29 / 36
交差
第二十九話 お弁当
しおりを挟む朝霧がようやく晴れ始めた官公庁街の中央広場。普段であれば、論理の破綻を許さぬ記憶領域の神々たちが激論を交わし、神経質な審判領域の徒が眉間に皺を寄せて闊歩するその場所も、この早朝の冷気の中ではひっそりと静まり返っていた。
その広場の片隅に据えられた、意匠の凝らされた長椅子。本来ならば数人がゆったりと腰掛けるためのそれに、今は不格好なほどぎゅうぎゅうに五柱の神々が身を寄せ合っている。
向かって右端には、無作法に長い脚を広げて陣取るアナンカリオ。
その隣でローブの裾を引き絞るように座るマキナ。
中央には、どこか楽しげに風呂敷を解くヨクが陣取り、その左隣には、張り詰めた糸のように冷ややかな気を放つリューエ。
そして一番左端には、誰とも触れ合いたくないとばかりに背筋を硬直させているルクシス。
本来であれば、リューエはヨクを一番端に座らせ、己が蓋をするように隣に座り、他の神々の視界から隔離するつもりであった。
だが、「狭苦しいのは御免だ」と場所を取るアナンカリオと、「貴様らのような不埒な輩と密着するなど死んでも避ける」と頑なに端を死守したルクシスのせいで、ヨクはマキナとリューエの間に挟まれる形となってしまった。
リューエの薄い胸の奥底で、先ほどの神力行使の疲労に混じって、じっとりとした苛立ちが黒く渦を巻く。
「はい、これ皆の分ね」
ヨクが重箱の段を器用に分け、それぞれの膝の上へと手渡していく。
蓋が開かれると、官公庁の無機質な空気を塗り替えるように、暴力的なまでの芳香が広場に満ちた。
昨日マキナの理性を焼き切った、濃厚なバターが香る黄金色のオムレツ。瑞々しい林檎の酸味が鼻腔をくすぐるサラダ。鮮やかなキウイソースが絡められた、艶やかな琥珀色のローストビーフ。可愛らしい銀の小串に刺さった、なめらかなクリームチーズと黒オリーブのオードブル。果肉がごろごろと溢れ出しそうなほど挟まれた甘やかなジャムサンドに、食後の微睡みを誘うような純白のミルクプリン。
「おう、待ちくたびれたぜ!」
アナンカリオはひったくるように重箱の一段を受け取ると、運命の糸を紡ぐその手で無造作にサンドイッチを掴み、躊躇いなく大口を開けた。
「……こんな過剰な情報量の食事を、朝から……?」
マキナは自身の膝に置かれた色彩の暴力に、金色の瞳を眇めて僅かに怯んだような声を漏らす。
そして左端のルクシスはといえば、「このような卑俗なものを……」と口の中で毒づきながらも、その水色の瞳はローストビーフの艶やかな断面から一ミリたりとも動かせずにいた。
そんな奇妙な食卓の中心で、リューエは自らの分の重箱を受け取ると、流れるような所作で、手元にあった別の端正な包みをヨクの膝の上へと滑らせた。
「……ありがとう、ヨク。そして、これが君の分だよ」
「わぁ、ありがとうノゾミ! 嬉しいな」
ヨクが花が綻ぶような笑顔でその包みを開く。その極端に親密な遣り取りに、マキナが銀のフォークを止めて眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……ヨク。貴方は、自身の作ったものではなく、望みの神の弁当を食べるのですか?」
「うん。オレが朝から皆の分を作るのは大変だろうからって、わざわざ作ってくれたんだ。ノゾミのご飯も、すっごく美味しいんだよ」
一切の疑念を持たない、純粋な自慢。己に向けられた独占欲の重さを欠片も理解していないヨクの言葉に、リューエは薄い唇の端に微かな優越を滲ませた。
「それは、僕が君のため『だけ』に作ったものだ。……だから、誰にもあげないで、君一人で全部食べてね。他の誰かの口に入るなんて、僕は悲しいから」
その言葉の裏に隠された、あまりにも重く排他的な執念。それにいち早く気づいたマキナが、冷笑を浮かべて鼻で笑った。
「……随分と、過保護なことですね。はるばる管轄外の官公庁まで付き纏ってきたかと思えば、食事の管理までなさるとは。望みを司る神というよりは、対象を縛り付けて囲い込まんとする、毒の強い母神のようにお見受けしますが」
