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第一楽章 出会いと気づき
前途多難
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五月中旬、いい加減に慣れてきた最終学年としての学校生活を送る。
受験生という自覚を持って日々を無駄にしないように目の前のものに取り組む、それが校長の言葉だ。
何となく聞き流していたが、今となってはその通りだろうと自覚している。
安藤との一件以来、俺は目の前の事に精一杯取り組む決意を新たにした。
隣にいても恥ずかしくないように、自分に自信が持てるようになりたかったのだ。
いつも通り中間考査は範囲を抑えてあるから、何が来ても高得点がとれるように勉強は欠かしていない。
分からないところは悠馬に聞いて、予め復習してある。
だから中間考査と次の期末考査を乗り越えれば、推薦の基準を満たせるはずだ。
一般受験生に比べると、推薦合格する自分たちは彼らに劣っているのではないかと邪推したが、先だって大学生活を送っている先輩らに聞くとそうでもないらしい。
要は入った者勝ちという言うわけだ。
だから他の受験生に比べると、勉学面では余裕があった。
でもそれだけでは、自分自身を褒めることが出来なかった。
「はあ……はあ……!」
「おい! 飛ばしすぎだ!」
後ろから悠馬の声が聞こえた。
振り返ると他のチームメイトと距離が生まれていることに気が付く。
気持ちが先導して、ついペースが速くなってしまったらしい。
「わるい!」
その場で足踏みをして、彼らと合流する。
ウォーミングアップ中なのだから、激しい運動をすべきではない。
反省しておかなくては。
ーーー
「今日のお前、変だったぞ?」
「そうか?」
放課後になり、部活動が終わった。
汗ばんだ練習着を袋にまとめて、バッグに仕舞っている最中に、隣で同じ作業をしていた悠馬にそう言われた。
グラウンドから少し離れたところに建っている部室棟の一角に俺たちの部室が配置されている。
外観も古く、かと言って内装がきれいなのかと言ったらそうでもない。
壁にはひびが入っており、所々黒ずんでいた。
横一列に置かれたロッカーは戸締りが悪く、神経を逆なでしてくる。
蛍光灯は交換時期に差し掛かっているのか、異音を鳴らす。
「そうですよ、めっちゃ気合入ってましたもんね」
後ろでロッカーを開きながら、後輩の湯川が話に入ってきた。
振り返ると、他の後輩たちも話を聞いていたのか、相槌を打っている。
そこまで分かりやすかったのか。
「いや、もうすぐ最後の大会かもしれないし、一回くらい勝ってから終わりたいんだよ」
「今まで勝ったことないですからね……」
湯川は賛同してくれた。
「でもさ、俺たちには荷が重いって。ただでさえ、高校から始めた初心者だっているんだし、急に強くなれるわけないだろ?」
けど、悠馬は否定的だった。
「そうだけどさ、今からでも頑張ればいけるかもしれないだろ?」
少し前の自分だったら、悠馬のように諦めていたと思う。
でも、あいつと、安藤といた時間があったから、今の自分に焦燥感を覚えたんだ。
このままではいけないのだと。
だから最初から諦めるような真似はもうしないって決めたんだ。
それだと、今までの自分と同じだから。
「一回ぐらい頑張ってみてもいいんじゃないかなって……」
俺は、みんなに聞こえるようにして言葉を強めた。
けど、反応はあまりいいものではなかった。
そりゃそうだよな
元々、この部は寄せ集め集団だ。
教室で浮いていた生徒、他の部活から転部してきたわけありの生徒、消極的な生徒。
部活動で輝かしい成績を収める野球部やソフトテニス部、吹奏楽に比べて、俺たちの部活は影にいた。
言ってしまえば、放課後に教室の隅で遊んでいる友人グループのようなものだ。
サッカーが目的で入部したのではない。
みんな同じ境遇の仲間が欲しかったから入部してくれたんだ。
それは俺が一番よく知っている。
「……もしかしてさ、彼女でも出来たか?」
「え?」
今の雰囲気を断ち切るかのように、悠馬がにやにやしながら俺に聞いてきた。
彼女? 何をいきなり……
「え、先輩って彼女いるんすか?!」
追随するようにして、奥で着替えを終えた佐藤がこちらに身体を寄せてきた。
「いや、そうじゃなくってさ……」
「分かった、彼女にいいとこ見せたいんだろ?」
「違うって___」
悠馬が俺の肩に手を置いて、みんなに見せつける。
公開裁判を受けているような気分になる。
「あれか、この前一緒にいたあの子だろ? 他のクラスで見た顔じゃないから、後輩か。お前年下好きだったんだなー」
「いや、あの子は後輩じゃ___」
そこまで言って、俺は口をふさいだ。
安藤は同学年だ。
事情があって保健室登校になっているだけで、あいつも同学年なのは確認済みだからだ。
でも、それを言う道理はないし、なにより秘密を明かすことになってしまう。
それだけは決してやってはいけない。
「後輩ってことは、俺と同じ一年ですかね? えー、誰だろ?」
「いや、二つ下は無いだろ。ふつうは二年って考えになるだろ?」
