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第一楽章 出会いと気づき
契約成立
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『あなたが罪を償う姿、そばで見届けます。だから、もう二度と、大切なものを奪わないでください……』
『……はい、私の生きる道は、もう決まっていますから』
石畳みを強く踏み、前へ一歩踏み出す。
私が犯した罪は、一生取り返しのつかない。
重くのしかかる業を背負い、俺は終わりの見えない断罪の旅に出た___
ーーー
第二話が終了し、エンドロールが流れる。
何も考えず、自分が映るテレビ画面をじっと見る。
映像と演出、そして演技が合わさった一つの作品がここまで素晴らしいものだとは思っていなかった。
父さんの影響で、小さいときはテレビっ子だったから、アニメも毎週欠かさずに見ていた。
好きなキャラクターが出てくると、俺も一緒になって動きを真似る。
その時の自分は、自分が好きなものに変身できた気がして、心の底から楽しかった。
でも、今見たアニメは、なんだろう、上手く言葉にできないけど、胸の奥にグッとくる感じがあった。
実際にその場にいるかのように、自己投影しているかのように、臨場感があった。
だからなのか、少し疲れた。
俺は体勢を変えて、CDの取り出しボタンを押した。
テレビが置かれた低棚は二段に分かれていて、上段にはDVDレコーダー、下段には雑貨が敷き詰められている。
排出されるのを待ってから、俺は上段に設置されたレコーダーからDVDを取り出して、アニメの作品名が書かれたケースに手を伸ばした。
ケースの表紙には、『ドラゴンズレクイエム②』 と、油性ペンで書かれている。
それを拾い上げ、ケースの中に仕舞う。
次に、そのケースを部屋の隅に置かれた布袋の中に収納した。
収納しているときにちらっと中身を確認すると、同じようなケースがまだたくさんあった。
「これ、全部見ないとだめなの……?」
面白いけど、これを一気に見るのはしんどい。
毎週決められた時間に一話分見るのが健全な視聴方法だろうに。
でも、悪いのは俺だしなあ……
散々ほったらかして、悠馬を一人にしてしまったのは自分だった。
公民館でも、今週の昼休みでも、何も言わずに行ってしまった。
ここ辺りで機嫌を直してもらわないと、絶対口を利いてもらえなくなるだろう。
だからあいつの趣味に寄り添って少しでも機嫌を取り戻してもらおう、そう思っていたんだけど……
「明日までに全部って……」
こんな一気に見る内容じゃないよ、このアニメ。
血がめっちゃ出てグロいし、終始ダークテイストだし、これじゃあメンタルが持たない。
「義務感で見るものじゃないよ? これ」
気が向いたときにゆっくり視聴する方が、メンタルブレイクせずにいられるはずだ。
事実、自分だけの部屋なのに、俺は虚空に話しかけてしまっている。
既に、綻びの兆候が出ていた。
「……今度、悠馬の家で見せてもらおう」
その方がいい。
一人だと辛いから、二人で見た方が話しながら見ることが出来る。
それに、一緒にアニメ鑑賞だなんて、あいつもきっとうれしいだろう。
いや、そうに決まっている。
そう言い訳して、俺は部屋の隅に置かれた布袋を、より部屋の隅に遠ざけるようにしてスライドさせた。
ただでさえ、俺には悩みの種があるんだ。
こんな事に時間を割いている余裕はない。
「……」
あの日、屋上で知ってしまった真実。
俺は彼女が声優だと知ってしまった。
どのくらい有名なのかは分からない。
帰宅後にネット検索しようと思ったけど、結局怖くなってやめてしまった。
悠馬なら詳しいだろうか、あいつはアニメ好きだから、真っ先に調べてくれるはずだ。
そして、興奮したまま彼女の正体を暴露し、自慢するのではないだろうか?
……
いや、あいつはそんな奴じゃない。
自分のエゴのために彼女を犠牲にするような奴じゃない。
でも、彼女は芸能人、俺たちとは違う人種だ。
街中で有名人に偶然出会ってしまえば、相手のことなんか考えずに、写真撮影を迫ったり、声に出して狂乱するだろう。
普段はテレビの中にいるような、まるで雲の上にいるような人間が、自身の目の前に実在しているんだ。
一生に一度あるかないかの偶然、取りこぼさないように両手ですくい上げるのが普通なんだ。
俺だって例外ではない。
実際、屋上で彼女の正体に気づいたときには、冷静ではいられなかった。
言いたい気持ちはある。
「でも、言えない、よな……」
もう俺は知っている。
あの時、彼女が鬼気迫る表情で訴えかけてきた言葉を。
あれを聞いてもなお、自分を優先する薄情な人間にはなれなかった。
だから、もう二度と彼女とは関わらないようにしよう。
幸いにも、あれから数日経つが、彼女と顔を合わせていない。
このまま忘れてしまおう。
それがお互いのためなんだ。
気持ちを切り替えよう。
そう思い、俺は部屋を出て、階段を下りる。
そして、一階に着くと同時に目の前の玄関の先、ドアの正面に誰かの人影が映っているのに気が付く。
チャイムを鳴らすのかと思っていたが、その人影は小刻みに移動して、何かをしているように見えた。
何をしているのかと疑問に思ったが、手に持っている袋らしき影から何かを取り出していた。
どうやら取り出すのに時間がかかっていたらしい。
「回覧板かな?」
今日誰かが来る予定はない。
朝に父さんが仕事に行くために扉を開けただけで、我が家の玄関は閉ざされたままになっていた。
来るとしたら、近所の方か、宅急便か。
宅配を頼んだ覚えはない。
ならば回覧板を渡しに来たのだろう。
「でも、それだったら、郵便受けに入れてくれるはずなんだよな……」
隣の佐藤さんは郵便受けにいつも入れてくれる。
だから、あの人影は佐藤さんではない。
もう片方の隣人、楠木さんはあんなに立ち竦んでいたりしない。
てか、楠木さんならピンポン連打するし、その後の話が長いし、いいことなんてない。
だからこそ、未だにチャイムを鳴らさずに動く気配のない人影に違和感しか感じなかった。
『___、___』
と思っていたら、ようやくチャイムが鳴った。
強盗とか宗教勧誘だったらいろいろ面倒なので、俺は安全レバーを解かずに鍵だけ開けることにした。
ドアノブに手をかける。
そして、ゆっくりと扉を開き、僅かな隙間から声をかける。
「……どちら様ですか?」
「あ、どうも……」
「…………」
「…………」
ドアを閉めた。
「ちょっと?!」
壁の向こうから声が聞こえるが、そんなもの関係ない。
強盗でも宗教勧誘でもないが、それ以上に厄介な相手だった。
え、怖っ
身体が勝手に震え出した。
本能的に分かっているのだろう、自分の置かれている状況が。
「ちょっと、開けてよ!」
「誰が開けるか! 帰れ!」
「いいじゃん、ちょっとくらい!」
住所を教えた覚えはない。
今は学校側も生徒のプライバシー保護が重要視される世の中だ。
だから、学校側ではないはずだ。
ならば、どうやって彼女はここを突き止めたのか。
「……なんで俺ん家知ってるんだよ?」
「……秘密」
「…………」
「…………」
「……帰れ」
「分かった! 言うから!」
なんて答えてくれるのか、俺は耳を澄ませる。
「どうやって知ったんだよ?」
「……尾行」
……こいつマジか
「まじかお前……」
「や、やめ、ひかないで……」
そこまで言うと、彼女がへたり込んでしまった。
なんでそこまでするのだろうか。
彼女に聞いてみたかったが、これ以上彼女の尊厳を破壊する勇気が出なかった。
扉を見てみると、彼女の影が小さくダンゴムシのように丸まっていた。
あの日ステージに立っていた声優と同一人物だとは到底思えなかった。
「……」
彼女を見て、冷静さを取り戻す。
なんで彼女がやってきたのか、理由なんて聞かなくても分かっているじゃないか。
芸能人と一般人、普通に考えたら会う機会なんて滅多にないことなんだ。
それなのにわざわざ来たってことは、普通ではないはずだ。
……ごめん
安全レバーを開けて、再び扉を開く。
それと同時に、彼女がこちらに視線を向ける。
「取り敢えず上がって」
「いいの……?」
「近所の人に迷惑がかかるし……」
確かに迷惑がかかる、それも一つの理由だ。
でも、そんなものは建前。
俺なんかに出会ってしまった。
そのせいで彼女の人生が崩れていくかもしれない。
俺と出会わなけば、過ごして行けたはずの未来。
俺は癌だった。
だから彼女に対して、少しでも謝罪がしたかった。
ーーー
「お邪魔します……」
「どこでも座っていいから」
そう言って、俺はキッチンに向かい、お茶請けを準備する。
昨日の部活帰り、駅前に行ったときに購入したどら焼きがあったはずだ。
引き出しにしまっておいたどら焼きを見つけ、木製のボウルに飾る。
今日は平年以上の陽気らしかったので、冷たい麦茶を冷蔵庫から取り出して、置いてあったトレーに。
食器棚からガラス製のコップも取り出して、準備を終えた俺は、リビングに戻った。
「お待たせ」
初めにお茶請けを出し、それを彼女から見て左側に置いた。
そして、右側には麦茶を注いだコップを置く。
本来はその右側におしぼりを置くらしいが、あいにく我が家にはそんなものはない。
来客を想定していないからだ。
「あ、ありがとう」
のどが渇いていたのか、彼女は先に麦茶を頂いた。
俺も席に着いて、先に飲み物を頂く。
のどが渇いて仕方ない。
「このどら焼き……」
「知ってるの? 駅前の老舗で人気商品だって聞いて買ってみたんだ」
「うん、おね……身内の人がたまに買ってくるから」
「おね?」
「ううん、なんでもない」
ちょっと気になったが、まあ深くは聞かないでおこう。
それよりも今は、話題を探す方が優先だ。
どら焼きを口に含むと、全く味がしない。
それだけだったらまだよかったけど、俺は味がしないことに全く違和感を覚えなかった。
正常な判断が出来なくなっている証拠だ。
落ち着け、落ち着け……
心の中で言い聞かせる。
謝るのが先か、でもいきなり謝ったら空気を壊してしまう。
じゃあまだ言わないでいいのか、でもそのままずるずる言ったらいうタイミングを逃してしまう。
優柔不断な自分に辟易する。
「あのさ?」
「……え?」
自問自答していると、彼女が言葉を発した。
顔を見ると、真剣な目でこちらを見ていた。
本題に入る予感、いや確信だった。
「この間はごめん、いきなり怒っちゃって」
視線を下に向けながら、彼女は申し訳なさそうに言った。
「え? なんでお前が謝るんだよ? 悪いのは俺なのに」
「元はと言えば、私が勘違いしたせいなんだし、自業自得だよ」
「いや、そう思われるようなことを言った俺の責任だろ?」
「違うよ、勝手に勘違いして、勝手に期待して、勝手に落ち込んで……結局一人相撲してただけなんだよ」
「違うって!」
「声優としての自覚が足りなかったんだよ!」
「……」
切実な思いを吐露する彼女に、俺は言葉を飲み込んだ。
どんな言葉をかけても、彼女の意思を変えることが出来ないと気づいてしまったからだろう。
何も言えなかった。
「……だから、今日はお願いをしに来たの」
「……」
まっすぐに俺を見る、そして、
「お願いします。どうかこの件をばらさないでください」
彼女は頭を下げた。
「私はこの仕事を続けたい。この仕事を続けて、みんなを笑顔にしたい、小さい頃からの夢なんです」
「……」
「初めてオーディションに受かって、ようやく出演できるまでに成長できたんです。これからだって私はみんなのために頑張りたいんです」
「……」
「だから、お願いします」
「……」
彼女の訴えは、心からの叫びだった。
偽りのない、本心からの言葉。
夢を語る彼女がそこにはいた。
なのに彼女を見ていると、目を背けることが間違いだと理解できる
……
彼女は許しを乞うている。
何もしていないのに。
なのに俺はいったい何をしているんだ。
何もしていないのに。
うじうじ考えたって仕方がないじゃないか。
彼女の言葉でようやく目が覚めた。
「……違うよ」
「……え?」
顔を上げて、こちらを見る彼女。
不意打ちを食らったような表情をしていた。
「違うんだ」
「何が違うの?」
あの日輝いていた彼女は、俺と関わったせいで光を失ってしまった。
目の前でうなだれる彼女はもう見たくない。
こんな姿に変えてしまったのは、紛れもなく俺なんだ。
「初めてトークショーに参加したとき、俺は声優なんてほとんど知らなかった。有名人に会える、ただそれだけの理由でついて行っただけだったんだ」
「……」
「でも、そんな考えは一瞬で無くなった、目の前であんな生き様を見せつけられたら、心が沸き起こるように跳ね上がったんだ」
「……」
「けど、お前の夢がみんなを笑顔にすることなら、あんな人達みたいにならなきゃいけないんだろ?」
「……」
「だったら、やることは一つしかないよ」
あの日俺は見たんだ。
輝いている彼女を。
自分を見てほしい、そう願っていたから、俺は君に目を奪われたんだ。
「だから、もう謝らないでほしい。自分を責めないでほしい」
「……」
「だって、下ばっか見てたら、みんなが楽しくないだろ?」
「……」
精一杯の思いやりを込めて、言葉を紡いでいく。
彼女には夢があるんだ。
それを邪魔する障壁は取り除く。
「俺は君の演技が見てみたい。みんなが笑顔になれるような演技を」
「いいの?」
「だって、俺が黙っているだけで事が済むんだったら、お互いに都合がいいだろ?」
「あんたにも?」
「あるよ。だって、お前のファンになったんだから」
「……ファン?」
「そう、近くで見てみたいんだ。一人のファンとして」
彼女の夢を壊さない唯一の方法があるなら、それを実践すればいいだけなんだ。
近くにいる必要はない。
傍観者の一人として、未来へと進む人の背中を押す。
自立した我が子を見守るように、思いを託して。
まるで自分が救われたかのような気持ちになれる方法。
心が軽くなっていくのが分かった。
伝えたいことは伝えた。
後は、彼女の言葉を待つ。
「……そう」
彼女はそう呟いた。
そして、一呼吸おいてから次の言葉を発した。
「少なくとも、信頼してもいいってことなんだよね?」
「ああ、絶対に他言無用を約束する」
「……ありがとう。でも私はあんたを完全に信じることは出来ない」
「どうして?」
「だってそうでしょう? 出会ってまだ一週間しか経ってないのに、その相手に自分の手綱を引かせるだなんて、出来るわけない……」
確かに彼女の言う通りだ。
たった七日しか経っていない、しかも話したのはその内の二回。
今日が三回となる相手に、自分の全てをさらけ出せるような人はほとんどいないだろう。
小学生でもあるまいし。
だから、そう簡単に信じてもらうことは最初から無理な話なのだ。
「私から言っておいて勝手な話なのは分かってる……」
「……いや、君の言う通りだよ。知りもしない相手を信じるだなんて、普通は考えられないよ」
「でも、あんたが必死に伝えようとしていたのは分かった……」
「そっか」
俺の言葉は少なからず彼女に届いていたらしい。
それだけが分かれば、もう十分だった。
しかし、彼女はそれを良しとはしなかった。
「……だからさ」
「?」
「教えてよ、あんたの事」
「……え」
動揺して上手く声が出なかった。
自分で言ってておかしいと思わないのだろうか。
関係性を築いてしまったら、もう後戻りはできないのに。
「何言ってんだよ? 少しでもばれたらだめだって言っておいて、矛盾してるだろ?」
「だって! あんたを知れば少しは信じられるようになるかもしれないじゃない!」
「いや、冷静になれよ!」
「無理に決まってるでしょ?! 私の人生がかかってるのに!」
「絶対言わないって約束するから!」
「嘘かもしれないでしょ?! 安心できないの!」
……
結局振り出しじゃないか
屋上で言い合いになった時に逆戻りだ。
俺が伝えたかったことは届いていなかったんだ。
これっぽっちも信頼されていなかった。
少し期待していたんだ、俺の言葉を信じてくれるって。
でも、彼女から見れば、俺はただのファン。
いつ正体をばらされるのか、気が気でないはずだ。
分かってはいた、分かってはいたはずだ。
でも、現実は思い通りに進まなかったんだ。
「……ねえ」
少し沈黙していた彼女が、不気味な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「え、何?」
返事などせずにあの時みたいに逃げてしまいたかった。
でも、ここは自分の家。
逃げようにも袋の鼠だった。
「ここがあなたの家なんだよね? 甲斐祐介君」
「……! なんでその名前を」
「この前友達に呼ばれてたでしょ?」
嫌な予感がする
「高校、自宅、名前、これだけそろっていれば十分。私があられもない噂を呟くだけで、あんたの人生は奈落の底まで一直線……」
「はあ?! そんなことしたら___」
「もしばらしたらどうなるか? ……これでようやく安心できたよ」
ようやく、彼女がここに来た真の理由が分かった。
これが今日の目的だったんだ。
そもそも彼女は、俺がことをばらさない可能性を全く考慮していなかったんだ。
俺が約束を守ろうが破ろうが関係ない、確実に口封じをする策。
それがこれだったんだ。
完全に脅迫だ。
「……お前と俺じゃ、つり合いが取れてないんじゃないか?」
「あんたがばらさなければ、SNSが炎上して自宅に被害が出ることもない、学校のみんなに白い目で見られることもない、将来の進路に影響が出ることない、そんな平和な人生が送れるんだよ?」
「……捨て身の覚悟でばらす」
「現実が見えてないんだね? 怖いんだよ? 敵意むき出しの人間を相手にするのって」
「…………」
本気の目をしていた。
こいつはやりかねない、それだけの恐ろしさが。
……
敵意を向けられることなんて日常生活でほとんどない。
憐みの目を向けられただけで、ひどく落ち込むんだ。
憎悪をむき出しにされる人の気持ちなんて、考えたこともない。
こいつはあるのだろうか。
知らないだけですでに味わっているのだろうか。
「…………分かった。俺の負けだよ」
この状況で勝てるはずがなかった。
交渉権は彼女の手の中にある。
決して平等ではなかった。
「よかった、穏便にカタがついた」
「どこが穏便なんだよ」
「お互いに弱みを握り合ってるんだから、イーブンでしょ?」
「……で? こんな事だけを言いに来たわけじゃないんだろ? 何が望みなんだよ?」
俺がこいつの立場なら、これだけで終わらせないと思う。
これから先、何が起こるか分からない。
積もった恨みが爆発して、裏切る可能性があることは明白だからだ。
それならば、こちら側に巻き込んで、監視下に置くのが一番安心できる。
では彼女はそうするのか?
彼女は持参したバックの中身から、ある冊子を取り出す。
そして、タイトルが書かれた表紙を見えるようにして掲げ、こう言った。
「私の練習に付き合ってほしいの」
「……は?」
タイトルを見ると、『春淡』 と、書かれていた。
駅前の本屋で表紙を見たことがあった気がする。
でも、これの練習とはいったい?
「今度、これのオーディションがあるんだけど、なかなかに難しい内容なんだよね。だから、これの解釈に協力してほしいの!」
解釈って、小説を読み込んで、心情を読み取ることだよな?
それを演技に反映して、五感で彩るように表現するのが声優だ。
俺にその傍らを担えと?
「なんでそんなことしなきゃいけないんだよ?」
「呟いてもいいの?」
「……やります」
もちろん俺に拒否権はなかった。
どうせやることになるのだから潔く了承すればよかったのに、なんで少し抵抗したんだろうか。
「やった! じゃあ、これで共犯者だね」
「共犯って……」
「私と行動するんだからそうでしょ? 親しくなれば、私を売ろうだなんて考えは消えるだろうしね」
「だから、売らないって」
「信頼できないもの。だからさ、安心させてよ。頑張ってくれたら信じてあげるから」
「そしたら、俺の個人情報を売らないって約束してくれるか?」
「頑張り次第だね」
「……そうかよ」
俺にメリットがほとんどない不平等な契約を結んでしまった。
彼女は共犯だと言ったけど、そんなはずがない。
きっと俺を利用するだけ利用して、骨の髄まで味わってから、捨てるつもりなのだ。
「じゃあ、よろしくね? 甲斐祐介君」
「……よろしく、安達未菜」
「それは芸名、本名は安藤未衣奈だよ」
「分かった。よろしく、安藤未衣奈」
「うん、よろしく!」
今日の仕事を終えて、満足そうな笑みを浮かべる安藤。
これから彼女に振り回されることに不安しか感じなかった。
でも、ほんの少し、ほんの少しだけ、認めたくないけど、何か超現実な日々が待っているのかもしれないと思った。
『……はい、私の生きる道は、もう決まっていますから』
石畳みを強く踏み、前へ一歩踏み出す。
私が犯した罪は、一生取り返しのつかない。
重くのしかかる業を背負い、俺は終わりの見えない断罪の旅に出た___
ーーー
第二話が終了し、エンドロールが流れる。
何も考えず、自分が映るテレビ画面をじっと見る。
映像と演出、そして演技が合わさった一つの作品がここまで素晴らしいものだとは思っていなかった。
父さんの影響で、小さいときはテレビっ子だったから、アニメも毎週欠かさずに見ていた。
好きなキャラクターが出てくると、俺も一緒になって動きを真似る。
その時の自分は、自分が好きなものに変身できた気がして、心の底から楽しかった。
でも、今見たアニメは、なんだろう、上手く言葉にできないけど、胸の奥にグッとくる感じがあった。
実際にその場にいるかのように、自己投影しているかのように、臨場感があった。
だからなのか、少し疲れた。
俺は体勢を変えて、CDの取り出しボタンを押した。
テレビが置かれた低棚は二段に分かれていて、上段にはDVDレコーダー、下段には雑貨が敷き詰められている。
排出されるのを待ってから、俺は上段に設置されたレコーダーからDVDを取り出して、アニメの作品名が書かれたケースに手を伸ばした。
ケースの表紙には、『ドラゴンズレクイエム②』 と、油性ペンで書かれている。
それを拾い上げ、ケースの中に仕舞う。
次に、そのケースを部屋の隅に置かれた布袋の中に収納した。
収納しているときにちらっと中身を確認すると、同じようなケースがまだたくさんあった。
「これ、全部見ないとだめなの……?」
面白いけど、これを一気に見るのはしんどい。
毎週決められた時間に一話分見るのが健全な視聴方法だろうに。
でも、悪いのは俺だしなあ……
散々ほったらかして、悠馬を一人にしてしまったのは自分だった。
公民館でも、今週の昼休みでも、何も言わずに行ってしまった。
ここ辺りで機嫌を直してもらわないと、絶対口を利いてもらえなくなるだろう。
だからあいつの趣味に寄り添って少しでも機嫌を取り戻してもらおう、そう思っていたんだけど……
「明日までに全部って……」
こんな一気に見る内容じゃないよ、このアニメ。
血がめっちゃ出てグロいし、終始ダークテイストだし、これじゃあメンタルが持たない。
「義務感で見るものじゃないよ? これ」
気が向いたときにゆっくり視聴する方が、メンタルブレイクせずにいられるはずだ。
事実、自分だけの部屋なのに、俺は虚空に話しかけてしまっている。
既に、綻びの兆候が出ていた。
「……今度、悠馬の家で見せてもらおう」
その方がいい。
一人だと辛いから、二人で見た方が話しながら見ることが出来る。
それに、一緒にアニメ鑑賞だなんて、あいつもきっとうれしいだろう。
いや、そうに決まっている。
そう言い訳して、俺は部屋の隅に置かれた布袋を、より部屋の隅に遠ざけるようにしてスライドさせた。
ただでさえ、俺には悩みの種があるんだ。
こんな事に時間を割いている余裕はない。
「……」
あの日、屋上で知ってしまった真実。
俺は彼女が声優だと知ってしまった。
どのくらい有名なのかは分からない。
帰宅後にネット検索しようと思ったけど、結局怖くなってやめてしまった。
悠馬なら詳しいだろうか、あいつはアニメ好きだから、真っ先に調べてくれるはずだ。
そして、興奮したまま彼女の正体を暴露し、自慢するのではないだろうか?
……
いや、あいつはそんな奴じゃない。
自分のエゴのために彼女を犠牲にするような奴じゃない。
でも、彼女は芸能人、俺たちとは違う人種だ。
街中で有名人に偶然出会ってしまえば、相手のことなんか考えずに、写真撮影を迫ったり、声に出して狂乱するだろう。
普段はテレビの中にいるような、まるで雲の上にいるような人間が、自身の目の前に実在しているんだ。
一生に一度あるかないかの偶然、取りこぼさないように両手ですくい上げるのが普通なんだ。
俺だって例外ではない。
実際、屋上で彼女の正体に気づいたときには、冷静ではいられなかった。
言いたい気持ちはある。
「でも、言えない、よな……」
もう俺は知っている。
あの時、彼女が鬼気迫る表情で訴えかけてきた言葉を。
あれを聞いてもなお、自分を優先する薄情な人間にはなれなかった。
だから、もう二度と彼女とは関わらないようにしよう。
幸いにも、あれから数日経つが、彼女と顔を合わせていない。
このまま忘れてしまおう。
それがお互いのためなんだ。
気持ちを切り替えよう。
そう思い、俺は部屋を出て、階段を下りる。
そして、一階に着くと同時に目の前の玄関の先、ドアの正面に誰かの人影が映っているのに気が付く。
チャイムを鳴らすのかと思っていたが、その人影は小刻みに移動して、何かをしているように見えた。
何をしているのかと疑問に思ったが、手に持っている袋らしき影から何かを取り出していた。
どうやら取り出すのに時間がかかっていたらしい。
「回覧板かな?」
今日誰かが来る予定はない。
朝に父さんが仕事に行くために扉を開けただけで、我が家の玄関は閉ざされたままになっていた。
来るとしたら、近所の方か、宅急便か。
宅配を頼んだ覚えはない。
ならば回覧板を渡しに来たのだろう。
「でも、それだったら、郵便受けに入れてくれるはずなんだよな……」
隣の佐藤さんは郵便受けにいつも入れてくれる。
だから、あの人影は佐藤さんではない。
もう片方の隣人、楠木さんはあんなに立ち竦んでいたりしない。
てか、楠木さんならピンポン連打するし、その後の話が長いし、いいことなんてない。
だからこそ、未だにチャイムを鳴らさずに動く気配のない人影に違和感しか感じなかった。
『___、___』
と思っていたら、ようやくチャイムが鳴った。
強盗とか宗教勧誘だったらいろいろ面倒なので、俺は安全レバーを解かずに鍵だけ開けることにした。
ドアノブに手をかける。
そして、ゆっくりと扉を開き、僅かな隙間から声をかける。
「……どちら様ですか?」
「あ、どうも……」
「…………」
「…………」
ドアを閉めた。
「ちょっと?!」
壁の向こうから声が聞こえるが、そんなもの関係ない。
強盗でも宗教勧誘でもないが、それ以上に厄介な相手だった。
え、怖っ
身体が勝手に震え出した。
本能的に分かっているのだろう、自分の置かれている状況が。
「ちょっと、開けてよ!」
「誰が開けるか! 帰れ!」
「いいじゃん、ちょっとくらい!」
住所を教えた覚えはない。
今は学校側も生徒のプライバシー保護が重要視される世の中だ。
だから、学校側ではないはずだ。
ならば、どうやって彼女はここを突き止めたのか。
「……なんで俺ん家知ってるんだよ?」
「……秘密」
「…………」
「…………」
「……帰れ」
「分かった! 言うから!」
なんて答えてくれるのか、俺は耳を澄ませる。
「どうやって知ったんだよ?」
「……尾行」
……こいつマジか
「まじかお前……」
「や、やめ、ひかないで……」
そこまで言うと、彼女がへたり込んでしまった。
なんでそこまでするのだろうか。
彼女に聞いてみたかったが、これ以上彼女の尊厳を破壊する勇気が出なかった。
扉を見てみると、彼女の影が小さくダンゴムシのように丸まっていた。
あの日ステージに立っていた声優と同一人物だとは到底思えなかった。
「……」
彼女を見て、冷静さを取り戻す。
なんで彼女がやってきたのか、理由なんて聞かなくても分かっているじゃないか。
芸能人と一般人、普通に考えたら会う機会なんて滅多にないことなんだ。
それなのにわざわざ来たってことは、普通ではないはずだ。
……ごめん
安全レバーを開けて、再び扉を開く。
それと同時に、彼女がこちらに視線を向ける。
「取り敢えず上がって」
「いいの……?」
「近所の人に迷惑がかかるし……」
確かに迷惑がかかる、それも一つの理由だ。
でも、そんなものは建前。
俺なんかに出会ってしまった。
そのせいで彼女の人生が崩れていくかもしれない。
俺と出会わなけば、過ごして行けたはずの未来。
俺は癌だった。
だから彼女に対して、少しでも謝罪がしたかった。
ーーー
「お邪魔します……」
「どこでも座っていいから」
そう言って、俺はキッチンに向かい、お茶請けを準備する。
昨日の部活帰り、駅前に行ったときに購入したどら焼きがあったはずだ。
引き出しにしまっておいたどら焼きを見つけ、木製のボウルに飾る。
今日は平年以上の陽気らしかったので、冷たい麦茶を冷蔵庫から取り出して、置いてあったトレーに。
食器棚からガラス製のコップも取り出して、準備を終えた俺は、リビングに戻った。
「お待たせ」
初めにお茶請けを出し、それを彼女から見て左側に置いた。
そして、右側には麦茶を注いだコップを置く。
本来はその右側におしぼりを置くらしいが、あいにく我が家にはそんなものはない。
来客を想定していないからだ。
「あ、ありがとう」
のどが渇いていたのか、彼女は先に麦茶を頂いた。
俺も席に着いて、先に飲み物を頂く。
のどが渇いて仕方ない。
「このどら焼き……」
「知ってるの? 駅前の老舗で人気商品だって聞いて買ってみたんだ」
