / 8

第6話 重力は愛を逃がさない

しおりを挟む

 豪雨が世界を叩きつけていた。
 王立魔術アカデミーの研究棟から、黒い影が弾丸のように飛び出した。

「ひ、ひぃぃぃッ!! し、死ぬ、死にますぅぅッ!!」

 ルカの絶叫が、暴風雨にかき消される。
 彼は今、クライヴの脇に抱えられ、空を飛んでいた。

 否、正確には「飛んで」いるのではない。クライヴが自身の体に強烈な『重力制御』をかけ、空間を蹴り、落下と跳躍を繰り返しながら、森の上空を滑空しているのだ。
 クライヴの漆黒の髪が、雨に濡れて頬に張り付く。
 だが、彼の黄金の瞳は、瞬き一つせず、ルカが指し示した森の奥――ノアがいるという一点だけを凝視していた。

(間に合え……ッ!)

 心臓が破裂しそうだった。
 魔力回路が悲鳴を上げている。人間の体でこれほどの高速機動を行えば、内臓にかかる負担は計り知れない。
 だが、そんな痛みなど、ノアが味わっている苦しみに比べれば埃のようなものだ。

 懐に入れた手紙が、熱を帯びて胸を焼く。
 震える手で書かれた文字。
 涙の代わりに落ちた結晶の跡。

 ――『先輩はすごいです。誰よりも優しくて、賢くて、僕の憧れでした』

 その言葉が、鋭利な刃物となってクライヴの心を抉り続けていた。
 どこがだ。
 すごいものか。優しいものか。
 俺は、ノアのその献身に気づきもせず、罵倒して突き放した、最低の愚か者だ。

 俺が未来から来たことも知らず、それでも俺の幸せのために、嫌われ役さえ受け入れて、一人で孤独に死のうとしている。

「……あんな嘘を、信じるな……ッ」

 雨に紛れて、呻き声が漏れる。
 嫌いなわけがない。
 「虫唾が走る」なんて、一度だって思ったことはない。
 俺の世界には、最初からお前しかいなかったのに。

 ズガンッ!!

 雷鳴と共に、森が開けた。
 暗い木立の中に、傾きかけた粗末なあばら家が見えた。
 窓からは明かり一つ漏れていない。怖いほどに静まり返っている。

「あそこです! あそこにノア様が!」

 ルカの叫びを聞くよりも早く、クライヴは重力ベクトルを真下へと叩きつけた。


 ◇◇◇

 あばら家の中は、氷のように冷え切っていた。
 雨漏りの音が、不規則なリズムで響いている。

 ベッドに横たわるノアは、もう動くことができなかった。
 視界は白く濁り、聴覚も遠い。
 ただ、体の芯から凍りついていくような感覚だけがあった。

(……ああ、これが死か)

 不思議と、恐怖はなかった。
 やるべきことはやった。手紙も書いた。ルカに託すこともできた。
 ルカは怒って飛び出して行ってしまったけれど、きっと彼なら、ほとぼりが冷めた頃にこっそりと届けてくれるだろう。

 先輩は、あのレシピを見てどう思うだろうか。
 「生意気な後輩だ」と苦笑するだろうか。
 それとも、僕のことを少しは思い出してくれるだろうか。

 ……いや、思い出さないでほしい。
 ただの便利な知識として使って、僕という存在は忘れて、何の憂いもなくエレナ様と幸せになってほしい。
 それが、僕の望んだ幸福な結末なのだから。

 ふと、右腕が目に入る。
 肩から先が、美しい白亜の彫像のように石化し、崩れかけている。
 ベッドのシーツの上には、僕だったものが砂となって積もっていた。

(綺麗だな……)

 痛みはもうない。
 意識が、深い水底へと沈んでいく。

 ――その時。

 ドォォォォォンッ!!