マキナの理路整然とした皮肉が、薄い刃のようにリューエの喉元を掠める。
リューエは表情ひとつ変えず、ただ口角だけを優雅に引き上げた。
「……口の減らない記録係だね。君のその薄っぺらい情報処理能力では、愛と献身の区別もつかないのかな。誰かさんのように、自分の欲望すら論理で塗り固めて誤魔化すような哀れな神には、この絆の形は一生理解できないだろうけど」
「愛、ですか。自己の欠落を埋めるための過剰な干渉を、そう呼称するのはひどく非論理的です。貴方のそれは、相手の首に美しい絹の縄を巻きつけているのと同じだ。……見苦しいですね」
「君こそ、ヨクの作った食事に欲情している自分の浅ましさを、その分厚い眼鏡で隠せているとでも思っているの? 気持ち悪いんだよ、僕のヨクに、そんな粘ついた視線を向けるな」
白磁の床に氷の破片を撒き散らすような、冷酷で容赦のない舌戦。互いの最も柔らかい部分を的確に抉り合うような言葉の応酬が、朝の静寂を無惨に切り裂いていく。
「だっはっは! うめぇ! この肉、最高だな!」
そんな毒気に満ちた二人の間を隔てるように座るヨクの奥で、アナンカリオは一切の空気を読まず、豪快に音を立てて食事を貪っている。
そしてもう一方の端。
ルクシスは、隣から漂ってくる殺伐とした気配を心底疎ましそうに一瞥しながらも、決して自らの席を立とうとはしなかった。
フォークで小さく切り分けたオムレツを口に運び、静かに目を閉じる。舌の上で解けるバターの濃厚な快楽と、鼻腔を抜ける甘やかな香りに、理性が音を立てて溶かされていく。彼は目を伏せ、己が快楽に屈しているという真理を必死に隠しながら、ただ静かに、その味を全身で噛み締めていた。
「うわー……二人とも、ご飯の時くらい仲良く食べようよ……」
へらへらと場を和ませようとする声は、完全に二柱の冷たい熱狂にかき消されている。そのあまりにもキレの良い憎悪のぶつけ合いに、ヨクはそれ以上仲裁の声を張ることもできず、ただ自身のフォークの先を行き場なく宙で彷徨わせた。
二人の間に横たわる、決して交わらない断絶の気配。
それを肌で感じ取りながら、ヨクはただ、隣で静かに微笑みながら猛毒を吐く幼馴染と、理詰めでそれを切り裂く記憶の神の中に渦巻く『独占欲』と『探究欲』を、心底不思議そうに交互に眺めることしかできなかった。
0
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
時雨のあとに、君を知る
寅次郎
BL
親友に「気持ち悪い」と突き放された夜。
俺の世界は終わった――はずだった。
雨が降る寸前の空の下、
場違いなくらい明るく響いたクラッカーの音。
それが、たこやき屋〈時雨〉の店主との出会いだった。
笑っているあの人には、
愛する妻がいる。
近づいてはいけないと分かっていても、
俺はあの店に通い続けた。
やがて訪れる別れ。
止まらない時間。
そして数年後――成人した俺は、
もう一度、あの人の前に立つ。
これは、最悪の夜から始まった、
年の差再生BL。
傷ついた少年が大人になるまでの、
少し遠回りな恋の物語。
【短編集】こども病院の日常
moa
キャラ文芸
ここの病院は、こども病院です。
18歳以下の子供が通う病院、
診療科はたくさんあります。
内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc…
ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。
恋愛要素などは一切ありません。
密着病院24時!的な感じです。
人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。
※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。
歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる