遠くのあなたを掴みたい

鹿嶋 雲丹

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第42話 落書きだらけの校長

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 気がつくと、我が家のものではない天井が、ぼんやりと目に入った。
 見覚えはある。これは、学校の保健室の天井だ。
 なぜ……私はここにいるのか……それに、やけに頭がぼーっとしている……今、何時だ?
 私は腕時計を見ようとして、違和感に気がつく。
 手首が動かない。いや、動かないのは体全体だ。
「もがっ、もがもが⁉」
 なんてことだ、口まで塞がれているではないか!
「あら、意識戻りました?」
 シャッと真っ白なカーテンが開き、人が近づいてくる。
 声を聞くだけでわかる……このハスキーな声は、養護教諭の林君のものだ。
 どういうことなんだ、これは⁉
「良かったですね、ようやくこれで清算することができますよ」
 天井をバックに、林君がにっこりと笑って言った。
 相変わらず綺麗だな……とか考えている場合じゃない。
 清算と言ったな?
 ……まさか、林君は例の事を知っていると?
 ……いや、それより私をこんな目にあわせたのはこいつなのか⁉
 いったい、なんの為だ!?
「まずは、あなたの今の状況をお伝えしましょう。現在、時刻は夜中の二時。ここは保健室、そして今日は土曜日です」
 土曜日……土曜日!
『あなた宛の手紙です』
 幸恵から妙な手紙を受け取ったのは、確か木曜の夜のことだ。私は喉と腹の調子が悪く、学校を休んでいた。
『なんだこれは……』
 私は幸恵から手紙を受け取りつつ、去年の文化祭の時に謎の人物から受け取った、カタカナが並んだあのメモを思い出していた。
 抜けそうで抜けない小さな棘のように、いつまでも意識に残るあのカタカナの羅列。

 アノコトヲゼンブバラソウトオモウ

 あのこと、には心当たりがありすぎて、どのことかわからなかった。
 だが、松田智子をどうにかしたのは私じゃない。
 三上だ。三上がやったんだ。私は何も知らない。

 ツギノドヨウビゴゴロクジホケンシツデマツ

 今回は……次の土曜日、午後六時、保健室で待つ……なんだって、保健室だと⁉
 間違いない、手紙を送りつけてきた奴は、私が保護者としている後ろめたい事実を知っているのだ。
 まさか、東條が?
 教諭を辞めたのは自分の意思だというのに、まさか根に持ってるのか、あいつ……
『くだらん』
 私はその手紙をぐちゃぐちゃに丸め、ゴミ箱に投げ捨てた。
 大丈夫だ、東條にも今まで行為に及んだ母親からも、訴えられるはずがない。
 あれは、双方同意の上のものなんだから。
 それに、幸恵には私の不貞行為を咎める度胸などないしな。
 キリキリ、キュルキュルと腹が痛んだ。
 昨日から家にある常備薬を飲んでいるが、まったく効き目がない。
『もう、薬を飲んで寝る!』
 私はいつもの胃腸薬を幸恵から受け取り、ベッドに入った……
 それが、私の最後の記憶だ。
 ということは、金曜まるまる一日分の記憶がないということになる。
「まあまあ、とりあえず自分の顔でも見てくださいよ」
 なにがおかしいのか、林はニヤニヤ笑いながら、身動きのとれない私に見えるように鏡を差し出してきた。
 私は目を見開いた。
 そこに映る、どす黒いやせ細った顔に、ではない。
 顔中に所狭しと書かれた黒い文字にだ。
 どスケベ。ヘンタイ。エロオヤジ。キモい。バカ。クタバレ。
 私を蔑むそんな言葉が、まるで色紙の寄せ書きのように、隙間なくみっちり書かれている。
 こんなことをされても目が覚めなかったとは、ただ事ではない。
 私は、睡眠薬でも飲まされたのだろうか……そうとしか考えられない……まさか、幸恵から受け取ったあの薬が?
「身に覚えがあるから、落ち着いていらっしゃるんですねぇ……大の男二人を同時に運ぶのは骨が折れますから、あなたを先に運ぶことにします」
 運ぶ? いったいどこに?
 シャッと再びカーテンが開き、人の気配が近づいてきた。
「私、わりと潔癖症なんですよね……この人、気持ち悪いから触りたくないないんだけどな……」
 その声は田口!
 まさか、この二人はグルなのか⁉
「むが! もがもがむが!」
「林先生、クズがなにか言っていますよ」
 クズだと⁉
 お前は、校長の私をクズ呼ばわりするのか!! 
 くそ、田口ごときが……見てろよ、お前なんかすぐクビにしてやる!
「うるさいから、落としておきます。私も触りたくないので、田口先生の気持ち、よくわかりますよ」
 林の声だ……な、なにをする……
 首に圧迫感を感じた、と同時に意識が遠のいた。
 三上……頼りになるのはお前だけだ……
 助けてくれ……頼む……
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