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交差
第二十八話 『望み』という力
しおりを挟む床にルクシスに組み伏せられ、情けない声を上げるヨク。リューエはその白磁の床に這い蹲る背中越しに、底抜けに明るい夕焼け色の魂の奥底を、冷え切った翠の瞳でじっとりと覗き込んだ。
そこに見えたのは、あまりにも瑞々しく、あまりにも残酷な光景。
『みんなで楽しく朝食を食べたい』
ヨクの望みは、リューエの予想を裏切らなかった。そんな、誰にでも等しく分け与えられる、温かくて平等な幸福。
リューエにとって、それは呪詛に等しい。自分だけを見て、自分だけの安らぎであってほしいというリューエの願いを、ヨクの天真爛漫な博愛が容易く踏みにじっていく。
けれど、その望みを観測してしまった以上、リューエの権能は主の意志を置き去りにして動き出す。
ドクン、とリューエの心臓が不快な音を立てて跳ねた。
権能が強制的に発動し、リューエの神力が目に見えぬ奔流となって周囲へ侵食していく。世界が、ヨクの望みを叶えるためにその形を歪め、強制的な「調和」へと引き寄せられ始めた。
凄まじい神力の消費に、リューエの身体が重力に負けて床へ沈む。呼吸は浅く、視界の端が火花を散らすように明滅する。体調を崩す未来は確定したが、今の彼にとってそんな代償はどうでもよかった。
野蛮な運命の神にヨクの献身を独占されるくらいなら、いっそこの場を強制的な「社交場」へと作り替えてしまった方が、まだ我慢がなる。
その歪みの波は、まず目の前のアナンカリオを直撃した。
「……あ? なんだ、これだけかよ。足りねぇな、おい」
ヨクの重箱を奪い取ったはずのアナンカリオが、不可解な焦燥に駆られたように辺りを見渡す。その力強くギラつく赤い瞳が、リューエの隣に落ちていたもう一つの包みを捉えた。リューエが作った、ヨクへの執着そのもののような弁当。
「それも寄越せ。……おい、ノゾミ。どうした、急に真っ青なツラしやがって」
アナンカリオがリューエに歩み寄り、その肩を掴もうとした瞬間、彼は本能的な戦慄に腕を止めた。
リューエを中心に、周囲の運命の糸が、まるで全てを覆い尽くすミントのように、腐敗した蔦のように、不気味に捻じれ、重なり、絡み合っていることに。
それは運命の神であるアナンカリオですら見たことのない、暴力的なまでの因果の改竄だった。
「……テメェ、何をした。何が起きてやがる」
本能的な恐怖に、アナンカリオが半歩後退る。運命を司る彼にとって、その光景は規定の未来が物理的に破壊されていく異常事態に他ならなかった。
彼は問い詰めるが、リューエは蒼白な顔に薄ら寒い笑みを浮かべ、苦しげな喘ぎを漏らすだけだ。
己の預かり知らぬところで、運命の歯車が狂い始めている。他者の運命を視認できる彼にとって、唯一の死角は「己自身の運命」だ。その自分自身の未来が、今まさに、この青白い顔をした神の足元へと強制的に引きずり込まれている。未知なる歪曲への恐怖が、直情的な怒りへと反転した。
「答えろ! 俺の運命をどう歪めやがった!」
アナンカリオは踏み込み、リューエの薄い衣の胸ぐらを荒々しく掴み上げた。ギリギリと締め上げる力に、リューエの細い首が軋む。
「……ふ、ふふ……痛いな……」
締め上げられ、酸素を奪われながらも、リューエは薄ら笑いを浮かべていた。ミント色の前髪の隙間から覗くその瞳は、暗く、じっとりと湿り気を帯びたまま、アナンカリオの狼狽を冷ややかに見下している。己の神力を削り、他者の運命を無理矢理に歪めているというのに、その顔には狂気めいた安らぎすら漂っていた。
「おい、笑ってんじゃねぇ! 殺されてぇのか!」
「ふふ、……無理だよ、もう……『望み』は叶ったんだから……」
アナンカリオに凄まれてもなお、リューエは恍惚とした表情で喘いだ。
そこへ、廊下の向こうから、いつもの理知的な足音とは程遠い、乱れた足音が近づいてくる。
「……望みの神が……その、はぁ……権能を……はぁ、使ったの……ですね……ッ」
現れたのは、マキナだった。重厚なローブは乱れ、常に整えられていた赤銅色の巻き髪は汗で額に張り付いている。
「あぁ? マキナ……テメェ、なんでそんなに息切らしてやがんだ?」
アナンカリオが呆気に取られて手を緩める。マキナは壁に手をつき、肺が破れんばかりの激しい呼吸を繰り返しながら、金色の瞳で二人を睨みつけた。
「知りませんよ……。俺だって、なぜか急に……走らなくてはいけないという衝動に駆られて……ッ。走っている途中で……どう考えても非論理的だと、……はぁ、おかしいと気づいたんです……」
理屈すらも歪める強力な望みの引力。その重苦しい空気が廊下を満たし、三柱の神々が互いの異常性を探り合っていた、その時。
廊下の向こうから、すべてを台無しにするような、巨大で空虚な音が響き渡った。
──ぐきゅるるるるる。
それは、ヨクに関節技を決めていたルクシスの腹の底から鳴り響いた、紛れもない飢餓の雄叫びだった。
真理の神の顔面から一瞬で血の気が引き、次の瞬間には耳の先まで沸騰したように真っ赤に染め上げられる。極限の羞恥に耐えきれず、ルクシスは弾かれたようにヨクから飛び退いた。
「あはは……っ、いたた……。ルクシス、すっごい音……」
「だ、黙れッ! 違う、これは……これは貴様が先程、意味不明な理屈をつけて、俺の肉体に食欲を植え付けたから……ッ!」
床に這いつくばったまま、ヨクが涙目で笑い声を漏らす。痛む腕を摩りながら身を起こしたヨクの夕焼け色の瞳が、廊下に集結した異様な顔ぶれを捉えて、きょとんと瞬きをした。
「あれ? なんでみんないるの?」
ヨクは心底不思議そうに、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
その無垢な問いかけに、アナンカリオもマキナも、そしてルクシスも、誰一人としてまともな返答を用意できなかった。ただ、己の中に生じた不自然な「何か」を持て余し、気まずい沈黙が落ちる。
その沈黙を縫うように、リューエが静かに口を開いた。
胸ぐらを掴まれていた皺を指先で優雅に払い、未だ激しく打ち鳴らされる心臓の動悸を薄い胸板の奥に隠し込んで、リューエはヨクへと極上の微笑みを向ける。
「……皆で一緒に、朝食が食べたかったんじゃないのかな」
吐き気を催すような執着と、微かな血の味を飲み込みながら、望みの神は甘やかにそう囁いた。
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