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第一楽章 出会いと気づき
現実
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あれはいつの出来事だろうか。
当時の俺は、家にいる事が少ない母さんよりも父さんの方が好きだった。
保育園で遅くまで迎えを待つ、所謂待機組の一人だった俺。
仲の良い友達が一人、また一人と迎えの親が来て、俺の前からいなくなっていく。
最後の一人になって、寂しい思いを紛らわすように積み木に夢中になっていたのを覚えている。
夕日が沈んで、窓の向こうが真っ黒に覆われる頃になると、外からクラクションが鳴る。
それを聞くといつも、俺は待望の瞬間が来たのだと認識し、周りを顧みずに音のする方向へと駆け出した。
靴も履かずに玄関を飛び出すと、いつも父さんが腕を広げて待っている。
だから、俺はそのまま飛びつく。
「ぱぱ、遅いよ!」
「はは、ごめんね」
後から荷造りをしてくれた職員から荷物を受け取って、父さんの運転する車に乗り込む。
もう寂しい思いをしないで済む。
それが分かるだけで、上機嫌になってしまう。
「鼻歌なんて、えらくご機嫌だな」
「うん、だって今日でしょ? ママが帰って来る日!」
「よく覚えてるな? 久しぶりに三人でご飯だから、父さんも楽しみだ!」
暗い夜道を照らすライト。
待ち受けるものは、明るい未来。
子供だった俺は、それを疑うことをしなかった______
ーーー
「……」
助手席から外を眺めていると、景色が変わっていくのが分かる。
見慣れた街並みから始まり、次第に交通量が増えて高層住宅やビル群が軒並み連なっている。
視線を前に向けると、近年新たに誕生したランドマークが高々にそびえ立っていた。
「もうすぐ着くよ」
運転席でハンドルを握りながら、父さんが声をかける。
スーツを身にまとい、普段の様子からは想像できないほどに凛々しい。
黙っていれば威厳を感じるのに。
対する俺は制服を着ていた。
二人ともタキシードを持ち合わせていないので、一応これが正装と言う形になる。
国道を右に曲がり、いつも停めているらしい駐車場に入る。
ビル群にぽっかりと空いたスペースは、少し異様に感じられた。
そのまま停車すると、俺は扉を開けて外に出る。
「……」
上を見ると、空が遠く感じる。
鳥かごの中にいるような感覚に襲われる。
少し窮屈だ。
「ホールは海沿いにあるから、こっちから行こう」
父さんに案内されるがまま、俺はその背中を追う。
昔、父さんに連れられて行った時は、地元と異なる喧噪に期待感を抱いていた。
せわしなく動き続ける光景、一つの大きな生き物が脈動しているようだ。
広大な新世界に目を輝かせていたのを覚えている。
でも、今は違う。
年を重ね、現実を知った。
憧れの街は、窮屈な檻のように閉鎖的なのだと知っている。
「ほら、見えてきた」
「……」
脇道を通ってビル群を抜けると、突然、視界が開けた。
塩の香りが風に乗って鼻腔を擽る。
海を背景に、目的地のホールが俺の前方に存在している。
まるで西洋絵画のような景色。
目が眩むほどの白色光を基調とする建築物が、目の前に広がっていた。
「すごいな」
一度来たことがあるが、当時の思い出は色あせてしまっていた。
けど、そんなものが気にならない程に目に焼き付いた。
閉鎖的と言ったが、ここだけは開放的だ。
自分を表現する場として、これ以上の舞台は存在し得ないだろう。
青信号を確認してから横断歩道を進み、ホールに入る。
エントランスは思っていた以上に広く、一人で来たら迷子になってしまいそうだった。
受付で確認をし、そのまま会場に入ると、まだ開始三十分前だというのに大勢の人が席に着いていた。
「祐介、こっちだ」
招待券をもらっている俺たちは、螺旋階段を上って二階に向かう。
そのまま指定席の番号を確認して席に着く。
前に座っている人や隣で談笑している人の服装を確認する。
デニムパンツを履いてカジュアルな服装の人もいれば、ワンピースを身にまとい品を保つ人もいた。
中にはロングドレスを着ている婦人もいた。
「……この服装でも大丈夫?」
不安になって隣に座っている父さんに聞く。
厚ヶ崎高校の制服は学ランではなくネクタイが基調となっている。
靴も普段履き慣れているスニーカーではなく、父さんのビジネスシューズを借りた。
遠目から見れば、スーツと大差ないはずだ。
「日本だとそこまで厳しくはないよ。海外は厳しいかもしれないけどね」
自分と違い、招待券を受け取れば毎回のように赴いている父さんの言うことだ、現実味がある。
「それに今回のコンサートはソロの演奏だから、演奏時間も短い。当日券も買えるから、そこまで厳かなものじゃないよ」
