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第二楽章 信用と信頼
マーガレット
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「……安藤」
無意識に口から零れた。
俺の目と鼻の先には、焦がれた人物が立っている。
「……」
その女性は何も言わない。
まるで俺のことなんて視界に入っていないかのようだ。
「あ―――……いや……」
続ける言葉が浮かばない。
指先が震え、視界がぐらつく。
久しぶりに対面を果たした高揚感なんて存在しない。
あるのは、ただの焦燥。
最後に会ってからどれだけの時間が経ったのか、指を折り畳んでも数えきれない。
それだけの時間が経てば、よく見知った彼女は別物に感じられた。
何を考えているのか、何を思っているのか、今の俺には分からなかった。
「……あ」
俺に気がついたのか、安藤は初めて言葉を発した。
「―――……!」
その瞬間、俺は自身の異変に動揺した。
指先の震えが全身に伝播したかのように、身体が強張る。
声を聴きたいと思っていたはずなのに、喜べない。
その瞬間が訪れることを願っていたはずなのに、今はただ怖かった。
「久しぶり……だね……」
そんな俺のことなどつゆ知らず、安藤は他人行儀だった。
「……ああ」
返す言葉が分からず、俺も同じ作法に従ってしまう。
……
沈黙が続く。
もっと言いたいことがあったはずなのに言葉が出てこない。
取り繕っているわけではない。
何を言っても現状が変わらない、そんな事実を既に知っているから。
「……私さ」
沈黙に耐えられなくなったのか、安藤は一転して興起した口調になった。
「家、この辺なんだよね」
「……?」
急に何を言い出すのかと思った。
思わず呆けている間も安藤は続ける。
「今日も仕事があって疲れちゃった……だからさ、寄り道せずにここまで帰って来たんだよ」
脈絡のない話だった。
「明日もレッスンがあるから大変だなって……そう思ってる……」
「……ああ」
何を考えているのか全く読み取れない。
眼前の不可思議な彼女を今まで見たことはなかった。
こんな安藤を俺は知らない。
この時間から逃れたい、俺とは会いたくない、伝わってくるのはそんな乖離だけ。
……
日々が彼女を変えてしまった、そう断言すれば良い。
空いてしまったひと時に立ち会わなかった自分の意見など、ただの私的な一言に過ぎない。
時間は等しく過ぎていく。
だから、今の安藤はこうなのだと理解する。
「大変、なんだな」
だから、俺は彼女に寄り添う。
無駄な行為だと分かっていながら。
「うん……だからさ、もう帰らないと……」
そう言いながら、安藤は俺の前から消えて行く。
「ああ……またな……」
次に彼女と会える保障なんてない。
それでも、おれは未練がましく言った。
折り合いをつけていたはずなのに、それでも、俺は言った。
「うん、またね……」
安藤は最後まで目を合わせようとしなかった。
恐らく罪悪感からだろう、新藤さんから聞いた通りならば。
俺との関係よりも自身の夢を優先した、その罪悪感。
未練など断ち切ったつもりだった。
それなのに、終わってしまったものに無様にしがみつく。
悠馬があんなことを言うからだ。
折り合いをつけたつもりでも、心の内では期待していた、望んでしまっていた。
もう一度なんて、有り得ない幻想を抱いていたんだ。
「ああ、また……な……」
でも、そんなものあるはずがなかった。
もう安藤とは修復出来ないんだ。
明確に避けられている事実がそれを物語っている。
また会えて良かった。
どうにもならない現実に向き合えて、儚くも願っていた幻想を断ち切ることが出来そうだ。
だから、もう諦めよう。
彼女とはもう他人なのだと、生きる世界が違うのだと、初めからそう決まっていたのだと。
そう、決めていたのに―――
「え―――……」
安藤が驚いた様子でその場に留まっている。
自身の右手を見て、声を漏らしていた。
「……待てよ」
勝手に口が動く。
反射的に俺は彼女の手に触れていた。
彼女の熱が、その温もりが、触れ合う肌を通じて伝わってくる。
「まだ、終わってないから……」
慈しみを覚えながら、俺は言葉を紡ぐ。
手先の震えは消え、身体のこわばりが解けていくのが分かった。
だから、触れる肌を噛み締めるように彼女の手を掴む。
しっかりと彼女を離さないように。
「どうして……」
状況を飲み込めていないのか、彼女は困惑しているように見える。
伝わる温もりが答えを示しているようだった。
「どうして離してくれないの……もう話は終わったのに……」
彼女の言葉は微かに震えていた。
指先に力が入るが、どうすればいいのか分からずに所在なくしている。
さっきまでの自分自身を鏡見ているようだった。
……
それを認めると、俺は自身の身体を彼女に向けて言葉を返した。
「このまま終わりにすれば良かったのかもしれない」
そうすればこれ以上傷つくこともないし、自分を隠せたと思う。
何よりも安藤がそう決めたのなら、他人である俺はそれを尊重すべきだ。
「でも、無理だよ」
諦めたはずなのに、もう手放したはずなのに、結局俺は拒んだ。
最後の最後で、俺は自分に正直になった。
どうしてだろう。
「……安藤」
俺は答えを求めるように、俯く彼女の名前を呼んだ。
そして、手持無沙汰な左手でこわばりを解くように、彼女の前髪を流す。
「あ……」
彼女は声を漏らした。
俯き、前髪で隠されていた瞳には、俺が映し出される。
初めて、目が合った。
「どうして泣いてるんだよ」
普段の様相では考えられない程に目の周りが腫れぼったい。
嘘偽りない彼女の心情、滴り落ちた涙の跡がくっきりと残っていた。
「―――……!」
それを隠すように、彼女は俯く。
それでも、一度知ってしまったことを忘れることは出来ない。
「お前が泣いてるのに蔑ろにするなんて……俺には出来ない」
答えを反芻し、俺は言葉を続ける。
「辛いとき、お前は俺を助けてくれた。お前に信じてもらえたから、俺は救われたんだ」
信じてほしい、認めてほしい、そんな人生を送るのだと思っていた。
そんな空っぽな生き方は浅ましく退屈で他愛のないものだ。
でもそこから救い出してくれたのは、安藤だ。
彼女のおかげで、俺は変化していく世界を受け入れた。
自分を好きになれるよう、俺は未来を向けるんだ。
「なら、今度は俺の番だ」
大切なものを失ってしまうところだった。
誰が言ったとか、誰が思ったとか、そんなものは最初から関係ない。
理由なんて、目の前の彼女が教えてくれたじゃないか―――
「聞かせてくれよ……お前の本音」
最後にそう言い残し、俺はバトンを送った。
安藤は俯いたまま動かない。
夕日の影に隠れ、表情は見て取れなかった。
でも、触れる手先の温もりは変わらない。
強張っていた指先から徐々に力が抜けていき、最後には何も残らなかった。
「……どうしてなの……? どうして私のためにそこまでしてくれるの……?」
ようやくして安藤が口を開く。
肩を震わせながら、問いかけるように言葉を絞り出していた。
「それは……」
一瞬言葉に詰まるが、俺には答えがある。
迷い続けて、辛い思いをして、ようやく気づいた思い。
赤菊を秘め、俺は彼女に伝える。
自分が救われた言葉、今の関係を端的に言い表す言葉、俺自身が望んでいた言葉を―――
「大切な人……友人だから、だから俺を信じてほしい……助けになりたいんだ」
「…………っ、ごめん……」
そう言うと肩の震えが段々と大きくなり、安藤は左手で顔を覆った。
「安藤……?」
「ごめん……うぅ……っごめん……なさい……っ」
溢れる感情を抑え、それでも零れ落ちる涙が彼女の瞳から流れる。
それを皮切りに、嗚咽を漏らしながら安藤は泣き崩れてしまった。
「お、おい……!」
道中で泣き崩れる安藤。
人目も弁えずに身体を預ける彼女に、俺は動揺した。
それでも、胸の内に抱く彼女は泣き続ける。
――離れてくれ、なんて言えないよな……
周りから視線を受ける。
外から人の泣く声が聞こえれば気になるだろう。
見知った近隣住民がこちらを訝しげに見ていた。
これ以上ここに居れば、悪い噂が立ってしまう―――
「取り敢えずさ、うち来いよ。お茶なら出すから」
