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第3章 俺たちは『公務』じゃなくて、『新婚旅行(ハネムーン)』がしたい
第17話:絶対零度の駄々っ子
しおりを挟むその日の朝、クライス伯爵家の執務室は、物理的に凍りついていた。
当主であるオルドリン・クライスは、王宮から届いたばかりの書簡をデスクに叩きつけ……ようとして、手が滑って破り捨てそうになるのを、僅かに残った理性で押し留めた。
書簡の内容は簡潔にして残酷だった。
『北の白銀領にて魔脈の乱れあり。至急現地へ向かい、鎮静化せよ。期間は移動を含め約一ヶ月を要する』
一ヶ月。
文字にして、たったの三文字。
だが、その意味するところを脳内で咀嚼した瞬間、オルドリンの目の前は真っ暗になった。
(……一ヶ月だと?)
一ヶ月とは、およそ三十日だ。
時間にして七百二十時間。分に直せば四万三千二百分。
その間、彼は最愛の妻・ルシアンの顔を見られないということか?
あの愛らしい「おはよう」を聞けず、温かい体温を感じながら眠ることもできず、彼の手料理を頬張る幸福な時間も奪われるというのか?
それはもはや、任務ではない。死刑宣告に等しい。
ここ一年、オルドリンはルシアンという「太陽」の光を浴びて生きてきたのだ。
今さら光のない極寒の地へ一人で放り出されるなど、熱帯魚を雪山に放流するようなものだ。
枯れる。確実に、心が枯死する。
ピキ、ピキキッ……。
主人の絶望に呼応するように、足元から床が凍り始めた。
制御できない魔力が漏れ出し、執務室の気温が急激に下がっていく。
「……旦那様」
部屋の隅で、執事のセバスチャンが呆れ顔で声をかけてきた。
彼はすでに防寒用のマフラーを巻いている。準備がいい。
「室温がマイナス五度を下回りました。インクが凍って書類仕事ができません」
「放っておいてくれ、セバスチャン。私の心はすでに絶対零度だ」
「また始まりましたな。……王命ですよ? 拒否すれば爵位剥奪もありえますぞ」
「構わん。ルシアンと離れるくらいなら、爵位など投げ捨てて、彼と二人で森の奥に引きこもって暮らす」
「ルシアン様は森の暮らしなど望みませんよ。虫がお嫌いですから」
「む……確かに」
オルドリンは机に突っ伏した。
どうすればいい。
王命は無視できない。だが、ルシアン不足(デフィシェンシー)による禁断症状で、現地で発狂して暴走する未来が鮮明に見える。そうなれば白銀領は彼の氷魔法で更地になるだろう。
それはそれで国益を損なう。
「……嫌だ。行きたくない。絶対にここを動かんぞ」
オルドリンは子供のように椅子にしがみついた。
外では「氷の伯爵」などと呼ばれ恐れられている男が、まさか家で「妻と離れたくない」と駄々をこねているなど、誰も想像すまい。
だが、これが真実だ。ルシアンのいない人生になど、一ミリの価値もない。
「はぁ……。困りましたね」
セバスチャンがわざとらしくため息をつき、扉の方を見た。
「こうなれば、猛獣使いのお出ましを願うしかありませんな」
彼が何を言ったのか理解するより早く。
ガチャリ、と凍りついたドアノブが回された。
「オルドリン、入るぞ」
猛吹雪だったオルドリンの脳内に、一筋の光が差し込んだ。
◇◇◇
執務室の扉を開けると、そこは南極だった。
ヒュオオオォォ……。
室内には吹雪が舞い、床も壁も真っ白に凍りついている。
視界が白い。ここは雪山か? いや、王都のど真ん中の屋敷だ。
その吹雪の中心、デスクに突っ伏している黒い影があった。
「……帰ってくれ」
地獄の底から響くような声。
オルドリンは顔を上げず、書類の山に埋もれたまま呻いた。
「私は行かない。断じて行かない。……誰がなんと言おうと、ここを離れん」
「はいはい、分かったから。まずはこの吹雪を止めてくれ」
俺が近づき、彼の肩に手を置くと、ピタリと風が止んだ。
代わりに、オルドリンがガバッと顔を上げた。
その瞳は潤み、目元が赤くなっている。
最強の氷の魔法使いが、泣きそうな子供のような顔をしていた。
「……ルシアン」