「そうか、なら平気か」
その一言で安心する。
でも、それにしてはかなり席が埋まっているように見える。
これが基準なのだろうか。
「まあ、母さんの演奏を聴きに来る人をいるだろうし、特に都内ではこのくらいの収容率だよ」
「聴きに来るって、遠方から?」
「流石にそこまでの人はいないと思うよ。今年は都内近辺を回るらしいから分からないけど。母さんは各地を飛び回って演奏してるから、結構な有名人なんだぞ?」
「……そうなんだ」
名前を調べれば、数多の件数がヒットするのだろう。
でも、俺はそんなことをする気にはなれなかった。
親しい間柄の人間が称賛されると、自分の事のようにうれしくなった経験はある。
ただ、それに母さんは当てはまらないということだけだ。
あの人が称賛される姿を想像したくなかった。
何が家族だ、俺たちを捨てたくせに……
「……」
俺は黙り込んでしまった。
それを察したのか、父さんも舞台ステージに視線を合わせる。
静かな時間だ。
時間の流れが遅く感じる。
次第に人の流れが減り、空席が埋まっていく中、二人がこれ以上会話をすることはなかった。
ーーー
開演のコールが鳴り響く。
それに伴って、穏やかだった客席の雰囲気が引き締まるのを感じた。
静寂が会場を包み込む。
「……」
舞台から等間隔で置かれている照明が光を失い、ステージが脚光を浴びている。
この場の誰でもない、ステージが主役の出演を待望しているように見えた。
その期待に応えるかのようにして、パンプスが地面を叩く音が聞こえる。
静寂の中、甲高く鳴り響く音。
既に演奏が始まっているように感じられた。
次第にその音が大きくなる。
そして人影を捉えるや否、下階の客席から拍手が巻き起こる。
呼応するようにして目の前に座っている客人達ももてなし始めたので、俺も取り繕う。
暖かく迎えられた主役はそのまま歩き続けて、中央に置かれたグランドピアノの前に立つ。
静止すると、客席に身体を向けて一礼し、再び目の前のピアノに向き合った。
身体を曲げることなく屹立したまま流れるように鎮座する。
身に纏うロングドレスが、一連の所作に魅力的な印象を与えている。
そして最後に、長く繊細な指先を鍵盤に置いたことでその動作は終わりを迎えた。
ここから見ていても分かるほどに細長い指。
鍵盤を叩けば、そのまま折れてしまうのではと心配になるほどだった。
「……」
時が止まっていた。
この場にいる全ての人間が、静寂を強いられているように、身体を硬直させている。
この場の支配権は、ステージの彼女に委ねられていた。
彼女が魔法をかけているのだ。
そして、指先が動くとともに、魔法は解かれていく。
聴覚を刺激され、固まっていた五感が一気に弛緩する。
雰囲気が変わった。
果実を得た人類が繁栄していく瞬間を目の当たりにしたのだ。
「……」
俺は目を見開いて、目の前の出来事に圧巻してしまった。
口元に力が入り、それでも目を逸らすことは出来なかった。
クラシック音楽に精通しているわけではない。
演奏曲も初めて聴くものだった。
なのに、溶けるように身体に浸透して、もう手放せない。
虜になってしまっていた。
ーーー
演目は当たり障りなく進行していき、いよいよ終演が近づいていた。
のめり込んでいると、時間があっという間に過ぎていくらしい。
あの人が奏でる音楽を聴いていると、心が浄化されていくような錯覚を感じる。
鍵盤を優しく叩き、愛でるように。
音楽に対する姿勢は本物なのだろう。
だからこそ、俺は複雑な思いを抱いてしまう。
彼女は指を止めて、演奏を終える。
すると、一呼吸おいて席を立ち、こちらに身体を向けた。
「……?」
何をするのか分からなかった俺は、ただ目の前の出来事を享受するだけだった。
ステージ下でスタンバイしていたスタッフからマイクを受け取ると、そのまま言葉を発した。
「本日は私の演奏を聴きに来てくれてありがとう、ございます……」
先ほどまで人々の心を掌握する演奏をしていた人物とは別人のように、頼りなくおどおどとした口調。
今日初めて公演を聴きに来た人は、この落差に少子抜けするだろう。
でも俺からすれば、昔と変わらない姿に一種の安心感を覚える。
「次が最後の演奏になりますので、最後までご清聴のほどを、宜しくお願い致します」
軽く一礼すると、冒頭の熱が再び沸騰したのか、客席からファンファーレが起こる。
最後の演奏に期待を込めて、客席からの拍手が大きく響き渡った。
その光景に高揚したのか、母さんは再び礼をして、席に着く。
鍵盤に触れる。
その瞬間、空気が変わるのが分かった。
肌を伝う緊張感。
これから始まる出来事が、何かとてつもないものを生み出す予感。
「祐介」
隣から声をかけられて、俺はその先に顔を向ける。