「いやいや、分かんないですよ、湯川先輩? 案外キャプテンはシスコン気質だったりするかもしれませんよ?」
真ん中のベンチで座っていた高知が、湯川と会話を盛り上げていた。
知らないうちに俺がシスコンってことになってしまっている。
俺に妹はいない、一人っ子だ。
「ちょっと、俺はシスコンじゃないから___」
「じゃあ、誰なんですか? 教えてくださいよー」
「それは……」
言えない。
安藤は彼女ではなく、ただの友人だ。
けど、それを言ったところで信じてはもらえないだろう。
きっと勘繰られてしまう。
俺の軽率な行動のせいで安藤に迷惑がかかる。
それだけは避けたい。
「______!」
俺はバッグを手に取り、予めロッカーから取り出しておいたリュックサックを掴む。
「あ! 待ってくださいよ!」
「じゃあな!」
部室のカギを残して、俺は部室の扉を開ける。
ギシギシと音を立てて、重厚な扉を開けると、外から新鮮な空気が入ってきた。
「…………」
「……? 何だよ?」
「……いや、何もない」
「そうか、じゃあまたな」
「ああ」
帰り際、隣にいた悠馬に意味深な視線を向けられたが、避難が最優先だ。
そのまま、暗闇に飛び込むようにして、部室を後にした。
ーーー
「ただいま」
「ん? おう、お帰り」
疲れの残る足を動かして、俺は自宅に帰ってきた。
玄関を開けると、丁度父さんがお風呂から出た後だった。
「ちょうど風呂場空いたから」
「ああ、入っちゃうよ」
玄関横に荷物を置いて、洗濯物をバッグから取り出す。
袋にまとめておいた洗濯物を取り出し、俺はそのまま流れるようにして洗面台に向かう。
「……よし」
洗濯機に黒物の服をセットして、スタートを押す。
部活で使用したソックス類は手洗いでないと汚れが落ちないので、風呂場に連れて行った。
風呂場の扉を開けると、浴槽から湯気が立ち上り、空間を水分で満たしてくれていた。
このまま浴槽に浸かれば、今日一日頑張ったご褒美が待っているのだと実感が沸く。
「っと、先にやることやっとかないと……」
面倒ごとは先に片付けよう。
専用の洗剤を使い、俺は手洗いを始める。
ソックスの色が黒色なのが幸いだ。
汚れが目立ちにくいので、ある程度落とせれば問題ない。
高校生になってから欠かさず行っている作業。
一種のルーティーンになっていた。
洗濯後は、自分の身体を洗う。
今日は特に砂汚れがひどい。
最近雨が降っていないからか、風が吹くとグラウンドの砂が空高く舞ってしまい、髪の毛に絡みつく。
丁寧にそれを落としていき、次に全体を洗う。
この作業を終えて、ようやく俺は浴槽に浸かることが出来るのだ。
少し熱い温度が、我が家の適温だった。
少しずつ馴染むように足を入れて、浴槽に溶け込んでいく。
次第にすべての部位が順応することで、初めて息を吐くことが出来る。
「はあ……」
ようやく落ち着ける。
この瞬間をもって、自分が家に帰ってきたことを実感出来る。
朝起きて、学校に行って、授業を受けて、部活をして、疲れた足で帰路につく。
一つ一つの過程を積み重ねてたどり着いたゴールに身体がファンファーレを鳴らしている。
「……」
段々と浴槽のお湯がぬるいと感じるようになってくると、思考に余裕が生まれてくる。
今日の反省を頭の中で反芻し、気持ちを切り替えようと顔を埋める。
これを繰り返していると、そろそろ頃合いだ。
俺は浴槽から身を起こし、風呂場から洗面台に移動する。
身体を拭いて、髪をドライヤーで乾かす。
水気を取り払い、洗濯機から洗濯物を取り出す。
先ほど手洗いしたものも含めて籠に移すと、リビングに持っていき、それを縁側の物干し竿に一つずつ干していく。
それを終えると、父さんが夕ご飯の支度を終えて、キッチンから顔を出す。
「終わったか、じゃあそろそろ食べようか?」
「うん、そうしよう」
毎日の積み重ね。
これがいつもの日課だった。
テーブルを囲う食卓。
今日は、カレーライスとサラダの盛り合わせだ。
父さんの料理はシンプルで奇をてらわないから好きだ。
料理アプリの手順通りに作っているから、失敗はほとんどない。
普段はマイペースな人だからこそ、それを自覚して堅実な手段を取っているのだろう。
「うん、美味いな」
自身が作った料理を自画自賛する。
ジャガイモは程よく溶け、ニンジンや玉ねぎの野菜の風味がカレールーと見事に調和している。
とろみ加減も俺好みであり、今日に関して言えば百点満点の出来だと言える。
でも、それを言葉で伝えることはない。
「……」
「……」
食事初めに数回交わしたくらいで、その後の会話は弾むことがなかった。
時折聞こえるテレビの笑い声に反応する程度だ。
もちろん、気恥ずかしいのも多少はあった。
でもそれは高校生になってから、いや中学に上がったあたりから今までずっとそうだったから変わらない。
それは父さんも承知していた。
問題はそこではない。
「あのさ」
父さんが口を開く。
スプーンを持っていた手の動きが止まり、交じり合う音が消えた。
「……」
空気が変わったことに気づかない俺ではない。
今まで避けてきた、少し踏み込んだ話が始まるのだと予期できる。
「何か心境の変化でもあったのか?」
「……別に」
「……そうか」
この空気が嫌いだ。