「うん、おね……身内の人がたまに買ってくるから」
「おね?」
「ううん、なんでもない」
ちょっと気になったが、まあ深くは聞かないでおこう。
それよりも今は、話題を探す方が優先だ。
どら焼きを口に含むと、全く味がしない。
それだけだったらまだよかったけど、俺は味がしないことに全く違和感を覚えなかった。
正常な判断が出来なくなっている証拠だ。
落ち着け、落ち着け……
心の中で言い聞かせる。
謝るのが先か、でもいきなり謝ったら空気を壊してしまう。
じゃあまだ言わないでいいのか、でもそのままずるずる言ったらいうタイミングを逃してしまう。
優柔不断な自分に辟易する。
「あのさ?」
「……え?」
自問自答していると、彼女が言葉を発した。
顔を見ると、真剣な目でこちらを見ていた。
本題に入る予感、いや確信だった。
「この間はごめん、いきなり怒っちゃって」
視線を下に向けながら、彼女は申し訳なさそうに言った。
「え? なんでお前が謝るんだよ? 悪いのは俺なのに」
「元はと言えば、私が勘違いしたせいなんだし、自業自得だよ」
「いや、そう思われるようなことを言った俺の責任だろ?」
「違うよ、勝手に勘違いして、勝手に期待して、勝手に落ち込んで……結局一人相撲してただけなんだよ」
「違うって!」
「声優としての自覚が足りなかったんだよ!」
「……」
切実な思いを吐露する彼女に、俺は言葉を飲み込んだ。
どんな言葉をかけても、彼女の意思を変えることが出来ないと気づいてしまったからだろう。
何も言えなかった。
「……だから、今日はお願いをしに来たの」
「……」
まっすぐに俺を見る、そして、
「お願いします。どうかこの件をばらさないでください」
彼女は頭を下げた。
「私はこの仕事を続けたい。この仕事を続けて、みんなを笑顔にしたい、小さい頃からの夢なんです」
「……」
「初めてオーディションに受かって、ようやく出演できるまでに成長できたんです。これからだって私はみんなのために頑張りたいんです」
「……」
「だから、お願いします」
「……」
彼女の訴えは、心からの叫びだった。
偽りのない、本心からの言葉。
夢を語る彼女がそこにはいた。
なのに彼女を見ていると、目を背けることが間違いだと理解できる
……
彼女は許しを乞うている。
何もしていないのに。
なのに俺はいったい何をしているんだ。
何もしていないのに。
うじうじ考えたって仕方がないじゃないか。
彼女の言葉でようやく目が覚めた。
「……違うよ」
「……え?」
顔を上げて、こちらを見る彼女。
不意打ちを食らったような表情をしていた。
「違うんだ」
「何が違うの?」
あの日輝いていた彼女は、俺と関わったせいで光を失ってしまった。
目の前でうなだれる彼女はもう見たくない。
こんな姿に変えてしまったのは、紛れもなく俺なんだ。
「初めてトークショーに参加したとき、俺は声優なんてほとんど知らなかった。有名人に会える、ただそれだけの理由でついて行っただけだったんだ」
「……」
「でも、そんな考えは一瞬で無くなった、目の前であんな生き様を見せつけられたら、心が沸き起こるように跳ね上がったんだ」
「……」
「けど、お前の夢がみんなを笑顔にすることなら、あんな人達みたいにならなきゃいけないんだろ?」
「……」
「だったら、やることは一つしかないよ」
あの日俺は見たんだ。
輝いている彼女を。
自分を見てほしい、そう願っていたから、俺は君に目を奪われたんだ。
「だから、もう謝らないでほしい。自分を責めないでほしい」
「……」
「だって、下ばっか見てたら、みんなが楽しくないだろ?」
「……」
精一杯の思いやりを込めて、言葉を紡いでいく。
彼女には夢があるんだ。
それを邪魔する障壁は取り除く。
「俺は君の演技が見てみたい。みんなが笑顔になれるような演技を」
「いいの?」
「だって、俺が黙っているだけで事が済むんだったら、お互いに都合がいいだろ?」
「あんたにも?」
「あるよ。だって、お前のファンになったんだから」
「……ファン?」
「そう、近くで見てみたいんだ。一人のファンとして」
彼女の夢を壊さない唯一の方法があるなら、それを実践すればいいだけなんだ。
近くにいる必要はない。
傍観者の一人として、未来へと進む人の背中を押す。
自立した我が子を見守るように、思いを託して。
まるで自分が救われたかのような気持ちになれる方法。
心が軽くなっていくのが分かった。
伝えたいことは伝えた。
後は、彼女の言葉を待つ。
「……そう」
彼女はそう呟いた。
そして、一呼吸おいてから次の言葉を発した。
「少なくとも、信頼してもいいってことなんだよね?」
「ああ、絶対に他言無用を約束する」
「……ありがとう。でも私はあんたを完全に信じることは出来ない」
「どうして?」
「だってそうでしょう? 出会ってまだ一週間しか経ってないのに、その相手に自分の手綱を引かせるだなんて、出来るわけない……」
確かに彼女の言う通りだ。
たった七日しか経っていない、しかも話したのはその内の二回。
今日が三回となる相手に、自分の全てをさらけ出せるような人はほとんどいないだろう。
小学生でもあるまいし。
だから、そう簡単に信じてもらうことは最初から無理な話なのだ。
「私から言っておいて勝手な話なのは分かってる……」
「……いや、君の言う通りだよ。知りもしない相手を信じるだなんて、普通は考えられないよ」
「でも、あんたが必死に伝えようとしていたのは分かった……」
「そっか」
俺の言葉は少なからず彼女に届いていたらしい。
それだけが分かれば、もう十分だった。
しかし、彼女はそれを良しとはしなかった。
「……だからさ」
「?」