この場から離れる理由としては最適の提案をする。
幸いにも自宅はすぐ先だった。
安藤が頷くのを待ち、俺は自宅に彼女を招いた。
焦る気持ちを抑え、なるべく早く、それでもゆっくりとその場を後にする。
その間も、安藤は泣き続けていた。
ーーー
「もう大丈夫か?」
「うん……落ち着いた」
そう言いながら、安藤は顔を覆っていたタオルを翻す。
涙の跡も消え、本当に落ち着いたのだと分かる。
「悪いな、せっかくの化粧が崩れたかも」
「別に良いの。化粧と言える程の化粧してないし」
「……そっか」
安藤から受け取ったタオルには化粧跡が滲みついていなかった。
代わりに涙が滲み込んでいる。
貯め込んでいたものを吐きだしたようだった。
「お茶のおかわりはいる?」
「ううん、大丈夫……」
洗濯カゴにタオルを入れた後、冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出してコップに移す。
それを手に持ち、テーブルに置いた。
「ごめん、待たせた」
向かい合った椅子に座りながら俺は言った。
「ううん、大丈夫」
安藤は笑顔で応えてくれた。
でも、傍から見ても分かる程に引きつった笑顔だ。
家に招いてから時間も経つが、まだ落ち着いた様子ではないことが分かる。
「……家が近くなんて知らなかった。駅側の住宅地帯に住んでるとばかり」
「寧ろ反対、河川に近い側に家があるから……団地方面って言えば分かる?」
「ああ、そっちか」
以前に新藤さんと出くわした付近なのだろう。
辺りは騒々しいとは対称的な住宅街が建ち並んでいたことを思い出す。
普段から忙しなく焦燥感に溢れた都会に慣れた人が構えるには絶好の住居に違いない。
……
安藤が目の前にいるのに、心にゆとりがある。
考える必要がないことにまで思考が及ぶ。
今までの自分がまるで別人だったかのように冷静だと分かる。
自分のことで精一杯だったのに、それ以上に今の安藤の姿が痛々しくて見過ごせなかったからだろうか。
他人を気遣う余裕なんてないと思っていたのに、自分自身の変わりようについていけない。
なんとまあ偽善的で虚像なペテン師だと思う。
でもペテン師でも良いと思った。
安藤と話が出来るなら、あの頃のように取り留めのない会話が出来るなら、俺は喜んで捧げる。
「まあ……あんたでも知ってるよね、地元住民の間でも近寄りがたいで有名だし」
「心霊スポットかってくらい不気味な場所だからな。というか前にお前と歩いただろ、公民館に行った時にさ……忘れた訳じゃないだろ?」
「……そうだったね」
安藤はテーブルの上で指を転がしながらそう言った。
「……」
表情は柔らかくなったが、まだ所在なさげに見える。
いきなり本題に入るのは無粋みたいだ。
「……小学生の時は秘密基地みたいに思ってたけどな……昔の俺が勇敢すぎて驚きだよ」
「え、昔のあんたって今より活発だったの?」
「……昔? なんで急に……」
「少し気になっただけ……悪い?」
「いや、別に……」
軽い雑談のつもりが、安藤は意外にも興味を示してきた。
目を逸らしつつも耳を傾けている。
その仕草に思わず惹かれてしまう。
こんな話がしたくて家に招いた訳じゃないんだけどな……
「分かったよ……別に大した子供じゃなかったけどさ」
目の前に置かれた粗茶で喉を潤し、一息ついてから話す。
「まあ、今よりは元気な性格だったと思う。家族関係を良好、友達とも毎日放課後になったら遊びに出かけるくらいだったし」
小学二年生の頃だろうか。
放課後になれば近所の公園で集合するのが決まりだった。
時には学校の校庭、時には老婆が営む昭和テイストの駄菓子屋、時には駅の反対側にある大型量販店に足を運ぶ。
時間を惜しんで走り回り日々を送っていた。
「子供らしいね」
「実際に子供だったんだからいいだろ……でも、本当に楽しい思い出ばかりだった」
「じゃあ、今もその人達とは仲が良いの?」
「……いや、あれからもう会ってないよ」
「え……」
何も考えずに日々遊んでいた小学生の自分。
でも、そんな楽しい日々が永遠と続く訳ではないことを当時の俺は知らなかった。
「……団地の敷地内におんぼろな公園があるんだけどさ、あそこって誰も寄り付かないから秘密基地にするには絶好の場所だったんだよ」
自分達だけの場所を作りたい、幼少期なら誰でも考えそうなことだ。
俺も例外なく秘密基地という響きに憧れた。
「友達誘って一緒に作りに行ったんだ。廃棄物は腐るほどあったから、それを垣根に乗せて屋根を作ってさ……」
時間を作って三人で少しずつ作業した。
初めは材木を寄せる程度の添え木だった壁も、雨水を通してしまう屋根の隙間も、完成形になっていくにつれて何か自分の中でこみ上げるものがあった。
「完成したあとは皆で喜んだよ。特に俺なんかは引っ切り無しに足を運んでた……」
完成した秘密基地の中で、俺達はお菓子を食べたり、カードゲームに夢中になっていた。
台風が列島に上陸した日には、父さんの制止を振り切って基地の様子を見に行こうとした程だった。
嵐が通り過ぎた次の日は、崩れた外観を修復し、飛んできた瓦礫を一人で撤去した。
手ぬぐいを持たず、泥だらけになりながら、夢中になって片付けていた。
「そんなに楽しかったなら、どうして……?」
「確かに俺は楽しかったよ、初めて夢中になれるものが見つかった気がしたから」
「尚更だよ……! どうして―――」
「……友達はそう思っていなかった、俺の勘違いだよ」
「―――……!」
台風が過ぎて一人で瓦礫を除けていた後の学校で、俺は自分が避けられていることに気がついた。
話しかけても、話しかけても、返事をもらえない。
所謂、無視だ。
後から聞いた話だが、台風が直撃している日に秘密基地の様子を一緒に見に行くよう誘ったことが原因らしい。
それを聞いた友人の親が、俺と関わるなと強く求めたとのことだ。
傘が原型を留めず、大人でもその場で硬直していることが精一杯のような外に、我が子を連れ出そうとする子供がいれば誰でも制したくなる。
それほどまでに秘密基地に固執する俺を、友人らは気味悪そうに見ていた。
たかが木材を詰め合わせたもの、それに執着する俺は異様だったのだろう。
成熟した今だからこそ、それの危険さが身に染みて理解できる。
子供の自分はまだ周りが見えていなかった。
「原因が俺にあったからな、何も言い返せなかった。それを契機に遊ばないようになって、疎遠になったまま友人たちは私立中学に進学していったよ」
「……」
「なんだよ、別に大したことじゃないだろ? 夢中になりすぎて視野が狭かった自分が原因なんだから。……まあそれでもさ、信頼されてると思ってたから当時は一方的に裏切られた気分だったよ……それが今でも忘れられない」
俺が話し終えた後でも、安藤は何も言わずに座っていた。
いや、何も言えずにが正しい。
どう擁護すればいいのか分からなくなっているのだろう。
他人の意見なんて聞き流せばいいのに、安藤は真摯に向き合ってくれる。
本当に優しい人なんだな……
話して良かったのかもしれない、そう思った。
「でも、さ……その……」
考えがまとまったのか、それとも沈黙が失礼だと思ったのか、安藤は繋ぎ止めて言葉を発した。
「あんたが……いや、祐介くんが……その……」
「別に気使わなくていいよ」
「……ごめん、何も言えなくて」
「だからいいって。今の話もそうだけど、他にも偶然が重なったのが要因なんだからさ……まあ、それで自信が持てなくなったのかなって思うよ」
他人に信じてもらえる人間なのか、それからはいつも考えていた。
トラウマになっていたのだろう。
今でもそれは克服できていない。
どうすればいいのか、空に浮かぶ雲を手で掴むような思いだった。
いくらもがいても答えがないかもしれない。
そんな時、普通の人はどうするのか―――
「……なあ、安藤」
俺は確かめるように安藤の顔を見つめた。
涙の跡は癒え、落ち着いているように見える。
でも、今の俺には分かる。
視線が定まらず、右手でもう片方の手を握っている。
取り付く島もない程に不安げな様子だった。
「演技が得意なお前が取り乱すなんて、らしくないだろ」
握る力が強くなる。
微かに震え、肌をさすっていた。
「……分かるの?」
「分かるに決まってる」