だから、なるべく触れないように、近づかないようにしてきた。
逃げられるものなら逃げてしまいたい。
それを分かっているからこそ、多分父さんも触れないでいてくれたのだろう。
でも、それじゃダメなんだ。
そんな自分をもう許せなくなってしまったから。
「……コンサート、今週の土曜日だよね?」
「ああ、部活は大丈夫なのか?」
「今週はグラウンドが使えないから、部活はない」
「そうか、ならテストは問題ないのか?」
「いつもやってるから、直前に詰め込まなくても大丈夫」
「さすがだな……」
事務連絡のように応対をして、俺はカレーを貪る。
中学高校と進級するにつれて、コンサートに行く機会は減っていった。
もちろん部活があった日と重なっていたというのもあるが、一番はそれが理由ではない。
俺はあの人が苦手だ。
小学生の時、家族は家族ではなくなった。
家には父さんと俺が残った。
別に変わったことはない。
母さんは家に帰る日が少なく、家では二人で過ごすのが大半であったからだ。
ただ、それが当たり前に変わっただけ。
次第にそれが日常に代わっていくと、僅かな繋がりが薄れていった。
そうなってしまうのは当たり前だろう。
でも、それを感じていたのは俺だけだった。
家族という繋がりは、永遠に消えることはないらしい。
「……」
テレビから音が聞こえるが、もう意識を向けることは出来なかった。
目の前の作業に没頭する。
いつも通りの工程だ。
「久しぶりだから、母さんも喜ぶよ」
父さんが言葉を発する。
その声は嬉しそうに感じた。
「______!」
自分の中で晴れない霧が感情を支配する。
それを抑えるのに必死になり、周りを気にする余裕はなかった。
ここで感情のままに動いたら、今までと同じだ。
「…………ご馳走様」
なんとか溢れそうになる衝動を抑えて、違う言葉を絞り出す。
俺は食べ終わった余韻に浸ることなく、食器を持ってそのままキッチンに向かう。
とにかく体を動かして気を紛らわせる。
スポンジを握る手に力が入ってしまったが、そんなことを気にしていられる余裕はない。
付着したものをいつも以上に強く擦って取り除く。
……
こんな思いも汚れと一緒に消し去ることが出来たら、もっとあの人の事を受け入れられたのに。
理性的になれたら、どんなに楽だろうか。
感情に振り回されているうちは、まだまだ青二才なのだろう。
頭では理解している。
でも、あ・の・人・た・ち・を理解したくないと心の中で訴える自分がいるのも事実だった。
ーーー
部屋に戻ると、先ほどまでの居心地の悪さは姿を消し、自分だけの空間が広がっていた。
誰にも侵されることのない聖域。
扉を閉めて、ベッドまで進む。
そのまま体重を預けるようにして、ベッドに横たわった。
軋む音がいつもより大きかった。
「……」
いつもなら逃げていただろう。
楽な方へ、楽な方へ、そんな気持ちに従うがままに生きてきた。
今だってそうしたい気持ちの方が勝っている。
でも、それだと俺はもう変われない。
後ろめたい思いを抱えてあいつと向き合うのは、あいつの思いを裏切るのと同義だ。
もう決めてしまったことだ。
今更揺らいでももう遅い。
「……眠い」
布団に包まれていると、全てを忘れてしまう。
このまま身を任せてしまっても許される気がする。
別に誰かから許可をもらう必要はないのだ。
このまま明日を迎えてしまいたい……
でも、それは出来ない。
俺は自分の身体を無理やり起こし、部屋に取り付けてあるアナログ時計を見る。
「そろそろ時間だな……」
時刻はもう少しで九時に差し掛かろうとしていた。
今日、この時間に約束をしている相手がいる。
机の上に置いてあるスマホを確認するが、まだ着信の通知は来ていない。
……
ふと隣に置かれた鏡を見ると、自分の顔がいつもよりも生気を宿していないのが分かる。
今の自分で応対しても相手に余計な気遣いをさせてしまうだろう。
深呼吸して、気持ちを切り替える。
「電話だから大丈夫だよな」
実際に会えば、機微を感じ取られることが容易に想像できる。
だから、今日は運が良い、そのはずだ。
「……!」
手に持っていたスマホが震える。
着信だ。
俺はすぐに画面をタップし、耳にかざす。
「もしもし?」
画面の向こうからは、電車の音が聞こえる。
どうやら出先からかけているようだ。
『ごめん! まだ外にいて……!』
謝罪をしているが、時間通りなのだから気に留める必要はない。
「いや、時間通りだから」
『本当はもっと落ち着いた後に言いたかったんだけどね……!』
時折聞こえる車の走行音が入り、声にノイズが入っている。
それでも、大きな声で話してくれるおかげで辛うじて聞き取ることが出来た。
「それで、どうだった?」
俺は早く結果が知りたかった。
急かしてしまっている自覚はあったが、そんなものは気にならない。
とにかく知りたい。
『待ってよ! 今、人通りの少ないところに行くから……!』
移動中だと言うので、仕方なく自制する。
結論を先に言えばいいのにと思ったが、あいつはそういうやつだ。
しばらくすると、画面から声が聞こえた。
『……あ、もしもし? 今コンビニの外にいるから、来てよ』
「…………は?」
いきなりのことに思わず心の声が出た。
今から?
