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第6話 重力は愛を逃がさない
しおりを挟む豪雨が世界を叩きつけていた。
王立魔術アカデミーの研究棟から、黒い影が弾丸のように飛び出した。
「ひ、ひぃぃぃッ!! し、死ぬ、死にますぅぅッ!!」
ルカの絶叫が、暴風雨にかき消される。
彼は今、クライヴの脇に抱えられ、空を飛んでいた。
否、正確には「飛んで」いるのではない。クライヴが自身の体に強烈な『重力制御』をかけ、空間を蹴り、落下と跳躍を繰り返しながら、森の上空を滑空しているのだ。
クライヴの漆黒の髪が、雨に濡れて頬に張り付く。
だが、彼の黄金の瞳は、瞬き一つせず、ルカが指し示した森の奥――ノアがいるという一点だけを凝視していた。
(間に合え……ッ!)
心臓が破裂しそうだった。
魔力回路が悲鳴を上げている。人間の体でこれほどの高速機動を行えば、内臓にかかる負担は計り知れない。
だが、そんな痛みなど、ノアが味わっている苦しみに比べれば埃のようなものだ。
懐に入れた手紙が、熱を帯びて胸を焼く。
震える手で書かれた文字。
涙の代わりに落ちた結晶の跡。
――『先輩はすごいです。誰よりも優しくて、賢くて、僕の憧れでした』
その言葉が、鋭利な刃物となってクライヴの心を抉り続けていた。
どこがだ。
すごいものか。優しいものか。
俺は、ノアのその献身に気づきもせず、罵倒して突き放した、最低の愚か者だ。
俺が未来から来たことも知らず、それでも俺の幸せのために、嫌われ役さえ受け入れて、一人で孤独に死のうとしている。
「……あんな嘘を、信じるな……ッ」
雨に紛れて、呻き声が漏れる。
嫌いなわけがない。
「虫唾が走る」なんて、一度だって思ったことはない。
俺の世界には、最初からお前しかいなかったのに。
ズガンッ!!
雷鳴と共に、森が開けた。
暗い木立の中に、傾きかけた粗末なあばら家が見えた。
窓からは明かり一つ漏れていない。怖いほどに静まり返っている。
「あそこです! あそこにノア様が!」
ルカの叫びを聞くよりも早く、クライヴは重力ベクトルを真下へと叩きつけた。
◇◇◇
あばら家の中は、氷のように冷え切っていた。
雨漏りの音が、不規則なリズムで響いている。
ベッドに横たわるノアは、もう動くことができなかった。
視界は白く濁り、聴覚も遠い。
ただ、体の芯から凍りついていくような感覚だけがあった。
(……ああ、これが死か)
不思議と、恐怖はなかった。
やるべきことはやった。手紙も書いた。ルカに託すこともできた。
ルカは怒って飛び出して行ってしまったけれど、きっと彼なら、ほとぼりが冷めた頃にこっそりと届けてくれるだろう。
先輩は、あのレシピを見てどう思うだろうか。
「生意気な後輩だ」と苦笑するだろうか。
それとも、僕のことを少しは思い出してくれるだろうか。
……いや、思い出さないでほしい。
ただの便利な知識として使って、僕という存在は忘れて、何の憂いもなくエレナ様と幸せになってほしい。
それが、僕の望んだ幸福な結末なのだから。
ふと、右腕が目に入る。
肩から先が、美しい白亜の彫像のように石化し、崩れかけている。
ベッドのシーツの上には、僕だったものが砂となって積もっていた。
(綺麗だな……)
痛みはもうない。
意識が、深い水底へと沈んでいく。
――その時。
ドォォォォォンッ!!
