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第2章
第12話:無属性の代償
しおりを挟む夜更けの王都は、昼とは別の顔を見せる。通りの灯りが等間隔に並び、石畳に落ちる光が淡く滲んでいた。家々の窓から漏れる生活の音は、遠くで波のように重なり、やがて静けさに溶けていく。
拠点へ戻ったあと、アッシュは剣の手入れを続けていた。刃を拭い、柄を締め直す。何度も繰り返してきた作業なのに、今夜はどうにも集中できない。指先の感覚が、わずかに遠い。
理由は分かっていた。
廃塔で感じた、あの一瞬の揺らぎ。魔力の流れが、いつものように手の内で収束しなかった感覚。あれは偶然ではない。そう、頭のどこかで理解していた。
息を整え、無属性の感覚を呼び起こす。空気の層に、意識を滑らせる。何もないはずの場所に、確かに“重さ”がある。
――来る。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
音が遅れて追いつく。金属が床に落ちる音。自分の呼吸が乱れる音。膝が、勝手に折れた。
床に手をついたとき、指先が痺れているのが分かった。感覚が戻るまでに、ひと呼吸分の時間が必要だった。
「……やはり、か」
声に出すと、部屋の静けさが強調される。
無属性魔法は、何も生み出さない。何も壊さない。ただ、世界の“隙間”に触れる。それが、これまでの認識だった。
だが今は違う。触れた隙間が、こちらを引き戻してくる。まるで、均衡を取り戻そうとする力が、アッシュ自身を削っているかのようだった。
扉の向こうで、足音が止まる。
「……起きているのか」
カイルの声。
返事をする前に、身体が強張った。知られたくない、という反射が、先に立つ。
「ええ。少し、装備の確認を」
声は、思ったよりも平静だった。
扉が開き、灯りが差し込む。カイルは外套を脱いだまま、アッシュの様子を一目で捉えた。
床に散った布。手入れ途中の剣。僅かに乱れた呼吸。
隠し切れないものは、もうそこにあった。
「……何をした」
問いは短い。だが、逃げ道はない。
「大したことでは」
言いかけて、言葉が途切れた。喉の奥が、ひどく乾いている。
カイルは、ゆっくりと距離を詰めた。触れないまま、視線だけで状況を測る。
「魔力を使ったな。……しかも、無理な形で」
否定できない。アッシュは、小さく息を吐いた。
「少し、調整が必要なだけです」
いつもの言い訳。自分自身に向けて、何度も使ってきた言葉。
だが、カイルは首を振った。
「“少し”ではない」
低い声が、胸に響く。
「君の魔力の揺れは、私の焔にも伝わってきた」
その一言で、逃げ場が消えた。
アッシュは、剣の柄から手を離し、床に腰を下ろした。
「……遺跡で、力を使いすぎました」
事実を、選びながら口にする。
「封印の歪みを押さえるために、無属性を深く潜らせた。そのときから、感覚が戻りきらない」
沈黙。
カイルは、アッシュの正面に膝をついた。視線の高さが合う。
「代償は、どの程度だ」
淡々とした問い。感情を挟まないのは、現実を把握するためだと分かっている。
「……短時間の眩暈。感覚の遅れ。感情が高ぶると、制御が難しくなる」
言葉にすると、想像以上に重い。
カイルは、目を伏せた。
「黙って抱えるつもりだったな」
責める響きはない。ただ、確信だけがあった。
アッシュは、否定しなかった。
「今までは、それで済んでいました」
「今は?」
即座に返される。
アッシュは、答えに詰まった。
今は、一人ではない。そう分かっているのに、長年の癖が邪魔をする。弱さを見せれば、相手の足を引っ張る。そう信じてきた。
カイルは、そっと手を伸ばした。
その指先が、アッシュの強張った頬に触れる。熱を持った掌が、冷えた肌をゆっくりと包み込んだ。
「……君が倒れれば、私は判断を誤る」
その言葉は、思いがけず冷静だった。
「同行者として、それは致命的だ」
感情論ではない。任務の話として、切り出している。
「だから、隠される方が困る」
頬に添えられた手から伝わる温度が、頑なだった思考を溶かしていく。
アッシュは、思わず苦笑した。
「随分と、実務的ですね」
「そうでもしないと、君は聞かないだろう」
その通りだった。
カイルは、焔を灯した。もう片方の手のひらに浮かんだ小さく、穏やかな火。室内の空気が、わずかに温む。
その焔に触れた瞬間、アッシュの中のざわめきが、静まった。
魔力の揺れが、落ち着いていく。呼吸が、自然な速さに戻る。
「……安定する」
思わず、言葉が漏れた。
カイルは、焔を保ったまま、目を細める。
「やはり、相互干渉だな。君の無属性と、私の焔は」
分析するような口調。だが、その奥に、確かな安堵があった。
「完全な解決ではない。だが、制御の補助にはなる」
アッシュは、焔を見つめた。
かつては、象徴だった。祝福であり、誓いであり、遠い理想。
今は違う。
生きるために、必要なものだ。
「……頼っても、いいですか」
言葉にするのは、思っていたよりも難しかった。
カイルは、迷わず頷いた。
「当然だ」
短く、強い答え。
そのまま、カイルがアッシュの肩を引き寄せた。
抵抗することなく、その胸に額を預ける。心臓の音が、すぐ近くで聞こえた。
「君が倒れないことが、私の任務でもある」
その言い方が、どこか可笑しくて、胸の奥まで温かくなる。
焔が消えたあとも、安定はしばらく続いた。
離れがたくて、しばらくそのままでいたが、夜は、まだ深い。
アッシュは、名残惜しさを振り切って体を離し、剣を鞘に収め、立ち上がった。
「今後は、使用制限を設けます。無属性は、短時間のみ。事前に、必ず伝える」
「了承した」
簡潔なやり取り。だが、そこには信頼があった。
部屋を出る前、カイルが振り返る。
「……一人で背負うな」
それは命令ではなく、願いだった。
アッシュは、小さく頷いた。
夜の静けさの中、焔の余熱が、まだ胸に残っている。
無属性の代償は、確かに重い。だが、それを分け合う相手がいるという事実が、今は何よりも確かだった。
灯りを落としながら、アッシュは思う。
守るために隠すのではなく、
信じるために、話す。
その選択を、これからは繰り返していくのだろう。
静かな夜が、ゆっくりと更けていった。
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