「いや、今言ってくれよ」
『人通りのないところって怖いし……、ここで待ってるから来てよ』
「怖いって……、いつもはどうやって帰ってきてるんだよ?」
『こんな遅い時間に帰るのは初めてなんだもん……!』
駅前から自宅に行くまでの道中、住宅地に入るまでは飲食店やコンビニが並んでいるが、その後は静寂だ。
外灯のみが連なる不気味な一本道を一人で歩くのには抵抗がある。
俺でもそう感じるのだ、女性であれば尚更だろう。
「……分かったよ、今から行くから場所の地図送ってくれ」
電話越しから歓声が聞こえる。
相変わらず他人の事情を知らない奴だ。
結局慣れてしまったのだから、もう文句は言うまい。
俺はすぐに電話を切り、外出の支度をする。
着替えを済ませて部屋から出ようとした時、ふと鏡に視線を合わせる。
そこに映っていたもう一人の自分は、今抱えている感情とは相容れない表情をしていた。
ーーー
自転車を漕いで、指定された場所に向かう。
この時間に外に出るという背徳感が全身を支配し、何とも言えない高揚感に浸ることが出来た。
住宅街を抜けて大通りに出ると、電車の走行音が耳に入ってくる。
その音に導かれるように、俺は駅側に進路を合わせる。
それから大通りに沿って進んでいくと、見慣れた看板が視界に入ってきたので、その場所に向かう。
駐車場に侵入し、指定の駐輪スペースに自分の自転車を置く。
「よし、着いた」
スマホを確認すると、催促するように履歴が更新されていた。
辺りを見回して誰もいないことを確認し、残りの捜索個所に踏み入った。
馴染みのある音楽に呼応して、店員が声を出す。
店内を歩いて、探している人物を捜索していく。
すると、雑誌コーナーで佇んでいる人物が目に入り、近づく。
そのまま肩を叩いて、声をかける。
「何やってんだよ?」
「うわっ?!」
安藤は、これでもかというほど身体を跳ね上げ、読んでいた雑誌から視線をこちらに移す。
「ちょっとやめてよ、心臓に悪い……!」
「わざわざ来てやったんだから、これでおあいこだ」
ビックリ系も苦手なのか。
今度はそれでからかってみてもいいかも。
「せっかく何かおごってあげようと思ってたのに……」
「え? おごってくれるの?」
「絶対しない。ほら、さっさと行くよ」
そう言いながら、店外に出ていく安藤。
俺も続こうとしたが、何も買わずに店を出るのは気が引ける。
踵を返し、肉まんを一つ購入してから店を出た。
「夕ご飯まだだったの?」
たむろしていた張本人は、悪びれる素振りもなく聞いてきた。
「……食べたくなったから」
いちいち突っかかるのも藪蛇に棒だ、気にしない。
俺は自転車を回収して、先を行く安藤を追いかける。
信号待ちをしている間に追いつき、そして安藤に話しかけた。
「ずっと事務所にいたのか?」
「そう、家にいても暇だったし」
事務所からの電話を家で待つ予定だったらしいが、耐えかねずに自分から赴いて時間をつぶしていたらしい。
「お前学校は平気なのかよ? もうすぐ中間考査だぞ?」
「ちゃんと保健室で受けるよ。それにやることはやってるし」
「ならいいけど……」
自分のやりたいことを優先しながらも、やらなければいけないことも欠かさない。
彼女のストイックさを垣間見て、俺も身が引き締まる。
弱気になっている暇はない。
「それよりもさ、さっさと肉まん食べちゃってよ」
「ん? ああ」
先ほど買った肉まん。
でも、出かける前に夕食を済ませているから、全部を食べきれるか分からなかった。
だったら_______
「半分食べる?」
「え」
ずっと隣で視線を向けていたから、興味を持っているのだろうと思った。
鼻腔を擽る芳醇な匂い、食欲をそそるのには十分すぎた。
「そういうことなら……」
「はい」
半分に分けて、包装紙の方を手渡す。
隙間から熱々の肉厚感が存在を主張している。
それに抗うことなく、安藤は口に含む。
「美味しい」
独り言ちていたが、俺もそれに同意する。
口の中で広がる肉汁が、さらなる食欲を促進してくれる。
あっという間に手から消えて、食べ終わったことを自覚する。
「私も買っておけばよかったなあ」
「何個も食べたら飽きるでしょ? このくらいがちょうどいいんだよ」
俺は持論を振りかざす。
実際にそう思ったのだから、根拠はある。
そんなやり取りをしているうちに、住宅街の入り口まで歩みを進めていたことに気がつく。
「ここで曲がるけど、平気か?」
「うん。私の家もこっちだから」
そのまま入口に入っていく。
意外と俺の家と近いのかもしれない。
でもこれ以上はプライベートだろう、追及するのは避けておく。
人通りが減り、等間隔で設置された外灯を便りに歩みを進める。
昼間と違う風景に一種の好奇心が働くが、それを表に出すことはない。
それよりも聞きたいことがある。
通り過ぎる住宅には光が灯っているが、夜分に窓を開けている様子はない。
日中に比べて夜はまだ冷えるから、風邪をひいてしまう。
だからおそらく大丈夫。
もう周りに聞かれる心配もないだろう。
「でさ、聞きたいことがあるんだけど」
「分かってるよ。もう勿体ぶらないから」
勿体ぶっている自覚はあったのか。
それなら最初に教えてほしかった。
「どうだったの?」
「……受かってた」
「……!」
受かっている、つまり合格ってことだよな?
「凄いな!」
「まあ、あれだけ自信があればね……」
「……?」
先ほどから様子が変だ。
オーディションを通過できたのだから、もっと喜んでもいいだろうに。
「何かあったのか?」
俺は気になって質問をする。
「いや、まだ通過しただけで役に選ばれたわけじゃないし」
安藤は喜びを表現することなく、ただ前を向いて歩いていた。
「……」
「それに、ここまでは今まで何度も来れたから、この次が本番なの」
これからが本番。
その言葉には重みがあって、まだスタートラインに立っただけだと自覚しているようだった。
そんな彼女の姿を見て、俺は一つ気付いた。
上袖から先、安藤の指先が震えている。
……
実際に安藤が言っていたのもあるが、こんなことを何度も経験しているのだろう。
