ヨクに溺れる

新月ポルカ

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番外編

《リューエ》聖夜の贈り物 -後編-

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 神殿の入り口を抜けた瞬間、暴力的なまでに芳醇な「欲」の香りがリューエを包み込んだ。鼻腔を愛撫するように漂う、脂の焼ける香ばしい匂いと、果実が煮詰まった濃密な甘さ。つい先ほどまで冷え切っていた石造りの空間は、今やヨクが持ち込んだ生命の熱で満たされている。

 手にした贈り物を誰にも見られぬよう、彼はあえて気配を消して自室へと向かう。寝台の奥、自分しか触れない聖域にそれを隠し、乱れた呼吸を整えてから、香りの源泉──キッチンへと足を向けた。

「あ、リューエおかえり! 外の飾り、すごくカラフルでいい感じだね!」

 そこには、もはやリューエの知る静謐な神殿の面影はなかった。

 テーブルの上を埋め尽くすのは、色彩の洪水だ。
 真っ白な雪原のような皿の上で笑う、愛らしい雪だるまのチーズ。鮮やかなピンクペッパーとハーブが、図らずもリューエが庭に施した色と同じ赤と緑を演出し、滴る肉汁とともに鎮座するローストビーフ。一口サイズのオードブルは、よく見れば角の生えた……鹿だろうか?奇妙なほど愛嬌のある姿をしている。そして、年輪を刻んだような切り株のケーキ。

 呆気に取られ、立ち尽くすリューエの前に、最後に運び込まれたのは黄金色に輝く鳥の丸焼きだった。ヨクがそれを恭しく中央に据え、達成感に満ちた顔で汗を拭う。

「……二人で食べ切れるのか、これだけの量を」

「食べきれなかったら、明日の朝食べればいいさ!」

 にこにこと、一抹の迷いもなくヨクは言った。
『明日の朝』。
 その言葉がリューエの胸の内に、じわりと熱い蜜を垂らす。ヨクにとって、今夜をこの場所で共に明かすことは、疑いようのない確定事項なのだ。他の誰に求められようとも、今夜のこの男は、自分のためだけにここに居続ける。
 その事実だけで、リューエの内に淀んでいた倦怠感は霧散し、代わりにどろりとした、深い満足感が喉元までせり上がってくる。

「……ふん。相変わらず、加減というものを知らないな、君は」

 皮肉を装いつつも、リューエはその指先に促されるまま食卓についた。
 燭台に灯された炎が、ヨクのオレンジ色の瞳を熱っぽく、艶やかに照らし出している。

 二人きりの、閉ざされた聖夜の晩餐。
 外で吹き荒れる雪も、耳障りな下界の祈りも、今はもう厚いカーテンの向こう側の出来事だ。

「さあ、冷めないうちに食べちゃおうよ、リューエ!」
 差し出されたグラスの中で、重厚な琥珀色の酒がゆらりと揺れた。



 ***



 楽しい食事は、リューエの五感を執拗に苛んでいた倦怠を、鮮やかな快楽へと塗り替えていった。
 あれほど暴力的な量だと思われた品々も、気づけば皿の底が虚しく白を晒している。欲の神がその神格を注ぎ込み、徹底的に「食」を謳歌させるために作り上げた毒──否、薬。それに抗う術など、最初からリューエには残されていなかったのだ。

「……っ、食べすぎた。苦しい……」

 リューエは行儀悪くソファに身を投げ出し、重くなった身体を沈めた。
 カチャカチャと、硬質な磁器が触れ合う音がキッチンから響く。
 ヨクは手際よく空の皿をまとめ、流しへと運んでいく。普段の軽率な姿からは想像もつかないほど、その背中は家庭的で、どこか献身的だった。

 普段なら自分も手伝うべきだと考えるリューエだったが、今夜は、指一本動かすことすら億劫だった。いや、動きたくないのではない。ヨクに、甲斐甲斐しく「世話を焼かれる」という状況が、麻薬のように心地よかった。

 ソファに寝そべったまま、半ば蕩けた視線でヨクの背中を追う。
 慣れた手つきで次々と皿を洗うヨク。その無防備な後ろ姿、うなじにかかる薄紅の髪をぼんやりと見つめていると、視線に気づいたヨクが、濡れた手のままくるりと振り返った。

「あはは、そんなにじっと見つめられると穴が開いちゃうよ。 湯は沸かしておいたから、先に湯浴みしてきたら?」

「……ああ、そうさせてもらうよ」

 促されるまま、リューエは重い腰を上げた。温かな湯気が満ちる浴室へと向かい、静かに湯船に身を沈める。

 やがて浴室を出て、脱衣所で湿り気を帯びた髪を乾かしている時だった。
 控えめなノックすらなく、扉が唐突に開く。

「なんだ、もう出ちゃってたか。残念」

 入ってきたヨクは、ちっとも残念そうではない軽妙な声を上げながら、ためらいもなくその場で服を脱ぎ始めた。

「……っ、君は、相変わらず礼儀というものを知らないな」

 呆れ混じりに言いながらも、リューエの視線は吸い寄せられるようにヨクの身体をなぞる。

 薄布が滑り落ち、露わになったのは、白磁のように滑らかな肌。幼馴染というあまりに近すぎる距離感が麻痺させているが、それは紛れもなく、数多の神々を狂わせる「欲」の権化の身体だった。

