「自由に生きていい」と言われたので冒険者になりましたが、なぜか旦那様が激怒して連れ戻しに来ました。

キノア9g

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第5章 俺たちは『英雄』じゃなくて、『愛の逃避行』がしたい

第33話:英雄の代償は書類の山

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 ザザァ……ザザァ……。

 波の音が聞こえる。
 目の前には、宝石のように輝くコバルトブルーの海。
 空はどこまでも高く青く、白い雲が浮かんでいる。

「……あーん、してくれ。ルシアン」

 隣には、サングラスを額にかけ、トロピカルジュースを手にしたオルドリン。
 彼は甘く微笑み、俺の肩を抱いている。
 ああ、なんて幸せなんだ。
 これぞ楽園。これぞ俺たちが求めたバカンス――。

「――旦那様、奥様、現実にお戻りください」

 無慈悲な声と共に、ドサッ! と重い音が響いた。

「……ハッ!?」

 俺、ルシアンは現実に引き戻された。
 目の前に広がっているのは、青い海ではない。
 白い紙の海だ。

 あれから数日。
 場所は、クライス伯爵邸の執務室。
 季節は年の瀬。
 窓の外では北風が吹き荒れているが、室内は暖炉の火が燃えている。
 だが、俺たちの心は吹雪のように寒かった。

「……セバスチャン。今、置いたのはなんだ?」

 執務机に突っ伏していたオルドリンが、亡霊のような声で尋ねた。
 その美しい銀髪は乱れ、目の下には薄っすらとクマができている。

「王都の書簡局より届きました、本日の『追加分』でございます」

 老執事セバスチャンは、涼しい顔でワゴンを指し示した。
 そこには、小山のような手紙の束が積まれている。

「……嘘だろ。またかよ」

 俺は天井を仰いだ。
 あの日、甘い雰囲気で「次は南の島だ!」と地図を広げた夜から数日。
 俺たちは一歩も屋敷から出られずにいた。
 英雄、救世主、理想の夫婦。
 そんなキラキラした肩書きを聞きつけた人々から、雪崩のような手紙が押し寄せているのだ。

「恋文が3割、陳情書が4割、残り3割は……『ぜひ我が領地へ講演に』という招待状でございますな」
「燃やせ」
「旦那様」
「屋敷の暖炉の燃料にしろと言っているんだ……!」

 オルドリンがガバッと起き上がり、書類の山を睨みつけた。

「なんだこれは! 処理しても処理しても減らん! むしろ増殖している! これは新手の呪いか!?」
「呪いではなく『名声』でございますよ。……先の王宮での、旦那様と奥様のご活躍。あれが決定打でございましたな」

 セバスチャンが「ホッホッホ」と楽しそうに笑いながら、手際よく新たな書類の山を築いていく。
 そう。俺たちが『星渡りの夜会』で派手に活躍したせいで、クライス家は今、かつてないほどの注目を浴びているのだ。その代償が、この「白い地獄(書類仕事)」である。

「……もう無理だ。行けない」

 オルドリンがガクリと項垂れた。
 手には、行きたいところを話し合って沢山の印がついている『エメラルド諸島』の観光資料が握りしめられている。

「明日からだぞ……? 明日から君と二人きりで、南の島へ行くはずだったのに……。私の計画では、今頃は荷造りを終えて、ベッドの中で明日の予定を語り合っているはずだったのに……!」

 彼の悲痛な叫びが部屋に響く。
 その背中から立ち上る絶望のオーラで、室温が急激に下がり始めた。
 窓ガラスにピキピキと霜が走る。

「旦那様、落ち着いてください。屋敷が凍ってしまいます」
「凍らせてやる……。いっそ時間ごと凍結して、この現実から逃避してやる……」
「旦那様。時間を凍らせたら国際問題になります」

 セバスチャンが迅速に暖炉に薪をくべる。
 俺は、散らばった書類の山を呆然と見つめていた。

 このままでは、バカンスは中止だ。
 青い海も、虹色の魚も、全部キャンセル。
 そして年末年始は、この寒い執務室で、ひたすら書類の返事を書き続けることになる。

(……そんなの絶対嫌だ)

 俺の中で、何かがプツンと切れた。
 前世の夏休み最終週宿題大戦経験と、今の冒険者としての根性が、化学反応を起こして燃え上がる。

 俺は資料をオルドリンの手からひったくり、机の上に叩きつけた。

「――やるぞ」
「……え?」
「諦めてたまるか。俺たちのバカンスは、紙切れごときに邪魔させない!」

 俺は腕まくりをし、仁王立ちになった。

「セバスチャン! ワゴンをもう一台持ってきてくれ!」
「は、はい! しかし奥様、この量は流石に……」
「終わらせるんだよ。物理(スピード)でな!」

 俺はふらつくオルドリンの肩を掴み、無理やり椅子に座らせた。

「いいか旦那様。今から俺が『仕分け』をする。アンタはもう中身を読まなくていい。俺が『サイン』と言ったらサイン、『却下』と言ったら魔力印で却下しろ。思考を止めて手を動かせ!」
「し、しかしルシアン。中には重要な案件も……」
「俺が判断する! アンタの『妻』としての眼力と、『事務処理能力』を信じろ!」

 俺が力強く言い切ると、オルドリンの死んだ魚のような目に、微かに光が戻った。

「……信じる。君になら、全財産を任せてもいい」
「よし、その意気だ! セバスチャン、アンタは『封蝋(シーリング)』と『発送』担当だ! 俺たちの速度についてこれるか?」
「おやおや……」

 老執事は片眼鏡をキラリと光らせ、不敵な笑みを浮かべた。

「このセバスチャン、伊達に三代に渡ってクライス家にお仕えしておりません。……奥様の本気、受けて立ちましょう」

 役者は揃った。
 俺たちの、仁義なき戦いが始まる。

「行くぞ! 第1ラウンド開始!」

 俺は山の中から書類を鷲掴みにした。
 前世のテスト期間に培った一夜漬け用速読&ヤマあて、発動。

「『王立魔導研究所からの講演依頼』! 報酬は良いが拘束時間が長い! 却下!」
「承知!」

 ドンッ!

