ヨクに溺れる

新月ポルカ

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出会い

第十五話 冷戦

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 庭の土に突き立てられた鋏の鈍い音が、静寂を切り裂いた。無機質な金属の冷たさが地中へ沈み、殺意にも似た鋭利な拒絶が、静かな庭園の空気を震わせる。

 彼はそのまま、一度も振り返ることなくヨクの神殿へと足を踏み入れた。
 勝手知ったる他神の家。その回廊を歩くリューエの足音は、いつもの静謐さをかなぐり捨てたかのように重く、苛立ちを隠そうともしない。

 寝室の扉が開け放たれる。

 視界に飛び込んできたのは、乱れた寝台に押し倒されたばかりのマキナと、その上に覆いかぶさろうとしていたヨクの姿だった。

「……随分と、お盛んなようだね」

 リューエの声は、凍てつく冬の夜の海のように冷たく、淀んでいた。

「この後、僕との予定があったはずだ。まさかとは思うけれど、また『仕事』で抱いただけの神に、こうして押しかけられるのを許しているのかい?
 君の節操のなさは、いよいよ救いようがないな」

 刺々しい皮肉が、密室の熱を瞬時に奪い去る。
 ポカンとした顔で顔を上げたヨクは、侵入者のあまりの剣幕に、重ねようとしていた唇を止めた。

「リュ、あー……ノゾミ、えっと。……早かったね?」

 ヨクはたじろぎながら、ゆっくりとマキナから身体を離した。
 いつもの夕食の約束。昼の今から始めれば、夕方までには十分事足りるだろう。そんな、いつもの短絡的な計算が完全に裏目に出たことを、彼はリューエの眉間の深い皺から察した。

「ごめんごめん、ちょっと時間がギリギリかなって思ってはいたんだけど……。悪かったよ、そんなに怒らないで」

 ヨクは眉を下げてへらへらと笑いながら、形だけの謝罪を口にする。

 この場に他者がいる以上、ヨクは決してリューエを真名で呼ばない。それは幼い頃、互いを守るために育ての師と交わした約束。

「僕が『望みの神』だと知りながら、これほど下卑た欲望を撒き散らすアホを招き入れるなんて。……君は本当に、僕を疲れさせるのが上手いね。毎回毎回淫らな望みを押し付けられる僕の身にもなってくれないか?」

「あー……いや、本当に悪かったよ。ね?ノゾミ。そんなに怒らないでさ」

 ネチネチと容赦のない言葉を畳み掛けるリューエ。ヨクはただ、ひたすらに愛想笑いを浮かべてやり過ごすしかない。
 そんなヨクの様子を、乱れた衣を掻き合わせながら、マキナが疑念の混じった目で見つめていた。
 記憶の神としての直感が、その呼称の不自然さを敏感に感じ取る。

「……ノゾミ、とヨク?望みの神と、欲の神。
……もしや、貴方たちは互いを神格で呼び合っているのですか?

ヨク、貴方のその名は、本名ではないのでは──」

「教えるわけないだろう」

 ヨクが口を開くより早く、リューエが遮るように言い放った。氷の壁のような、拒絶の意思。

「これは僕たちだけの秘密なんだ。どこにも記録を許してないし、これからも許すつもりはない」

「……そうですか。別に構いませんよ」

 マキナは鼻で笑うと、眼鏡を指先で押し上げ、冷ややかにリューエを見据えた。

「俺は記憶の神です。直接触れた相手の記憶を読み解くことなど、造作もない。
調べようと思えば、いつでもヨクの記憶の底から、その名を、貴方との稚拙な思い出ごと引き摺り出せますから」

 マキナの挑発に、リューエの眉間が深く険しく歪む。 

「触れる? ……ふん、仕事で一度抱かれただけのくせに、次も触れる機会があると思っているのかい?思い上がりも甚だしいよ。君のような、『処理』されるだけの存在に、ヨクが何度も手を貸すはずがないだろう」

「なんですって……!」

 火花を散らす両者の間で、ヨクはただひとり、置物のように静まり返っていた。
 普段のヨクであれば、この険悪な空気さえ茶化して笑いに変えるだろう。だが、彼は知っている。こういう時のリューエは、下手に触れればこちらまで大火傷するほど、業火の如き怒りを孕んでいることを。
 数多の神を抱き、修羅場を潜り抜けてきたヨクの生存本能が、「今は黙って嵐が過ぎるのを待て」と告げていた。




 睨み合いを終わらせたのは、マキナがベッドから立ち上がった微かな衣擦れの音だった。
 彼は震える手でもう一度眼鏡の位置を直し、崩れたローブを整えると、ヨクに向き直る。

「ヨク。……先ほど、責任を取ってくれると言いましたね。今日のところは引き下がりますが、次は俺の執務室まで、必ず来てください。待っていますから」

「……あ、うん。わかった」

「一生、書庫に引きこもって、古臭い紙束でも抱いてなよ」

 リューエが最後の一刺しを投げつけると、マキナは出口で足を止め、勝ち誇ったような笑みを浮かべて振り返った。

「ええ、そうさせていただきます。どうぞ、お二人で、仲良くを楽しんでください、望みの神」

 最後の最後にマキナが落として行った爆弾──即ち、ヨクとリューエの間に肉体関係がないことを、どこかのタイミングでヨクから記憶を通し読み取ったと遠回しに伝える皮肉に、リューエは大きな舌打ちを隠すことなく響かせた。

 マキナの姿が神殿から消え、ようやく重苦しい静寂が戻る。
 ヨクは大きく息を吐き、肩の力を抜いた。

「ふー……やっと終わったか。怖かったなぁ、もう」

「……何が『わかった』だい」

 リューエはヨクの目の前まで歩み寄ると、その胸元に指先を突き立てるようにして詰め寄った。

「責任なんてとらなくていい。そんなもの、微塵も。仕事上の関係だろう?君が抱いて、あいつが勝手におかしくなった。それだけのことに、どうして君が執務室まで出向く必要があるんだ。
 ……言っておくけど、絶対に許さないからね」

「いやぁ、でもさ、記憶の神様に仕事放棄されると困るし……あ、痛いってば。リューエ、そんなに怒るなって」

「ノゾミだろ。……今は、ノゾミと呼びなよ」

 名を呼ぶことすら、他者の気配がある間は許さない。
 リューエの瞳の奥には、ヨクには決して見せない、昏く深い望みの残滓が渦巻いていた。

 夕食までの時間は、まだまだたっぷり残されている。
 ヨクを独占するために用意した時間が、今、彼をねちねちと責め立て、縛り付けるための時間へとすり替わっていく。

 ヨクは笑って誤魔化そうと言葉を濁すが、リューエの小言は止まない。
 雨のように降り注ぐ独占欲の混じった説教を、ヨクはただ、いつものように、潔癖な幼馴染による説教だと軽く受け止め、何にも気付くことなく受け流し続けるのだった。






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