「どうしたんだよ。王宮から何言われたんだ?」
俺が聞くと、彼はクシャクシャになった書簡を指差した。
「……『白銀領』へ行けと」
「白銀領? 北の果ての?」
「ああ。あそこの魔力供給地(レイライン)に不具合が出ているらしい。その点検と修復のために、私に出張命令が出た」
なるほど。
白銀領といえば、国一番の極寒地帯であり、クライス家が管理する重要拠点の一つだ。
氷魔法の使い手である彼にしかできない任務なのだろう。
「仕事なら、仕方ないんじゃないか? 領民も困ってるんだろ?」
「分かっている! だが……期間が長すぎる!」
彼はバン! とデスクを叩いた。
「移動も含めて、約一ヶ月だぞ!? 一ヶ月も君と会えないなんて、耐えられるわけがないだろう!」
それが理由か。
いや、彼にとっては死活問題なのだろう。
以前、数日の別行動でさえ「ルシアン不足」で倒れかけた男だ。一ヶ月など、彼の中では「永遠」に等しいに違いない。
「手紙も届くか分からない僻地だ。君の声も聞けず、体温も感じられず、ただ氷に囲まれて仕事をするなど……。そんなの、生きたまま棺桶に入るのと同じだ」
「表現が重いな……」
オルドリンは俺の腰に抱きつき、ぐりぐりと顔を押し付けてきた。
完全に駄々っ子だ。
部屋の隅では、セバスチャンが「やれやれ」といった顔で肩をすくめている。
俺は彼の頭を撫でながら、考えた。
仕事を放棄させるわけにはいかない。
でも、彼を無理やり行かせても、現地で精神崩壊して使い物にならなくなる可能性がある。
なら、答えは一つだ。
「……なぁ、オルドリン」
「なんだ。慰めてくれるのか?」
「いや。……俺も、ついて行っていいか?」
その瞬間。
オルドリンが凍りついた。物理的にではなく、思考停止して。
「……え?」
「だから、俺も行くよ。白銀領へ」
「なっ、何を言っているんだ! あそこは極寒の地だぞ! 君のような華奢な者が耐えられる環境じゃない!」
「失礼だな、これでも鍛えてるっつーの」
俺は腕まくりをして、力こぶ(まだ小さい)を見せた。
「それに、俺はアンタの『相棒』だろ? アンタが仕事で困ってるなら、手伝いたいんだよ」
これは本心だ。
俺は彼に守られるだけでなく、隣に立ちたいと願った。
魔脈の修復なんて高度なことはできないかもしれないが、身の回りの世話や、雑務処理、精神的なケアならできる。
「俺、最近魔法の制御も上手くなったし、セバスチャンから書類整理も習ってる。……アンタの仕事ぶり、近くで見せてくれよ」
俺が目を見て訴えると、オルドリンは口をパクパクと開閉させた。
迷っている。
「連れて行きたい(独占欲)」と「危険な目に遭わせたくない(過保護)」が、脳内で大戦争を起こしているようだ。
「……でも、危険だ。魔物も出るし、環境も過酷だ」
「アンタがいるだろ?」
「……ッ」
「世界最強の氷の魔法使いが一緒なんだ。……俺のこと、守れないのか?」
俺がニッと笑って挑発すると、彼の瞳にメラリと火がついた。
「……守れる。傷一つ付けさせない」
「だろ? なら決まりだ」
俺は彼の手を取り、強く握った。
「連れてってくれよ、オルドリン。……一ヶ月も離れるの、俺だって嫌だよ」
最後の一言は、トドメだ。
オルドリンの顔が、茹でたタコのように真っ赤になった。
そして次の瞬間、部屋中の氷が一気に溶け、春のような暖かさが広がった。
ドサッと天井から溶け落ちた雪が、セバスチャンの頭を直撃したが、誰も気にしない。
「……分かった。連れて行く」
彼は俺を抱きしめ、力強く宣言した。
「君がそこまで言ってくれるなら、断る理由はない。……ああ、むしろ最高だ。仕事中も君といられるなんて! これは神が与えたもうたハネムーンの機会に違いない!」
「そういうこと。……じゃあ、準備するか?」
「うむ! すぐに手配しよう! セバスチャン、最高級の防寒具と、馬車の改造を手配しろ! 今すぐにだ!」
彼は完全に復活した。
さっきまでの絶望が嘘のように、テキパキと指示を出し始めた。
現金なものだ。
だが。
俺には、もう一つ、彼には言えない「裏の動機」があった。
(……よっしゃあぁぁぁ!!)