 視線に気づいたヨクが、自分の腹部を隠すようにしてふにゃりと笑う。

「あーっ、もう。そんなにマジマジ見ないでよ。今日はいっぱい食べたから、ちょっとお腹出てる気がする」

「……ふん。お互い様だろ。君があれだけの量を並べたからだ」

 欲の神らしからぬ、あまりに人間臭く、格好のつかない抗議。リューエは毒づきながら、鏡の中の自分たちの姿を瞳の奥に刻み込んだ。
 外では飄々と、あるいは色っぽく、「欲の象徴」として振る舞うこの男が、こうして格好もつけずに腹をさすって笑っている。そのあまりに無防備で、情けないほどに愛らしい姿を知っているのは、自分だけなのだ。

 その優越感が、リューエの胸を温かく、そして暗く満たしていく。自分を納得させるように深く息を吐き、リューエはヨクの隣を通り抜けて脱衣所を後にした。




 ***


 湯浴みを済ませ、ほかほかと柔らかな熱を纏ったヨクが寝室に現れたとき、リューエは既に幾度目かの深呼吸を繰り返していた。
 髪から微かに立ち上がる石鹸の香りと、湿り気を帯びた暁光色の髪。彼は当然のようにリューエのベッドに潜り込み、今日一日の出来事を愛おしそうに語り始める。

「……そういえばさ」

 リューエは、心臓の鼓動が悟られぬよう、わざとらしく天井を仰いでから、隠しておいた包みを取り出した。

「これ、プレゼント……。一応用意しておいた。……いらないなら、僕が使うから。別に、大したものじゃないしね」

 差し出された包みに、ヨクのオレンジ色の瞳が弾けるように輝いた。

「えっ、プレゼント!? リューエ、オレにくれるの? 何々、開けてもいい?」

 リューエが張り巡らせた臆病な予防線など、今のヨクには届かない。
 ワクワクとした無邪気な手つきで、丁寧なラッピングが解かれていく。カサカサと小気味よい音が止み、中から現れたのは、淡いミントグリーンの、吸い付くような手触りの枕だった。

「わぁ……! オレ、今使ってるやつ、ちょっと中身がへたれてきちゃっててさ。丁度、新しいの欲しいなーって思ってたんだ! すごいねリューエ、何でわかったの?」

「……君は、僕を何の神だと思っているんだ?」

 鼻を鳴らして答えたが、その実、リューエの心臓は高鳴っていた。権能を私欲のために使い、君の睡眠の質まで覗き込んだなどと、口が裂けても言えない。
 けれど、その枕に頬を寄せ、蕩けるように笑うヨクの姿に、リューエの内の歪な執着は静かに満たされていく。

「へへ、嬉しいな。今日はこれで一緒に寝ようか!」

 ヨクは広大な寝台のど真ん中に、贈られたばかりの枕を置いた。当然のように二人の境界を消し去るその仕草に、リューエの喉が小さく鳴る。

「オレからもプレゼントがあるんだ。はい、これ」

 不意にヨクが懐から取り出したのは、薄いラッピングの施された小さな袋だった。受け取ったそれは、ヨクの体温を吸ってひどく温かい。
 封を解き、中から現れたのは、羽毛のように軽いナイトグローブだった。

「リューエは夜、いつも手先が冷たいから寝つきが悪いだろ? だから、深く眠れるようにね」

 そう言いながら、ヨクはリューエの細い手を取り、自らの温かな手で包み込んだ。吸い付くような肌の熱が伝わり、リューエの心臓がまた一つ跳ねる。ヨクは甲斐甲斐しく、その上質なグローブをリューエの手に嵌めてやり、その上から、節くれだった指を一本一本、丁寧に、ねっとりと揉み解し始めた。

「……っ、おい……」

「ふふふ。オレ、こういうの得意なんだよ。ほら、力抜いて……。……そう、上手」

 ──他の誰かにも、こう言うことをしているのだろうな。
 一瞬、どろりとした嫌悪に近い独占欲が脳裏を過る。自分以外の誰かが、この欲の神の手技に蕩かされている光景。けれど、掌から全身へと伝わってくる甘やかな痺れが、そんな疑念を強引に拭い去っていく。

 凝り固まった神経が甘やかに溶かされ、手先から全身へと心地よい痺れが回りはじめる。リューエの内に渦巻いていた苛立ちや独占欲さえも、そのリズムに合わせるように、凪いでいった。

「……君は本当に、こう言った方面ばかり無駄に技術力が高いよね」

 刺々しい言葉とは裏腹に、リューエの瞼は重く沈んでいく。ヨクはふふっと喉を鳴らして笑うと、うとうとし始めたリューエの細い肩を抱き寄せ、そのままゆっくりとベッドの海へと誘った。

「ほら、一緒に寝よ。この枕、本当に最高だね、リューエ」

 ヨクはリューエからもらったばかりの、新品のふかふかな枕に二人で頭を乗せた。ミントグリーンと赤、二人の色がシーツの上で重なり合う。

 外ではまだ喧騒が止まないのかもしれない。けれど、この厚いカーテンの向こう側にあるのは、たった一人の幼馴染と、穏やかな満足感、そして微睡みという名の極上の快楽だけだ。

「……おやすみ、リューエ」

「……ああ……おやすみ、ヨク」

 欲の神に抱きしめられ、望みの神は、これ以上ないほど満たされた眠りへと落ちていった。
 聖なる夜の灯火が消える頃、神殿には二人の穏やかな寝息だけが、静かに、執拗に響き続けていた。
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