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魔の手_10

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 コーヒーをひと口飲んでから、直己は私を心配そうに見上げた。

「聞いたよ」

 黒々とした表面に白いクリームの渦が回るのを見つめ、直己はそう口火を切った。

「橘だろ、さっきの男」

「どうして、知ってるの?」

「あいつから……成瀬から聞いた」

「成瀬くんから?」

「杏が、同じ職場の男からストーカー被害に遭ってる。しかも教育長の息子」

 まさか成瀬くんが直己に話をしてるなんて思ってもみなかった。

「どうして言ってくれなかったんだ」

 抑えきれないように直己が唇を噛んだ。

 言えるわけない。

「成瀬に頼まれたんだ。このままだと杏が危険だから、今日と明日、杏の周りに気をつけてくれないかって。こっちは仕事がある。実習生みたいに適当に休んだりできないんだよ。それに、なんで成瀬からそんな話聞かされなきゃいけない?」

 コーヒーが苦いかのように直己は顔を歪めた。

「ごめんなさい……」

「いや……ごめん。別に杏が謝ることじゃない。杏は被害者なんだから。でも、……いや、いい。みっともないわ、こんなオレ。杏が辛い時に、腐ってるんじゃ話にならないよな」

 苦笑した表情を引き締めて、直己は自分を落ち着かせるようにコーヒーを忙しなく口に運んだ。

「さっきの、橘光基みつきだろ? 成瀬から聞いて、まさか杏の職場にいると思ってもみなかった」

「どういうこと? 橘先生を知ってるの?」

「直接は知らない。でもけっこう有名人なんだよ。悪い意味でね」

「有名ってどういう?」

「要注意人物なんだよ。大学ん時から、なまじモテたみたいで、教職ついた先輩とかから聞かされるくらい派手に食い散らかしてたらしくてさ。で、親父が偉いだろ。だから親の威光笠に着てやりたい放題っていう、まあわかりやすいタイプではあるんだけど。
 何かない限り、近づかない方がいいっていわれてたんだ。化学が担当科目らしくて、それだと薬も手に入れられるだろ、本当にヤバいことしてるって。
 実際、成瀬から、橘光基のことを調べてくれって頼まれてオレも知ったけど、あの男、転勤がやけに多いんだよ。3年以内、下手すると1年で異動してる。たぶん教職就いてからも学生気分が抜けずにそういうことしてきたんだろうと思う」

「全然、知らなかった……」

「まあ、杏は教育とは関係ない派遣から臨採っていう、ちょっと教職就くルートが別だったし、まだ勤務して日も浅いから、知らないのは当然だよ。でもさすがに、今日の見ると……。常軌逸してるから、警察に相談した方がいい。もう何かあった状況なんだから、説明すれば警察も動いてくれるはずだ」

 直己はそう言うけれど、たぶんそんな簡単に済む話じゃない。

 そうだったら、あんなふうに生徒に迫っているような教師が今までのうのうと教師をしてこられない。
 警察にも教育長という顔が利く可能性だって否定できない。

「……そうだね、警察、相談してみようかな」

 半分諦めつつも、直己の言葉を肯定したくてついぽつりと言うと、直己が険しい顔つきになった。

「みようかな、じゃない。あれ見たらそんな悠長なこと言ってる場合じゃない。今日明日はいちおうオレがついてられるけど、さすがに明後日までは無理だ。成瀬が実習休んでまで、いろいろ打開しようと走り回ってるけど、スムーズにすべてがうまくいくかなんてわからない。それにあいつだって実習をこれ以上犠牲にするわけにいかないだろ。こんなことしてたら」

 私が驚いて目を見開いているのに気づいて、直己が言葉を切った。
 成瀬くんの欠勤がそのためなんて全然、知らなかった。
 
「知らなかったのか……」

 頷いた。

 今すぐにでも、成瀬くんに会いたかった。
 ありがとう、の言葉の代わりに彼を抱きしめられるなら。

「でも打開するってどういう……?」

「……詳しくはオレもわからないけど、ただ、目的は、橘光基を教職から引きずりおろす」

「成瀬くんは今、橘先生の過去を洗ってるんだよね? それと関係してる? 今の話」

「過去? ……ちょっと待って杏。オレ、成瀬がそれ調べてるとは、言ってないよな? オレが調べた……とは言ったけど」

 鋭い指摘に息を飲んだ。
 私の言葉は、橘先生がそう言ったからだった。
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