俺は内心でガッツポーズをした。
白銀領。
そこは、幼少の頃からの憧れの地。
未だ誰も踏破していないと言われる伝説の『氷結の大迷宮(アイス・ラビリンス)』があるのだ!
(あそこの『氷巨人』のドロップアイテムがあれば、最強の耐性装備が作れる……! しかも、漫画とかに出てくるような『極寒マンモス肉』も食えるかもしれない!)
俺の冒険者魂(と食い意地)が、静かに燃え上がっていた。
仕事の手伝いは本気だ。嘘じゃない。
でも、仕事が終わった後の「ご褒美」も、ちゃっかり頂くつもり満々だった。
◇◇◇
出発までの数日間。
屋敷は、遠征の準備で大わらわだった。
「ルシアン様、こちらが特注の防寒コートでございます。白狐の毛皮を使用し、保温魔法を三重にかけてあります」
「ルシアン、靴はこちらだ。滑り止めの魔法付与済みだ」
「非常食には、君の好きな干し肉とチョコレートを大量に用意させた」
過保護すぎる。
俺一人のために、南極観測隊レベルの装備が用意されていた。
「……これ重くないか?」
「軽い素材を選んでいる。着てみてくれ」
着せ替え人形のように、次々と装備を試させられる。
オルドリンは楽しそうだ。
「君は何を着ても似合うな」「雪の妖精のようだ」と、準備の段階からデレデレである。
「なぁ、オルドリン。仕事の内容って、具体的に何するんだ?」
「ん? ああ、基本的には魔力溜まりの制御だ。……少し大規模な術式を使うことになるから、集中力が必要だな」
「そっか。俺にもできることある?」
「私のそばにいて、呼吸をしていてくれればいい」
「それ仕事じゃないだろ」
俺がツッコミを入れると、彼は真面目な顔で言った。
「いや、最重要任務だ。……君の成分を摂取しないと、私の魔力効率が落ちるからな」
「……はいはい。じゃあ、横で応援してるよ」
まったく、どこまで甘えん坊なんだか。
でも、そんな彼が「仕事モード」になった時、どんな顔を見せるのか。
俺は少し楽しみでもあった。
普段は俺にデレデレの旦那様だが、本業の「氷の伯爵」としての姿を、俺はまだあまり知らない。
(かっこいいとこ、見れるかな)
俺は期待に胸を膨らませつつ、こっそりと『北国ダンジョン攻略本(自作メモ)』を荷物の底に忍び込ませた。
◇◇◇
出発の朝。
屋敷の前には、見たこともないほど巨大で豪華な馬車が停まっていた。
車輪の代わりに、魔法で浮遊するソリのような機構がついている。
「……これ、馬車か?」
「長距離移動用・耐寒結界付き特別車両だ。中はリビングのように快適だぞ」
オルドリンがエスコートしてくれ、俺たちは乗り込んだ。
中は本当に広かった。ふかふかのソファ、テーブル、簡易キッチンまである。
外は木枯らしが吹いているが、中はポカポカだ。
「行ってらっしゃいませ、旦那様、ルシアン様」
使用人たちが総出で見送ってくれる。
彼らの顔には「旦那様がご機嫌でよかった」という安堵の色が見える。
「行ってきます!」
「留守は頼んだぞ」
馬車が動き出す。
滑るように進む車窓から、王都の景色が遠ざかっていく。
これから向かうのは、氷と雪に閉ざされた極寒の地。
厳しい任務が待っているはずだ。
でも、隣には頼れる相棒(旦那様)がいる。
「……楽しみだな、オルドリン」
「ああ。君との旅行だと思えば、悪くない」
彼は俺の肩を引き寄せ、こめかみにキスをした。
「白銀の世界も、君となら薔薇色に見えるだろう」
「キザだなぁ」
「本心だ」
俺たちは笑い合い、北へと向かう旅路についた。
仕事も、冒険も、そして甘い時間も。
全部まとめて楽しんでやる。
最強の夫婦の、初めての長期遠征が幕を開けた。
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