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第5章 俺たちは『英雄』じゃなくて、『愛の逃避行』がしたい
第34話:除夜の鐘より早く
王都の空に、重く垂れ込めた雪雲から白いものが舞い落ちてくる。
街のあちこちからは、一年の終わりを惜しむ人々の喧騒と、新年を迎える準備の音が聞こえていた。
大晦日。この国では『送年(そうねん)の日』と呼ばれる。
街の中央広場にある大鐘楼が鐘を鳴らし始め、その音が鳴り止む時が、新年の幕開けとなる。
ゴォォォーン……。
一回目の鐘の音が、腹の底に響くように重々しく鳴り響いた。
それは、終わりの始まりの合図。
「――ッ!! あと一枚!!」
執務室に、俺の叫び声が響いた。
俺とオルドリンは、もはや人間の限界を超えた動きで最後の書類に向かっていた。
「承認! これで終わりだッ!!」
オルドリンが鬼の形相で魔力印を叩きつける。
ドンッ!!
机が軋むほどの衝撃と共に、最後の書類が光を帯びて決済完了の輝きを放った。
「「終わったぁぁぁぁぁぁぁッ!!」」
俺とオルドリンは同時に叫び、そして同時に崩れ落ちた。
執務机の上には、ペン一本残っていない。
綺麗サッパリ、完全勝利だ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
俺は床に大の字になり、天井を見上げた。
シャンデリアが歪んで見える。疲労困憊だ。指先一つ動かない。
「……勝ったな、ルシアン」
「ああ……俺たちの、完全勝利だ……」
隣で同じく床に転がっているオルドリンが、震える手で俺の手を握ってきた。
彼の体温が高い。興奮と魔力枯渇が入り混じった熱だ。
「お見事でございます」
そこへ、すでに旅支度を整えたセバスチャンが、優雅な足取りで入ってきた。
手には二人分のトランクと、温かい回復薬(ポーション)入りの紅茶が載った盆を持っている。
「あの地獄の山を、わずか一日半で片付けるとは……。クライス家の歴史に刻まれるべき偉業でございますな」
「歴史とかいいから……早く、海へ……」
俺はふらふらと起き上がった。
頭の中はすでに南国の青い海でいっぱいだ。
早く馬車に乗って、港へ行って、船に乗って――。
……ん?
待てよ。
ゴォォォーン……。
二回目の鐘が鳴った。
重く、長く響く音。
窓の外は真っ暗闇。
(……港まで馬車で3時間。船の手続きに1時間。航路は最短でも半日……)
俺の脳内で、冷静な計算式が組み上がる。
そして導き出された答えに、俺は血の気が引いた。
「なあ……セバスチャン」
「はい、何でしょう」
「エメラルド諸島行きの最終便って、何時だ?」
「日没と共に出港いたしました」
俺は固まった。
今の時刻は、すでに夜更け。
つまり――。
「……間に合ってないじゃん」
ポツリと漏れた言葉が、静寂に吸い込まれる。
「船、行っちゃってるじゃん! 俺たちが書類と戦ってる間に!!」
「ルシアン様、落ち着いてください」
「落ち着けるか! 航路許可証があっても船がなきゃ意味ないだろ! 俺たちの努力はなんだったんだよぉぉぉ!!」
俺は頭を抱えて絶叫した。
終わった。何もかも終わった。
年越しは、この寒い執務室か、あるいは人気の消えた港のベンチだ。
「――嘆くのはまだ早いぞ、ルシアン」
絶望の底にいた俺に、凛とした声が降ってきた。
顔を上げると、オルドリンが不敵な笑みを浮かべて立っている。
回復薬を一気に飲み干し、乱れた襟元を正す姿は、まさに『英雄』の風格。
「私が誰だと思っている? 『氷の伯爵』にして、国一番の魔法使いだぞ?」
「え、まさか……」
「セバスチャン、例の『書』を」
「御意」
セバスチャンが恭しく差し出したのは、古びた一冊の書物だった。
革の表紙には、見たこともない複雑な紋様が刻まれている。
「これは……?」
「王家の宝物庫に眠っていた『転移の魔導書』だ。今回の褒賞として、特別に譲り受けた」
オルドリンはパラパラとページをめくり、ある一点で指を止めた。
「ここに記された古代魔法を使えば、空間を飛び越えることができる。……まあ、制御がかなり難しく魔力の消費も激しいが」
「ちょ、待てよ! そんな危ないモン使おうとしてんのか!?」
「船旅がダメなら、飛ぶしかないだろう。どんな手を使ってでも、私は君を海へ連れて行く」
オルドリンはニヤリと笑い、俺の腰を強く引き寄せた。
「捕まっていろルシアン。……舌を噛むなよ? セバスチャン、お前もだ!」
「はい、しっかりと」
セバスチャンは両手の荷物を抱えたまま、素早く俺の背中に手を添えた。
次の瞬間、オルドリンが詠唱を口にする。
部屋中の空気がビリビリと震え、足元に幾何学模様の魔法陣が浮かび上がった。
「転移(テレポート)ッ!!」
ドォォォォンッ!