だって、いつも君を見ていたから。
「だから、力になりたいんだ」
あの日、俺を信じてくれたように、俺も安藤を信・じ・た・い・。
迷い、それでも譲れないものはここにある。
ぐちゃぐちゃになっていた自分はもういなかった。
「……うん」
沈黙を続け、意を決したように安藤は頷く。
そして、ゆっくりと口を開いた。
ーーー
降りしきる雨の日、突然玄関口に現れたあいつは何度も私を求めていた。
気に留めていないことを謝り、頭まで下げた。
電話で私を怒らせるような発言の謝罪だった。
でも私は本当に気にしていない。
――そんなこともあったな……
私は忘れていた。
そんなこと、逐一気にしている余裕なんてないんだ。
私には時間がない。
それなのに、わざわざ私を呼び止めて時間を奪うのは非礼だ。
一緒にここまでやってきたからこそ、今が大事な時期だと分かっているはず。
それなのにどうして私の邪魔をするのか。
――祐介くんは理解してくれていると、思ってたんだけどな……
彼もお姉ちゃんと同じように私の邪魔をするんだ、そう思うと心が苦しい。
信頼していたのに、一方的に裏切られた気分だった。
「じゃあ、私急いでるから……」
そう言い残し、私はあいつと別れた。
振り返らず、ただ前を向いて。
それからの私は怒涛の日々だった。
もう少しで始まる最終選考、刻一刻と迫ってくる日を確認して、私は少しでも練習を重ねていった。
寝る間も惜しんでレッスンに励み、練習に使っていた冊子は至る所に綻びが見えるようになった。
「今のところ、もう一度……!」
審査内容は、実際にヒロイン役として指定の箇所を演じ切ること。
最終選考に至るまで、私が何度も読み込んで練習してきたところだ。
小説部分ではヒロインの心理描写がほとんどない。
そのため、私達演者は如何に彼女を理解しているのかを審査されるのだろう。
最後の審査には、映像化を担う制作陣やスポンサーの方々が実際に足を運んで審査に加わる。
直に私の演技を見てもらえるのだ。
「私は凄い……選ばれるべきなの……」
そう自分自身に言い聞かせる。
選ばれれば、私の実力を証明できる。
お姉ちゃんの力なんて関係ないのだと、私は認められるべきなのだと、お姉ちゃんに示すことができる。
決して私がお姉ちゃんのコネで選ばれたのではないと証明するんだ。
そうすれば、お姉ちゃんは私を認めてくれる。
皆も私がお姉ちゃんよりも凄いって口を揃えて褒めてくれる。
何もない私にも、唯一勝てるものがあるんだって皆に証明できる。
「私はお姉ちゃんよりも凄いんだ……!」
飢えた欲求を胸に秘め、私は練習に取り組む。
全てはオーディションに受かるため。
焼印のように埋め込まれた悪しき思い出も、嫌な事も、辛い現実も、もうここまでだ。
合格すれば、全てが上手くいく。
私が望む方へ、あらゆるもの全てが進んでゆく。
だから、私は努力した。
この日のために、全てを捧げてきた。
演技も上手くいった、自信がある。
審査員の反応も良い。
今日の全ての参加者の中で、私が一番だと豪語できる。
絶対に私が選ばれる、そう思った。
けど、突然開いた扉を見て、私の展望は終わる。
「え……?」
私は自分の目を疑った。
今、私は審査会場にいて、演技を終えて、後ろに設置されているパイプ椅子に座っている。
一人ずつ立ち上がり、マイクの前に立ち、実践的に審査されていた。
私が最後の審査番号で、私が演技を終えたらそこで最終選考は終了する、はず。
何度も確認しても、そこまでは合ってる。
じゃあ、目の前にいる人は誰だ。
「どうしてこの人がここにいるの……?」
「分からないわよ、そんなの……」
突然の大物登場に周りが静かに騒ぎ立てるが、私の耳にはそんな雑音が入ってこない。
有り得ないのに、そんなはずないのに、私はこの人を一番知っている。
「10番、新藤理沙、神妙寺しんみょうじかなで役をやらせていただきます」
――どうしてここにお姉ちゃんが……?
痛いくらいに心臓が跳ねる。
内から溢れそうになる。
身体は分かっているのに、頭が理解しようとしてくれない。
ここにいる時点で理由は一つなのに。
マイク越しに指示を受け、お姉ちゃんは演技を始める。
息を吸い、右手に台本を添え、姿勢を正す。
凛とした動作に視線が集まる。
「―――……!」
私は息を呑んだ。
何百何千回と繰り返したであろう諸式は、あまりにも自然で圧倒される。
他の参加者も、審査員も同じ体感だろう。
演技が始まる前から、既に敗北を味わっていた。
それでも、私は認めたくない。
お姉ちゃんの後ろ姿を凝視し、審査の開始を待ち続ける。
それは永遠にも感じられた。
でも、演技は始まった瞬間、全てに終止符が打たれた。
私が読み込んで作り出したヒロイン像は、何度も繰り返して見つけ出したイメージは、悉く崩れていった。
何年もしてきた努力も、身に着けたベールも、圧倒的な実力の前には無力だった。
身体全体を使って表現する姿は、自信の裏付けだった。
私の知らない解釈、私以上の演技、私には出来ない表情。
お姉ちゃんの演技に魅了されていく。
「……」
私は思わず感動した。
瞳から涙が零れ、頬を伝っていた。
それと共に自覚する。
私はおねえちゃんに勝てない。
今までお姉ちゃんと面を向かって勝負したことはなかった。
私が初めて役に合格したのだって、脇役の一人。
対して、お姉ちゃんは主役を勝ち取っていた。
傍から見ても天地の差があるのに、私はどうして同じステージに立っていると錯覚していたのだろうか。
今、同じ役を競う者となって初めて、私はお姉ちゃんの偉大さに気がついた。
悔しいとすら思えなかった。
その時点で、私には初めからこの人と戦う資格がなかった。
負けを認めていた―――
「ねえねえ、演技凄かったね……」
「うん……間近で見られたのって超ラッキーじゃない……?」
演技が終わり、周囲がざわついていた。
誰もがこの一分一秒を噛み締めているのだ。
今後の糧にする者、初めから諦めている者、観客の一人としてこの場にいる者、参加者は十人十色だった。
でも、少なくとも、この結果に悔しいと思える人はいない。
今回は仕方ないと諦めている。
……私も含めて
「……」
感情の整理が追い付かなかった。
その後の面接の最中でも、私は自分が口にした言葉を覚えていなかった。
何を聞かれたのか、何を言ったのか、記憶が曖昧だった。
面接を終えて廊下を歩く時も、待合室で帰り支度をしている時も、私は思考が止まっていた。
「ねえ、今回の選考ってさ……出来レースらしいよ」
途中、そんな言葉が耳に入って来る。
声のする方を向くと、他の参加者らが呟いていた。
「それマジ?」
「スポンサーの意向だってさ。選考って形は成してるけど、ほとんどあってないようなものよ」
スポンサーの意向……
その言葉が空っぽな頭に溶け込んでくる。
その言葉が正しいなら、私は―――
視界が狭く感じる。
会場に行くときは何ともなかったのに、帰りの足取りは重い。
時折すれ違う人とぶつかりながら、駅に着く。
流れ作業のように電車に乗り、気がつくと最寄りの駅に足を着いていた。
「……疲れた」
沈黙を解く言葉がこれだった。
ふくらはぎが張り、身体が重い。
「……でも、何とか帰ってこれた」
見慣れた景色がこんなにも安堵を与えてくれるとは思わなかった。
張っていた緊張が解けていくのが分かる。
今日の出来事が全て嘘だったかのよう思える。
でも、全部本当のことだ。
お姉ちゃんの演技も、オーディションも、全て実際にあった出来事なんだ。
「間近でお姉ちゃんの演技を見るのは二回目かな」
あの時とは違う、同じステージに立って初めて見た演技。
でもそもそも前提からが間違っていた。
同じステージに、私は立てない。
「悔しいって思えなかったな……」
もちろん圧倒的な実力差だったこともある。
でも、それ以上に、私はお姉ちゃんの演技に感動してしまった。
一人の傍観者として、視聴者として、ただ凄いと思ってしまったのだ。
「……っ」
悔しい。
悔しいと思えなかったことが悔しい。
何も知らずにお姉ちゃんに勝てると過信して、結局自分のやってきた全てが否定されたのに、それを悔しいと思えなかったことが、悔しい。
結局、私はお姉ちゃんが作り上げた道を歩くだけの空っぽな存在でしかなかった。