父さんはこちらを向いておらず、ただ目の前を見ていた。
「何?」
周りの迷惑にならない程度に声を細めて聞いた。
「お前が知ってる曲だ」
「?」
まだ始まってもいない演奏。
それでも、父さんは演奏される曲が何であるかを知っているようだった。
「知ってるって何を___」
そこまでで言葉を中断した。
異様な程にまで静かな空間で、これ以上荒げるのは避けるべきだったからだ。
答えは目の前にあるのだから、それを待った方が賢明だ。
視線をステージに戻して、俺はその時を待つ。
ステージでは、今まさに終局を奏でようとしていた。
指を下ろし、鍵盤に添える。
最後の演奏、演目の集大成。
終幕にふさわしい演奏が始まる。
「……」
これまで弾かれてきた力強い印象とは正反対。
優しく甘美な旋律だった。
この曲の名前は知らない。
でも、これが初めてではないことが分かる。
そうだ、あれは初めてコンサートホールに連れて行ってもらった時と同じだ。
父さんの背中に乗りながら、遠巻きに母さんの演奏を聴いていた。
妙に印象に残った曲だったから覚えている。
「……?」
声が聞こえた気がして、視線を隣にやる。
父さんも演奏の虜になっていたらしく、ステージから目を離せずにいた。
でも、その目はいつもの優しい目をしていなかった。
目を薄めて、遠くから眺めている。
いつもと違う、慈愛をのせた瞳。
……なんだよ、それ
俺の知らない瞳をしていた。
俺に向けられることのない、あの人にだけ向けられた特別な何か。
正体が分からなくても、それくらいは分かる。
だって、父さんの目の中に、俺は映っていないから______
ーーー
「母さんに会わなくていいのか?」
全ての演目が終了し、俺と父さんは会場から出て、受付脇の休憩所にいた。
このまま帰る気でいた俺は、父さんの用事に付き合うつもりは毛頭なかった。
「いいよ、楽しんできて」
形を取り繕う。
「本当にいいのか、母さんも喜ぶぞ?」
母さんも喜ぶ……
「……ちょっと疲れたから休んでるよ」
「……そうか、じゃあすぐ戻るよ」
そう言って、父さんは勇み足で通路を進んで行った。
それを見届けると俺は一人になる。
心なしか空気が淀んでいる気がした。
俺は出口に向かって、自動ドアを通り抜ける。
外に出ると、左に海が広がっていた。
その手前に設置された柵に手をついて、俺は海風に当たる。
下を見ると、流れていく波が視線の先にある岩盤に衝突して、行き場をなくしていた。
次から次へと波が絶え間なく押し寄せ、音とともに消えてしまう。
時折吹く風がその動きを助長させているように感じた。
「……」
最後の演奏を聴いていた父さんは、母さんだけを見ていた。
演奏に心を奪われていたわけではない。
寧ろ、心で通じ合っているように感じられた。
家族だからであろうか。
でもあの人はもう家族ではない。
じゃあ、どうして通じ合うのか。
「……くそ」
初めから分かっていたことだ。
ここに来れば、嫌でも考えてしまうことぐらい。
それを承知で決めたのだったら、向き合わなければならない。
分からないなら理解するしかない。
理解すれば、きっと納得出来るから。
……
でも、本当にそうであろうか?
理解した先に、俺の望む答えがあるのだろうか?
「捨てたくせに……」
吐き捨てるように言葉を漏らす。
声は波にかき消されてなくなっていく。
もうあの頃には戻れないのだ。
だったら、結局考えても意味がない。
「……戻るか」
父さんはすぐ戻ると言っていた。
流石に早すぎる気がするが、外にいる用事もない。
このまま、中に戻ろう。
そう思い、柵から手を離そうとした瞬間、後ろから声をかけられた。
「祐介君?」
「え」
聞き覚えのある声。
ここにいるはずがない。
なのに、ここにいる実感が沸いてしまう。
声がする方へ振り返り、存在を確かめようとした。
「……?」
けど、振り返った先に安藤はいなかった。
代わりに、黒いドレスコードを身に着けた女性が立っていた。
サングラスをかけ、帽子で頭を覆っていたため、一瞬外国人かと思ってしまった。
「ごめんなさいね、少しからかってみたくて」
先ほどの声はこの人に仕業らしい。
それが分かった途端、色々と気になることが沸き出てくる。
「あなたが甲斐祐介君なのよね?」
「はい、そうですけど……。どうして俺の名前を?」
名前をそうだが、他にも気になるところがある。
なぜ安藤の声真似をしていたのか。
この人は何者なのか。
猜疑の目を向けていると、目の前の女性はサングラス越しに目を合わせてきたように思われた。
まるですべてを見透かしているような、そんな目を。
「あなたとは初めてお会いしたと思うから、先に自己紹介をしておくわね」
そう言って、サングラスを外す。
素性が明らかになると、俺はデジャブを覚えた。
この人、どこかで見たことがある?