 轟音と共に、あばら家の扉が吹き飛んだ。
 いや、扉だけではない。壁の一部ごともぎ取られ、暴風雨が部屋の中へと雪崩れ込んでくる。

「……?」

 ノアは、ぼんやりとそちらを見た。
 死神がお迎えに来たのだろうか。それとも、嵐で家が潰れたのだろうか。
 逆光の中、土足で踏み込んでくる人影があった。
 黒いローブを翻し、肩で息をする、長身の男。
 雨に濡れた漆黒の髪が、稲光に照らされて鈍く光る。

「……ノアッ!!」

 名前を呼ばれた。
 聞き間違えるはずのない、低く、少し掠れた声。
 男はベッドの脇まで一瞬で距離を詰め、膝をついた。
 黄金の瞳。
 雨の滴る、整った顔立ち。
 僕の最愛のクライヴ・オルステッド先輩。

「……あぁ」

 ノアの乾いた唇から、吐息のような声が漏れた。

(なんて、都合のいい夢だろう)

 死に際に見る走馬灯にしては、あまりにもできすぎている。
 だって、彼は僕を嫌っているはずだ。
 潔癖の彼がこんな汚いあばら家に、自ら足を運ぶはずがない。
 ましてや、こんな必死な形相で、僕の名前を呼ぶはずなんて。

「……夢でも、会えて嬉しいです……先輩」

 ノアは残された左手を、虚空へ伸ばそうとした。
 けれど、力が入らず、手はシーツの上に力なく落ちた。

「夢じゃない! 俺だ、クライヴだ!」

 クライヴが、落ちたノアの左手を両手で包み込んだ。
 熱い。
 火傷しそうなほどの体温と、雨の冷たさが同時に伝わってくる。
 あまりにもリアルな感触に、ノアの思考が揺らいだ。

「……どうして? 先輩は、僕が……嫌いなんじゃ……」
「ッ……!」

 クライヴの顔が、苦痛に歪んだ。
 彼はノアの手を握りしめたまま、額をそこに押し付けた。

「すまない……っ、すまない、ノア……!」
「謝らないで、ください……。先輩の邪魔、をして……ごめんなさい……」
「違う! 邪魔なものか、お前は……お前だけは……!」

 クライヴは顔を上げた。
 その黄金の瞳から、ボロボロと涙が溢れ出していた。
 そして、彼の視線がノアの右腕――崩れかけた白い灰の腕に釘付けになった瞬間、その瞳に絶望と、狂気にも似た決意の光が宿った。

「……まだだ。まだ間に合う」

 彼は懐から、くしゃくしゃになった羊皮紙を取り出した。
 僕が書いた、レシピだ。

「これを見た。……こんな大事なこと、なんで一人で抱え込んだ」
「……え?」
「……これは、俺一人じゃ完成させられなかった、最後の欠片だ」

 クライヴは羊皮紙を枕元の台に叩きつけるように置くと、立ち上がった。
 全身から、膨大な魔力が噴き上がる。
 空気がビリビリと震え、雨粒が空中で静止した。

「ノア。少し苦しいかもしれないが、我慢しろ」
「せん、ぱい……?」
「その体、一粒たりとも崩させはしない。……俺の重力圏から、逃げられると思うなよ」

 次の瞬間。

 ギチチチチッ……!

 空間が軋む音がした。
 ノアの全身に、強烈な圧力がかかった。
 痛みではない。巨大な掌で、全身を優しく、しかし絶対に逃さない強さで握りしめられているような感覚。
 崩れかけていた右腕の灰が、空中に舞い上がりかけ――そして、ピタリと止まった。
 それどころか、こぼれ落ちた灰の一粒一粒が、時間を巻き戻すように元の位置へと押し戻されていく。

「……あ……」

 これは、重力魔法。
 それも、ただ押し潰すだけの魔法じゃない。
 粒子の理すら支配し、崩壊を物理的に食い止める、神業のような魔力制御。

「ルカ! その籠の中身を全部出せ!」

 クライヴが怒鳴った。
 遅れて部屋に入ってきたルカが、悲鳴を上げながら籠をひっくり返す。中から、彼が見舞いに持ってきていた水筒や食器、そして何種類かの薬草や果実が転がり出た。

「『解析』だ、ノア! 俺とお前の記憶を合わせろ!」

 クライヴは片手でノアへの重力固定を維持しながら、もう片方の手で虚空を掴んだ。
 転がり出た薬草や、ポケットから取り出した彼自身の携帯用試薬が、重力によって空中に浮き上がる。

「え……?」
「レシピに書いてあった素材は揃わない。だが、代用品はあるはずだ! お前の知識ならわかるはずだ!」

 クライヴの瞳が、真剣な光で僕を射抜く。

「生きたいと願え! 俺のために、生きると言え!」

 その言葉に、僕の魂が震えた。
 生きたい。
 死にたくない。
 だって、こんなに必死な顔で、僕を繋ぎ止めようとしてくれる人がいる。
 嫌われていなかった。
 彼は、僕を助けに来てくれたんだ。