実績もお姉ちゃんに作られたもので、努力もお姉ちゃんに教わったもので、自分自身で培ったものは無駄に終わった。
「ぅ……っ……いや、だ……よ……!」
自覚してしまうとあっという間だった。
涙が止めどなく溢れる。
周りの目を憚らず、私は声をあげて泣いた。
護るものなんて何も残っていなかった―――
ーーー
安藤は堪えていた涙を抑えきれずに流していた。
手を置いた膝元には、大粒の涙が落ちる。
「ごめん……っ……もう、泣かないって決めてた、のに……っ」
手で目元を拭うが、それでも涙は止まらない。
「ごめん、思い出させるようなこと、して……」
「……いいの、私が……、言いたかったから……っ」
「……ああ」
上手く言葉が出なかった。
俺の知らないところで安藤は一人で戦っていた、その事実が深く突き刺さった。
「ごめんなさい……、私っ、自分のことばかりで……っ、祐介くんに、酷いことしてた……心配かけたくなかったからって……っ、無視するようなことしてた……」
「別に、そんなの―――」
「それだけじゃない……! 心配してくれてたのに、私っ、祐介くんのことを……邪魔に思ってた……っ」
「――――!」
邪魔、それは気持ちのすれ違いがあったのだと教えてくれる言葉。
俺が繋ぎ止めようとした時、安藤はそれを引き裂こうとしていたのだ。
「最低だよ、私……っ、祐介くんはそんな人じゃないって、知ってるのに……っ」
「安藤……」
「ごめんなさい……っ、ごめんっ、なさい……」
懺悔の言葉を繰り返す安藤。
肩を震わせ、声は途切れ途切れだ。
抑えきれない思いを吐露するが、それでも謝罪を止めない。
「……」
その姿を見て、俺はどんな感情を抱いたのだろう。
以前から安藤と新藤さんの二人の関係は、新藤さんの一方的な間柄で成り立っているように見えた。
表には見せなかったが、新藤さんを語る安藤の言葉には、どこか棘を感じた。
過去に何があったかは知らない。
でも、それが今回の発端になったのは間違いない。
安藤は感情的になって、周りが見えなくなっていたんだ。
それこそ、昔の俺のように―――
「……安藤」
気がつくと、俺はその名を口にしていた。
安藤は俺を恐れるように縮こまっている。
まるで親に叱られた子供のようであった。
「そんなに怖がるなよ、怒ってないから」
「でも……っ」
「本当だよ、寧ろ嬉しいんだ……」
「え……?」
「昔の俺と似ているから、気持ちはよく分かる」
連絡をしても既読も付かず、あまつさえ電話にも出ない。
安藤を呼び止めた時の、まるで俺のことを遠ざけるような態度。
その正体が俺に心配をかけさせないためだと、そういうことなら辻褄は合う。
確かに理解はできる。
けど、納得はできなかった。
新藤さんが以前言った、声優を知らない人間が軽々しく干渉するべきではないという言葉。確かに正しいと思う。
元々俺が関わっていい業界ではないし、過剰な介入は御法度なのかもしれない。
でも、今となってはそんなことは今更じゃないか。
彼女を知ってしまった、関与してしまった、その責任は既にある。
去りゆく彼女の手を掴んだ時点で、もう無関係な間柄ではない。
俺は彼女に信じてほしかったんだ。
きみの隣には俺がいる、それを認めてほしかった。
確かに、信頼されなかったことは悲しい。
裏切られた思いで苛立ちを覚える程に俺は悔しかった。
だけど、今の安藤を見ていると、そんな些細なことは気にもならなくなった。
今の安藤は、昔の自分だ。
夢中になって、周りが見えなくなって、目の前の大切なものを失ってしまった昔の自分。
信頼してもらいたくて、でも再び失ってしまうのが怖くて、どうすればいいのか分からない。
俺が良く知っている感情を、今の安藤は抱えているんだ。
「もちろん、裏切られた側としては悲しいよ。信じてほしかったのにって何度も思った」
「……っ、ごめんなさい……」
「……あいつらもこんな気持ちだったのかなって気づけたよ」
「え……」
一方的に裏切られたのは、俺だけではない。
あいつらだって俺に裏切られたと思ったのかもしれない。
あいつはそんな奴ではない、長く続いた関係がそう擁護しても、他人の知らない一面を知れば評価も変わってくる。
だからこそ、皆は自分自身を偽る。
自分を傷つけない防衛策として、仮面を被って普通を演じるのだ。
「まあ、実際に聞かないことには迷宮入りだけど」
「……」
「でもさ、ようやく分かったよ、自分のやるべきことが」
俺は安藤を見る。
怯えながらも、安藤は目を合わせてくれた。
それも認めると、俺は決意を胸に言葉を伝える。
「俺、信じるよ、安藤のこと。もう一度信じてみたいって、思えたから……」
安藤に信じてもらえなかった事実は、正直まだ消化できていない。
知らなかった一面を知って、俺は悲しいと思った。
でも、俺はそれ以上に安藤の良い面を知っている。
共同作業をしている時の貪欲な表情、小説を読み込んでいる時の真剣な表情、一人で夜道を歩けない憶病な表情、そして一緒にいる時の楽しそうな表情。
演技とは異なる、誠からの一面だった。
それを知っていて、安藤を信じられないなんて道理は成り立たない。
それこそ、俺は安藤を裏切ってしまうことになるんだ。
だから、俺は彼女をもう一度信じたい―――
安藤は目を見開き、すぐに視線を逸らす。
口元を固く締め、手先に力が籠っていた。
「……無理だよ、私でさえ自分を信じられないのに……信じてもらうなんて……っ」
「安藤は凄いよ。声優を全く知らない素人の俺が言うんだ、間違いない」
「凄くない……っ、自分の力で手に入れたものなんて一つもない……、私はお姉ちゃんの操り人形に過ぎなかった、だけ……」
「……けど、全てがそうじゃないだろ? 自分で考えて得たものが全て無駄だったなんて、そんなことない」
全てが新藤さんの指示ならば、俺と練習をしようとは考えない。
オーディション合格のために費やした時間は、全て安藤自身が求めたものだ。
彼女の努力は、彼女自身が選択したものなんだ。
「安藤の努力は俺が良く知っている。近くで見てきたから、その凄さは身をもって味わった」
「でも……、結局全て無駄だった……っ、私の努力は意味がなかったんだよ……っ」
再び涙を零す安藤。
全てを否定され、自信を持てない。
でも、その姿は、安藤には似合わない。
「……努力が無駄だったなんて、勝手に決めるなよ。俺は安藤が凄い奴だって知ってるし、努力を欠かさない奴だってことも……」
安藤には笑っていてほしい。
少し無神経なところもあるけど、優しい彼女には笑顔が似合う。
「努力が実を結ばない時だってある。それで悔しい思いをすることだってあると思う。でも―――」
笑顔で楽しそうに演技する安藤は、自分の世界を作り出して、まるで登場人物そのものみたいで。
その姿は、きみにしか創造できないと思った。
「―――安達未菜は報われるべき人間なんだ……!」
そんな彼女を、俺は見てみたい。
彼女の隣で、ずっと見ていたいと、そう思えた。
「……できる、のかな……っ、私に、そんな無謀なこと……」
「できるよ、安藤なら」
「でも、分からないよ……、成し遂げたことなんて、一つもないのに……っ」
「……」
俺が初めて安藤を見た時に感じたのは嫌悪感だった。
自分とは違う、ひたむきに前を向く彼女を見て、俺は嫉妬していたんだ。
くすぶっている自分と比較されているようで嫌だった。
でも、安藤と出会えたから今の俺がいる。
逃げてきたものに向き合おうと思えたのは、安藤が隣で努力していたから。
彼女が俺を変えてくれたんだ。
「だったら、俺が証明する、努力が実る瞬間を……安藤の努力が無駄だったなんて、俺は認めない」
なら、今度が俺が彼女を変える番だ。
世の中には無謀なんてものはないと証明する。
努力は報われるのだと、自分の望む未来を掴んでもいいのだと、安藤に示すんだ。
それが、自分にできる最良の選択だと思った。
「……もう、声優を辞めるって言っても……?」
「それでも、お前に見せたい。諦めても後悔するだけだ。言葉で足りないなら、俺が示してやる」
「でも……」
「俺を見ていてくれ。今度は俺が魅せる番だ」
己を鼓舞するように、芯の籠った声で告げる。
「来週の試合、見に来てよ。勝って証明するから――」
自分との闘いではない。
想いを伝える。
言葉だけじゃない。
