ヨクに溺れる

新月ポルカ

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交差

第二十話 早朝の訪問者

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 薄暗い朝霧の立ち込めるなか、ヨクの神殿に似つかわしくない、硬質な足音が響き渡った。

 真理の神、ルクシス。その高潔な貌は、明け方の冷気よりも凍てつき、不機嫌という言葉では足りないほどの苛立ちを孕んでいる。彼はこの場所を訪れることを、自身の清廉な経歴に泥を塗る行為だとすら感じていた。

「……おい。起きろ、ピンク頭」

 低く、抑揚を抑えた声が寝台へと向けられる。

 いつもの三つ編みを解き、赤とピンクの混ざり合う髪を散らしたヨクが、重たい瞼を持ち上げた。その無防備な姿に、ルクシスは一瞬だけ視線を泳がせる。

「んん…?おはよ、ルクシス……。早朝からオレに会いにくるなんて、熱烈だねぇ。もしかして、また抱かれたくなったの……?」

「黙れッ! 死んでも御免だ、そのような汚らわしいこと!出頭だ!審判部への同行を命じる!」

「出頭……?特に悪いことしてないと思うんだけど……」

「黙れ。いいから出頭しろと言っているんだ。貴様の身勝手な振る舞いを数え上げれば切りがないが、今日は職務だ。上層部からの……、チッ、要請だ」

「要請?仕事ってこと?」

「そうだ。感情領域から、職務に耐えうる者を一名派遣せよ、と。……たまたま俺の知己に、適任者が貴様以外不在だっただけだ。勘違いするなよ」

「ふふ、ルクシスの友達がオレしかいないってこと?それは光栄だなぁ」

「友達などではない!!いいからさっさと来い!」

 ルクシスは屈辱に震える拳を握りしめ、ヨクを睨みつける。上位神から下された「感情領域の者を連れてこい」という雑な命。
 誇り高き審判の徒として、本来なら交わるはずのない、この節操のない男を頼らざるを得なかった自らの人脈の乏しさが、ルクシスをこれ以上なく惨めな気持ちにさせていた。



 ***


 高層の建物が立ち並ぶ官公庁街。
 その中でも一際冷え冷えとした静謐が支配する審判部の廊下に、ヨクの軽やかな足音が場違いなリズムを刻む。
白磁の床に落ちる影さえも規律に縛られているかのようなこの場所で、隣を歩くルクシスは心底不愉快そうに眉間に深い皺を刻んでいる。プラチナブロンドの髪が、彼の苛立ちを映すように鋭い光を放って揺れていた。

 和気藹々とした感情領域とは対極にあるその冷たい廊下を歩きながら、ヨクは「窮屈そうだね」と呑気に笑ったが、ルクシスからの返答は鋭い舌打ちだけだった。



「ここ?」

「そうだ。さっさと入れ。」

 案内されたのは、殺風景な医務室だった。
 そこには、一柱の若い神が項垂れて座っている。

 証拠の神。審判という巨大な天秤の皿に乗せる石を拾い集める、忠実な下位神である。

「……あ、ルクシス様。申し訳ありません、このような姿を……。すぐに、すぐに戻りますから。ただ、少しだけ、目が冴えてしまって……」

 そう声をあげた証拠の神の瞳は焦点が定まっておらず、その眼窩は黒ずみ、指先は小刻みに震えている。

「……不眠かな?睡眠欲が押しつぶされてる」

「先に眠りの神が介入したが、無理やり意識を刈り取られた反動で、凄絶な悪夢を見たらしい。そのせいで余計に神経を尖らせている。……感情領域の、……その、何だ。おどろおどろしい手立てでどうにかしてみろ」

「おどろおどろしいって……。まあいいよ。じゃあ、ちょっと見てみるね」

「待て」

 ルクシスがヨクの肩を掴み、耳元で低く、だが鋭く釘を刺す。

「……いいか、言っておくが、淫らな真似は一切禁ずる。俺がここで監視しているからな」

「しないよー。そんなに警戒しなくても、オレだって時と場合は選ぶって」

 ヘラヘラと笑いながら、ヨクは証拠の神の横に軽やかに座った。
 ヨクの夕焼け色の瞳が細められる。
 そこに渦巻いていたのは、ドロドロとした澱のような感情だった。

「間違えてはならない」という強迫的な安心への渇望。
「叱責されたくない」という強烈な嫌悪回避の欲求。
 そして、それらを「役に立ちたい」という集団への貢献欲が蓋をして、逃げ場を失わせている。
 睡眠という本能的な欲求は、それらの巨大なストレスに押し潰され、ひび割れて消えかかっていた。

 ヨクはそっと、青年の冷え切った手に、己の温かな手を重ねた。

「……お疲れ様。大変だったね。ずっと、完璧でいなきゃって、頑張ってたんだ」

「あ、……いえ、僕は、まだ。やらなきゃいけないことが……審判部には、僕よりもっと頑張っている方が……」

 青年の声は、震えていた。ルクシスの前では、決して漏らさなかった弱音の兆し。

「いいんだよ。今は、オレしかいない。ルクシスも、キミを叱るために呼んだんじゃない。……助けてほしくて、オレを連れてきたんだよ。ね?」

 ヨクの声は、蜜のように甘く、それでいて深い慈愛に満ちていた。
 相手の欲を逆撫でするのではなく、過剰な欲を自覚させ、解き放つための導き。
 ヨクは、青年の背中に手を回し、ゆっくりと一定のリズムで撫で始めた。