成功体験が少ない人は、失敗した時のことを考えてしまうらしい。
また落ちるかもしれない、だめかもしれない。
そんな思考に支配されて、大事なところで失敗する。
だから、もう逃げてしまえばいい、そんな結果に納得して、舞台から降りてしまうのだ。
でも、安藤は、それでも挑戦をやめない。
自分自身が許せないのだろう。
強くあろうと気丈にふるまう。
だから、安藤を見ていると、声をかけたくなる。
「……俺にも出来ることがあるんだったらさ、手伝うよ。友達だろ?」
「…………うん、ありがとう」
それが今の俺に出来る精一杯の言葉だった。
これ以上の言葉は、今の俺にはふさわしくない。
俺も逃げてはいけない。
再び強く決意表明する。
「じゃあ私ここで別れるから」
そう言って、交差点を右に曲がる安藤。
「ああ、またな」
特に言い残したこともない。
このまま左に進路を変えて、自転車に乗ろうとした時、後ろから安藤が声をかけてきた。
「私、頑張るから」
その言葉は自分に言い聞かせているようであった。
だから、俺も安藤に伝える。
「……俺も、頑張るよ」
安藤の返事を待たずに自転車を漕ぎだす。
返事はいらない。
ただ自分に言い聞かせただけの言葉だからだ。
正解の分からない暗闇の中で手を伸ばしてもがき続ける、俺はその覚悟を決めた。
受験生という自覚を持って日々を無駄にしないように目の前のものに取り組む、それが校長の言葉だ。
何となく聞き流していたが、今となってはその通りだろうと自覚している。
安藤との一件以来、俺は目の前の事に精一杯取り組む決意を新たにした。
隣にいても恥ずかしくないように、自分に自信が持てるようになりたかったのだ。
いつも通り中間考査は範囲を抑えてあるから、何が来ても高得点がとれるように勉強は欠かしていない。
分からないところは悠馬に聞いて、予め復習してある。
だから中間考査と次の期末考査を乗り越えれば、推薦の基準を満たせるはずだ。
一般受験生に比べると、推薦合格する自分たちは彼らに劣っているのではないかと邪推したが、先だって大学生活を送っている先輩らに聞くとそうでもないらしい。
要は入った者勝ちという言うわけだ。
だから他の受験生に比べると、勉学面では余裕があった。
でもそれだけでは、自分自身を褒めることが出来なかった。
「はあ……はあ……!」
「おい! 飛ばしすぎだ!」
後ろから悠馬の声が聞こえた。
振り返ると他のチームメイトと距離が生まれていることに気が付く。
気持ちが先導して、ついペースが速くなってしまったらしい。
「わるい!」
その場で足踏みをして、彼らと合流する。
ウォーミングアップ中なのだから、激しい運動をすべきではない。
反省しておかなくては。
ーーー
「今日のお前、変だったぞ?」
「そうか?」
放課後になり、部活動が終わった。
汗ばんだ練習着を袋にまとめて、バッグに仕舞っている最中に、隣で同じ作業をしていた悠馬にそう言われた。
グラウンドから少し離れたところに建っている部室棟の一角に俺たちの部室が配置されている。
外観も古く、かと言って内装がきれいなのかと言ったらそうでもない。
壁にはひびが入っており、所々黒ずんでいた。
横一列に置かれたロッカーは戸締りが悪く、神経を逆なでしてくる。
蛍光灯は交換時期に差し掛かっているのか、異音を鳴らす。
「そうですよ、めっちゃ気合入ってましたもんね」
後ろでロッカーを開きながら、後輩の湯川が話に入ってきた。
振り返ると、他の後輩たちも話を聞いていたのか、相槌を打っている。
そこまで分かりやすかったのか。
「いや、もうすぐ最後の大会かもしれないし、一回くらい勝ってから終わりたいんだよ」
「今まで勝ったことないですからね……」
湯川は賛同してくれた。
「でもさ、俺たちには荷が重いって。ただでさえ、高校から始めた初心者だっているんだし、急に強くなれるわけないだろ?」
けど、悠馬は否定的だった。
「そうだけどさ、今からでも頑張ればいけるかもしれないだろ?」
少し前の自分だったら、悠馬のように諦めていたと思う。
でも、あいつと、安藤といた時間があったから、今の自分に焦燥感を覚えたんだ。
このままではいけないのだと。
だから最初から諦めるような真似はもうしないって決めたんだ。
それだと、今までの自分と同じだから。
「一回ぐらい頑張ってみてもいいんじゃないかなって……」
俺は、みんなに聞こえるようにして言葉を強めた。
けど、反応はあまりいいものではなかった。
そりゃそうだよな
元々、この部は寄せ集め集団だ。
教室で浮いていた生徒、他の部活から転部してきたわけありの生徒、消極的な生徒。
部活動で輝かしい成績を収める野球部やソフトテニス部、吹奏楽に比べて、俺たちの部活は影にいた。
言ってしまえば、放課後に教室の隅で遊んでいる友人グループのようなものだ。
サッカーが目的で入部したのではない。
みんな同じ境遇の仲間が欲しかったから入部してくれたんだ。
それは俺が一番よく知っている。
「……もしかしてさ、彼女でも出来たか?」
「え?」
今の雰囲気を断ち切るかのように、悠馬がにやにやしながら俺に聞いてきた。
彼女? 何をいきなり……
「え、先輩って彼女いるんすか?!」
追随するようにして、奥で着替えを終えた佐藤がこちらに身体を寄せてきた。
「いや、そうじゃなくってさ……」
「分かった、彼女にいいとこ見せたいんだろ?」
「違うって___」
悠馬が俺の肩に手を置いて、みんなに見せつける。
公開裁判を受けているような気分になる。
「あれか、この前一緒にいたあの子だろ? 他のクラスで見た顔じゃないから、後輩か。お前年下好きだったんだなー」
「いや、あの子は後輩じゃ___」
そこまで言って、俺は口をふさいだ。
安藤は同学年だ。
事情があって保健室登校になっているだけで、あいつも同学年なのは確認済みだからだ。
でも、それを言う道理はないし、なにより秘密を明かすことになってしまう。
それだけは決してやってはいけない。