 オルドリンが魔力を込めたスタンプを叩きつける。

「『辺境伯からの縁談』! ゴミ箱!」
「燃えろ!」

 ボッ!(書類が空中で灰になる)

「『領地の橋の修繕予算申請』! これは重要! 承認!」
「サインする!」

 サラサラサラ……ッ!

「セバスチャン、回収!」
「はい、ただちに!」

 シュパァッ!

 セバスチャンが残像が見えるほどの速度で書類を回収し、熱した蝋を垂らし、封をする。
 早い。
 この二人、事務処理能力が高すぎる!

「次! 『若返りの秘薬の売り込み』! 詐欺だ、ゴミ箱!」
「『夜会の招待状』! 定型文で断れ!」
「『恋文』! ……オルドリン様愛してます、だってさ」

 俺が読み上げると、オルドリンは不愉快そうに鼻を鳴らし、スタンプを押すついでに俺の手の甲にチュッと音を立ててキスを落とした。

「私の愛を受け取れるのは、世界でルシアンただ一人だ。……焼却処分!!」
「はいはい、ごちそうさま! 次!」

 執務室に、紙をめくる音と、スタンプの音、そしてセバスチャンの封蝋の音がリズミカルに響き渡る。
 それはまるで、戦場のドラムのようだ。

 一時間経過。
 山が一つ消えた。

 三時間経過。
 ワゴンの山が消えた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 日が落ち、部屋が暗くなり始めた頃。
 俺たちは一時停止した。
 流石に腕が痛い。魔力切れも近い。

「……ルシアン。燃料切れだ」

 オルドリンがペンを持ったまま、ことりと俺の肩に頭を乗せてきた。
 その重みが心地よい。

「……ルシアン成分を補給しないと、もう指一本動かない」
「甘えん坊だな。……ほら」

 俺は彼の髪をくしゃっと撫で、ポケットからキャンディを取り出して口に含ませてやった。
 ついでに、彼のこめかみにキスを落とす。

「ん……」
「あと少しだ。頑張れば、明日の朝には海だぞ」

 オルドリンはアメを転がしながら、俺の腰に回した腕にギュッと力を込めた。
 そのまま服の中に手を滑り込ませ、素肌に触れてくる。

「……海も楽しみだが、私は今すぐ君を食べたい」
「そんなこと言ってる暇があったら手を動かしてくれ」
「冷たい……。だが、そこもいい」

 彼は俺の腹に顔を埋め、スーハ―と深呼吸を繰り返した。
 まるで猫がマタタビを吸うような必死さだ。

「……よし、回復した。ルシアンの体温補給完了。今の私は無敵だ」
「早っ!」

 彼はバッと顔を上げた。
 その瞳はギラギラと輝き、先ほどまでの疲労困憊が嘘のように生気に満ちている。
 これが……愛の力(という名の煩悩)か。

「見せつけられますなぁ」

 いつの間にか新しい紅茶を淹れていたセバスチャンが、しみじみと呟いた。
 その目元をハンカチで拭っている。

「旦那様が……人付き合いを極端に嫌がり、返信をいつも丸投げだったあの旦那様が、愛する人のためにこれほど馬車馬のように働くとは……。私、感涙で前が見えません」
「泣いてる暇があったら手を動かせセバスチャン! ラストスパートだ!」
「はいはい、仰せのままに!」

 俺たちは再び加速した。

 外では雪が本降りになっている。
 王都の鐘が、夜の時を告げた。
 世間は仕事納めを済ませ、家族団欒の時間を過ごしているだろう。
 だが、俺たちの執務室は熱気に包まれていた。
 目の前の「現実(書類)」を片付け、その先にある「理想(バカンス)」を掴み取るために。

「次! 『南方海域の海図と航路許可証』!」
「あっ……!」

 俺が読み上げた瞬間、オルドリンの手が止まった。
 彼はその書類をひったくるように受け取り、目を見開いた。

「これは……! 私が出張前に手配した、バカンス用の特別航路の許可証! ようやく届いたか!」
「え、マジで? これがないと行けなかったの?」
「ああ。これさえあれば、関所をスルーして最短ルートで島へ行ける。……よし、最優先で承認だ!」

 ドンッ!!

 今日一番の重い音が響いた。

「見たかルシアン! これで我々の勝利は確定した!」
「よっしゃあ! 残りも一気に片付けるぞ!」
「おおーっ!!」

 俺たちは雄叫びを上げた。
 もはや何と戦っているのか分からないが、テンションは最高潮だ。
 白い紙の山が、見る見るうちに平地へと変わっていく。
 その光景は、どんな魔法よりも劇的で、どんな冒険よりも過酷な、俺たち夫婦の『愛の共同作業』だった。

 外の闇が深まり、雪の勢いが増していく。
 刻一刻と、その時が近づいていた。

「止まるなルシアン! バカンスは目の前だ!」
「分かってる! 全部、全部終わらせてやる!」

 俺たちのペンは、もはや残像しか見えない領域へと突入していた。
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