「教えてよ、あんたの事」
「……え」
動揺して上手く声が出なかった。
自分で言ってておかしいと思わないのだろうか。
関係性を築いてしまったら、もう後戻りはできないのに。
「何言ってんだよ? 少しでもばれたらだめだって言っておいて、矛盾してるだろ?」
「だって! あんたを知れば少しは信じられるようになるかもしれないじゃない!」
「いや、冷静になれよ!」
「無理に決まってるでしょ?! 私の人生がかかってるのに!」
「絶対言わないって約束するから!」
「嘘かもしれないでしょ?! 安心できないの!」
……
結局振り出しじゃないか
屋上で言い合いになった時に逆戻りだ。
俺が伝えたかったことは届いていなかったんだ。
これっぽっちも信頼されていなかった。
少し期待していたんだ、俺の言葉を信じてくれるって。
でも、彼女から見れば、俺はただのファン。
いつ正体をばらされるのか、気が気でないはずだ。
分かってはいた、分かってはいたはずだ。
でも、現実は思い通りに進まなかったんだ。
「……ねえ」
少し沈黙していた彼女が、不気味な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「え、何?」
返事などせずにあの時みたいに逃げてしまいたかった。
でも、ここは自分の家。
逃げようにも袋の鼠だった。
「ここがあなたの家なんだよね? 甲斐祐介君」
「……! なんでその名前を」
「この前友達に呼ばれてたでしょ?」
嫌な予感がする
「高校、自宅、名前、これだけそろっていれば十分。私があられもない噂を呟くだけで、あんたの人生は奈落の底まで一直線……」
「はあ?! そんなことしたら___」
「もしばらしたらどうなるか? ……これでようやく安心できたよ」
ようやく、彼女がここに来た真の理由が分かった。
これが今日の目的だったんだ。
そもそも彼女は、俺がことをばらさない可能性を全く考慮していなかったんだ。
俺が約束を守ろうが破ろうが関係ない、確実に口封じをする策。
それがこれだったんだ。
完全に脅迫だ。
「……お前と俺じゃ、つり合いが取れてないんじゃないか?」
「あんたがばらさなければ、SNSが炎上して自宅に被害が出ることもない、学校のみんなに白い目で見られることもない、将来の進路に影響が出ることない、そんな平和な人生が送れるんだよ?」
「……捨て身の覚悟でばらす」
「現実が見えてないんだね? 怖いんだよ? 敵意むき出しの人間を相手にするのって」
「…………」
本気の目をしていた。
こいつはやりかねない、それだけの恐ろしさが。
……
敵意を向けられることなんて日常生活でほとんどない。
憐みの目を向けられただけで、ひどく落ち込むんだ。
憎悪をむき出しにされる人の気持ちなんて、考えたこともない。
こいつはあるのだろうか。
知らないだけですでに味わっているのだろうか。
「…………分かった。俺の負けだよ」
この状況で勝てるはずがなかった。
交渉権は彼女の手の中にある。
決して平等ではなかった。
「よかった、穏便にカタがついた」
「どこが穏便なんだよ」
「お互いに弱みを握り合ってるんだから、イーブンでしょ?」
「……で? こんな事だけを言いに来たわけじゃないんだろ? 何が望みなんだよ?」
俺がこいつの立場なら、これだけで終わらせないと思う。
これから先、何が起こるか分からない。
積もった恨みが爆発して、裏切る可能性があることは明白だからだ。
それならば、こちら側に巻き込んで、監視下に置くのが一番安心できる。
では彼女はそうするのか?
彼女は持参したバックの中身から、ある冊子を取り出す。
そして、タイトルが書かれた表紙を見えるようにして掲げ、こう言った。
「私の練習に付き合ってほしいの」
「……は?」
タイトルを見ると、『春淡』 と、書かれていた。
駅前の本屋で表紙を見たことがあった気がする。
でも、これの練習とはいったい?
「今度、これのオーディションがあるんだけど、なかなかに難しい内容なんだよね。だから、これの解釈に協力してほしいの!」
解釈って、小説を読み込んで、心情を読み取ることだよな?
それを演技に反映して、五感で彩るように表現するのが声優だ。
俺にその傍らを担えと?
「なんでそんなことしなきゃいけないんだよ?」
「呟いてもいいの?」
「……やります」
もちろん俺に拒否権はなかった。
どうせやることになるのだから潔く了承すればよかったのに、なんで少し抵抗したんだろうか。
「やった! じゃあ、これで共犯者だね」
「共犯って……」
「私と行動するんだからそうでしょ? 親しくなれば、私を売ろうだなんて考えは消えるだろうしね」
「だから、売らないって」
「信頼できないもの。だからさ、安心させてよ。頑張ってくれたら信じてあげるから」
「そしたら、俺の個人情報を売らないって約束してくれるか?」
「頑張り次第だね」
「……そうかよ」
俺にメリットがほとんどない不平等な契約を結んでしまった。
彼女は共犯だと言ったけど、そんなはずがない。
きっと俺を利用するだけ利用して、骨の髄まで味わってから、捨てるつもりなのだ。
「じゃあ、よろしくね? 甲斐祐介君」
「……よろしく、安達未菜」
「それは芸名、本名は安藤未衣奈だよ」
「分かった。よろしく、安藤未衣奈」
「うん、よろしく!」
今日の仕事を終えて、満足そうな笑みを浮かべる安藤。
これから彼女に振り回されることに不安しか感じなかった。
でも、ほんの少し、ほんの少しだけ、認めたくないけど、何か超現実な日々が待っているのかもしれないと思った。
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