正確には思い出せない。
でも、最近の事に違いない。
この数週間、いや数か月の何処か。
「……」
「あら? あまり業界には詳しくないのかしら? それにしてはあの子の事を良く知ってるみたいだけど?」
「あの子……?」
「まあいいわ。それだったら、早いうちに縁を切ってもらえばいいし」
勝手に話が進んで、ついていけない。
「待ってください! まず、あなたは誰なんですか?! それにあの子っていったい誰のことを___」
焦りからか、つい態度を弁えずに勢いのままで言葉を並べてしまった。
それが相手に不快感を与えることになるとは知らずに。
「……あなた、それが社会人としての態度なの? 少し失礼じゃないかしら?」
先ほどよりも強い嫌悪感を向けられる。
会ってすぐの会話でも、友好的な雰囲気を感じなかったが、今は敵意を丸出しにしている。
揚げ足を取られているのは分かっていた。
でも、それを問い詰めたところで、俺にメリットがない。
名前を知っていて、友好的ではない。
この後に待ち受ける災難を少しでも和らげておかなくてはならない。
「……すみません」
「まあいいわ、……高校生にむきになった私にも非はあるし」
女性はそう言って、俺の隣に近づいてきた。
柵に背を向けて、寄りかかる。
「あなた、ショパンが好きなの?」
「え?」
先ほどの対話から一転、いきなり好きがどうかを聞かれて、少し少子抜けする。
ショパンと言われても、よく知らない俺には、答えようがなかった。
「いや、人の名前だとしか……」
「ショパンを知らないの? じゃあどうしてこんなところにいるの?」
「それは……」
質問攻めをされて、息が詰まりそうになる。
それに加えて、なぜここにいるかって?
そんなこと言えるはずがない。
家庭の事情を赤の他人にほいほいと語る奴がいるだろうか?
「……」
「あら、理由もなしに来たの? ますます分からない子ね」
勝手に不思議ちゃん扱いを受けているが、自業自得なのだから仕方ない。
「……分からないって言うならあなたもそうですよ。教えてください。誰なんですか?」
でも、俺からしたら、この人の方がよっぽど得体の知れない不審者だ。
大人の女性に一方的に知られている恐怖は計り知れなかった。
すると、女性は一息ついて、少し迷った後、言葉を発した。
「新藤理沙って言えば分かるかしら?」
「新藤理沙……」
その名前に聞き覚えがあった。
確かあれは___
「……声優」
「名前は結構有名だと思ってたから、ここまで知らない子は珍しいわね」
そうだ、テレビでよく見かける。
ナレーションの名前欄にこの名前がよく貼られていた。
それだけではない。
デストロイ映画の日本語吹き替え版に出演している。
この前教えられていた知識が役に立った。
「……」
隣を見る。
自分が知らないだけで、他にもバラエティー番組やラジオ、日本各地を回る超有名人なのだろう。
そんな芸能人である女性が、今目の前にいる。
「どうして、こんなところにいるんですか?」
自分が聞かれた質問を、今度は自分がする。
「親が音楽関連の仕事をしていて、その影響を受けたからってところかしら」
音楽関係。
もしかして、母さんと同じような演奏者なのだろうか。
「今は海外で活動してるから会う機会は少ないけど、いつか一緒に仕事が出来たらって思ってるわ」
「……壮大ですね」
「そうでもないわ。現にもうすぐのところまで来てるんだから」
「……」
桁が違う、そう思った。
俺からしたら果てしなく遠い目標。
その道をこの人は歩んでいる。
「まあ、雑談はこの辺にしましょう。次が本題ね」
「本題ですか?」
「ええ、とっても大事なお願いがあるの」
そう言いながら、笑顔を見せる新藤さん。
心地よく感じていた風が、一種止んだ。
波が打ち付ける音が大きくなった気がした。
「……何ですか?」
何か嫌な予感がした。
漠然としたものだけど、確証だけがあった。
新藤さんは一歩、また一歩と歩いていき、柵から離れていった。
そして、数歩進んだ後にこちらを振り返り、
「これ以上、私の妹に近づかないでもらえるかしら?」
目を細めながら、言葉を発した。
「妹……」
先ほどから気になっていたこと。
あの子とは誰なのか。
何で俺の名前を知っているのか。
そして、どうして安藤の声を真似たのか。
辻褄が合っていく。
気付かない方が良かったのかもしれない。
気付かなければ、いくらかごまかしようがあったかもしれないから。
「安藤……」
「知ってるんでしょう? あの子が声優だって」
「……」
「知ってるのなら、今の内に関係を絶った方があなたのためなのよ?」
あいつとの関係を絶つ……
「……それは、どうして?」
「あの子と関わって、自分の人生を棒に振っていいの?」
「それは……」
「それに、半端な気持ちで他人の人生を潰さないでほしいの。あなたと関わったことで、あの子の人生に支障が出るかもしれないのよ?」
俺は何も言い返せなかった。
始めてあいつと会ったときは感じていた不安。
最近はそんなことはないと思って一緒に行動してきた。
でも、初めから分かっていたことだろう。
夢を追いかける安藤の歩みを、夢を持たない俺が邪魔しているって。
どんな理屈があろうと、その事実は変わらない。
「……お願いしたいのはこれだけ。じゃあ宜しくね」
そう言って、新藤さんはこの場から立ち去った。
一人取り残されて、呆然とする。
変わろうと思ってあがいた結果がこれかよ。
