ヨクに溺れる

新月ポルカ

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出会い

第六話 望みの神

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 食事が終わり、二人の間に残ったのは、食器と、先ほどまでヨクが語っていた真理の神の屈辱的な話の残滓だった。

「どうせ朝ごはんもうちで食べていくんだろ」

 リューエは、空になった皿を重ねながら、抑揚のない声で言った。それは疑問ではなく、長年の習慣が形作った確信だ。

「お風呂、沸いてるから。入ったら」

 ヨクは、運んだ食器を流れるように受け取ったリューエを見つめ、口角を上げた。

「ん、ありがとうリューエ。助かるよ」

 彼はその親しい空気感を、息を吸うように自然に受け止めた。ヨクにとって、リューエの家で食事を摂り、そのまま一夜を過ごすのは、長らく続いている日常の一部だった。
 それは、性欲や承認欲求のように特定の欲を満たす行為ではなく、ただ単に、そこにあるものだ。

 ヨクは、ひらりと薄布の衣装を脱ぎ捨てると、浴室へと向かった。
 静かになった台所で、リューエは皿を濯ぎながら、物思いに沈んでいた。

 ──真理の神、ルクシス。

 審判領域の神々は、およそ感情とは無縁の、堅牢な存在だ。そんな審判領域の神の中に生まれた歪な感情の塊を、物理的な快楽という「発散」の形に変える。
 それは最もヨクに適した、そして最も残虐な治療法。

 リューエは、白く滑らかな皿の感触を感じながら、先程ヨクが楽しげに話した内容を反芻する。プライドの高い神が、屈辱に喘ぎ、快楽に溺れた様。
 その光景を想像するだけで、リューエの心臓の奥が冷たく締め付けられる。他の神が、ヨクの持つ甘い力を得て、歓喜と屈辱に歪む。それが、堪らなく不愉快だった。

「……僕だけを、見てくれればいいのに」
 

 ──その時だった。
 リューエの腹部の奥、神力の根源から、どす黒い熱が湧き上がるのを感じた。

「……っ!」

 突然、他者から流れ込んできた、粘着質で強力な「望み」。
 誰かが抱く虚飾に満ちた承認欲求だった。他人から羨望されたい、自分の功績を世界中に知らしめたいという、限界を超えて肥大化した渇望。

 リューエは「望みの神」。他者の望みが集まる場所。
 その望みが器に注がれると、彼の神格は、制御できないまま、それを叶える方向へと世界を引き寄せようとする。

「……ぁ、ぐッ!」

 身体の奥底から、熱が込み上げてくる。神力が急激に消耗されていく際の、抑えがたい興奮。心臓が早鐘を打ち、全身の血液が熱を持って逆流する。これは、誰かの望みを叶えようとして、自分の力が勝手に使用されているという、彼にとって最も不本意で、最も耐え難い現象だった。

 リューエの身体が、微かに震える。理性が崩壊する前の、ぎりぎりの抵抗。彼は持っていた皿を流しの縁に戻そうとしたが、覚束ない指先から、皿は無情にも滑り落ちていく。

 ガシャンッと、硬い白磁が砕ける大きな音。

 リューエは、その場にうずくまるしかなかった。胸を鷲掴みにされたような苦しさ、そして神力の奔流に耐える、静かな喘ぎが、台所の床に染み込んでいく──



 ***



 ヨクは、三つ編みの解かれた赤とピンクの髪を、薄い布で無造作に拭き上げていた。その肌は、湯気と熱で上気し、白磁の肌に艶めかしい光沢を帯びている。

 その時、ガシャンという耳を劈く音が響いた。
 ヨクは即座に長い髪を肩に流し、素っ裸のまま浴室の扉を蹴るように開け放ち、リビングへと向かった。
 視界に飛び込んできたのは、割れた皿とカトラリーが散らばるキッチン、そして床にうずくまっているリューエの姿だった。

「リューエ!」

 ヨクは迷いなく割れた破片を避け、リューエの背中へ駆け寄った。

「大丈夫?また誰かの望みを受け取ったの?」

 ヨクは慣れた手つきで、小刻みに震えるリューエの背中を、優しく、繋ぎ止めるようにしっかりと撫で始める。

「大丈夫、大丈夫だよ。オレがなんとかしてあげる。 ほら、落ち着いて…息を吸って……」

 ヨクの言葉は、リューエの焦燥した心を宥める。彼は、他者の欲を読み取り、操る神だ。今、リューエが必要としているのは、興奮ではなく、神力消耗による不安を打ち消す、安心欲だった。
 ヨクが背中を撫でる度に、リューエの呼吸の乱れが少しずつ整っていく。急激に高まった体温も、ヨクの持つ欲の神特有の優しい熱によって、穏やかに鎮静されていった。

「は、ぁ……ッ、……ヨク……」

 リューエの喉から漏れた声は、か細く、疲れ切っていた。

「うん、偉いね、よく耐えた」

 ヨクの行為は、リューエの安心欲を最大限に高める代わりに、睡眠欲を犠牲にする。
 真理の神の膨らんだ支配欲と秩序欲を性欲にすげ替えたように、足りない安心欲を睡眠欲から補ったのだ。

 ヨクは、背中を撫でる手を止めると、汗で張り付いたリューエの髪をそっと払った。

「ほら、落ち着いた。よかった」

 ヨクはそう言って、床に散らばった破片を静かに集め始めた。
 リューエは、目を閉じたまま、震えが治まったばかりの身体を微動だにさせない。

「……眠くなくなっちゃったよね」

 ヨクの口調は、いつもの軽妙さから一転し、静かな優しさを帯びていた。

「添い寝してあげるから、お風呂に入っておいで。一緒に寝よう」

 欲の神は、睡眠欲を満たすための添い寝と子守唄がとてつもなく上手い。
 それは彼が、昔からリューエに無償で与える、純粋で、最も優しい欲の満たし方だった。
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