「……右の、青い木の実……」

 僕は掠れた声で呟いた。

「それを……すり潰して……月の光草の代わりに……」
「よし!」

 クライヴが指を弾く。
 空中で木の実が弾け、液体となって抽出される。
 重力の坩堝の中で、複数の素材が混ざり合い、圧縮され、熱を帯びていく。

「圧力係数、修正! 魔力充填率、120%!」

 クライヴの額に血管が浮き出る。
 彼は今、一人で二つの奇跡を行使している。
 崩壊する僕の体を物理的に繋ぎ止めながら、同時に未知の領域にある特効薬を精製しようとしているのだ。
 下手をすれば、彼自身の魔力回路が焼き切れるかもしれない。

「やめて、先輩……先輩が、壊れちゃう……」
「黙ってろ! 俺の体なんてどうでもいい!」

 彼は吼えた。
 血の滲む唇で、笑ってみせた。

「二度も失ってたまるか……! お前がいない世界で、俺が幸せになれるなどと思うな!」

 その言葉の意味を考える余裕はなかった。
 空中の液体が、激しく発光した。
 濁った灰色から、透き通るような黄金色へ。
 ――『月の雫の秘薬』。
 完成した。
 クライヴはその液体を、硝子瓶に入れる時間すら惜しんだ。
 彼は空中に浮かぶ黄金の液体を、直接指先で操り、自分の口へと含んだ。

 そして。

「……んッ!」

 僕に覆いかぶさり、唇を重ねた。
 温かい感触。
 口移しで、苦くて甘い液体が流し込まれる。
 重力の拘束が、ふっと緩んだ。
 代わりに、彼の強い腕が僕を抱きしめた。
 骨が軋むほど強く。まるで、体の中に埋め込もうとするかのように。

「……っ、は……」

 唇が離れる。銀の糸が引いた。
 薬液が喉を通り、胃に落ちた瞬間、爆発的な熱が全身を駆け巡った。
 石化していた右腕に、血が通う感覚が戻ってくる。
 激痛だった。けれど、それは「生きている」痛みだった。

「……成功、だ……」

 クライヴが、糸が切れたように僕の胸に崩れ落ちた。
 彼の黒髪から、雨水が僕の頬に落ちる。
 いや、雨水じゃない。
 彼は泣いていた。子供のように、しゃくりあげて泣いていた。

「よかった……あぁ、よかった……ノア……」
「せん、ぱい……」

 僕は動くようになった左手で、恐る恐る彼の背中に触れた。
 温かい。
 夢じゃない。
 彼は本当にここにいて、僕を助けてくれた。

「どうして……?」

 問いかけると、彼は顔を埋めたまま、震える声で言った。

「……お前がレシピを知っていたように、俺も知っていたんだ」
「え……」
「未来を。……俺たちが、どんな結末を迎えたかを」

 雷に打たれたような衝撃が走った。
 彼も、記憶を持っていた?
 じゃあ、あの一ヶ月間の冷たい態度は?
 エレナ様を避けていたのは?

「俺が関わると、お前が死ぬと思った。……だから、遠ざけた。嫌われれば、お前は俺から離れて、助かると思ったんだ」

 クライヴが顔を上げる。
 充血した黄金の瞳が、懺悔するように僕を見つめる。

「だが、間違いだった。……俺の臆病な選択が、お前をここまで追い詰めた。すまない……本当に、すまない」

 彼の涙が、僕の頬を濡らす。
 その瞬間、僕の中で全てのパズルが組み合わさった。
 あの不器用な拒絶も。
 『虫唾が走る』という暴言も。
 やつれるほどに研究に没頭していた理由も。
 すべては、僕を守るためだったのだ。
 僕が彼を想って身を引いたように、彼もまた、僕を大切に思うがゆえに、心を殺して僕を突き放していたのだ。

「……ばかですね、先輩」

 涙が溢れて止まらなかった。
 嬉しくて、切なくて、愛おしくて。

「僕たちは……本当に、似たもの同士だ」

 僕の言葉に、クライヴは泣き笑いのような表情を浮かべ、再び僕を抱きしめた。
 外の嵐はまだ続いている。
 けれど、僕たちの周りだけは、温かな重力に守られた、静寂の聖域だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