見たくもない現実を見て、耐えて、立ち向かって。
その先に俺の望む未来があると信じていた。
でも、そんなものはなかった。
あるのは辛い事実だけ。
「……」
こんなことだったら、逃げてしまえばよかった。
今までのように、他愛のない日々を過ごしていれば、心が痛むこともなかったのに。
きっと夢を見ていられたのに。
ポケットに入れてあったスマホが振動する。
父さんからだろう。
俺はその着信に出ることなく、海を眺めた。
少しでも忘れたい、背けたい、そんな思いを抱えて。
当時の俺は、家にいる事が少ない母さんよりも父さんの方が好きだった。
保育園で遅くまで迎えを待つ、所謂待機組の一人だった俺。
仲の良い友達が一人、また一人と迎えの親が来て、俺の前からいなくなっていく。
最後の一人になって、寂しい思いを紛らわすように積み木に夢中になっていたのを覚えている。
夕日が沈んで、窓の向こうが真っ黒に覆われる頃になると、外からクラクションが鳴る。
それを聞くといつも、俺は待望の瞬間が来たのだと認識し、周りを顧みずに音のする方向へと駆け出した。
靴も履かずに玄関を飛び出すと、いつも父さんが腕を広げて待っている。
だから、俺はそのまま飛びつく。
「ぱぱ、遅いよ!」
「はは、ごめんね」
後から荷造りをしてくれた職員から荷物を受け取って、父さんの運転する車に乗り込む。
もう寂しい思いをしないで済む。
それが分かるだけで、上機嫌になってしまう。
「鼻歌なんて、えらくご機嫌だな」
「うん、だって今日でしょ? ママが帰って来る日!」
「よく覚えてるな? 久しぶりに三人でご飯だから、父さんも楽しみだ!」
暗い夜道を照らすライト。
待ち受けるものは、明るい未来。
子供だった俺は、それを疑うことをしなかった______
ーーー
「……」
助手席から外を眺めていると、景色が変わっていくのが分かる。
見慣れた街並みから始まり、次第に交通量が増えて高層住宅やビル群が軒並み連なっている。
視線を前に向けると、近年新たに誕生したランドマークが高々にそびえ立っていた。
「もうすぐ着くよ」
運転席でハンドルを握りながら、父さんが声をかける。
スーツを身にまとい、普段の様子からは想像できないほどに凛々しい。
黙っていれば威厳を感じるのに。
対する俺は制服を着ていた。
二人ともタキシードを持ち合わせていないので、一応これが正装と言う形になる。
国道を右に曲がり、いつも停めているらしい駐車場に入る。
ビル群にぽっかりと空いたスペースは、少し異様に感じられた。
そのまま停車すると、俺は扉を開けて外に出る。
「……」
上を見ると、空が遠く感じる。
鳥かごの中にいるような感覚に襲われる。
少し窮屈だ。
「ホールは海沿いにあるから、こっちから行こう」
父さんに案内されるがまま、俺はその背中を追う。
昔、父さんに連れられて行った時は、地元と異なる喧噪に期待感を抱いていた。
せわしなく動き続ける光景、一つの大きな生き物が脈動しているようだ。
広大な新世界に目を輝かせていたのを覚えている。
でも、今は違う。
年を重ね、現実を知った。
憧れの街は、窮屈な檻のように閉鎖的なのだと知っている。
「ほら、見えてきた」
「……」
脇道を通ってビル群を抜けると、突然、視界が開けた。
塩の香りが風に乗って鼻腔を擽る。
海を背景に、目的地のホールが俺の前方に存在している。
まるで西洋絵画のような景色。
目が眩むほどの白色光を基調とする建築物が、目の前に広がっていた。
「すごいな」
一度来たことがあるが、当時の思い出は色あせてしまっていた。
けど、そんなものが気にならない程に目に焼き付いた。
閉鎖的と言ったが、ここだけは開放的だ。
自分を表現する場として、これ以上の舞台は存在し得ないだろう。
青信号を確認してから横断歩道を進み、ホールに入る。
エントランスは思っていた以上に広く、一人で来たら迷子になってしまいそうだった。
受付で確認をし、そのまま会場に入ると、まだ開始三十分前だというのに大勢の人が席に着いていた。
「祐介、こっちだ」
招待券をもらっている俺たちは、螺旋階段を上って二階に向かう。
そのまま指定席の番号を確認して席に着く。
前に座っている人や隣で談笑している人の服装を確認する。
デニムパンツを履いてカジュアルな服装の人もいれば、ワンピースを身にまとい品を保つ人もいた。
中にはロングドレスを着ている婦人もいた。
「……この服装でも大丈夫?」
不安になって隣に座っている父さんに聞く。
厚ヶ崎高校の制服は学ランではなくネクタイが基調となっている。
靴も普段履き慣れているスニーカーではなく、父さんのビジネスシューズを借りた。
遠目から見れば、スーツと大差ないはずだ。
「日本だとそこまで厳しくはないよ。海外は厳しいかもしれないけどね」
自分と違い、招待券を受け取れば毎回のように赴いている父さんの言うことだ、現実味がある。
「それに今回のコンサートはソロの演奏だから、演奏時間も短い。当日券も買えるから、そこまで厳かなものじゃないよ」
「そうか、なら平気か」
その一言で安心する。
でも、それにしてはかなり席が埋まっているように見える。
これが基準なのだろうか。
「まあ、母さんの演奏を聴きに来る人をいるだろうし、特に都内ではこのくらいの収容率だよ」
「聴きに来るって、遠方から?」
「流石にそこまでの人はいないと思うよ。今年は都内近辺を回るらしいから分からないけど。母さんは各地を飛び回って演奏してるから、結構な有名人なんだぞ?」