爆発のような音と共に、俺たちの体は光の中へ消えた。
◇◇◇
「うわぁぁぁぁぁ――ッ!?」
浮遊感と回転。
三半規管がおかしくなりそうな感覚の後、俺たちは「ドサッ!」と何処かへ放り出された。
「……着いた、のか?」
俺は恐る恐る目を開けた。
足元には木の感触。
見渡せば、そこは広々とした木造のテラスだった。
頭上には、屋根の代わりに満天の星空が広がっている。
そして目の前には――。
ザザァ……ザザァ……。
月明かりに照らされた、広大な海が広がっていた。
波の音が、心地よいリズムで響いている。
「ここは……」
「エメラルド諸島、最南端の小島だ。この島にあるコテージを一棟借りている」
隣でオルドリンが眼鏡の位置を直し、深く息を吸い込んだ。
「……間に合ったな」
「すげぇ……本当に一瞬だ……」
俺はテラスの手すりに駆け寄った。
暖かい。
今の王都は極寒の冬だというのに、ここはシャツ一枚でも汗ばむくらいの陽気だ。
風がヤシの木の葉を揺らす音が聞こえる。
まさに、常夏の楽園。
「旦那様、奥様。お着替えを済ませて、こちらへどうぞ」
セバスチャン(彼もいつの間にかアロハシャツに着替えている! 早い!)が、テラスのテーブルに冷えたドリンクと軽食を用意してくれていた。
俺たちは重厚な冬服を脱ぎ捨て、薄手の麻のシャツとパンツに着替えた。
開放感半端ない。
もう、あの書類の山も、締め切りのプレッシャーもないのだ。
俺たちは並んでデッキチェアに座り、トロピカルジュース(お酒入り)のグラスを手に取った。
カラン、と氷がグラスに当たる涼やかな音がする。
「……美味いなぁ」
南国の夜風に吹かれながら、俺はしみじみと呟いた。
冷えたジュースの甘さが、疲れた体に染み渡る。
「去年の今頃は、こんな美味いもん飲めなかったからな」
「……去年?」
隣でグラスを傾けていたオルドリンが、不思議そうにこちらを見た。
「ああ。……一年前の大晦日だよ。俺、屋敷を飛び出して冒険者やってただろ?」
そう。一年前の今日、俺は「プチ家出」と称して飛び出したまま、冒険者ルークとして隣街の安宿にいた。
あの頃の俺は、「旦那様は俺に無関心だし、自由最高!」と浮かれていた。
冷え切った部屋で、安酒と串焼きを齧りながら、『これも冒険の醍醐味だぜ』なんて強がって年を越したのを覚えている。
「あの時は『自由だー!』って叫んでたけどさ。……今思えば、どっか虚勢張ってた気もするんだよな」
俺は苦笑しながら、グラスの中の氷を回した。
「一人で飲む酒より、こうして二人で飲むジュースの方が、何倍も美味いし」
「……ルシアン」
「それにさ、ふと思ったんだけど」
俺は体を起こし、オルドリンの方を向いた。
「俺が外で好き勝手やってた時……アンタ、屋敷で一人だったんだよな?」
オルドリンの動きが止まった。
彼は視線を泳がせ、気まずそうに目を伏せた。
「……まあ、そうだな。使用人たちはいたが」
「そういう意味じゃなくてさ。……家族がいなかったってことだ」
想像してみる。
広いダイニング。豪華な食事。
けれど、向かいの席には誰もいない。
俺が「生きてます」という素っ気ない手紙を送りつけている間、彼はたった一人で、静まり返った屋敷で新年を迎えていたのか。
(……うわ、なんか俺、すげー酷いことしてないか?)