「怖いよね。間違えるのが。でも、キミが壊れたら、誰がその証拠を守るの?……今は全部、オレに預けていい。キミが抱えてるその責任、一度だけ横に置こうか」

「……ちがう、駄目なんです。僕は、もっと、完璧にやらなきゃいけなくて……。ルクシス様は、あんなに高潔で、正しいのに……。僕が、足を引っ張るわけにはいかないんです……っ」

「キミはルクシスのことが大好きなんだ。その敬愛は、とっても美しい欲だよ。でもね、欲っていうのはお腹が空いたときに食べるご飯と同じで、詰め込みすぎると苦しくなっちゃうんだ。
 だから一旦、お休みしようか。ねえ、本当は何が一番怖い?」

「……真実を、見落とすのが、こわいです……。僕のせいで、誰かを間違えて裁いてしまうのが、怖くてたまらないんです……」

 絞り出すような弱音が、静寂を震わせる。ルクシスの前では「まだ出来ます」「ごめんなさい」という石のような言葉しか発さなかった彼が、ヨクの温かな掌が背を撫でるリズムに合わせて、堰を切ったように心中を露わにしていった。

 ヨクは、その痛々しいほどの責任感を否定しなかった。むしろ、愛おしそうにその肩を抱き寄せ、耳元で囁く。

「大丈夫。君が今日まで集めてきた証拠は、何ひとつ間違ってないよ。オレには見えるんだ。君が誠実に仕事をしてきた軌跡がね。
 だから、今はその誇りだけを抱きしめて、少しだけお休み。キミがいなくても、世界は回るし、ルクシスも怒ったりしないよ」

 ヨクの神力が、証拠の神の内で膨れ上がっていた焦燥欲を、穏やかな睡眠欲へと塗り替えていく。抗えない微睡の波が、証拠の神の重い瞼を閉じさせた。やがて、規則正しい寝息が医務室に響き始める。

 その鮮やかな手際に、ルクシスは言葉を失っていた。自分がどれほど厳しく律しても、どれほど論理的に諭しても届かなかった部下の心の深淵に、ヨクはただ寄り添い、欲を整えるだけで辿り着いてしまった。

「……寝たよ。とりあえず一回眠れば少し落ち着くと思う」

「……貴様、普通に仕事ができるのだな」

「失礼だなぁ。これでも君と同じ中位神だよ、オレ」

 ヨクがいつものヘラヘラとした調子で報告する。その、あまりにもあっさりとした幕引きに、ルクシスは胸の奥で燻る複雑な感情を抑えきれなかった。

「……これだけか? 貴様、あんなに……俺のときは、あんなに無体に、執拗に、陵辱するように……」

 ルクシスは、言いかけて口を噤んだ。
 あの時、自分の内側で暴走していた支配欲を鎮めるために、ヨクが選んだ手段。それは、今のカウンセリングとは程遠い、獣のような交わりだった。自分はあんなにめちゃくちゃにされ、今でもその感覚が肌にこびりついているというのに、この下位神にはこうも優しく接するのか。

「ああ、ルクシスのとき? うん、あの時はほら、あんな場所でひとりで盛り上がってたからねえ。欲が爆発しそうだったし、それに……」

 ヨクは一歩、ルクシスに歩み寄った。長い睫毛に縁取られたオレンジの瞳が、ルクシスの水色の瞳を至近距離で覗き込む。

「本来は抱かなくても解消できたんだけどさ。……なんかルクシスって、えっちなことされるのが好きそうに見えたから。オレのサービス」

「――っ!!き、貴様ッ!!死ね!万死に値する!!」

 ルクシスの顔が、一瞬で耳の裏まで真っ赤に染まった。
 サービス。あの屈辱を、この男はそう呼んだのか。
 自分の中に眠っていた、自分ですら知らなかった卑俗な渇望を暴き、それを満たしてやったと言わんばかりの物言いに、ルクシスの理性が音を立てて千切れる。

「しーっ。……起きちゃうよ?」

 ヨクが唇に人差し指を当てて囁くと、ルクシスは喉元まで出かかった怒声を、無理やり飲み込まざるを得なかった。
 憤怒と羞恥で肩を震わせ、ギリ、と歯軋りをする。その姿は、あまりにも無防備で、審判を下す厳格な神には到底見えない。

「……まぁ、一度じゃ解決しないからさ。しばらくは毎日、カウンセリングに来てあげるよ」

「…………勝手にしろ!仕事ができることだけは、不本意だが、本当に不本意だが、認めてやる……」

 ルクシスは、顔を背けながら、絞り出すように答えた。
 ここで断れば、部下の快復が遅れる。それは真理の神としての職責に反する、というもっともらしい言い訳を自分に言い聞かせながら。

「やった。じゃあ、明日からも毎日会えるね、ルクシス」

「会わん!俺は報告に戻る。貴様など、一秒でも早く視界から消えろ!」

 吐き捨てるように言い残し、ルクシスは逃げるように審判部の奥へと消えていった。
 その足取りが、どこか落ち着かないのを、ヨクは楽しげに見送る。

「……ふふ。やっぱり、揶揄い甲斐があるなぁ」

 窓の外を見れば、朝焼けが空を紫から黄金色へと塗り替えていた。
 時刻は、まだ早朝。
 感情領域へと戻る道のりは少し長い。

「……お腹空いた。明日は、朝ご飯でも作って持ってこようかな」

 そんな独り言をこぼしながら、欲の神は軽やかな足取りで、まだ静かな神域を歩き始めた。
 明日の朝、あの潔癖な真理の神がどんな顔をするかを、朝日の金色に重ねて想像しながら。 

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