「……そうなんだ」
名前を調べれば、数多の件数がヒットするのだろう。
でも、俺はそんなことをする気にはなれなかった。
親しい間柄の人間が称賛されると、自分の事のようにうれしくなった経験はある。
ただ、それに母さんは当てはまらないということだけだ。
あの人が称賛される姿を想像したくなかった。
何が家族だ、俺たちを捨てたくせに……
「……」
俺は黙り込んでしまった。
それを察したのか、父さんも舞台ステージに視線を合わせる。
静かな時間だ。
時間の流れが遅く感じる。
次第に人の流れが減り、空席が埋まっていく中、二人がこれ以上会話をすることはなかった。
ーーー
開演のコールが鳴り響く。
それに伴って、穏やかだった客席の雰囲気が引き締まるのを感じた。
静寂が会場を包み込む。
「……」
舞台から等間隔で置かれている照明が光を失い、ステージが脚光を浴びている。
この場の誰でもない、ステージが主役の出演を待望しているように見えた。
その期待に応えるかのようにして、パンプスが地面を叩く音が聞こえる。
静寂の中、甲高く鳴り響く音。
既に演奏が始まっているように感じられた。
次第にその音が大きくなる。
そして人影を捉えるや否、下階の客席から拍手が巻き起こる。
呼応するようにして目の前に座っている客人達ももてなし始めたので、俺も取り繕う。
暖かく迎えられた主役はそのまま歩き続けて、中央に置かれたグランドピアノの前に立つ。
静止すると、客席に身体を向けて一礼し、再び目の前のピアノに向き合った。
身体を曲げることなく屹立したまま流れるように鎮座する。
身に纏うロングドレスが、一連の所作に魅力的な印象を与えている。
そして最後に、長く繊細な指先を鍵盤に置いたことでその動作は終わりを迎えた。
ここから見ていても分かるほどに細長い指。
鍵盤を叩けば、そのまま折れてしまうのではと心配になるほどだった。
「……」
時が止まっていた。
この場にいる全ての人間が、静寂を強いられているように、身体を硬直させている。
この場の支配権は、ステージの彼女に委ねられていた。
彼女が魔法をかけているのだ。
そして、指先が動くとともに、魔法は解かれていく。
聴覚を刺激され、固まっていた五感が一気に弛緩する。
雰囲気が変わった。
果実を得た人類が繁栄していく瞬間を目の当たりにしたのだ。
「……」
俺は目を見開いて、目の前の出来事に圧巻してしまった。
口元に力が入り、それでも目を逸らすことは出来なかった。
クラシック音楽に精通しているわけではない。
演奏曲も初めて聴くものだった。
なのに、溶けるように身体に浸透して、もう手放せない。
虜になってしまっていた。
ーーー
演目は当たり障りなく進行していき、いよいよ終演が近づいていた。
のめり込んでいると、時間があっという間に過ぎていくらしい。
あの人が奏でる音楽を聴いていると、心が浄化されていくような錯覚を感じる。
鍵盤を優しく叩き、愛でるように。
音楽に対する姿勢は本物なのだろう。
だからこそ、俺は複雑な思いを抱いてしまう。
彼女は指を止めて、演奏を終える。
すると、一呼吸おいて席を立ち、こちらに身体を向けた。
「……?」
何をするのか分からなかった俺は、ただ目の前の出来事を享受するだけだった。
ステージ下でスタンバイしていたスタッフからマイクを受け取ると、そのまま言葉を発した。
「本日は私の演奏を聴きに来てくれてありがとう、ございます……」
先ほどまで人々の心を掌握する演奏をしていた人物とは別人のように、頼りなくおどおどとした口調。
今日初めて公演を聴きに来た人は、この落差に少子抜けするだろう。
でも俺からすれば、昔と変わらない姿に一種の安心感を覚える。
「次が最後の演奏になりますので、最後までご清聴のほどを、宜しくお願い致します」
軽く一礼すると、冒頭の熱が再び沸騰したのか、客席からファンファーレが起こる。
最後の演奏に期待を込めて、客席からの拍手が大きく響き渡った。
その光景に高揚したのか、母さんは再び礼をして、席に着く。
鍵盤に触れる。
その瞬間、空気が変わるのが分かった。
肌を伝う緊張感。
これから始まる出来事が、何かとてつもないものを生み出す予感。
「祐介」
隣から声をかけられて、俺はその先に顔を向ける。
父さんはこちらを向いておらず、ただ目の前を見ていた。
「何?」
周りの迷惑にならない程度に声を細めて聞いた。
「お前が知ってる曲だ」
「?」
まだ始まってもいない演奏。
それでも、父さんは演奏される曲が何であるかを知っているようだった。
「知ってるって何を___」
そこまでで言葉を中断した。
異様な程にまで静かな空間で、これ以上荒げるのは避けるべきだったからだ。
答えは目の前にあるのだから、それを待った方が賢明だ。
視線をステージに戻して、俺はその時を待つ。
ステージでは、今まさに終局を奏でようとしていた。
指を下ろし、鍵盤に添える。
最後の演奏、演目の集大成。
終幕にふさわしい演奏が始まる。
「……」
これまで弾かれてきた力強い印象とは正反対。
優しく甘美な旋律だった。
この曲の名前は知らない。
でも、これが初めてではないことが分かる。
そうだ、あれは初めてコンサートホールに連れて行ってもらった時と同じだ。
父さんの背中に乗りながら、遠巻きに母さんの演奏を聴いていた。
妙に印象に残った曲だったから覚えている。