当時は「お互い様だろ」と思っていた。
でも、彼が最初から俺を想ってくれていたことを知った今となっては、その行動はあまりに残酷だ。
待たされる側の気持ちなんて、これっぽっちも考えていなかった。
「……悪かったな」
俺は素直に頭を下げた。
「アンタを一人にして。……寂しい思いさせて、本当にごめん」
「えっ、いや……君が謝ることでは……」
「いや謝らせてくれ。俺がガキだった」
俺は彼の膝の上にある手に、自分の手を重ねた。
「『自由』ってのは、誰かを孤独にすることじゃないもんな。……今更だけど、反省してる」
俺が真剣な顔で言うと、オルドリンは目を丸くし、それからふわりと柔らかく微笑んだ。
責める色など微塵もない、穏やかな笑顔だ。
「……気にするな。あの時間は、私にも必要だった」
「必要?」
「ああ。君がいない寒さを知ったからこそ、今、こうして隣にいてくれる暖かさが……骨身に染みて分かる」
彼は俺の手を、両手で包み込むように握り返した。
「去年の冬は、確かに地獄のように寒かった。……だが、今年の冬は天国だ」
「オルドリン……」
「君が帰ってきてくれた。私を受け入れてくれた。……それだけで、過去の寂しさなど全て帳消しだ」
彼の言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
なんて心が広いんだ、この男は。
俺の身勝手な家出さえも、「今」に繋がる過程として受け入れてくれている。
「……そっか」
俺は照れ隠しに鼻をこすった。
やっぱり、俺の旦那様はかっこいい。
この人の隣にいられることが、俺にとって一番の「自由」であり「幸福」なんだな。
「……ありがとな」
俺は彼の手をギュッと握った。
「約束するよ。……もう二度と、アンタを一人にはさせない」
「……本当か?」
「ああ。俺の居場所はここだ。……アンタの隣以外、行くつもりはない」
これは、俺の人生を賭けた誓いだ。
もう逃げない。迷わない。
この不器用で、愛が重くて、最高に優しい男と一緒に生きていく。
「……嬉しいな」
オルドリンが、感極まったように目を細めた。
「来年も、再来年も……十年後の今日も、こうして隣にいてくれるか?」
「当たり前だろ。……じいちゃんになっても、一緒に冒険するんだろ?」
「ふふ。そうだったな」
俺たちは笑い合った。
過去の精算は終わった。
俺たちの間にはもう、わだかまりも、遠慮もない。
カラン、カラン、カラン……!
遠くの神殿から、鐘の音がひときわ高く、連続して鳴り響いた。
日付が変わったのだ。
新しい年が来た。
「……明けましておめでとう、ルシアン」
「明けましておめでとう、オルドリン」
俺たちはグラスを軽く合わせた。
チン、と澄んだ音が波音に溶けていく。
「今年もよろしく頼むよ、最高の相棒」
「ああ。……君が望むなら、地の果てまでも」
遠くでは、新年を祝う花火が上がり始めていた。
パンッ、パパンッ!
夜空に咲く大輪の光が、海面を七色に染める。
「……さて。しんみりした話は終わりだ」
オルドリンはニヤリと不敵に笑った。
その瞳には、すでに別の種類の熱――もっと本能的で、情熱的な炎が宿っていた。
「せっかくの南国だ。……去年の分まで、たっぷりと愛させてもらうぞ?」
「……お手柔らかに頼むよ、旦那様」
遠くで打ち上がる花火の光が、二人の影を一つに重ねていた。
俺たちの新しい一年は、きっと去年よりももっと騒がしく、そして甘いものになるだろう。
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