ヨクに溺れる

新月ポルカ

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出会い

第七話 睡眠欲と食欲

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 冷たい床に散乱した破片をヨクに任せ、リューエは湯を張り直した風呂に静かに身を沈めた。神力消耗による疲労と、ヨクに与えられた安心欲のせいで、身体は鉛のように重い。

 リューエが寝室に戻った時、すでにヨクは簡素なベッドの上で横になっていた。彼は浴後も素のままで、瑞々しい肌にシーツを纏わせるように横たわり、解かれたままの髪は枕元に水紋のように広がっている。

「おかえり、リューエ。お布団温めておいたよ」

 ヨクは片肘をつき、軽やかに言った。その瞳は夕焼けの色を帯び、戯れのような優しさを湛えている。

「その誰彼構わず抱く節操のない体温で?有難迷惑だ」

 リューエは皮肉を込めた言葉を放ちながらも、静かにシーツの中に身を滑り込ませた。湯上がりに冷えた肌が、ヨクの体温によって温められた場所を求めていく。

 ヨクはリューエの皮肉を特に気にした様子はなく、シーツを整えながら、明るい声で提案した。

「子守唄はいる? 早く眠れるよ」

「……結構だ。君の歌は、妙に生々しいくせに眠くなるから、夢見が悪くなる」

「あれ?そうだったの?知らなかったな……」

 ヨクは突然知らされた事実に驚いたようにぱちぱちと瞬きをするが、すぐに穏やかな微笑みに戻る。彼は文句を言うリューエの頭の下にそっと自分の腕を滑り込ませ、腕枕の姿勢をとった。

 そのままリューエの背中に手を回し、ゆっくりと、一定のリズムでトントンと叩き始める。
 その仕草は、まるで小さな子供を寝かしつける親のようだった。

 ヨクの表情から、いつもの軽妙さや、誰に対しても垂れ流しているような色気は、完全に消え失せている。そこにあるのは、ひたすらに穏やかで、深く、温かい慈愛の色。

 リューエは、その滅多に見ることのない慈愛に満ちた表情を、静かに見上げた。

 この「特別」な安らぎを、自分だけが享受しているという事実が、リューエの内に優越感を広げる。しかし、同時に、その表情が「恋愛」という名の情欲を含まず、単なる献身として向けられている現実を、否応なく突きつけられる。

「明日の朝ごはんはオレが作るよ。だから楽しみにして、そのまま眠って」

 ヨクは静かに囁いた。その声は優しく、子守唄のように鼓膜を撫でる。
 安心感に包まれ、抵抗する術を失ったリューエの意識は、急速に闇へと沈んでいった。

 全てが静寂に包まれた後、ヨクはそっと腕を抜き、眠るリューエの顔を覗き込んだ。

「おやすみ、リューエ」

 その言葉は、秘密の呪文のように、静かに夜の闇に吸い込まれた。


 ***


 翌朝。
 リューエが目を覚ますと、隣のベッドにヨクの姿はなかった。残されたのは、わずかに温かいシーツのくぼみだけ。

 だが、その寂しさはすぐに、キッチンの方から漂ってくる、焼けた油と香草の瑞々しい匂いによって打ち消された。

 鼻歌が聞こえてくる。それは聴いたことのない調子の、気取らない旋律だった。陽気にねじ込まれた幸福に、顔が不恰好な笑みを浮かべて歪むのをリューエは自覚する。

 リューエはゆっくりとベッドから身を起こし、その匂いと鼻歌に導かれるようにリビングへと向かった。
 キッチンに立っていたのは、いつものヨクだった──トンチキな服装を除けば。

 赤とピンクのグラデーションの髪。肌が多く露わになった薄布の衣装。そのうえに、純白の可愛らしいフリルのエプロンが結ばれている。

「あ、リューエ、おはよう! もう少しでできるよ」

 ヨクは振り返り、満面の笑みを向けた。

「……そのエプロンに、一体何の意味があるんだい」

 リューエは呆れたように口を開いた。彼の露出が多い服装が完全にエプロンで隠されているせいで、裸にエプロンを巻いているようにしか見えない。

「気分だよ、気分。テンション上がるだろ?」

「見せられた方は少し食欲が失せるよ……」

 ヨクはケラケラと笑いながら、慣れたように出来た料理を皿によそっていく。
 欲の神であるヨクは、根源的欲求である性欲を満たしたり、添い寝で眠らせるのが上手いように、料理という行為も食欲という根源的な欲求に直接語りかけるように極めて上手い。
 それは、彼が欲の神として、生命の渇望を知悉ちしつしているがゆえの、天賦の才だった。

 先に食卓についたリューエの前に運ばれてきたのは、宝石のように輝く色鮮やかな果物と、完璧な焼き色のついたパン、そして、皿の上でソースの香りを立てるハーブ入りのオムレツだった。

「……お腹すいた」

「あはは、欲の神冥利に尽きる言葉だね。庭のハーブ、少しもらったよ」

 ヨクも椅子につき、食事を始める。ふわふわのオムレツがナイフを進めるごとに柔らかなハーブとバターの香りを鼻腔に届ける。
 フォークを口に運びながら、リューエはさりげなく尋ねた。

「それで、ヨク。今日の予定はどうなっているんだ?」

 その問いは、表向きは単なる世間話だ。だが、その裏には、「君がまた誰かを抱いて、僕が苦しむ可能性を事前に計算したい」という保身的な計算高さが含まれている。
 ヨクはオムレツを口に入れ、満面の笑みで頷いた。

「んー、今日は特に決めてないよ。フラフラして、どこかで欲が過剰に膨らんでる神を探すくらいかなぁ」

 ヨクはそう言って、再びパンを口に運ぶ。
 彼の予定は曖昧で、誰にでもオープンだ。その無警戒さが、リューエの心にまた、重く澱んだ影を落とすのだった。
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