全てを伝える。
成し遂げる。
大志を抱き、・ただ一人の貴方に、俺は手を差し伸べた。
無意識に口から零れた。
俺の目と鼻の先には、焦がれた人物が立っている。
「……」
その女性は何も言わない。
まるで俺のことなんて視界に入っていないかのようだ。
「あ―――……いや……」
続ける言葉が浮かばない。
指先が震え、視界がぐらつく。
久しぶりに対面を果たした高揚感なんて存在しない。
あるのは、ただの焦燥。
最後に会ってからどれだけの時間が経ったのか、指を折り畳んでも数えきれない。
それだけの時間が経てば、よく見知った彼女は別物に感じられた。
何を考えているのか、何を思っているのか、今の俺には分からなかった。
「……あ」
俺に気がついたのか、安藤は初めて言葉を発した。
「―――……!」
その瞬間、俺は自身の異変に動揺した。
指先の震えが全身に伝播したかのように、身体が強張る。
声を聴きたいと思っていたはずなのに、喜べない。
その瞬間が訪れることを願っていたはずなのに、今はただ怖かった。
「久しぶり……だね……」
そんな俺のことなどつゆ知らず、安藤は他人行儀だった。
「……ああ」
返す言葉が分からず、俺も同じ作法に従ってしまう。
……
沈黙が続く。
もっと言いたいことがあったはずなのに言葉が出てこない。
取り繕っているわけではない。
何を言っても現状が変わらない、そんな事実を既に知っているから。
「……私さ」
沈黙に耐えられなくなったのか、安藤は一転して興起した口調になった。
「家、この辺なんだよね」
「……?」
急に何を言い出すのかと思った。
思わず呆けている間も安藤は続ける。
「今日も仕事があって疲れちゃった……だからさ、寄り道せずにここまで帰って来たんだよ」
脈絡のない話だった。
「明日もレッスンがあるから大変だなって……そう思ってる……」
「……ああ」
何を考えているのか全く読み取れない。
眼前の不可思議な彼女を今まで見たことはなかった。
こんな安藤を俺は知らない。
この時間から逃れたい、俺とは会いたくない、伝わってくるのはそんな乖離だけ。
……
日々が彼女を変えてしまった、そう断言すれば良い。
空いてしまったひと時に立ち会わなかった自分の意見など、ただの私的な一言に過ぎない。
時間は等しく過ぎていく。
だから、今の安藤はこうなのだと理解する。
「大変、なんだな」
だから、俺は彼女に寄り添う。
無駄な行為だと分かっていながら。
「うん……だからさ、もう帰らないと……」
そう言いながら、安藤は俺の前から消えて行く。
「ああ……またな……」
次に彼女と会える保障なんてない。
それでも、おれは未練がましく言った。
折り合いをつけていたはずなのに、それでも、俺は言った。
「うん、またね……」
安藤は最後まで目を合わせようとしなかった。
恐らく罪悪感からだろう、新藤さんから聞いた通りならば。
俺との関係よりも自身の夢を優先した、その罪悪感。
未練など断ち切ったつもりだった。
それなのに、終わってしまったものに無様にしがみつく。
悠馬があんなことを言うからだ。
折り合いをつけたつもりでも、心の内では期待していた、望んでしまっていた。
もう一度なんて、有り得ない幻想を抱いていたんだ。
「ああ、また……な……」
でも、そんなものあるはずがなかった。
もう安藤とは修復出来ないんだ。
明確に避けられている事実がそれを物語っている。
また会えて良かった。
どうにもならない現実に向き合えて、儚くも願っていた幻想を断ち切ることが出来そうだ。
だから、もう諦めよう。
彼女とはもう他人なのだと、生きる世界が違うのだと、初めからそう決まっていたのだと。
そう、決めていたのに―――
「え―――……」
安藤が驚いた様子でその場に留まっている。
自身の右手を見て、声を漏らしていた。
「……待てよ」
勝手に口が動く。
反射的に俺は彼女の手に触れていた。
彼女の熱が、その温もりが、触れ合う肌を通じて伝わってくる。
「まだ、終わってないから……」
慈しみを覚えながら、俺は言葉を紡ぐ。
手先の震えは消え、身体のこわばりが解けていくのが分かった。
だから、触れる肌を噛み締めるように彼女の手を掴む。
しっかりと彼女を離さないように。
「どうして……」
状況を飲み込めていないのか、彼女は困惑しているように見える。
伝わる温もりが答えを示しているようだった。
「どうして離してくれないの……もう話は終わったのに……」
彼女の言葉は微かに震えていた。
指先に力が入るが、どうすればいいのか分からずに所在なくしている。
さっきまでの自分自身を鏡見ているようだった。
……
それを認めると、俺は自身の身体を彼女に向けて言葉を返した。
「このまま終わりにすれば良かったのかもしれない」
そうすればこれ以上傷つくこともないし、自分を隠せたと思う。
何よりも安藤がそう決めたのなら、他人である俺はそれを尊重すべきだ。
「でも、無理だよ」
諦めたはずなのに、もう手放したはずなのに、結局俺は拒んだ。
最後の最後で、俺は自分に正直になった。
どうしてだろう。
「……安藤」
俺は答えを求めるように、俯く彼女の名前を呼んだ。
そして、手持無沙汰な左手でこわばりを解くように、彼女の前髪を流す。
「あ……」
彼女は声を漏らした。
俯き、前髪で隠されていた瞳には、俺が映し出される。
初めて、目が合った。
「どうして泣いてるんだよ」
普段の様相では考えられない程に目の周りが腫れぼったい。
嘘偽りない彼女の心情、滴り落ちた涙の跡がくっきりと残っていた。
「―――……!」
それを隠すように、彼女は俯く。
それでも、一度知ってしまったことを忘れることは出来ない。
「お前が泣いてるのに蔑ろにするなんて……俺には出来ない」
答えを反芻し、俺は言葉を続ける。
「辛いとき、お前は俺を助けてくれた。お前に信じてもらえたから、俺は救われたんだ」
信じてほしい、認めてほしい、そんな人生を送るのだと思っていた。
そんな空っぽな生き方は浅ましく退屈で他愛のないものだ。
でもそこから救い出してくれたのは、安藤だ。
彼女のおかげで、俺は変化していく世界を受け入れた。
自分を好きになれるよう、俺は未来を向けるんだ。
「なら、今度は俺の番だ」
大切なものを失ってしまうところだった。
誰が言ったとか、誰が思ったとか、そんなものは最初から関係ない。
理由なんて、目の前の彼女が教えてくれたじゃないか―――
「聞かせてくれよ……お前の本音」
最後にそう言い残し、俺はバトンを送った。
安藤は俯いたまま動かない。
夕日の影に隠れ、表情は見て取れなかった。
でも、触れる手先の温もりは変わらない。
強張っていた指先から徐々に力が抜けていき、最後には何も残らなかった。
「……どうしてなの……? どうして私のためにそこまでしてくれるの……?」
ようやくして安藤が口を開く。
肩を震わせながら、問いかけるように言葉を絞り出していた。
「それは……」
一瞬言葉に詰まるが、俺には答えがある。
迷い続けて、辛い思いをして、ようやく気づいた思い。
赤菊を秘め、俺は彼女に伝える。
自分が救われた言葉、今の関係を端的に言い表す言葉、俺自身が望んでいた言葉を―――
「大切な人……友人だから、だから俺を信じてほしい……助けになりたいんだ」
「…………っ、ごめん……」
そう言うと肩の震えが段々と大きくなり、安藤は左手で顔を覆った。
「安藤……?」
「ごめん……うぅ……っごめん……なさい……っ」
溢れる感情を抑え、それでも零れ落ちる涙が彼女の瞳から流れる。
それを皮切りに、嗚咽を漏らしながら安藤は泣き崩れてしまった。
「お、おい……!」
道中で泣き崩れる安藤。
人目も弁えずに身体を預ける彼女に、俺は動揺した。
それでも、胸の内に抱く彼女は泣き続ける。
――離れてくれ、なんて言えないよな……
周りから視線を受ける。
外から人の泣く声が聞こえれば気になるだろう。
見知った近隣住民がこちらを訝しげに見ていた。
これ以上ここに居れば、悪い噂が立ってしまう―――
「取り敢えずさ、うち来いよ。お茶なら出すから」
この場から離れる理由としては最適の提案をする。
幸いにも自宅はすぐ先だった。
安藤が頷くのを待ち、俺は自宅に彼女を招いた。
焦る気持ちを抑え、なるべく早く、それでもゆっくりとその場を後にする。
