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番外編
《アナンカリオ》バレンタインに溶けるブラウン-前編-
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二月十四日。
下界に満ちる情動は、天界の端座にまで卑俗な熱を帯びて伝わってくる。
アナンカリオは、その銀の髪を苛立たしく掻き上げた。視界の端で、無数の「運命の赤い糸」がピリピリと震え、引き絞られている。
誰かが誰かを想い、焦がれ、甘い菓子を介してその縁を繋ごうとするひたむきな欲望。それらが束となって運命の神の指先を、望んでもいないのに弾いていた。
「ああ、くそ。どいつもこいつも、たかだか菓子一つで運命が変わると思ってんのかよ……」
舌打ちとともに吐き出した吐息が、冷涼な空気の中で白く濁る。本来なら、この鬱陶しい糸の震えを適当に結びつけてやるか、あるいは面倒になって断ち切ってやるのが、これまでの彼の過ごし方だった。
だが、不意に、その荒っぽい思考の端を一つの影が掠めた。
あの、捉えどころのない、桃色の髪を揺らす神。欲の権化。
「……そうだ。あいつなら、こういう浮ついた快楽には目がないだろ」
閃きは、狡猾な言い訳を伴って脳内に根を張った。
これは決して、愛だの恋だのという、下界の連中が振りまく感傷ではない。
あいつを攻略するための、いわば「戦術」だ。
常に先手を取られ、その色香と技術に屈してきた屈辱的な敗北の数々。今度こそ、あいつの余裕を奪い、あの薄い唇から驚きの声を上げさせてやる。
そのためには、この「バレンタイン」とやらの風習を逆手に取るのが、最も効率的な運命の攪乱になるのではないか。
しかし、いざ手土産をとなると、用意周到に準備するような柄ではない。
アナンカリオは官公庁の無機質な食堂へと足を向け、棚に並んだ愛想のない包みをいくつか掴み取った。それは神官たちが仕事の合間に、ただ栄養を摂取するためだけに噛み砕く、驚くほど色気のない高濃度のカカオ。
「……ま、これでいいか。どうせうめぇもんに調理してくれるだろうし」
指に挟んだ銀紙の感触は、どこか冷たく、硬い。
舌が痺れるほどに苦い、この鉄の味にも似た塊。
これをあの、蕩けるような甘い毒を吐く唇に放り込んだ時、一体どんな顔をするのか。
想像するだけで、腹の底が熱を帯びる。
運命の糸を無造作に捌きながら、アナンカリオは軽快な足取りで欲の神殿へと向かった。
***
ヨクの神殿には、心を閉ざすような重い扉や鍵が存在しない。
主の気質をそのまま形にしたような、風通しの良すぎる廊下を、アナンカリオは慣れた足取りで突き進む。何度も「再戦」を挑み、そのたびに返り討ちに遭ってきた場所。
もはや自分の寝所よりも構造を理解しているかもしれないという事実に、微かな忌々しさを覚えながら、アナンカリオはヨクの寝室の扉を荒々しく開け放った。
「おい、いるんだろ」
突然の乱入にもかかわらず、天蓋付きのベッドに腰掛けていたヨクは、驚く風もなく笑みを浮かべた。
「やぁ、アナンカリオ。今日は一段と鼻息が荒いね。また再戦に来たの?」
「違ぇよ今日は。……これだ」
口実として用意した、銀紙に包まれただけの無骨なチョコレート。それを、まるで果たし状でも叩きつけるかのように放り投げた。
それを受け取ったヨクは、首を傾げて、宝石のような瞳をぱちくりとさせる。
「……これ、なに? チョコレート?なんで?」
「はぁ? 知らねーのかよ。下界のイベント……『バレンタイン』だよ。菓子を贈って、想いを伝え合う日だ」
「……想い、を」
ヨクがその言葉を、まるで飴玉でも転がすように舌の上で繰り返す。
その瞬間、アナンカリオの背筋に冷たいものが走った。失言だ。これではまるで、自分がこいつに「想い」があると言っているようなものではないか。
「ち、違う! そんなんじゃねぇ! 勘違いすんなッ。おい、何笑ってんだテメェ!」
「ふふ……。だって、わざわざこんな口実まで用意して、自分から抱かれに来たんでしょ? 本当、アナンカリオは可愛いね」
「は?!違うって言ってんだろう、が……っ!?」
反論は、柔らかな力でベッドへと押し倒された衝撃に掻き消された。
上に跨ってきたヨクの体温が、薄い衣越しに伝わってくる。逃げようと思えば逃げられるはずなのに、重なり合った視線の熱に射抜かれ、指先一つ動かせない。唇に、ねっとりと湿り気を帯びた愛撫のようなキスが落とされる。
「チョコレートプレイって、一度やってみたかったんだよね。
……あぁ、でも、アナンカリオは肌の色が濃いから、ホワイトチョコの方が映えたかも」
「はぁ!?文句言うならやるな!」
毒づきながらも、跳ね除ける腕に力は入らない。
それどころか、はだけた胸元を這う指先に、抗いがたい熱が溜まっていく。
浅黒い肌の上に、銀紙を剥がされた無骨なチョコレートが置かれた。
角ばったその感触が、敏感な乳首の輪郭を執拗に、ぐりぐりと強くなぞるように弄ぶ。
「……っ、ん……あ!」
ビターな香りが、体温で溶け出したチョコレートと共に立ち昇る。ヨクが身を乗り出し、その茶色の汚れを、舌先でじっとりと掬い上げた。喉を鳴らして吸い上げられる官能的な音に、アナンカリオの背筋が震える。
下腹部が熱く疼き、自分から腰を浮かせようとした、その時だった。
「……すごく、ビターだね」
ヨクが、ぴたりと動きを止めた。その瞳に浮かんでいた湿った色気が、ふっと別の関心に塗り替えられる。
アナンカリオの上に跨っていた重みが消え、あろうことかヨクはそのまま寝室を出ていこうとした。
「は? おい、どこ行くんだよ!」
残されたのは、半裸で喘ぐ己と、中途半端な昂ぶりだけ。ムラムラとした欲求と、突き放されたようなイライラが混ざり合い、アナンカリオの思考を焦がす。
「ふざけんなよ……あの野郎、マジで……!」
我慢できず、乱れた服のまま寝室を飛び出した。
神殿の奥へ進むと、意外な場所から音が聞こえる。調理場だ。
ヨクはそこで、手際よく何かを火にかけていた。
「は?! なんで急に料理始めてんだよ!」
詰め寄るアナンカリオだったが、ヨクは火元を見つめたまま、宥めるように穏やかな声を出した。
「まあまあ。ちょっとそこに、ソファに座って待ってて。すぐ終わるから」
「待てるか! テメェ、散々煽っておいて……」
喉元まで出かかった「早く抱け」という言葉を、辛うじてプライドが飲み込ませる。だが、欲求不満の限界にあるアナンカリオの目は、野獣のようにギラギラとヨクの背中を睨みつけていた。
どすんとソファに沈み込み、脚を組んで貧乏ゆすりを始める。ヨクはそんなアナンカリオの殺気などどこ吹く風で、軽やかな手つきでミルクパンの中身をくるくるとヘラで回している。
小さな鍋の中で、何かが溶け、混ざり合い、とろりとした艶を帯びていく。
ヨクの機嫌の良さそうな鼻歌が、静かな神殿に響き渡り、それが余計にアナンカリオの飢餓感と焦燥を煽り立てていた。
下界に満ちる情動は、天界の端座にまで卑俗な熱を帯びて伝わってくる。
アナンカリオは、その銀の髪を苛立たしく掻き上げた。視界の端で、無数の「運命の赤い糸」がピリピリと震え、引き絞られている。
誰かが誰かを想い、焦がれ、甘い菓子を介してその縁を繋ごうとするひたむきな欲望。それらが束となって運命の神の指先を、望んでもいないのに弾いていた。
「ああ、くそ。どいつもこいつも、たかだか菓子一つで運命が変わると思ってんのかよ……」
舌打ちとともに吐き出した吐息が、冷涼な空気の中で白く濁る。本来なら、この鬱陶しい糸の震えを適当に結びつけてやるか、あるいは面倒になって断ち切ってやるのが、これまでの彼の過ごし方だった。
だが、不意に、その荒っぽい思考の端を一つの影が掠めた。
あの、捉えどころのない、桃色の髪を揺らす神。欲の権化。
「……そうだ。あいつなら、こういう浮ついた快楽には目がないだろ」
閃きは、狡猾な言い訳を伴って脳内に根を張った。
これは決して、愛だの恋だのという、下界の連中が振りまく感傷ではない。
あいつを攻略するための、いわば「戦術」だ。
常に先手を取られ、その色香と技術に屈してきた屈辱的な敗北の数々。今度こそ、あいつの余裕を奪い、あの薄い唇から驚きの声を上げさせてやる。
そのためには、この「バレンタイン」とやらの風習を逆手に取るのが、最も効率的な運命の攪乱になるのではないか。
しかし、いざ手土産をとなると、用意周到に準備するような柄ではない。
アナンカリオは官公庁の無機質な食堂へと足を向け、棚に並んだ愛想のない包みをいくつか掴み取った。それは神官たちが仕事の合間に、ただ栄養を摂取するためだけに噛み砕く、驚くほど色気のない高濃度のカカオ。
「……ま、これでいいか。どうせうめぇもんに調理してくれるだろうし」
指に挟んだ銀紙の感触は、どこか冷たく、硬い。
舌が痺れるほどに苦い、この鉄の味にも似た塊。
これをあの、蕩けるような甘い毒を吐く唇に放り込んだ時、一体どんな顔をするのか。
想像するだけで、腹の底が熱を帯びる。
運命の糸を無造作に捌きながら、アナンカリオは軽快な足取りで欲の神殿へと向かった。
***
ヨクの神殿には、心を閉ざすような重い扉や鍵が存在しない。
主の気質をそのまま形にしたような、風通しの良すぎる廊下を、アナンカリオは慣れた足取りで突き進む。何度も「再戦」を挑み、そのたびに返り討ちに遭ってきた場所。
もはや自分の寝所よりも構造を理解しているかもしれないという事実に、微かな忌々しさを覚えながら、アナンカリオはヨクの寝室の扉を荒々しく開け放った。
「おい、いるんだろ」
突然の乱入にもかかわらず、天蓋付きのベッドに腰掛けていたヨクは、驚く風もなく笑みを浮かべた。
「やぁ、アナンカリオ。今日は一段と鼻息が荒いね。また再戦に来たの?」
「違ぇよ今日は。……これだ」
口実として用意した、銀紙に包まれただけの無骨なチョコレート。それを、まるで果たし状でも叩きつけるかのように放り投げた。
それを受け取ったヨクは、首を傾げて、宝石のような瞳をぱちくりとさせる。
「……これ、なに? チョコレート?なんで?」
「はぁ? 知らねーのかよ。下界のイベント……『バレンタイン』だよ。菓子を贈って、想いを伝え合う日だ」
「……想い、を」
ヨクがその言葉を、まるで飴玉でも転がすように舌の上で繰り返す。
その瞬間、アナンカリオの背筋に冷たいものが走った。失言だ。これではまるで、自分がこいつに「想い」があると言っているようなものではないか。
「ち、違う! そんなんじゃねぇ! 勘違いすんなッ。おい、何笑ってんだテメェ!」
「ふふ……。だって、わざわざこんな口実まで用意して、自分から抱かれに来たんでしょ? 本当、アナンカリオは可愛いね」
「は?!違うって言ってんだろう、が……っ!?」
反論は、柔らかな力でベッドへと押し倒された衝撃に掻き消された。
上に跨ってきたヨクの体温が、薄い衣越しに伝わってくる。逃げようと思えば逃げられるはずなのに、重なり合った視線の熱に射抜かれ、指先一つ動かせない。唇に、ねっとりと湿り気を帯びた愛撫のようなキスが落とされる。
「チョコレートプレイって、一度やってみたかったんだよね。
……あぁ、でも、アナンカリオは肌の色が濃いから、ホワイトチョコの方が映えたかも」
「はぁ!?文句言うならやるな!」
毒づきながらも、跳ね除ける腕に力は入らない。
それどころか、はだけた胸元を這う指先に、抗いがたい熱が溜まっていく。
浅黒い肌の上に、銀紙を剥がされた無骨なチョコレートが置かれた。
角ばったその感触が、敏感な乳首の輪郭を執拗に、ぐりぐりと強くなぞるように弄ぶ。
「……っ、ん……あ!」
ビターな香りが、体温で溶け出したチョコレートと共に立ち昇る。ヨクが身を乗り出し、その茶色の汚れを、舌先でじっとりと掬い上げた。喉を鳴らして吸い上げられる官能的な音に、アナンカリオの背筋が震える。
下腹部が熱く疼き、自分から腰を浮かせようとした、その時だった。
「……すごく、ビターだね」
ヨクが、ぴたりと動きを止めた。その瞳に浮かんでいた湿った色気が、ふっと別の関心に塗り替えられる。
アナンカリオの上に跨っていた重みが消え、あろうことかヨクはそのまま寝室を出ていこうとした。
「は? おい、どこ行くんだよ!」
残されたのは、半裸で喘ぐ己と、中途半端な昂ぶりだけ。ムラムラとした欲求と、突き放されたようなイライラが混ざり合い、アナンカリオの思考を焦がす。
「ふざけんなよ……あの野郎、マジで……!」
我慢できず、乱れた服のまま寝室を飛び出した。
神殿の奥へ進むと、意外な場所から音が聞こえる。調理場だ。
ヨクはそこで、手際よく何かを火にかけていた。
「は?! なんで急に料理始めてんだよ!」
詰め寄るアナンカリオだったが、ヨクは火元を見つめたまま、宥めるように穏やかな声を出した。
「まあまあ。ちょっとそこに、ソファに座って待ってて。すぐ終わるから」
「待てるか! テメェ、散々煽っておいて……」
喉元まで出かかった「早く抱け」という言葉を、辛うじてプライドが飲み込ませる。だが、欲求不満の限界にあるアナンカリオの目は、野獣のようにギラギラとヨクの背中を睨みつけていた。
どすんとソファに沈み込み、脚を組んで貧乏ゆすりを始める。ヨクはそんなアナンカリオの殺気などどこ吹く風で、軽やかな手つきでミルクパンの中身をくるくるとヘラで回している。
小さな鍋の中で、何かが溶け、混ざり合い、とろりとした艶を帯びていく。
ヨクの機嫌の良さそうな鼻歌が、静かな神殿に響き渡り、それが余計にアナンカリオの飢餓感と焦燥を煽り立てていた。
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