誰よりも愛してるあなたのために

R(アール)
BL
公爵家の3男であるフィルは体にある痣のせいで生まれたときから家族に疎まれていた…。  ある日突然そんなフィルに騎士副団長ギルとの結婚話が舞い込む。 前に一度だけ会ったことがあり、彼だけが自分に優しくしてくれた。そのためフィルは嬉しく思っていた。 だが、彼との結婚生活初日に言われてしまったのだ。 「君と結婚したのは断れなかったからだ。好きにしていろ。俺には構うな」   それでも彼から愛される日を夢見ていたが、最後には殺害されてしまう。しかし、起きたら時間が巻き戻っていた!  すれ違いBLです。 初めて話を書くので、至らない点もあるとは思いますがよろしくお願いします。 (誤字脱字や話にズレがあってもまあ初心者だからなと温かい目で見ていただけると助かります)

【8話完結】強制力に負けて死に戻ったら、幼馴染の様子がおかしいのですが、バグですか?

キノア9g
BL
目が覚めたら、大好きだったRPGの世界に転生していた。 知識チートでなんとか死亡フラグを回避した……はずだったのに、あっさり死んで、気づけば一年前に逆戻り。 今度こそ生き残ってみせる。そう思っていたんだけど—— 「お前、ちょっと俺に執着しすぎじゃない……?」 幼馴染が、なんかおかしい。妙に優しいし、距離が近いし、俺の行動にやたら詳しい。 しかも、その笑顔の奥に見える“何か”が、最近ちょっと怖い。 これは、運命を変えようと足掻く俺と、俺だけを見つめ続ける幼馴染の、ちょっと(だいぶ?)危険な異世界BL。 全8話。

諦めようとした話。

みつば
BL
もう限界だった。僕がどうしても君に与えられない幸せに目を背けているのは。 どうか幸せになって 溺愛攻め(微執着)×ネガティブ受け(めんどくさい)

ラベンダーに想いを乗せて

光海 流星
BL
付き合っていた彼氏から突然の別れを告げられ ショックなうえにいじめられて精神的に追い詰められる 数年後まさかの再会をし、そしていじめられた真相を知った時

【8話完結】勇者召喚の魔法使いに選ばれた俺は、勇者が嫌い。

キノア9g
BL
勇者召喚の犠牲となった家族—— 魔法使いだった両親を失い、憎しみに染まった少年は、人を疑いながら生きてきた。 そんな彼が、魔法使いとして勇者召喚の儀に参加させられることになる。 召喚の儀——それは、多くの魔法使いの命を消費する狂気の儀式。 瀕死になりながら迎えた召喚の瞬間、現れたのは——スーツ姿の日本人だった。 勇者を嫌わなければならない。 それなのに、彼の孤独に共感し、手を差し伸べてしまう。 許されない関係。揺れる想い。 憎しみと運命の狭間で、二人は何を選ぶのか——。 「だけど俺は勇者が嫌いだ。嫌いでなければならない。」 運命に翻弄される勇者と魔法使いの、切ない恋の物語。 全8話。2025/07/28加筆修正済み。

別れの夜に

大島Q太
BL
不義理な恋人を待つことに疲れた青年が、その恋人との別れを決意する。しかし、その別れは思わぬ方向へ。

出戻り王子が幸せになるまで

あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
初恋の相手と政略結婚した主人公セフィラだが、相手には愛人ながら本命がいたことを知る。追及した結果、離縁されることになり、母国に出戻ることに。けれど、バツイチになったせいか父王に厄介払いされ、後宮から追い出されてしまう。王都の下町で暮らし始めるが、ふと訪れた先の母校で幼馴染であるフレンシスと再会。事情を話すと、突然求婚される。 一途な幼馴染×強がり出戻り王子のお話です。 ※他サイトにも掲載しております。

王太子殿下に触れた夜、月影のように想いは沈む

木風
BL
王太子殿下と共に過ごした、学園の日々。 その笑顔が眩しくて、遠くて、手を伸ばせば届くようで届かなかった。 燃えるような恋ではない。ただ、触れずに見つめ続けた冬の夜。 眠りに沈む殿下の唇が、誰かの名を呼ぶ。 それが妹の名だと知っても、離れられなかった。 「殿下が幸せなら、それでいい」 そう言い聞かせながらも、胸の奥で何かが静かに壊れていく。 赦されぬ恋を抱いたまま、彼は月影のように想いを沈めた。 ※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」にて同時掲載しております。 表紙イラストは、雪乃さんに描いていただきました。 ※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。 ©︎月影 / 木風 雪乃

処理中です...