その間も、安藤は泣き続けていた。
ーーー
「もう大丈夫か?」
「うん……落ち着いた」
そう言いながら、安藤は顔を覆っていたタオルを翻す。
涙の跡も消え、本当に落ち着いたのだと分かる。
「悪いな、せっかくの化粧が崩れたかも」
「別に良いの。化粧と言える程の化粧してないし」
「……そっか」
安藤から受け取ったタオルには化粧跡が滲みついていなかった。
代わりに涙が滲み込んでいる。
貯め込んでいたものを吐きだしたようだった。
「お茶のおかわりはいる?」
「ううん、大丈夫……」
洗濯カゴにタオルを入れた後、冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出してコップに移す。
それを手に持ち、テーブルに置いた。
「ごめん、待たせた」
向かい合った椅子に座りながら俺は言った。
「ううん、大丈夫」
安藤は笑顔で応えてくれた。
でも、傍から見ても分かる程に引きつった笑顔だ。
家に招いてから時間も経つが、まだ落ち着いた様子ではないことが分かる。
「……家が近くなんて知らなかった。駅側の住宅地帯に住んでるとばかり」
「寧ろ反対、河川に近い側に家があるから……団地方面って言えば分かる?」
「ああ、そっちか」
以前に新藤さんと出くわした付近なのだろう。
辺りは騒々しいとは対称的な住宅街が建ち並んでいたことを思い出す。
普段から忙しなく焦燥感に溢れた都会に慣れた人が構えるには絶好の住居に違いない。
……
安藤が目の前にいるのに、心にゆとりがある。
考える必要がないことにまで思考が及ぶ。
今までの自分がまるで別人だったかのように冷静だと分かる。
自分のことで精一杯だったのに、それ以上に今の安藤の姿が痛々しくて見過ごせなかったからだろうか。
他人を気遣う余裕なんてないと思っていたのに、自分自身の変わりようについていけない。
なんとまあ偽善的で虚像なペテン師だと思う。
でもペテン師でも良いと思った。
安藤と話が出来るなら、あの頃のように取り留めのない会話が出来るなら、俺は喜んで捧げる。
「まあ……あんたでも知ってるよね、地元住民の間でも近寄りがたいで有名だし」
「心霊スポットかってくらい不気味な場所だからな。というか前にお前と歩いただろ、公民館に行った時にさ……忘れた訳じゃないだろ?」
「……そうだったね」
安藤はテーブルの上で指を転がしながらそう言った。
「……」
表情は柔らかくなったが、まだ所在なさげに見える。
いきなり本題に入るのは無粋みたいだ。
「……小学生の時は秘密基地みたいに思ってたけどな……昔の俺が勇敢すぎて驚きだよ」
「え、昔のあんたって今より活発だったの?」
「……昔? なんで急に……」
「少し気になっただけ……悪い?」
「いや、別に……」
軽い雑談のつもりが、安藤は意外にも興味を示してきた。
目を逸らしつつも耳を傾けている。
その仕草に思わず惹かれてしまう。
こんな話がしたくて家に招いた訳じゃないんだけどな……
「分かったよ……別に大した子供じゃなかったけどさ」
目の前に置かれた粗茶で喉を潤し、一息ついてから話す。
「まあ、今よりは元気な性格だったと思う。家族関係を良好、友達とも毎日放課後になったら遊びに出かけるくらいだったし」
小学二年生の頃だろうか。
放課後になれば近所の公園で集合するのが決まりだった。
時には学校の校庭、時には老婆が営む昭和テイストの駄菓子屋、時には駅の反対側にある大型量販店に足を運ぶ。
時間を惜しんで走り回り日々を送っていた。
「子供らしいね」
「実際に子供だったんだからいいだろ……でも、本当に楽しい思い出ばかりだった」
「じゃあ、今もその人達とは仲が良いの?」
「……いや、あれからもう会ってないよ」
「え……」
何も考えずに日々遊んでいた小学生の自分。
でも、そんな楽しい日々が永遠と続く訳ではないことを当時の俺は知らなかった。
「……団地の敷地内におんぼろな公園があるんだけどさ、あそこって誰も寄り付かないから秘密基地にするには絶好の場所だったんだよ」
自分達だけの場所を作りたい、幼少期なら誰でも考えそうなことだ。
俺も例外なく秘密基地という響きに憧れた。
「友達誘って一緒に作りに行ったんだ。廃棄物は腐るほどあったから、それを垣根に乗せて屋根を作ってさ……」
時間を作って三人で少しずつ作業した。
初めは材木を寄せる程度の添え木だった壁も、雨水を通してしまう屋根の隙間も、完成形になっていくにつれて何か自分の中でこみ上げるものがあった。
「完成したあとは皆で喜んだよ。特に俺なんかは引っ切り無しに足を運んでた……」
完成した秘密基地の中で、俺達はお菓子を食べたり、カードゲームに夢中になっていた。
台風が列島に上陸した日には、父さんの制止を振り切って基地の様子を見に行こうとした程だった。
嵐が通り過ぎた次の日は、崩れた外観を修復し、飛んできた瓦礫を一人で撤去した。
手ぬぐいを持たず、泥だらけになりながら、夢中になって片付けていた。
「そんなに楽しかったなら、どうして……?」
「確かに俺は楽しかったよ、初めて夢中になれるものが見つかった気がしたから」
「尚更だよ……! どうして―――」
「……友達はそう思っていなかった、俺の勘違いだよ」
「―――……!」
台風が過ぎて一人で瓦礫を除けていた後の学校で、俺は自分が避けられていることに気がついた。
話しかけても、話しかけても、返事をもらえない。
所謂、無視だ。
後から聞いた話だが、台風が直撃している日に秘密基地の様子を一緒に見に行くよう誘ったことが原因らしい。
それを聞いた友人の親が、俺と関わるなと強く求めたとのことだ。
傘が原型を留めず、大人でもその場で硬直していることが精一杯のような外に、我が子を連れ出そうとする子供がいれば誰でも制したくなる。
それほどまでに秘密基地に固執する俺を、友人らは気味悪そうに見ていた。
たかが木材を詰め合わせたもの、それに執着する俺は異様だったのだろう。
成熟した今だからこそ、それの危険さが身に染みて理解できる。
子供の自分はまだ周りが見えていなかった。
「原因が俺にあったからな、何も言い返せなかった。それを契機に遊ばないようになって、疎遠になったまま友人たちは私立中学に進学していったよ」
「……」
「なんだよ、別に大したことじゃないだろ? 夢中になりすぎて視野が狭かった自分が原因なんだから。……まあそれでもさ、信頼されてると思ってたから当時は一方的に裏切られた気分だったよ……それが今でも忘れられない」
俺が話し終えた後でも、安藤は何も言わずに座っていた。
いや、何も言えずにが正しい。
どう擁護すればいいのか分からなくなっているのだろう。
他人の意見なんて聞き流せばいいのに、安藤は真摯に向き合ってくれる。
本当に優しい人なんだな……
話して良かったのかもしれない、そう思った。
「でも、さ……その……」
考えがまとまったのか、それとも沈黙が失礼だと思ったのか、安藤は繋ぎ止めて言葉を発した。
「あんたが……いや、祐介くんが……その……」
「別に気使わなくていいよ」
「……ごめん、何も言えなくて」
「だからいいって。今の話もそうだけど、他にも偶然が重なったのが要因なんだからさ……まあ、それで自信が持てなくなったのかなって思うよ」
他人に信じてもらえる人間なのか、それからはいつも考えていた。
トラウマになっていたのだろう。
今でもそれは克服できていない。
どうすればいいのか、空に浮かぶ雲を手で掴むような思いだった。
いくらもがいても答えがないかもしれない。
そんな時、普通の人はどうするのか―――
「……なあ、安藤」
俺は確かめるように安藤の顔を見つめた。
涙の跡は癒え、落ち着いているように見える。
でも、今の俺には分かる。
視線が定まらず、右手でもう片方の手を握っている。
取り付く島もない程に不安げな様子だった。
「演技が得意なお前が取り乱すなんて、らしくないだろ」
握る力が強くなる。
微かに震え、肌をさすっていた。
「……分かるの?」
「分かるに決まってる」
だって、いつも君を見ていたから。
「だから、力になりたいんだ」
あの日、俺を信じてくれたように、俺も安藤を信・じ・た・い・。
迷い、それでも譲れないものはここにある。