「後輩ってことは、俺と同じ一年ですかね? えー、誰だろ?」
「いや、二つ下は無いだろ。ふつうは二年って考えになるだろ?」
「いやいや、分かんないですよ、湯川先輩? 案外キャプテンはシスコン気質だったりするかもしれませんよ?」
真ん中のベンチで座っていた高知が、湯川と会話を盛り上げていた。
知らないうちに俺がシスコンってことになってしまっている。
俺に妹はいない、一人っ子だ。
「ちょっと、俺はシスコンじゃないから___」
「じゃあ、誰なんですか? 教えてくださいよー」
「それは……」
言えない。
安藤は彼女ではなく、ただの友人だ。
けど、それを言ったところで信じてはもらえないだろう。
きっと勘繰られてしまう。
俺の軽率な行動のせいで安藤に迷惑がかかる。
それだけは避けたい。
「______!」
俺はバッグを手に取り、予めロッカーから取り出しておいたリュックサックを掴む。
「あ! 待ってくださいよ!」
「じゃあな!」
部室のカギを残して、俺は部室の扉を開ける。
ギシギシと音を立てて、重厚な扉を開けると、外から新鮮な空気が入ってきた。
「…………」
「……? 何だよ?」
「……いや、何もない」
「そうか、じゃあまたな」
「ああ」
帰り際、隣にいた悠馬に意味深な視線を向けられたが、避難が最優先だ。
そのまま、暗闇に飛び込むようにして、部室を後にした。
ーーー
「ただいま」
「ん? おう、お帰り」
疲れの残る足を動かして、俺は自宅に帰ってきた。
玄関を開けると、丁度父さんがお風呂から出た後だった。
「ちょうど風呂場空いたから」
「ああ、入っちゃうよ」
玄関横に荷物を置いて、洗濯物をバッグから取り出す。
袋にまとめておいた洗濯物を取り出し、俺はそのまま流れるようにして洗面台に向かう。
「……よし」
洗濯機に黒物の服をセットして、スタートを押す。
部活で使用したソックス類は手洗いでないと汚れが落ちないので、風呂場に連れて行った。
風呂場の扉を開けると、浴槽から湯気が立ち上り、空間を水分で満たしてくれていた。
このまま浴槽に浸かれば、今日一日頑張ったご褒美が待っているのだと実感が沸く。
「っと、先にやることやっとかないと……」
面倒ごとは先に片付けよう。
専用の洗剤を使い、俺は手洗いを始める。
ソックスの色が黒色なのが幸いだ。
汚れが目立ちにくいので、ある程度落とせれば問題ない。
高校生になってから欠かさず行っている作業。
一種のルーティーンになっていた。
洗濯後は、自分の身体を洗う。
今日は特に砂汚れがひどい。
最近雨が降っていないからか、風が吹くとグラウンドの砂が空高く舞ってしまい、髪の毛に絡みつく。
丁寧にそれを落としていき、次に全体を洗う。
この作業を終えて、ようやく俺は浴槽に浸かることが出来るのだ。
少し熱い温度が、我が家の適温だった。
少しずつ馴染むように足を入れて、浴槽に溶け込んでいく。
次第にすべての部位が順応することで、初めて息を吐くことが出来る。
「はあ……」
ようやく落ち着ける。
この瞬間をもって、自分が家に帰ってきたことを実感出来る。
朝起きて、学校に行って、授業を受けて、部活をして、疲れた足で帰路につく。
一つ一つの過程を積み重ねてたどり着いたゴールに身体がファンファーレを鳴らしている。
「……」
段々と浴槽のお湯がぬるいと感じるようになってくると、思考に余裕が生まれてくる。
今日の反省を頭の中で反芻し、気持ちを切り替えようと顔を埋める。
これを繰り返していると、そろそろ頃合いだ。
俺は浴槽から身を起こし、風呂場から洗面台に移動する。
身体を拭いて、髪をドライヤーで乾かす。
水気を取り払い、洗濯機から洗濯物を取り出す。
先ほど手洗いしたものも含めて籠に移すと、リビングに持っていき、それを縁側の物干し竿に一つずつ干していく。
それを終えると、父さんが夕ご飯の支度を終えて、キッチンから顔を出す。
「終わったか、じゃあそろそろ食べようか?」
「うん、そうしよう」
毎日の積み重ね。
これがいつもの日課だった。
テーブルを囲う食卓。
今日は、カレーライスとサラダの盛り合わせだ。
父さんの料理はシンプルで奇をてらわないから好きだ。
料理アプリの手順通りに作っているから、失敗はほとんどない。
普段はマイペースな人だからこそ、それを自覚して堅実な手段を取っているのだろう。
「うん、美味いな」
自身が作った料理を自画自賛する。
ジャガイモは程よく溶け、ニンジンや玉ねぎの野菜の風味がカレールーと見事に調和している。
とろみ加減も俺好みであり、今日に関して言えば百点満点の出来だと言える。
でも、それを言葉で伝えることはない。
「……」
「……」
食事初めに数回交わしたくらいで、その後の会話は弾むことがなかった。
時折聞こえるテレビの笑い声に反応する程度だ。
もちろん、気恥ずかしいのも多少はあった。
でもそれは高校生になってから、いや中学に上がったあたりから今までずっとそうだったから変わらない。
それは父さんも承知していた。
問題はそこではない。
「あのさ」
父さんが口を開く。
スプーンを持っていた手の動きが止まり、交じり合う音が消えた。
「……」
空気が変わったことに気づかない俺ではない。
今まで避けてきた、少し踏み込んだ話が始まるのだと予期できる。
「何か心境の変化でもあったのか?」
「……別に」
「……そうか」
この空気が嫌いだ。
だから、なるべく触れないように、近づかないようにしてきた。
逃げられるものなら逃げてしまいたい。
それを分かっているからこそ、多分父さんも触れないでいてくれたのだろう。
でも、それじゃダメなんだ。
そんな自分をもう許せなくなってしまったから。
「……コンサート、今週の土曜日だよね?」
「ああ、部活は大丈夫なのか?」
「今週はグラウンドが使えないから、部活はない」
「そうか、ならテストは問題ないのか?」
「いつもやってるから、直前に詰め込まなくても大丈夫」
「さすがだな……」
事務連絡のように応対をして、俺はカレーを貪る。
中学高校と進級するにつれて、コンサートに行く機会は減っていった。