轟音と共に、あばら家の扉が吹き飛んだ。
いや、扉だけではない。壁の一部ごともぎ取られ、暴風雨が部屋の中へと雪崩れ込んでくる。
「……?」
ノアは、ぼんやりとそちらを見た。
死神がお迎えに来たのだろうか。それとも、嵐で家が潰れたのだろうか。
逆光の中、土足で踏み込んでくる人影があった。
黒いローブを翻し、肩で息をする、長身の男。
雨に濡れた漆黒の髪が、稲光に照らされて鈍く光る。
「……ノアッ!!」
名前を呼ばれた。
聞き間違えるはずのない、低く、少し掠れた声。
男はベッドの脇まで一瞬で距離を詰め、膝をついた。
黄金の瞳。
雨の滴る、整った顔立ち。
僕の最愛のクライヴ・オルステッド先輩。
「……あぁ」
ノアの乾いた唇から、吐息のような声が漏れた。
(なんて、都合のいい夢だろう)
死に際に見る走馬灯にしては、あまりにもできすぎている。
だって、彼は僕を嫌っているはずだ。
潔癖の彼がこんな汚いあばら家に、自ら足を運ぶはずがない。
ましてや、こんな必死な形相で、僕の名前を呼ぶはずなんて。
「……夢でも、会えて嬉しいです……先輩」
ノアは残された左手を、虚空へ伸ばそうとした。
けれど、力が入らず、手はシーツの上に力なく落ちた。
「夢じゃない! 俺だ、クライヴだ!」
クライヴが、落ちたノアの左手を両手で包み込んだ。
熱い。
火傷しそうなほどの体温と、雨の冷たさが同時に伝わってくる。
あまりにもリアルな感触に、ノアの思考が揺らいだ。
「……どうして? 先輩は、僕が……嫌いなんじゃ……」
「ッ……!」
クライヴの顔が、苦痛に歪んだ。
彼はノアの手を握りしめたまま、額をそこに押し付けた。
「すまない……っ、すまない、ノア……!」
「謝らないで、ください……。先輩の邪魔、をして……ごめんなさい……」
「違う! 邪魔なものか、お前は……お前だけは……!」
クライヴは顔を上げた。
その黄金の瞳から、ボロボロと涙が溢れ出していた。
そして、彼の視線がノアの右腕――崩れかけた白い灰の腕に釘付けになった瞬間、その瞳に絶望と、狂気にも似た決意の光が宿った。
「……まだだ。まだ間に合う」
彼は懐から、くしゃくしゃになった羊皮紙を取り出した。
僕が書いた、レシピだ。
「これを見た。……こんな大事なこと、なんで一人で抱え込んだ」
「……え?」
「……これは、俺一人じゃ完成させられなかった、最後の欠片だ」
クライヴは羊皮紙を枕元の台に叩きつけるように置くと、立ち上がった。
全身から、膨大な魔力が噴き上がる。
空気がビリビリと震え、雨粒が空中で静止した。
「ノア。少し苦しいかもしれないが、我慢しろ」
「せん、ぱい……?」
「その体、一粒たりとも崩させはしない。……俺の重力圏から、逃げられると思うなよ」
次の瞬間。
ギチチチチッ……!
空間が軋む音がした。
ノアの全身に、強烈な圧力がかかった。
痛みではない。巨大な掌で、全身を優しく、しかし絶対に逃さない強さで握りしめられているような感覚。
崩れかけていた右腕の灰が、空中に舞い上がりかけ――そして、ピタリと止まった。
それどころか、こぼれ落ちた灰の一粒一粒が、時間を巻き戻すように元の位置へと押し戻されていく。
「……あ……」
これは、重力魔法。
それも、ただ押し潰すだけの魔法じゃない。
粒子の理すら支配し、崩壊を物理的に食い止める、神業のような魔力制御。
「ルカ! その籠の中身を全部出せ!」
クライヴが怒鳴った。
遅れて部屋に入ってきたルカが、悲鳴を上げながら籠をひっくり返す。中から、彼が見舞いに持ってきていた水筒や食器、そして何種類かの薬草や果実が転がり出た。
「『解析』だ、ノア! 俺とお前の記憶を合わせろ!」
クライヴは片手でノアへの重力固定を維持しながら、もう片方の手で虚空を掴んだ。
転がり出た薬草や、ポケットから取り出した彼自身の携帯用試薬が、重力によって空中に浮き上がる。
「え……?」
「レシピに書いてあった素材は揃わない。だが、代用品はあるはずだ! お前の知識ならわかるはずだ!」
クライヴの瞳が、真剣な光で僕を射抜く。