ぐちゃぐちゃになっていた自分はもういなかった。
「……うん」
沈黙を続け、意を決したように安藤は頷く。
そして、ゆっくりと口を開いた。
ーーー
降りしきる雨の日、突然玄関口に現れたあいつは何度も私を求めていた。
気に留めていないことを謝り、頭まで下げた。
電話で私を怒らせるような発言の謝罪だった。
でも私は本当に気にしていない。
――そんなこともあったな……
私は忘れていた。
そんなこと、逐一気にしている余裕なんてないんだ。
私には時間がない。
それなのに、わざわざ私を呼び止めて時間を奪うのは非礼だ。
一緒にここまでやってきたからこそ、今が大事な時期だと分かっているはず。
それなのにどうして私の邪魔をするのか。
――祐介くんは理解してくれていると、思ってたんだけどな……
彼もお姉ちゃんと同じように私の邪魔をするんだ、そう思うと心が苦しい。
信頼していたのに、一方的に裏切られた気分だった。
「じゃあ、私急いでるから……」
そう言い残し、私はあいつと別れた。
振り返らず、ただ前を向いて。
それからの私は怒涛の日々だった。
もう少しで始まる最終選考、刻一刻と迫ってくる日を確認して、私は少しでも練習を重ねていった。
寝る間も惜しんでレッスンに励み、練習に使っていた冊子は至る所に綻びが見えるようになった。
「今のところ、もう一度……!」
審査内容は、実際にヒロイン役として指定の箇所を演じ切ること。
最終選考に至るまで、私が何度も読み込んで練習してきたところだ。
小説部分ではヒロインの心理描写がほとんどない。
そのため、私達演者は如何に彼女を理解しているのかを審査されるのだろう。
最後の審査には、映像化を担う制作陣やスポンサーの方々が実際に足を運んで審査に加わる。
直に私の演技を見てもらえるのだ。
「私は凄い……選ばれるべきなの……」
そう自分自身に言い聞かせる。
選ばれれば、私の実力を証明できる。
お姉ちゃんの力なんて関係ないのだと、私は認められるべきなのだと、お姉ちゃんに示すことができる。
決して私がお姉ちゃんのコネで選ばれたのではないと証明するんだ。
そうすれば、お姉ちゃんは私を認めてくれる。
皆も私がお姉ちゃんよりも凄いって口を揃えて褒めてくれる。
何もない私にも、唯一勝てるものがあるんだって皆に証明できる。
「私はお姉ちゃんよりも凄いんだ……!」
飢えた欲求を胸に秘め、私は練習に取り組む。
全てはオーディションに受かるため。
焼印のように埋め込まれた悪しき思い出も、嫌な事も、辛い現実も、もうここまでだ。
合格すれば、全てが上手くいく。
私が望む方へ、あらゆるもの全てが進んでゆく。
だから、私は努力した。
この日のために、全てを捧げてきた。
演技も上手くいった、自信がある。
審査員の反応も良い。
今日の全ての参加者の中で、私が一番だと豪語できる。
絶対に私が選ばれる、そう思った。
けど、突然開いた扉を見て、私の展望は終わる。
「え……?」
私は自分の目を疑った。
今、私は審査会場にいて、演技を終えて、後ろに設置されているパイプ椅子に座っている。
一人ずつ立ち上がり、マイクの前に立ち、実践的に審査されていた。
私が最後の審査番号で、私が演技を終えたらそこで最終選考は終了する、はず。
何度も確認しても、そこまでは合ってる。
じゃあ、目の前にいる人は誰だ。
「どうしてこの人がここにいるの……?」
「分からないわよ、そんなの……」
突然の大物登場に周りが静かに騒ぎ立てるが、私の耳にはそんな雑音が入ってこない。
有り得ないのに、そんなはずないのに、私はこの人を一番知っている。
「10番、新藤理沙、神妙寺しんみょうじかなで役をやらせていただきます」
――どうしてここにお姉ちゃんが……?
痛いくらいに心臓が跳ねる。
内から溢れそうになる。
身体は分かっているのに、頭が理解しようとしてくれない。
ここにいる時点で理由は一つなのに。
マイク越しに指示を受け、お姉ちゃんは演技を始める。
息を吸い、右手に台本を添え、姿勢を正す。
凛とした動作に視線が集まる。
「―――……!」
私は息を呑んだ。
何百何千回と繰り返したであろう諸式は、あまりにも自然で圧倒される。
他の参加者も、審査員も同じ体感だろう。
演技が始まる前から、既に敗北を味わっていた。
それでも、私は認めたくない。
お姉ちゃんの後ろ姿を凝視し、審査の開始を待ち続ける。
それは永遠にも感じられた。
でも、演技は始まった瞬間、全てに終止符が打たれた。
私が読み込んで作り出したヒロイン像は、何度も繰り返して見つけ出したイメージは、悉く崩れていった。
何年もしてきた努力も、身に着けたベールも、圧倒的な実力の前には無力だった。
身体全体を使って表現する姿は、自信の裏付けだった。
私の知らない解釈、私以上の演技、私には出来ない表情。
お姉ちゃんの演技に魅了されていく。
「……」
私は思わず感動した。
瞳から涙が零れ、頬を伝っていた。
それと共に自覚する。
私はおねえちゃんに勝てない。
今までお姉ちゃんと面を向かって勝負したことはなかった。
私が初めて役に合格したのだって、脇役の一人。
対して、お姉ちゃんは主役を勝ち取っていた。
傍から見ても天地の差があるのに、私はどうして同じステージに立っていると錯覚していたのだろうか。
今、同じ役を競う者となって初めて、私はお姉ちゃんの偉大さに気がついた。
悔しいとすら思えなかった。
その時点で、私には初めからこの人と戦う資格がなかった。
負けを認めていた―――
「ねえねえ、演技凄かったね……」
「うん……間近で見られたのって超ラッキーじゃない……?」
演技が終わり、周囲がざわついていた。
誰もがこの一分一秒を噛み締めているのだ。
今後の糧にする者、初めから諦めている者、観客の一人としてこの場にいる者、参加者は十人十色だった。
でも、少なくとも、この結果に悔しいと思える人はいない。
今回は仕方ないと諦めている。
……私も含めて
「……」
感情の整理が追い付かなかった。
その後の面接の最中でも、私は自分が口にした言葉を覚えていなかった。
何を聞かれたのか、何を言ったのか、記憶が曖昧だった。
面接を終えて廊下を歩く時も、待合室で帰り支度をしている時も、私は思考が止まっていた。
「ねえ、今回の選考ってさ……出来レースらしいよ」
途中、そんな言葉が耳に入って来る。
声のする方を向くと、他の参加者らが呟いていた。
「それマジ?」
「スポンサーの意向だってさ。選考って形は成してるけど、ほとんどあってないようなものよ」
スポンサーの意向……
その言葉が空っぽな頭に溶け込んでくる。
その言葉が正しいなら、私は―――
視界が狭く感じる。
会場に行くときは何ともなかったのに、帰りの足取りは重い。
時折すれ違う人とぶつかりながら、駅に着く。
流れ作業のように電車に乗り、気がつくと最寄りの駅に足を着いていた。
「……疲れた」
沈黙を解く言葉がこれだった。
ふくらはぎが張り、身体が重い。
「……でも、何とか帰ってこれた」
見慣れた景色がこんなにも安堵を与えてくれるとは思わなかった。
張っていた緊張が解けていくのが分かる。
今日の出来事が全て嘘だったかのよう思える。
でも、全部本当のことだ。
お姉ちゃんの演技も、オーディションも、全て実際にあった出来事なんだ。
「間近でお姉ちゃんの演技を見るのは二回目かな」
あの時とは違う、同じステージに立って初めて見た演技。
でもそもそも前提からが間違っていた。
同じステージに、私は立てない。
「悔しいって思えなかったな……」
もちろん圧倒的な実力差だったこともある。
でも、それ以上に、私はお姉ちゃんの演技に感動してしまった。
一人の傍観者として、視聴者として、ただ凄いと思ってしまったのだ。
「……っ」
悔しい。
悔しいと思えなかったことが悔しい。
何も知らずにお姉ちゃんに勝てると過信して、結局自分のやってきた全てが否定されたのに、それを悔しいと思えなかったことが、悔しい。
結局、私はお姉ちゃんが作り上げた道を歩くだけの空っぽな存在でしかなかった。
実績もお姉ちゃんに作られたもので、努力もお姉ちゃんに教わったもので、自分自身で培ったものは無駄に終わった。
「ぅ……っ……いや、だ……よ……!」
自覚してしまうとあっという間だった。
涙が止めどなく溢れる。
