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8話:嘘から始まった婚約だけど、本当になりそうです?
しおりを挟む昼休み。
あの日から一週間が経った。
俺がレオンに「距離を取られるのは困る」と言ってから、彼はまた少しずつ近くにいるようになった。でも、以前とは何かが違う。
今日もレオンは窓際で本を読んでいるが、俺が近づくと自然に顔を上げて微笑んでくれる。そして、俺が隣に座ると、本を膝の上に置いて話しかけてくる。
最近、レオンは妙に俺を気遣うようになった。
前みたいに無自覚に距離を詰めてくることは減ったし、異世界の価値観で強引に話を進めることもなくなった。
代わりに、「俺の意志」を尊重しようとしてくれている。
──それが、余計に困る。
どうしてそんなに大事にされてるんだろうって、意識するようになってしまったから。
不意に、レオンが本を閉じた。パタンと小さな音が響く。まっすぐこちらを見る、その碧色の瞳には、迷いのようなものが浮かんでいる。俺は思わず息を詰めた。
「ナオ」
俺の名前を呼ぶ声は、いつもより低く、静かだった。教室の騒音が急に遠くなる。
「……俺は、ずっとお前に誠実であろうと思っていた」
唐突な言葉に、思わず瞬きをする。レオンの手が、机の上でわずかに握られているのに気づく。
「けれど、それが迷惑だったのなら……」
レオンは少し息をついて、それからまっすぐ俺を見た。その視線が、俺の心臓を早く打たせる。
「そろそろ、訂正するか?」
訂正。
つまり、「婚約者というのは冗談だった」と言うのか?
俺は、わずかに口を開きかけ──それから、言葉に詰まった。教室の空気が重く感じられる。
ああ、そうだ。これは元々、冗談だったんだ。
俺は巻き込まれていただけで、何のつもりもなかった。
でも。
レオンが距離を取ろうとしたとき、寂しいと思った。
おでこにキスされて熱を下げられたとき、心臓が跳ねた。
もう少しそばにいてほしいと、初めて自分から言った。
──訂正、か。
俺は、息を吸い込んで、ぽつりと呟いた。周りの騒音が遠のく。
「……もうちょい、このままでもいいかも」
レオンの碧色の瞳が、ふっと瞬いた。驚いたような、それでいて安堵したような表情が、一瞬だけ彼の顔に浮かぶ。
「それは、契りとして受け取っていいのか?」
心臓が跳ねた。
契り、婚約。
それは、レオンの世界で「絶対」だったもの。
彼にとって、それはただの言葉じゃない。
俺は、顔が熱くなるのを感じながら、視線をそらした。窓の外の青空が、妙に眩しく見える。
「そ、それは……! もうちょっと、俺の気持ちが整理できるまで待て!!」
レオンは、俺の慌てぶりを見て、少しだけ驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと、柔らかく微笑む。その表情が、俺の胸を締め付けるほど優しい。
「ならば、待とう」
言葉とともに、大きな手が伸びてきて、俺の頭をぽんと撫でた。その手の温もりが、頭皮を通して心臓まで届く。
「っ……!」
なんでそんな優しい顔するんだよ。
なんでそんなに、当たり前みたいに待つって言えるんだよ。
まるでもう、俺の返答がわかっているみたいじゃないか。
「……結局、お前に振り回されてる気がするんだけど?」
拗ねたように言うと、レオンはまた笑った。その笑顔が、教室の騒音を完全に遠ざけてしまう。
「それはこっちの台詞だ」
言葉の端に、どこか嬉しそうな響きがあるのは、気のせいじゃないだろう。
俺は、顔を背けたまま、ぼそりと呟く。
「……もうちょっとだけ、このままでいたいって言ったんだからな」
レオンは、それ以上何も言わず、ただ穏やかな目で俺を見つめていた。その視線が、俺の顔を更に熱くする。
──こうして、嘘から始まった婚約は、本当の関係へと変わり始めた。
◇◇◇
それから数週間。
季節は秋に向かい、朝夕の風が冷たくなってきた。教室の窓から見える校庭の木々も、少しずつ色づき始めている。
俺とレオンの関係は、大きく変わったわけじゃない。
けれど、「婚約」という言葉が持つ意味だけは、俺の中でじわじわと実感を伴ってきていた。
「ナオ、今日は冷えるな。上着を持ってきた」
放課後の教室で、掃除当番を終えた俺に、レオンが近づいてくる。手には自分のブレザーを持って、その表情はいつも通り真剣だった。
そう言って、自分のブレザーを俺の肩にふわりとかけるレオン。生地の温もりと、彼の体温が混じった匂いが鼻をくすぐる。
クラスメイトが見ている前でやるのはやめろ、と何度も言ったのに、全く気にする様子はない。案の定、近くにいた女子たちがひそひそと囁き交わしている。
「おい、別にそこまで寒くねえし──」
「風が冷たい。お前の体は冷えやすい」
俺が返す前に、さらりと当たり前のように言われる。彼の手が、俺の肩を軽く押さえて、ブレザーの位置を調整する。その動作が、妙に慣れていて、まるで何度も繰り返してきたことのようだった。
最近気づいたが、レオンは俺のことを妙に細かく観察しているらしい。
「俺が支えるから無理するな」なんて、あの日みたいなことをまた言われても困る。
だけど。
──ちょっと、嬉しく思ってしまうのは、もう否定できなかった。
「……お前って、ほんと世話焼きだよな」
俺は、肩にかけられたブレザーの襟元を少し直しながら言う。その動作を、レオンは静かに見つめている。
「伴侶を守るのは当然だろう?」
いつも通りに言われて、俺は思わず肩をすくめる。廊下に響く他の生徒たちの足音が、なんだか遠く聞こえる。
「お前の中での”婚約者”の定義、やっぱり重すぎると思うんだけどな」
「ナオが軽いだけだ」
真顔でそう返されて、思わず笑いそうになった。彼の真剣な表情と、言葉の内容のギャップが可笑しい。
「……まあ、でも」
少しだけ視線を落とす。
肩にかけられたブレザーの温もりが、思ったより心地よくて。夕日が差し込む廊下で、俺たちだけの静かな時間が流れている。
「……悪くない、かもな」
小さく呟いた俺の言葉に、レオンは少しだけ目を瞬かせ──
「……そうか」
それから、ゆっくりと笑った。その笑顔が、夕日の光に照らされて、まるで絵画のように美しく見えた。
まるで、ずっと待ち望んでいたものを、やっと手にしたみたいに。
◇◇◇
──それからさらに数年後。
白いバージンロードに響く足音。教会の高い天井から差し込む光が、ステンドグラスを通して虹色に輝いている。列席者たちの温かい視線と、静かに奏でられるオルガンの音色。
「俺は、お前の伴侶になれたか?」
目の前でレオンがそう尋ねる。
式服の胸元には、俺とお揃いのブローチが輝いていた。彼の碧色の瞳が、教会の光を受けて美しく輝いている。
「……そりゃもう、とっくに」
隣で笑う彼の手を、俺はしっかりと握り返した。その手の温もりが、これまでの全ての思い出を蘇らせる。
嘘から始まった婚約は、本当の愛へと変わり──
今、確かに、俺たちの未来になっている。
教会に響く祝福の拍手が、俺たちの新しい人生の始まりを告げていた。
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