「生きたいと願え! 俺のために、生きると言え!」
その言葉に、僕の魂が震えた。
生きたい。
死にたくない。
だって、こんなに必死な顔で、僕を繋ぎ止めようとしてくれる人がいる。
嫌われていなかった。
彼は、僕を助けに来てくれたんだ。
「……右の、青い木の実……」
僕は掠れた声で呟いた。
「それを……すり潰して……月の光草の代わりに……」
「よし!」
クライヴが指を弾く。
空中で木の実が弾け、液体となって抽出される。
重力の坩堝の中で、複数の素材が混ざり合い、圧縮され、熱を帯びていく。
「圧力係数、修正! 魔力充填率、120%!」
クライヴの額に血管が浮き出る。
彼は今、一人で二つの奇跡を行使している。
崩壊する僕の体を物理的に繋ぎ止めながら、同時に未知の領域にある特効薬を精製しようとしているのだ。
下手をすれば、彼自身の魔力回路が焼き切れるかもしれない。
「やめて、先輩……先輩が、壊れちゃう……」
「黙ってろ! 俺の体なんてどうでもいい!」
彼は吼えた。
血の滲む唇で、笑ってみせた。
「二度も失ってたまるか……! お前がいない世界で、俺が幸せになれるなどと思うな!」
その言葉の意味を考える余裕はなかった。
空中の液体が、激しく発光した。
濁った灰色から、透き通るような黄金色へ。
――『月の雫の秘薬』。
完成した。
クライヴはその液体を、硝子瓶に入れる時間すら惜しんだ。
彼は空中に浮かぶ黄金の液体を、直接指先で操り、自分の口へと含んだ。
そして。
「……んッ!」
僕に覆いかぶさり、唇を重ねた。
温かい感触。
口移しで、苦くて甘い液体が流し込まれる。
重力の拘束が、ふっと緩んだ。
代わりに、彼の強い腕が僕を抱きしめた。
骨が軋むほど強く。まるで、体の中に埋め込もうとするかのように。
「……っ、は……」
唇が離れる。銀の糸が引いた。
薬液が喉を通り、胃に落ちた瞬間、爆発的な熱が全身を駆け巡った。
石化していた右腕に、血が通う感覚が戻ってくる。
激痛だった。けれど、それは「生きている」痛みだった。
「……成功、だ……」
クライヴが、糸が切れたように僕の胸に崩れ落ちた。
彼の黒髪から、雨水が僕の頬に落ちる。
いや、雨水じゃない。
彼は泣いていた。子供のように、しゃくりあげて泣いていた。
「よかった……あぁ、よかった……ノア……」
「せん、ぱい……」
僕は動くようになった左手で、恐る恐る彼の背中に触れた。
温かい。
夢じゃない。
彼は本当にここにいて、僕を助けてくれた。
「どうして……?」
問いかけると、彼は顔を埋めたまま、震える声で言った。
「……お前がレシピを知っていたように、俺も知っていたんだ」
「え……」
「未来を。……俺たちが、どんな結末を迎えたかを」
雷に打たれたような衝撃が走った。
彼も、記憶を持っていた?
じゃあ、あの一ヶ月間の冷たい態度は?
エレナ様を避けていたのは?
「俺が関わると、お前が死ぬと思った。……だから、遠ざけた。嫌われれば、お前は俺から離れて、助かると思ったんだ」
クライヴが顔を上げる。
充血した黄金の瞳が、懺悔するように僕を見つめる。
「だが、間違いだった。……俺の臆病な選択が、お前をここまで追い詰めた。すまない……本当に、すまない」
彼の涙が、僕の頬を濡らす。
その瞬間、僕の中で全てのパズルが組み合わさった。
あの不器用な拒絶も。
『虫唾が走る』という暴言も。
やつれるほどに研究に没頭していた理由も。
すべては、僕を守るためだったのだ。
僕が彼を想って身を引いたように、彼もまた、僕を大切に思うがゆえに、心を殺して僕を突き放していたのだ。
「……ばかですね、先輩」
涙が溢れて止まらなかった。
嬉しくて、切なくて、愛おしくて。
「僕たちは……本当に、似たもの同士だ」
僕の言葉に、クライヴは泣き笑いのような表情を浮かべ、再び僕を抱きしめた。
外の嵐はまだ続いている。
けれど、僕たちの周りだけは、温かな重力に守られた、静寂の聖域だった。
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