周りの目を憚らず、私は声をあげて泣いた。
護るものなんて何も残っていなかった―――
ーーー
安藤は堪えていた涙を抑えきれずに流していた。
手を置いた膝元には、大粒の涙が落ちる。
「ごめん……っ……もう、泣かないって決めてた、のに……っ」
手で目元を拭うが、それでも涙は止まらない。
「ごめん、思い出させるようなこと、して……」
「……いいの、私が……、言いたかったから……っ」
「……ああ」
上手く言葉が出なかった。
俺の知らないところで安藤は一人で戦っていた、その事実が深く突き刺さった。
「ごめんなさい……、私っ、自分のことばかりで……っ、祐介くんに、酷いことしてた……心配かけたくなかったからって……っ、無視するようなことしてた……」
「別に、そんなの―――」
「それだけじゃない……! 心配してくれてたのに、私っ、祐介くんのことを……邪魔に思ってた……っ」
「――――!」
邪魔、それは気持ちのすれ違いがあったのだと教えてくれる言葉。
俺が繋ぎ止めようとした時、安藤はそれを引き裂こうとしていたのだ。
「最低だよ、私……っ、祐介くんはそんな人じゃないって、知ってるのに……っ」
「安藤……」
「ごめんなさい……っ、ごめんっ、なさい……」
懺悔の言葉を繰り返す安藤。
肩を震わせ、声は途切れ途切れだ。
抑えきれない思いを吐露するが、それでも謝罪を止めない。
「……」
その姿を見て、俺はどんな感情を抱いたのだろう。
以前から安藤と新藤さんの二人の関係は、新藤さんの一方的な間柄で成り立っているように見えた。
表には見せなかったが、新藤さんを語る安藤の言葉には、どこか棘を感じた。
過去に何があったかは知らない。
でも、それが今回の発端になったのは間違いない。
安藤は感情的になって、周りが見えなくなっていたんだ。
それこそ、昔の俺のように―――
「……安藤」
気がつくと、俺はその名を口にしていた。
安藤は俺を恐れるように縮こまっている。
まるで親に叱られた子供のようであった。
「そんなに怖がるなよ、怒ってないから」
「でも……っ」
「本当だよ、寧ろ嬉しいんだ……」
「え……?」
「昔の俺と似ているから、気持ちはよく分かる」
連絡をしても既読も付かず、あまつさえ電話にも出ない。
安藤を呼び止めた時の、まるで俺のことを遠ざけるような態度。
その正体が俺に心配をかけさせないためだと、そういうことなら辻褄は合う。
確かに理解はできる。
けど、納得はできなかった。
新藤さんが以前言った、声優を知らない人間が軽々しく干渉するべきではないという言葉。確かに正しいと思う。
元々俺が関わっていい業界ではないし、過剰な介入は御法度なのかもしれない。
でも、今となってはそんなことは今更じゃないか。
彼女を知ってしまった、関与してしまった、その責任は既にある。
去りゆく彼女の手を掴んだ時点で、もう無関係な間柄ではない。
俺は彼女に信じてほしかったんだ。
きみの隣には俺がいる、それを認めてほしかった。
確かに、信頼されなかったことは悲しい。
裏切られた思いで苛立ちを覚える程に俺は悔しかった。
だけど、今の安藤を見ていると、そんな些細なことは気にもならなくなった。
今の安藤は、昔の自分だ。
夢中になって、周りが見えなくなって、目の前の大切なものを失ってしまった昔の自分。
信頼してもらいたくて、でも再び失ってしまうのが怖くて、どうすればいいのか分からない。
俺が良く知っている感情を、今の安藤は抱えているんだ。
「もちろん、裏切られた側としては悲しいよ。信じてほしかったのにって何度も思った」
「……っ、ごめんなさい……」
「……あいつらもこんな気持ちだったのかなって気づけたよ」
「え……」
一方的に裏切られたのは、俺だけではない。
あいつらだって俺に裏切られたと思ったのかもしれない。
あいつはそんな奴ではない、長く続いた関係がそう擁護しても、他人の知らない一面を知れば評価も変わってくる。
だからこそ、皆は自分自身を偽る。
自分を傷つけない防衛策として、仮面を被って普通を演じるのだ。
「まあ、実際に聞かないことには迷宮入りだけど」
「……」
「でもさ、ようやく分かったよ、自分のやるべきことが」
俺は安藤を見る。
怯えながらも、安藤は目を合わせてくれた。
それも認めると、俺は決意を胸に言葉を伝える。
「俺、信じるよ、安藤のこと。もう一度信じてみたいって、思えたから……」
安藤に信じてもらえなかった事実は、正直まだ消化できていない。
知らなかった一面を知って、俺は悲しいと思った。
でも、俺はそれ以上に安藤の良い面を知っている。
共同作業をしている時の貪欲な表情、小説を読み込んでいる時の真剣な表情、一人で夜道を歩けない憶病な表情、そして一緒にいる時の楽しそうな表情。
演技とは異なる、誠からの一面だった。
それを知っていて、安藤を信じられないなんて道理は成り立たない。
それこそ、俺は安藤を裏切ってしまうことになるんだ。
だから、俺は彼女をもう一度信じたい―――
安藤は目を見開き、すぐに視線を逸らす。
口元を固く締め、手先に力が籠っていた。
「……無理だよ、私でさえ自分を信じられないのに……信じてもらうなんて……っ」
「安藤は凄いよ。声優を全く知らない素人の俺が言うんだ、間違いない」
「凄くない……っ、自分の力で手に入れたものなんて一つもない……、私はお姉ちゃんの操り人形に過ぎなかった、だけ……」
「……けど、全てがそうじゃないだろ? 自分で考えて得たものが全て無駄だったなんて、そんなことない」
全てが新藤さんの指示ならば、俺と練習をしようとは考えない。
オーディション合格のために費やした時間は、全て安藤自身が求めたものだ。
彼女の努力は、彼女自身が選択したものなんだ。
「安藤の努力は俺が良く知っている。近くで見てきたから、その凄さは身をもって味わった」
「でも……、結局全て無駄だった……っ、私の努力は意味がなかったんだよ……っ」
再び涙を零す安藤。
全てを否定され、自信を持てない。
でも、その姿は、安藤には似合わない。
「……努力が無駄だったなんて、勝手に決めるなよ。俺は安藤が凄い奴だって知ってるし、努力を欠かさない奴だってことも……」
安藤には笑っていてほしい。
少し無神経なところもあるけど、優しい彼女には笑顔が似合う。
「努力が実を結ばない時だってある。それで悔しい思いをすることだってあると思う。でも―――」
笑顔で楽しそうに演技する安藤は、自分の世界を作り出して、まるで登場人物そのものみたいで。
その姿は、きみにしか創造できないと思った。
「―――安達未菜は報われるべき人間なんだ……!」
そんな彼女を、俺は見てみたい。
彼女の隣で、ずっと見ていたいと、そう思えた。
「……できる、のかな……っ、私に、そんな無謀なこと……」
「できるよ、安藤なら」
「でも、分からないよ……、成し遂げたことなんて、一つもないのに……っ」
「……」
俺が初めて安藤を見た時に感じたのは嫌悪感だった。
自分とは違う、ひたむきに前を向く彼女を見て、俺は嫉妬していたんだ。
くすぶっている自分と比較されているようで嫌だった。
でも、安藤と出会えたから今の俺がいる。
逃げてきたものに向き合おうと思えたのは、安藤が隣で努力していたから。
彼女が俺を変えてくれたんだ。
「だったら、俺が証明する、努力が実る瞬間を……安藤の努力が無駄だったなんて、俺は認めない」
なら、今度が俺が彼女を変える番だ。
世の中には無謀なんてものはないと証明する。
努力は報われるのだと、自分の望む未来を掴んでもいいのだと、安藤に示すんだ。
それが、自分にできる最良の選択だと思った。
「……もう、声優を辞めるって言っても……?」
「それでも、お前に見せたい。諦めても後悔するだけだ。言葉で足りないなら、俺が示してやる」
「でも……」
「俺を見ていてくれ。今度は俺が魅せる番だ」
己を鼓舞するように、芯の籠った声で告げる。
「来週の試合、見に来てよ。勝って証明するから――」
自分との闘いではない。
想いを伝える。
言葉だけじゃない。
全てを伝える。
成し遂げる。
大志を抱き、・ただ一人の貴方に、俺は手を差し伸べた。
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