もちろん部活があった日と重なっていたというのもあるが、一番はそれが理由ではない。
俺はあの人が苦手だ。
小学生の時、家族は家族ではなくなった。
家には父さんと俺が残った。
別に変わったことはない。
母さんは家に帰る日が少なく、家では二人で過ごすのが大半であったからだ。
ただ、それが当たり前に変わっただけ。
次第にそれが日常に代わっていくと、僅かな繋がりが薄れていった。
そうなってしまうのは当たり前だろう。
でも、それを感じていたのは俺だけだった。
家族という繋がりは、永遠に消えることはないらしい。
「……」
テレビから音が聞こえるが、もう意識を向けることは出来なかった。
目の前の作業に没頭する。
いつも通りの工程だ。
「久しぶりだから、母さんも喜ぶよ」
父さんが言葉を発する。
その声は嬉しそうに感じた。
「______!」
自分の中で晴れない霧が感情を支配する。
それを抑えるのに必死になり、周りを気にする余裕はなかった。
ここで感情のままに動いたら、今までと同じだ。
「…………ご馳走様」
なんとか溢れそうになる衝動を抑えて、違う言葉を絞り出す。
俺は食べ終わった余韻に浸ることなく、食器を持ってそのままキッチンに向かう。
とにかく体を動かして気を紛らわせる。
スポンジを握る手に力が入ってしまったが、そんなことを気にしていられる余裕はない。
付着したものをいつも以上に強く擦って取り除く。
……
こんな思いも汚れと一緒に消し去ることが出来たら、もっとあの人の事を受け入れられたのに。
理性的になれたら、どんなに楽だろうか。
感情に振り回されているうちは、まだまだ青二才なのだろう。
頭では理解している。
でも、あ・の・人・た・ち・を理解したくないと心の中で訴える自分がいるのも事実だった。
ーーー
部屋に戻ると、先ほどまでの居心地の悪さは姿を消し、自分だけの空間が広がっていた。
誰にも侵されることのない聖域。
扉を閉めて、ベッドまで進む。
そのまま体重を預けるようにして、ベッドに横たわった。
軋む音がいつもより大きかった。
「……」
いつもなら逃げていただろう。
楽な方へ、楽な方へ、そんな気持ちに従うがままに生きてきた。
今だってそうしたい気持ちの方が勝っている。
でも、それだと俺はもう変われない。
後ろめたい思いを抱えてあいつと向き合うのは、あいつの思いを裏切るのと同義だ。
もう決めてしまったことだ。
今更揺らいでももう遅い。
「……眠い」
布団に包まれていると、全てを忘れてしまう。
このまま身を任せてしまっても許される気がする。
別に誰かから許可をもらう必要はないのだ。
このまま明日を迎えてしまいたい……
でも、それは出来ない。
俺は自分の身体を無理やり起こし、部屋に取り付けてあるアナログ時計を見る。
「そろそろ時間だな……」
時刻はもう少しで九時に差し掛かろうとしていた。
今日、この時間に約束をしている相手がいる。
机の上に置いてあるスマホを確認するが、まだ着信の通知は来ていない。
……
ふと隣に置かれた鏡を見ると、自分の顔がいつもよりも生気を宿していないのが分かる。
今の自分で応対しても相手に余計な気遣いをさせてしまうだろう。
深呼吸して、気持ちを切り替える。
「電話だから大丈夫だよな」
実際に会えば、機微を感じ取られることが容易に想像できる。
だから、今日は運が良い、そのはずだ。
「……!」
手に持っていたスマホが震える。
着信だ。
俺はすぐに画面をタップし、耳にかざす。
「もしもし?」
画面の向こうからは、電車の音が聞こえる。
どうやら出先からかけているようだ。
『ごめん! まだ外にいて……!』
謝罪をしているが、時間通りなのだから気に留める必要はない。
「いや、時間通りだから」
『本当はもっと落ち着いた後に言いたかったんだけどね……!』
時折聞こえる車の走行音が入り、声にノイズが入っている。
それでも、大きな声で話してくれるおかげで辛うじて聞き取ることが出来た。
「それで、どうだった?」
俺は早く結果が知りたかった。
急かしてしまっている自覚はあったが、そんなものは気にならない。
とにかく知りたい。
『待ってよ! 今、人通りの少ないところに行くから……!』
移動中だと言うので、仕方なく自制する。
結論を先に言えばいいのにと思ったが、あいつはそういうやつだ。
しばらくすると、画面から声が聞こえた。
『……あ、もしもし? 今コンビニの外にいるから、来てよ』
「…………は?」
いきなりのことに思わず心の声が出た。
今から?
「いや、今言ってくれよ」
『人通りのないところって怖いし……、ここで待ってるから来てよ』
「怖いって……、いつもはどうやって帰ってきてるんだよ?」
『こんな遅い時間に帰るのは初めてなんだもん……!』
駅前から自宅に行くまでの道中、住宅地に入るまでは飲食店やコンビニが並んでいるが、その後は静寂だ。
外灯のみが連なる不気味な一本道を一人で歩くのには抵抗がある。
俺でもそう感じるのだ、女性であれば尚更だろう。
「……分かったよ、今から行くから場所の地図送ってくれ」
電話越しから歓声が聞こえる。
相変わらず他人の事情を知らない奴だ。
結局慣れてしまったのだから、もう文句は言うまい。
俺はすぐに電話を切り、外出の支度をする。
着替えを済ませて部屋から出ようとした時、ふと鏡に視線を合わせる。
そこに映っていたもう一人の自分は、今抱えている感情とは相容れない表情をしていた。
ーーー
自転車を漕いで、指定された場所に向かう。
この時間に外に出るという背徳感が全身を支配し、何とも言えない高揚感に浸ることが出来た。
住宅街を抜けて大通りに出ると、電車の走行音が耳に入ってくる。
その音に導かれるように、俺は駅側に進路を合わせる。
それから大通りに沿って進んでいくと、見慣れた看板が視界に入ってきたので、その場所に向かう。
駐車場に侵入し、指定の駐輪スペースに自分の自転車を置く。
「よし、着いた」
スマホを確認すると、催促するように履歴が更新されていた。
