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水族館デート編
貴方だけが私を彩ってくれる
しおりを挟む夕東風とは響きの良い言葉だ。隅田川を吹き抜ける春風が花びらを運び、季節の移ろいを匂わせる。かつての江戸では、暖かな風が冬の終わりを告げると城下町は高らかに産声を上げたのだという。
皆が曇りなき空を見上げ始める光景は、暖かな香りと共に人々の心に彩りを与え、凍てつく冬の終わりを予感させるものであったのだろう。
それから時代が経ち、目まぐるしく社会が変化してきてもそれが変わることはない。水面に映る光景がどんなに色あせようとも、巡り巡って春は訪れる。
舞い散る花びらを手にすくい、ライトアップされた桜を眺める風物詩はとても幻想的だ。是非とも観に行ってみたいものである。
「……」
ただ、それは季節が巡ればの話。雨の降りしきる梅雨空には似合わない。そんなことに考えを巡らせながら、俺は一人商業施設のエントランスに立っていた。
かつては下町として栄えた隅田川も今では世界を代表する観光地に名を連ねる名所。自立式の電波塔が建築されたことも相まってその人気は絶大なのだろう、俺のいる商業施設内はこの天気にも関わらず多くの観光客でひしめき合っていた。
「(なんでこんな日に限って……)」
雨の日は憂鬱だ。肌に湿気が纏わりつくし、髪もぺたりと萎びてしまう。本来であれば自室に籠って昼寝でもしていたかったのに。
でも今日はそれも叶わない。なぜなら――――――
「あ」
遠くからこちらに走ってくる人物が目に入る。傘に隠れて素性は分からないが、あの服装は多分間違いないだろう。
案の定、その人物は俺の前で止まり、傘を畳ながら声かけてきた。
「ごめん遅くなって……! 結構待たせちゃったよね……!」
「それは別にいいけど……雨で電車が遅延でもしてたのか? 俺が乗った時は平気だったけど」
「ううん、単に家出るのが遅かっただけ……ちょっと準備が慌ただしくなっちゃって……」
息を整えながら首を垂れるように理由を述べていく莉乃。その動きにつられてなびく髪はいつもの髪型とは印象の違う、ふんわりとサイドが巻かれている髪型であった。
「……なんか、気合入ってんな」
莉乃を見て思わずそうこぼす。湿気の多い時期にこの髪型をセットするのにはかなりの時間を要するはずだ。
「……変じゃないよ。だってデートなんだから……」
「それはそうなんだけどさ……なんていうかその……」
前回のデートでも感じていたが、普段と違う容姿の莉乃にはどうしても慣れない。心が浮足立ってしまって、どんな莉乃でも新鮮に感じてしまう。
「(これって、俺のためなんだよな……?)」
幼馴染の知らない一面を垣間見て、心が浮ついてしまっているのだろうか。最近まではこんなこと…………
「……いや、そうだったな。悪い」
今日はデート、確かにその通りだ。変なことなんて一つもない。
仮だとしても恋人は恋人、今になってようやく実感が沸いた。
「……あの、拓海」
「え?」
声を掛けられてハッとする。目の前で莉乃は居心地の悪そうにしていた。
「ずっと見られてると恥ずかしいんだけど……」
「あ、ごめん……!」
慌てて顔を逸らす。無意識に目を奪われていたらしい。
「あーもう、せめて髪が濡れてなかったら……」
小さく独り言を呟くと、莉乃はカバンから手鏡を取り出す。こちらを見返すことなく、まるで気を紛らわすように手先を動かしていた。
でも、俺にはその独り言は聞こえなかった。取り出したタオルで頭全体を覆っていたせいで、耳に入ってこなかった。
「(気まずい……)」
タオルで顔を覆う。もちろん髪が濡れていたわけではない。
今はただ、彼女を直視できないだけだ。
「……なんか変な空気になっちゃったね」
同じことを思っていたのか、莉乃はそう言った。返事ができずにいると、莉乃は苦笑いしながら続ける。
「私ね、今日楽しみにしてたんだよ? 水族館なんて家族と来て以来久しぶりだし……それに拓海とだって初めてだから……」
「……そうだな」
以前までの遊び感覚とはまるで違う。
地元から離れ、全てが初めての場所。知り合いに会うこともない、正真正銘の二人きり。
彼女と共に歩き、彼女と全てを共有し、彼女と思い出を作る。つまり、デートをするのだ。
「今日一日楽しまないと勿体無い、よね……?」
今までと同じはずなのに、どうしても心が浮つく。
莉乃とデートする、そう自覚するだけで胸がざわついて仕方ない。
相手は幼馴染なのに、家族同然なのに。
「…………そうだな」
それでも一度芽吹いた感情には抗えない。吹き抜ける春が心に彩りをくれるから。
顔を覆っていたタオルを離し、俺はこちらを見る莉乃を受け入れた。
「ふふっ、赤いね」
「莉乃だって」
春の訪れと共に舞い散った花びらが水面に浮かぶ。季節が巡るように流れていく隅田川。
雨だろうが関係ない。憂鬱な気分は水に溶けて消えていく。
そして残るは彩り、もう過去には戻れない。
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