「……?」
声が聞こえた気がして、視線を隣にやる。
父さんも演奏の虜になっていたらしく、ステージから目を離せずにいた。
でも、その目はいつもの優しい目をしていなかった。
目を薄めて、遠くから眺めている。
いつもと違う、慈愛をのせた瞳。
……なんだよ、それ
俺の知らない瞳をしていた。
俺に向けられることのない、あの人にだけ向けられた特別な何か。
正体が分からなくても、それくらいは分かる。
だって、父さんの目の中に、俺は映っていないから______
ーーー
「母さんに会わなくていいのか?」
全ての演目が終了し、俺と父さんは会場から出て、受付脇の休憩所にいた。
このまま帰る気でいた俺は、父さんの用事に付き合うつもりは毛頭なかった。
「いいよ、楽しんできて」
形を取り繕う。
「本当にいいのか、母さんも喜ぶぞ?」
母さんも喜ぶ……
「……ちょっと疲れたから休んでるよ」
「……そうか、じゃあすぐ戻るよ」
そう言って、父さんは勇み足で通路を進んで行った。
それを見届けると俺は一人になる。
心なしか空気が淀んでいる気がした。
俺は出口に向かって、自動ドアを通り抜ける。
外に出ると、左に海が広がっていた。
その手前に設置された柵に手をついて、俺は海風に当たる。
下を見ると、流れていく波が視線の先にある岩盤に衝突して、行き場をなくしていた。
次から次へと波が絶え間なく押し寄せ、音とともに消えてしまう。
時折吹く風がその動きを助長させているように感じた。
「……」
最後の演奏を聴いていた父さんは、母さんだけを見ていた。
演奏に心を奪われていたわけではない。
寧ろ、心で通じ合っているように感じられた。
家族だからであろうか。
でもあの人はもう家族ではない。
じゃあ、どうして通じ合うのか。
「……くそ」
初めから分かっていたことだ。
ここに来れば、嫌でも考えてしまうことぐらい。
それを承知で決めたのだったら、向き合わなければならない。
分からないなら理解するしかない。
理解すれば、きっと納得出来るから。
……
でも、本当にそうであろうか?
理解した先に、俺の望む答えがあるのだろうか?
「捨てたくせに……」
吐き捨てるように言葉を漏らす。
声は波にかき消されてなくなっていく。
もうあの頃には戻れないのだ。
だったら、結局考えても意味がない。
「……戻るか」
父さんはすぐ戻ると言っていた。
流石に早すぎる気がするが、外にいる用事もない。
このまま、中に戻ろう。
そう思い、柵から手を離そうとした瞬間、後ろから声をかけられた。
「祐介君?」
「え」
聞き覚えのある声。
ここにいるはずがない。
なのに、ここにいる実感が沸いてしまう。
声がする方へ振り返り、存在を確かめようとした。
「……?」
けど、振り返った先に安藤はいなかった。
代わりに、黒いドレスコードを身に着けた女性が立っていた。
サングラスをかけ、帽子で頭を覆っていたため、一瞬外国人かと思ってしまった。
「ごめんなさいね、少しからかってみたくて」
先ほどの声はこの人に仕業らしい。
それが分かった途端、色々と気になることが沸き出てくる。
「あなたが甲斐祐介君なのよね?」
「はい、そうですけど……。どうして俺の名前を?」
名前をそうだが、他にも気になるところがある。
なぜ安藤の声真似をしていたのか。
この人は何者なのか。
猜疑の目を向けていると、目の前の女性はサングラス越しに目を合わせてきたように思われた。
まるですべてを見透かしているような、そんな目を。
「あなたとは初めてお会いしたと思うから、先に自己紹介をしておくわね」
そう言って、サングラスを外す。
素性が明らかになると、俺はデジャブを覚えた。
この人、どこかで見たことがある?
正確には思い出せない。
でも、最近の事に違いない。
この数週間、いや数か月の何処か。
「……」
「あら? あまり業界には詳しくないのかしら? それにしてはあの子の事を良く知ってるみたいだけど?」
「あの子……?」
「まあいいわ。それだったら、早いうちに縁を切ってもらえばいいし」
勝手に話が進んで、ついていけない。
「待ってください! まず、あなたは誰なんですか?! それにあの子っていったい誰のことを___」
焦りからか、つい態度を弁えずに勢いのままで言葉を並べてしまった。
それが相手に不快感を与えることになるとは知らずに。
「……あなた、それが社会人としての態度なの? 少し失礼じゃないかしら?」
先ほどよりも強い嫌悪感を向けられる。
会ってすぐの会話でも、友好的な雰囲気を感じなかったが、今は敵意を丸出しにしている。
揚げ足を取られているのは分かっていた。
でも、それを問い詰めたところで、俺にメリットがない。
名前を知っていて、友好的ではない。
この後に待ち受ける災難を少しでも和らげておかなくてはならない。
「……すみません」
「まあいいわ、……高校生にむきになった私にも非はあるし」
女性はそう言って、俺の隣に近づいてきた。
柵に背を向けて、寄りかかる。
「あなた、ショパンが好きなの?」
「え?」
先ほどの対話から一転、いきなり好きがどうかを聞かれて、少し少子抜けする。
ショパンと言われても、よく知らない俺には、答えようがなかった。
「いや、人の名前だとしか……」
「ショパンを知らないの? じゃあどうしてこんなところにいるの?」
「それは……」
質問攻めをされて、息が詰まりそうになる。
それに加えて、なぜここにいるかって?