辺りを見回して誰もいないことを確認し、残りの捜索個所に踏み入った。
馴染みのある音楽に呼応して、店員が声を出す。
店内を歩いて、探している人物を捜索していく。
すると、雑誌コーナーで佇んでいる人物が目に入り、近づく。
そのまま肩を叩いて、声をかける。
「何やってんだよ?」
「うわっ?!」
安藤は、これでもかというほど身体を跳ね上げ、読んでいた雑誌から視線をこちらに移す。
「ちょっとやめてよ、心臓に悪い……!」
「わざわざ来てやったんだから、これでおあいこだ」
ビックリ系も苦手なのか。
今度はそれでからかってみてもいいかも。
「せっかく何かおごってあげようと思ってたのに……」
「え? おごってくれるの?」
「絶対しない。ほら、さっさと行くよ」
そう言いながら、店外に出ていく安藤。
俺も続こうとしたが、何も買わずに店を出るのは気が引ける。
踵を返し、肉まんを一つ購入してから店を出た。
「夕ご飯まだだったの?」
たむろしていた張本人は、悪びれる素振りもなく聞いてきた。
「……食べたくなったから」
いちいち突っかかるのも藪蛇に棒だ、気にしない。
俺は自転車を回収して、先を行く安藤を追いかける。
信号待ちをしている間に追いつき、そして安藤に話しかけた。
「ずっと事務所にいたのか?」
「そう、家にいても暇だったし」
事務所からの電話を家で待つ予定だったらしいが、耐えかねずに自分から赴いて時間をつぶしていたらしい。
「お前学校は平気なのかよ? もうすぐ中間考査だぞ?」
「ちゃんと保健室で受けるよ。それにやることはやってるし」
「ならいいけど……」
自分のやりたいことを優先しながらも、やらなければいけないことも欠かさない。
彼女のストイックさを垣間見て、俺も身が引き締まる。
弱気になっている暇はない。
「それよりもさ、さっさと肉まん食べちゃってよ」
「ん? ああ」
先ほど買った肉まん。
でも、出かける前に夕食を済ませているから、全部を食べきれるか分からなかった。
だったら_______
「半分食べる?」
「え」
ずっと隣で視線を向けていたから、興味を持っているのだろうと思った。
鼻腔を擽る芳醇な匂い、食欲をそそるのには十分すぎた。
「そういうことなら……」
「はい」
半分に分けて、包装紙の方を手渡す。
隙間から熱々の肉厚感が存在を主張している。
それに抗うことなく、安藤は口に含む。
「美味しい」
独り言ちていたが、俺もそれに同意する。
口の中で広がる肉汁が、さらなる食欲を促進してくれる。
あっという間に手から消えて、食べ終わったことを自覚する。
「私も買っておけばよかったなあ」
「何個も食べたら飽きるでしょ? このくらいがちょうどいいんだよ」
俺は持論を振りかざす。
実際にそう思ったのだから、根拠はある。
そんなやり取りをしているうちに、住宅街の入り口まで歩みを進めていたことに気がつく。
「ここで曲がるけど、平気か?」
「うん。私の家もこっちだから」
そのまま入口に入っていく。
意外と俺の家と近いのかもしれない。
でもこれ以上はプライベートだろう、追及するのは避けておく。
人通りが減り、等間隔で設置された外灯を便りに歩みを進める。
昼間と違う風景に一種の好奇心が働くが、それを表に出すことはない。
それよりも聞きたいことがある。
通り過ぎる住宅には光が灯っているが、夜分に窓を開けている様子はない。
日中に比べて夜はまだ冷えるから、風邪をひいてしまう。
だからおそらく大丈夫。
もう周りに聞かれる心配もないだろう。
「でさ、聞きたいことがあるんだけど」
「分かってるよ。もう勿体ぶらないから」
勿体ぶっている自覚はあったのか。
それなら最初に教えてほしかった。
「どうだったの?」
「……受かってた」
「……!」
受かっている、つまり合格ってことだよな?
「凄いな!」
「まあ、あれだけ自信があればね……」
「……?」
先ほどから様子が変だ。
オーディションを通過できたのだから、もっと喜んでもいいだろうに。
「何かあったのか?」
俺は気になって質問をする。
「いや、まだ通過しただけで役に選ばれたわけじゃないし」
安藤は喜びを表現することなく、ただ前を向いて歩いていた。
「……」
「それに、ここまでは今まで何度も来れたから、この次が本番なの」
これからが本番。
その言葉には重みがあって、まだスタートラインに立っただけだと自覚しているようだった。
そんな彼女の姿を見て、俺は一つ気付いた。
上袖から先、安藤の指先が震えている。
……
実際に安藤が言っていたのもあるが、こんなことを何度も経験しているのだろう。
成功体験が少ない人は、失敗した時のことを考えてしまうらしい。
また落ちるかもしれない、だめかもしれない。
そんな思考に支配されて、大事なところで失敗する。
だから、もう逃げてしまえばいい、そんな結果に納得して、舞台から降りてしまうのだ。
でも、安藤は、それでも挑戦をやめない。
自分自身が許せないのだろう。
強くあろうと気丈にふるまう。
だから、安藤を見ていると、声をかけたくなる。
「……俺にも出来ることがあるんだったらさ、手伝うよ。友達だろ?」
「…………うん、ありがとう」
それが今の俺に出来る精一杯の言葉だった。
これ以上の言葉は、今の俺にはふさわしくない。
俺も逃げてはいけない。
再び強く決意表明する。
「じゃあ私ここで別れるから」
そう言って、交差点を右に曲がる安藤。
「ああ、またな」
特に言い残したこともない。
このまま左に進路を変えて、自転車に乗ろうとした時、後ろから安藤が声をかけてきた。
「私、頑張るから」
その言葉は自分に言い聞かせているようであった。
だから、俺も安藤に伝える。
「……俺も、頑張るよ」
安藤の返事を待たずに自転車を漕ぎだす。
返事はいらない。
ただ自分に言い聞かせただけの言葉だからだ。
正解の分からない暗闇の中で手を伸ばしてもがき続ける、俺はその覚悟を決めた。
0
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