そんなこと言えるはずがない。
家庭の事情を赤の他人にほいほいと語る奴がいるだろうか?
「……」
「あら、理由もなしに来たの? ますます分からない子ね」
勝手に不思議ちゃん扱いを受けているが、自業自得なのだから仕方ない。
「……分からないって言うならあなたもそうですよ。教えてください。誰なんですか?」
でも、俺からしたら、この人の方がよっぽど得体の知れない不審者だ。
大人の女性に一方的に知られている恐怖は計り知れなかった。
すると、女性は一息ついて、少し迷った後、言葉を発した。
「新藤理沙って言えば分かるかしら?」
「新藤理沙……」
その名前に聞き覚えがあった。
確かあれは___
「……声優」
「名前は結構有名だと思ってたから、ここまで知らない子は珍しいわね」
そうだ、テレビでよく見かける。
ナレーションの名前欄にこの名前がよく貼られていた。
それだけではない。
デストロイ映画の日本語吹き替え版に出演している。
この前教えられていた知識が役に立った。
「……」
隣を見る。
自分が知らないだけで、他にもバラエティー番組やラジオ、日本各地を回る超有名人なのだろう。
そんな芸能人である女性が、今目の前にいる。
「どうして、こんなところにいるんですか?」
自分が聞かれた質問を、今度は自分がする。
「親が音楽関連の仕事をしていて、その影響を受けたからってところかしら」
音楽関係。
もしかして、母さんと同じような演奏者なのだろうか。
「今は海外で活動してるから会う機会は少ないけど、いつか一緒に仕事が出来たらって思ってるわ」
「……壮大ですね」
「そうでもないわ。現にもうすぐのところまで来てるんだから」
「……」
桁が違う、そう思った。
俺からしたら果てしなく遠い目標。
その道をこの人は歩んでいる。
「まあ、雑談はこの辺にしましょう。次が本題ね」
「本題ですか?」
「ええ、とっても大事なお願いがあるの」
そう言いながら、笑顔を見せる新藤さん。
心地よく感じていた風が、一種止んだ。
波が打ち付ける音が大きくなった気がした。
「……何ですか?」
何か嫌な予感がした。
漠然としたものだけど、確証だけがあった。
新藤さんは一歩、また一歩と歩いていき、柵から離れていった。
そして、数歩進んだ後にこちらを振り返り、
「これ以上、私の妹に近づかないでもらえるかしら?」
目を細めながら、言葉を発した。
「妹……」
先ほどから気になっていたこと。
あの子とは誰なのか。
何で俺の名前を知っているのか。
そして、どうして安藤の声を真似たのか。
辻褄が合っていく。
気付かない方が良かったのかもしれない。
気付かなければ、いくらかごまかしようがあったかもしれないから。
「安藤……」
「知ってるんでしょう? あの子が声優だって」
「……」
「知ってるのなら、今の内に関係を絶った方があなたのためなのよ?」
あいつとの関係を絶つ……
「……それは、どうして?」
「あの子と関わって、自分の人生を棒に振っていいの?」
「それは……」
「それに、半端な気持ちで他人の人生を潰さないでほしいの。あなたと関わったことで、あの子の人生に支障が出るかもしれないのよ?」
俺は何も言い返せなかった。
始めてあいつと会ったときは感じていた不安。
最近はそんなことはないと思って一緒に行動してきた。
でも、初めから分かっていたことだろう。
夢を追いかける安藤の歩みを、夢を持たない俺が邪魔しているって。
どんな理屈があろうと、その事実は変わらない。
「……お願いしたいのはこれだけ。じゃあ宜しくね」
そう言って、新藤さんはこの場から立ち去った。
一人取り残されて、呆然とする。
変わろうと思ってあがいた結果がこれかよ。
見たくもない現実を見て、耐えて、立ち向かって。
その先に俺の望む未来があると信じていた。
でも、そんなものはなかった。
あるのは辛い事実だけ。
「……」
こんなことだったら、逃げてしまえばよかった。
今までのように、他愛のない日々を過ごしていれば、心が痛むこともなかったのに。
きっと夢を見ていられたのに。
ポケットに入れてあったスマホが振動する。
父さんからだろう。
俺はその着信に出ることなく、海を眺めた。
少しでも忘れたい、背けたい、そんな思いを抱えて。
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